「なあ、アオサキ、今日の夜、暇?」
ナガセがそんな風にファルネ・アオサキに声を掛け始めたのはいつ頃からだったか。
入社してから4年経つが、ファルネは同期や同僚の誰とも仲良くなる事も無く過ごしているある意味稀有な女だった。典型的な人付き合いができないタイプなのだろう。いつも俯き気味で、簡単には表情が伺えない。しかし引き受けた仕事はきちんとこなすことが出来、頼まれた事に対しては卒がない。仕事もいい意味でも悪い意味でも過不足がなく、ぱっと見は面白味のない女に見えるだろう。
何故気になったのかと言えば、些細なことだ。
そんな面白味のない女が、いつかを境に毎日のように携帯端末の画面を眺めていた。時々何かを操作して、考え込むような横顔を見せる。少し視線を宙にさまよわせて、再び画面に目を落とす。
これが仕事用の端末であれば気にならなかったかもしれない。しかし、見つめている端末が個人の端末であったことに違和感を覚えた。そんな違和感、恐らくファルネ本人に言えば気を悪くするだろうけれど、悪く言えばこんな地味な女が個人用の端末を気にする出来事とは一体何なのだろうと、そのように意地悪く思ったのがキッカケだ。
それから少しずつ声を掛けるようになった。
残念なことにその全てにナガセは振られたが、ある時ランチに一緒に行く機会があった。
その時に知る。
もともと人付き合いが苦手なのだろうなということは分かっていたが、その奥にある理由のほんの片鱗をナガセは知った。知ってどうこうというわけではなかったし、そんな悩みを自分が全て包み込むという自信など微塵もなかった。ナガセはどちらかというと面倒な事は嫌いなタイプだ。
だが、「頬の痕を昔は気にしていた」と告白された時に、きしりと心が動いた気がした。
普通なら「もう気にしていないの」と笑うだろうと思っていたのに、気にしていたのと寂しげに微笑まれた顔にドキリとしたのだ。放っておけば、彼女はどこかに飛んで行ってしまうとそう思った。
その午後から彼女は休暇を取り、週末を挟んで2日会社を休んだ。
それからだ。ファルネの持つ危うい雰囲気が心配で、どうにか捕まえておかなければと思ったのは。
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しかし今思えば、その時は既に遅かったのだろう。
ファルネは表面上はほぼ変わらなかったが、明らかに表情も態度も柔らかくなった。内向的なのも相変わらずで人付き合いも決して良くはなかったが、話しかけられるもの全てに対して壁を作るような雰囲気は無くなった。
何よりも印象的だったのは、髪をすっきりと短く切ったことだ。
頬を隠す横髪が無くなって顔立ちがはっきりと見えるようになると、ナガセは何故か焦った。
普段はまったく分からないが、よくよく視線を凝らせば微かに右頬に傷が見える。細いメタルフレームの眼鏡の下の瞳にかかる睫毛は伏せがちで、憂い顔はおどおどしたものには見えず思慮深くて理知的だ。そんな風に顔を上げたファルネは、髪を切ったんだなと言ったナガセに困った風に笑った。「でも、まだ前向きにはなれそうにないのだけど」……と。
でも、無理に前を向くのは止めたわ。
そんな風に続けた言葉を、ナガセはらしくもなく真剣に受け止めて「それがいい」と頷いた。普通なら前向きに生きることにこそ、手を貸すべきなのだろうけれど、無理して前向きになろうとすることが、本当に前向きなのだろうか。ファルネが足踏みしながら思い患って歩いていくなら、それを支えてやりたいと思ったのだ。面倒な事は苦手だったくせに、ファルネのことはどうしても放っておけなかった。だからこそ、焦ったのだ。自分がこう思う……ということは、他の男だって同じように思うということだ。今まで髪で隠れていたとファルネの静かな横顔を、他の誰かに見られてしまう。焦って、そして言ってしまった。
なあ、アオサキ、俺と付き合わないか?
