『獅子は〜』より、ライオエルトとオリヴィア。
こじんまりとしているが美しく調えられた小さな庭を見渡せる心地のよい居間に、帝都宰相ライオエルトとオーガスト伯爵令嬢オリヴィアが並んで座っている。
元々、皇帝の側室として後宮に入っていたオリヴィアは、皇帝の命により宰相ライオエルトに下賜されることとなった。様々な騒動があった後宮において、オリヴィアは唯一、罪の無かった姫である。皇帝が寵愛する妃とも仲がよく、その伝手を狙った多くの貴族達がこぞって求婚をしたという。
しかしその求婚者達を退け、真にこの姫君を手に入れたのは銀髪の宰相ライオエルトだった。
それこそ、皇帝の学友であり片腕でもあるライオエルトに、そうした伝手など不要だ。伯爵という高位貴族の身分も不要。宰相という身に領地も不要のはず。ただライオエルトに必要だったのは、このおとなしく慎ましいオリヴィアとオリヴィアと共に居る空間と、時間だった。
オリヴィアと共に居る時間と空気が、無血宰相とも恐れられている自分に心地よい安らぎを与えてくれると知ったのは何時だっただろうか。それを知ってしまったからには、ライオエルトはこの姫を逃すことなど出来なかった。
しかし、その穏やかな時間に気付いたときには既にオリヴィアはライオエルトの側には居らず、自分の側に居て欲しいと自らの言葉で伝えることも叶わなかった。こうしている間にも、彼女は他の男に取られてしまうかもしれないのに。
……だから、ライオエルトは自分の持つ伝手と権力を、この時ばかりは存分に使ったのだ。
学友である皇帝に頼み、オリヴィアの友人である皇帝の妃を言いくるめ、オーガスト伯爵に「皇帝からの下賜」という形で、オリヴィアを要求する。オーガスト伯爵は元々オリヴィアを後宮にやりたくは無かったと聞く。それなのに、宮廷から懇願されて後宮に押し込められ、にも関わらず皇帝から望まれることも無かった。そうして戻ってきた娘だ。もう2度と意に沿わぬ結婚などさせたくなかっただろうに、再び帝都へ……それも皇帝の友人である男に嫁げという。それはやんごとなき獅子からの「命令」だ。いくらオーガスト伯爵が人格者であろうとも、その命令を断ることは出来ない。先日、皇帝より正式に「下賜」されたオリヴィアは、いくらかもしないうちにライオエルトの邸宅に呼ばれた。
ところが、折角呼びよせたにも関わらず、ライオエルトは忙しく満足にオリヴィアと過ごす時間をとる事が出来ていなかった。後宮の騒ぎは沈静化されたが、今度は月宮妃がいよいよ皇妃になるということで、宮廷は忙しい。皇帝が皇妃を娶るのだから、当然、盛大な式典を執り行わなければならない。国外と平和的な渉外を行う機会にもなるだろうし、それだけに摩擦も多くなる。誰を近づけ、誰を遠ざけるか……といった帝国貴族達のバランスを調整する必要もあった。
式は教会の協力も必要でそちらはバルバロッサ枢機卿に、皇妃に付ける護衛・近衛の編制はギルバート、陽王宮を調える作業はラズリが、そして月宮妃リューンの皇妃教育はバルバロッサ卿の奥方コーデリアに任せている。それでも取り決めなければならないことや、調整しなければならないことは多い。主君がアルハザード、武官の長がシド、そして文官の長がライオエルト。この3人だからこそ、まだマシだといえる。
そうした中、ライオエルトはやっと早い時間に帰宅し、オリヴィアとゆっくりとした時間を過ごすことできた。一度だが仕事という名目をもぎとって、伯爵領に赴いたことがある。夕食や朝食の時間以外で、なんの用件もなく、ゆっくりとオリヴィアと向き合うのはその日以来だ。
あの時と違い、ライオエルトにはみっともないほど余裕がない。自分の手の中に囲ってしまったからこそ、安心できないのだ。欲しいのはオリヴィアの作る空気と笑顔。少し距離を置いていれば、ずっとそれを見せてくれていたかもしれないのに、追い詰めて、それが消えてしまわないかどうか不安なのだ。蝋燭の火は近づいて息を吹きかければ消えてしまう。
それなのに、本当は近付いてきつく抱き締めて、燃やし尽くしたいとも思う。矛盾している自分は、相当欲深い。
「ヴィア。……折角帝都に来ているのに、あまり時間が取れなくてすまない」
ライオエルトはうめくように言った。無血宰相という2つ名はオリヴィアの前では消えうせ、単に彼女に笑って欲しいだけの子供みたいな男になってしまう。
「とんでもありません、ライオエルト様。今日はこうして時間が取れているではありませんか。……お茶をお淹れしますわ」
オリヴィアはライオエルトに柔らかに微笑んだ。この金色の髪に榛色の瞳をした、木漏れ日のような女性は、ライオエルトの声に答えて少しばかり首を傾げて優しく笑うのだ。
それを見て、ライオエルトは安堵する。
ああ、これが欲しかった。
無血の自分に温かみを注いでくれる、この笑顔。裏も表もない言葉を受け取り、言葉が無くても空気を受け取り、ただ一緒にいるだけで自分を穏やかにしてくれるその眼差し。今は宰相でなくてもかまわない、この時間が自分は欲しい。そして、それを与えてくれる、この優しい姫君も。
「ヴィア、待って。お茶はかまわない。……すこし、ここに……」
ライオエルトは立ち上がろうとしたオリヴィアの手を掴んでソファに戻した。先ほどよりも少し身を寄せて、オリヴィアの髪に顔を埋めるようにそこに体重をかける。
「……ライオエルト様?お疲れなのですか?」
オリヴィアの声が心配そうな色になり、恐る恐るライオエルトの頬に触れる。ライオエルトはその手を取って、自分に引き寄せた。
「……オリヴィア。改めて、貴女に」
「はい」
「これを渡したくて」
きょとん、とした顔でオリヴィアがライオエルトを見上げる。その眼差しにいつもの温かみと、僅かな熱を見てライオエルトはまた胸をなでおろす。ライオエルトは懐から華奢な銀色の鎖を取り出した。オリヴィアがその手の平を覗き込む。そこには、銀色の鎖に薄碧色の石が控えめに下がっていた。いつもオリヴィアのしている……月宮妃リューンから貰ったものとは少し形の違うものだ。
「……大人気ないと笑われるかもしれないが……」
「ライオエルト様……」
くす……とオリヴィアが小さく笑った。
以前、ライオエルトがオリヴィアを訪ねてきたときに、その首に掛かっているペンダントを見て、「先を越されてしまった」と残念そうに言っていたのを思い出したのだ。
「うれしい。よいのですか?」
「身に着けるのは時々でかまわない。……ヴィア。私は、貴女を妻にすることが出来て、本当に嬉しいのだ」
そう言って、ライオエルトは自分を見上げるオリヴィアの薄金色の髪を一房、指で梳いて浮かせる。その滑らかな金に唇を埋めて、瞳を伏せた。少しの間そうして、唇に髪の触り心地を楽しんで伏せた瞳を上げると、自分の薄蒼色を覗き込む榛色の瞳と視線が絡まる。
「貴女にとっては、意に沿わぬ相手かもしれないが……」
絡まった視線が大きく見開かれた。
落ち着いて考えてみれば、驚くほど様々な感情が自分の中に渦巻く。オリヴィアは元々後宮の妃だ。つまりは、かつて主君アルハザードの側室だった。他の2人の姫君同様、1度の通いで以後、通われることは無かったが、それは皇帝アルハザードの意思だ。オリヴィアの真意をライオエルトは聞いた事がない。他の姫君は皇帝の寵を得ようと、彼女らなりに動いていた。しかしオリヴィアはどうだったのだろう。寵を得ようと積極的になるような姫には見えないが、それだけに胸に秘めた思いがあったかもしれない。
それを思うと苦々しい気持ちになり、あの獅子に嫉妬してしまいそうな自分が居る。
ライオエルトが沈黙していると、不意に視線が外された。ライオエルトが何かを言う前に、オリヴィアが自分の首の後ろに手を回して、今しているペンダントを外してテーブルに置いた。そうして、ライオエルトの手の中から、もう1つのペンダントを取る。
それを首に着けようとしているのを見て、何をしようとしているのかを悟って、慌ててライオエルトが奪った。その様子を見て、やや残念そうにオリヴィアの顔が曇った。
「……意に沿わぬ相手など、そのような意地悪を言わないでください。……私だって……。それとも、ペンダントを付けてはいけないのですか?」
「オリヴィア。ちがう。そうではないんだ……私が貴女に着けよう」
帝国では、今、流行していることがあるのだと、オリヴィアに教えた事がある。素敵なことを考え付くものだと笑ったオリヴィアは、こうしたペンダントを身に着ける意味を知っているのだ。知っていて、リューンからの贈り物を首から外し、自分の贈り物を身に着けようとしてくれている。
『大切な人や伴侶となる人に、自分や相手の持つ色の石を、シンプルな装飾品にして贈る』
ライオエルトがオリヴィアの首にそのペンダントを回し、後ろで金具を留める。そのとき近付いた耳元に……ライオエルトが何事かをささやくと、榛色が丸くなり、たちまちの内に潤んで煌いた。
【後書き】
ちなみにこの時、ライオエルトはオリヴィアが「初めて」であること知りません。オリヴィアを嫁に貰ったのだから、少しくらい知らずに悩めばいいと思います。
……しかし、腹黒の割りに意外とヘタレですね。
それだけオリヴィアを大事にしている……ということで。
このエピソードは、もともと設定にあったものでした。最終話でアデリシアを抱いたオリヴィアが身に着けているのは、ライオエルトから貰ったペンダントです。