軽く言うつもりはなかったのに、焦ってどう言えばいいか分からなくてそんな風に言って、結果は玉砕だった。
好きな男がいるのだという。
付きあっているわけではない。そばにいることもない男なのだという。そんな男を好きになって報われるのかと聞いたら、ファルネは首を傾げてしばらく考え、答えを出した。「多分、報われるとか報われないとか、そういうのはどっちでもいいから」……と、綺麗に、笑って。
叶うはずが無かった。
そもそも女という生き物は、目に見えて綺麗になってから気付いたのでは遅いのだ。
恋心は鎮火したが、何となくファルネから離れることも出来なかった。ナガセが話しかけなければ、おそらくファルネは自分の方を向くこともないのだろう。そう思うと構わずにはいられなかった。ファルネの事が危うく見えるのは相変わらず、ランチに行ったり、たまに帰宅が一緒になるという仲だけは死守する。
いつか現れる男に連れていかれるのかもしれない。そう思っていたが、ファルネの好きな人間は現れず、ナガセは恋人でもないのに、ファルネに変な男が寄って来ないように見張るというよく分からないポジションになってしまい、ゆっくりと1年が過ぎた。
****
「アオサキ、もう終わり?」
「ええ。ちょっと寄るところがあって」
定時が少し過ぎた時、端末をシャットダウンさせるファルネにナガセは声を掛けた。それなら下まで一緒に行こうと誘って、2人でいつものように並んでエレベーターに乗る。
「この間のアオサキの資料、助かったって会議に参加してたやつらが言ってた」
「そう、よかった」
「で、さ、週末、お礼も兼ねて関係者で飲みに行こうって話があるんだけど……」
いかない、よな?
という言葉を飲み込む。案の定、ファルネは首を横に振った。ファルネの雰囲気が変わってからも、彼女が夜にナガセと一緒に食事に行く事は無い。もしかしたら、……いや、間違いなくそれはファルネ自身がナガセや他の男達に引いている一線なのだろう。そして、それを超える意志は今のところは全く無いのだ。
「ごめんね……夜はちょっと」
「だよな、断っとくよ」
「私から言っておくわ」
「いいって、あいつらが今更言ってきてるだけなんだから」
「今更?」
「あー、いや、何でもない」
ナガセの懸念通り、ファルネは最近いい意味で隙が出来ていて、こうした会社絡みの飲み会に誘われることが多い。今更ファルネの匂いに気付いても遅いと思ったが、自分のことは棚上げなのは自覚している。
黙り込んでいると、すぐに一階に到着してしまった。
エレベーターの扉が開いて、オフィスビルの広いロビーが視界に入ってくる。今は定時直後とあって、退社しようとする社員達が多い。
「あ」
隣のファルネが小さく声をあげた。
視線を辿ると、その先に背の高い1人の男が立っていた。黒い細身のスーツを堅苦しく見えないように着崩していて、フォーマルではないがカジュアル過ぎることもない。このオフィスではあまり見ない精悍な男で、立ち姿も真っ直ぐで凛々しい。人の多いロビーの中で頭1つ高い長身で、そんな見た目と雰囲気が女の目を惹くのか、帰宅しようとする女子社員らがそれと分かるほど興味津々の視線を送っていた。
しかし男はそんな女の視線には一切興味が無いらしく、むしろ周囲を拒絶するようにピリピリとした空気を纏っている。そのくせファルネに気が付くと、口元を不敵な笑みの形にした。そしてすぐに、ナガセを真っ直ぐに見る。
睨まれたわけではない。だが、ナガセは動きを止めてしまった。
まるで獰猛な犬に沈黙で威嚇されているような視線を向けられている。牙を剥いて唸り声をあげているように見えた。
もちろん、その男が何者かナガセにはすぐに分かる。自分以外で、ファルネに気が付いた男、そしてファルネが好きな相手に間違いない。
「行かなきゃ。お疲れ様、ナガセ君」
ファルネが小さくナガセに挨拶をして、離れていくのが分かる。
「アオサキ、待って」
これから自分ではなくあの男の隣に並ぶのだと確信して、思わずファルネの腕を掴む。ファルネが驚いたようにびくりと身体を震わせた。
「ナガセ君?」
「……あの男」
知り合いか? と聞こうとする前に、ファルネが今まで見た事の無いような、女らしい表情になった。笑むような、困ったような、はにかんだような、そんな柔らかな顔だった。
カチリと、時計の針が一周したような音が聞こえた気がする。
敗北感でもなく諦観でもなく、何か区切りがついた。そんな表現が一番しっくりくる。
「そうか……あー、なあ、アオサキ」
「ナガセ君?」
ファルネはナガセを促して手を離す。しかし、行こうとしたファルネを引き止めて、ナガセは頷いた。
「がんばれよ」
ファルネもまたそれに頷いて、大きく笑った。ここまで真っ直ぐにナガセに笑いかけたのは、初めてかもしれなかった。
男に駆け寄るファルネを見送って、ナガセはふうと一息吐いた。男が一度だけナガセに刺す様に鋭い視線を送ってきたが、後はもうファルネにしか興味がないように外された。男がファルネの姿を周囲から隠すように、細い身体に腕を回す。犬が懐いた人間にしなやかな身体をくるりと巻きつけたかのようだ。
「なんか、やっとケリがついたのかな。俺も」
そう1人つぶやいて、あーあとため息を吐く。時間にしてほんの2分。
あとちょっとだと思っていたんだが、やっぱりダメだったか。狂おしく欲した訳ではなかったが、断られば心の片隅にしこりのように疼きが残った。恋心とは言い切れない、言ってみれば男の性みたいなものが僅かに残っていたのだ。そんな諦め切れなかった心にやっとケリがついたのだった。普通なら上手くいかなかったと嘆くところだろう。しかし実際は、ぐらぐらしていたパズルが一気に崩れてしまった時のような、奇妙な安堵感に襲われた。
ファルネはもうどこにも飛んで行かないだろう。
心からうまくいけばいいと思った。
****
その日は週末ということもあり、仕事の帰りにアンリとルリカの2人の子供達と共にダルトワ家で食事をするようになっていた。セタがファルネを迎えに来る事は知っていたが、ビルの外にある近くの駐車場で待ち合わせをしたはずだった。だからロビーでその姿を見た時には、少しばかり驚いたのだ。オフィスのロビーに「セタ」がいる風景は、その存在を現実味の強いものにしていた。つまり、「セタ」がこちらに「居る」という現実と、それはセタがファルネだけではない別の人間との関わりを否が応でも持っていくという事実だ。
喜ばしいことのはずなのに少しだけ不安も感じて、その不安がどういう類のものなのかファルネには分からなかった。
しかしセタは、ファルネのアパートメントに帰ってきた途端、そんな悩みなど全て飲み込むかのような勢いできつく抱き寄せ、貪るように口付けた。
「ファルネ」
不機嫌なような、どこか急いたような声だ。
「セタ?」
仕事用の鞄もまだ手に持ったままだった。抱き締められたままその鞄を床に落として、ファルネはセタの背中をそっと摩る。
「抱きたい」
「え?」
「抱きたい、ファルネ」
「ちょっと……あっ……」
そのまま引きずられるように寝室へと連れていかれ、寝台へと投げ出された。乱暴に服を剥ぎ取られ、ファルネの身体を押さえつけたままセタも自分の服を一気に緩める。
噛み付く様にセタの唇がファルネの肌に触れた。あちこちに乱暴に吸い付かれながら、あっという間に互いに裸になる。
「ど、したの、セタ……あっ」
「あの男、……同僚か?」
「あ、の、男ってっ……」
「ビルのロビーで、見た」
ぐ……と胸元を掴むように押さえられ、ぷるりと盛り上がった胸の膨らみに吸いつかれる。先端を一度大袈裟な音を立てて吸われて荒い息を吐くと、そこを咥えて時折舌を動かしながらセタが問いかけてくる。唾液と共に触れる呼気と掠める歯の感触に、ぞくぞくと背を逸らせながら首を傾げた。
「ナガセ、く、ん……?」
「くそっ、……名前呼ぶなよ、同僚か?」
「そうよ、同期……あっ、ああ」
セタは自分の指を一度舐めると、そのままファルネの下半身に伸ばした。何度と無くつながりあったそこに指を触れ、唾液のぬめりを潤滑剤にして裂け目を開くように動かす。
「ただの?」
「あ、たりまえ、じゃなっ……んっ」
ぐつ……と膨らんだ箇所を柔らかく押さえられて、ファルネが言葉を失う。だが、セタが何を言いたいのかは分かった。セタの瞳はぎらぎらと、飢えた様にファルネを見ている。
「あいつは、ただの……って感じじゃなかったけどな」
「ほんっと、にっ……なんにもない」
「ふうん」
セタの指は少しも収まらずに、なぞっている動きが段々と深いものになる。花弁を一枚一枚めくるようにこね回し、中から溢れてきた蜜を周辺に擦り付ける。今度こそ、とぷんと指を奥深くに沈めた。
ファルネの身体が過敏に反応する。
「あっ……は、セタ、……」
「知るかよ、……いや、知ってる。……だがな、どうしても止まらねえんだ」
セタの声も荒々しく、何度も息を吐いていた。触れる肌は熱くて、時折ファルネを見下ろす褐色の眼が何故か泣きそうに切ない。
「ん……っ」
セタが一度身体を離して指を抜き、再度ファルネに近付いた。先ほどまで指が入っていたところに、指などよりももっともっと質量の大きいものがあてがわれ、近付くに任せてぬちゃりと入ってくる。
「……っああ!」
「はは……きっつ」
一気に奥まで挿れ、そのままのスピードでギリギリまで引き抜いて再び突いた。激しい抽動に寝台がギシリと音を立てる。
セタは何度か激しく突き上げた後、我に返ったように優しくファルネを抱き締めた。
セタとファルネが共に居ない間に、他の男がファルネに気が付くかもしれないなど、常に思っていたことだった。セタがエクスの世界にいた時間、そしてフィードバックしようとしていた時間は、ファルネとセタは互いに全く異なる空間にあったのだ。いくら愛を告げたとて、それで完全に女の心を縛り付けることなど出来やしない。
ナガセという男を見た時に、セタは直感的に思った。あの男もファルネに気がついた1人。ファルネもまた、あの男といる時間を苦に思っていない。
もしセタがこちらに来るのがもう少し遅れていたら、ファルネはあの男のものになっていたかもしれない。恐らく、本当にギリギリだったのだ。互いに悪く思っていないのならなおさら。男と女の心理に詳しいわけではないが、そこに2人がいる限り、いつどのような感情が芽吹くかは分からない。同情、哀れみ、そんな感情でも男は女を本気で抱けるし、女は男を受け入れることがある。ファルネの気持ちは疑っていなくとも、僅かの可能性があるというだけでも、心が嫉妬で焼き切れそうだ。
「セタ?」
動きを止めたセタの頭をファルネがゆっくりと撫でる。部屋に着いた早々強引に寝台に連れて行かれて強引に突っ込まれて、愉快なはずがないのに、女の声はそんなことを気にしない風に優しい。
甘やかすなよ。尻尾を振って甘えちまうだろうが。
そんな言葉を飲み込んで、セタが再び身体を動かす。
ぎゅ……とファルネの頭を抱えて、繋がったままのそこをぐしゃぐしゃと揺らし始めた。時折、肩や胸元にがぶりと噛み付く。赤くなれば舐めて、今度は別の場所を強く吸う。またそこが赤くなったら舐めて、別の場所を噛んで……。
ひとしきり肌を愛でた赤い痕を残して、中に納めているものを一気に動かす。
「あ……あ、セタっ……はげしっ」
「もっと激しくしてやるよ」
「やっ……ああああ!」
珍しくファルネが激しい嬌声を上げて達した。
その声に甘い満足を覚えて、セタも中に吐き出す。
この陶酔からは、なかなか抜け出せそうにない。激しさをファルネに刻みつけたかった。同時に温かさをファルネに与えたい。身体も気持ちも二度と離れないという安心が手に入るなら、セタは何でもしてやるのに。
****
腕の中のファルネの髪を丁寧に梳きながら、セタが言う。
「ギリギリだったな」
「……なあに?」
「俺がお前を抱いてること」
「ギリギリ……?」
「ん」
それだけ言って、再び、ファルネの身体に顔を埋める。
そんなセタの吐息を肩に感じながら、ファルネもぽつりと不安を口にした。
「セタだって……」
「あ?」
「女の人、みんなセタのことを見てたわ」
「ああん?」
ファルネとセタは今、再会の情熱が落ち着いて社会的な生活を営んでいる。ということは、セタの周辺にもファルネ以外の女性が近付く可能性があるということだ。
まして、セタの外見はしなやかで鋭く男らしい。動きや纏っている雰囲気が緊張感を孕んでいて、他の眼を惹く。
もともと自分に自信などないファルネは、セタの周辺に集まってくるであろう女性達に叶うはずがないと思っている。
もしもセタが他の女の人を見つけてしまったら、きっと自分は叶わない。
そんな馬鹿みたいな感情と可能性に、ロビーで女性から目を向けられているセタを見た時に気づいてしまった。同時に、可能性があるだけで会ったこともない女性に嫉妬してしまう自分にも嫌気が差す。
しかし。
「馬鹿だな、お前は」
「だって……」
「ああ、俺も馬鹿か」
唇を噛んで悲しげに横を向くファルネの頭をそっと撫でる。馬鹿だな……と言いながら、こんな男の、居もしない女の影に嫉妬するファルネを狂おしいほど愛しく思う。ファルネの言う言葉は、まさにセタの感情の裏返しだ。セタも馬鹿ならファルネも馬鹿だ。こんなにつながりあって熱く抱き合っているのに、見えない苦々しい不安を抱えている。
大体、ファルネ以外の女にセタが目を向けるはずが無いのだ。他に懐かない犬が、他に触れられて耐えられるはずがない。心許してもないのに勝手に自分に触れようとする存在は、それが男だろうが女だろうが牙を剥く対象だ。わざわざ牙を剥けて触るなと唸っているのに寄ってくるのであれば、噛み付かれて当たり前なのだ。
ファルネはそれを根本的に分かっていない。
まあ、いい。それならば……。
「分からせてやろうか」
「え?」
「俺がお前の猟犬だってことをだよ」
言いながら、セタはファルネの眼鏡を外してやった。
かぷり……と鼻に軽く噛み付く。
「ちょっと!」
「ん?」
セタの子供のような仕草に、ファルネの気が削がれる。その隙にセタがファルネの両腕を枕に押し付けた。
どっちがどっちに夢中か、など。
一生掛けて、分からせてやる。