ガシャンと調度品が割れる音。
それに気付いてあわただしく部屋の扉を叩く、侍女と護衛の声。
残されたのは、夜風に当たる素肌。
寝乱れたシーツ。そこに残る血痕。
下腹部に疼く甘い痛みと違和感。
そして、喪失感。
その夜。
魔都ウラスロの王女は処女の身を穢され、諸国へ貢がれる価値を失った。
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剣国ラディス……という小国がある。蛮勇な民のもと、戦いの歴史を積み重ねることによって出来た国だ。その国土の豊かな地と民の猛々しさを求めて、その地を隷属させようと狙う国に幾度と無く牙を剥かれた国でもあった。
だが、田舎の小国よと侮り自ら戦士を率いたある国の王は首を飛ばされ、国ともいえぬ街など犯してしまえと、暴虐を極めようとしたある国の兵士達は返り討ちにされ、そのまま王の喉元を食い破られた。領土を無駄に広げることは無かったが、その勝利の勇猛さから、国としての立場も下では無くなった。
ただ、ラディス自身が自ら攻め入ることは無い。仕掛けてくる敵に対しては、戦士の誇りにかけて容赦が無い……というだけのことである。周辺の国は徐々にラディスに手を出さなくなった。愚かな国は田舎の蛮族など幾らの価値も無いと侮り、賢明な国は誇り高き戦士の国よと同盟を結んだ。
その剣国ラディスの今代の王は漆黒王と呼ばれていた。王位について3年に届くか届かぬか……というほどだ。
漆黒の髪に黒い瞳。その身のために鍛えた剣も黒く、戦場に翻るマントは幾ら血を吸っても色を変えぬ漆黒。貢ぐ国には寛容で、攻め入る国には容赦が無い。たとえ国境の小競り合いであっても、戦いが始まれば信の置ける文官らに国を任せ、自ら青馬を駆けて剣を振るうという。
その漆黒王の代に、これまで同盟関係であった魔都ウラスロが、先だってラディス国の元に下った地域の返還を求めてくる……という事変が起きた。元よりウラスロから離れ、独立した領政を認められた地域だった。だが、豊かな地では無かった。そこで頼った先が、古いウラスロではなく気鋭のラディスだったのだ。元々ウラスロに隷属していた地である。いくら同盟関係にある国だとしても、親ともいえる自分よりも、田舎の小国に頼ったのが気に食わなかったのだろう。早々に戦火が切られたわけではなく、ラディスが手を出したわけではなかったが、駐留するウラスロの兵士は明らかに多く示威的だった。そして……ラディスはそのやり口としては珍しく激しい挑発をかけた。魔都の王に対して……、その地を得ようとする兵士達に対して……である。
田舎の小国よと侮られ、そうした敵の評価すら利用するラディスと、古い歴史が自慢の高貴な魔都ウラスロ。どちらが強かだったか。
争いはウラスロ側から仕掛けられ、ラディスの勝利に終わる。
逆上した魔都ウラスロは同盟を破棄。奪われた地を奪還する為に、再度兵を挙げた。
はずだった。
魔都ウラスロの都城の玉座の間。
皇后バルバラと幼王ルドヴィクを前に、その間を制圧したのは、漆黒を纏った戦士とその親衛隊であった。
漆黒王シグムント。
剣国ラディスの今代の王である。
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「おのれ……如何様にしてここまで来た」
美しい顔を歪め憎々しげな声を放つのは皇后バルバラだ。5年前に夫を病で失くし、その夫との間に出来た幼い1人息子を王に据えて権勢を振るっている。それほど悪い治世ではない。ただ嫉妬深く、思い詰めると暴走しがちな性格は御し難く、ウラスロの宮廷も持て余し気味の存在であった。いまだ8歳のルドヴィグは素直な子供らしい王だったが若すぎる。声を荒げる母の形相に、ただおろおろとするばかりであった。
その母子の様子を眺めながら、シグムントは無造作に玉座に近づく。
「さて。言う必要はなかろう。知る必要もない。……死にたくなければな」
「な……」
「ここでお前に死んでもらえば、もっとも平和に解決されるかもしれぬが」
「きさ……貴様っ……」
「だが、俺も正々堂々とは言い難い方法でここに来たのも確かだ」
かの地から真っ直ぐに兵を率いて攻め込まず、秘密裏に魔都に入り都城の玉座の間に到達したことを言っているのだろう。シグムントは不敵な表情で笑う。
「まだ命までは取らぬ」
「何を……何を望むのだ……」
「無用な争いは不要。……同盟の再締結……というところか」
破格の申し入れだった。経緯はどうあれ、戦の口火を先に切ったのはウラスロ。怒りに任せて同盟を破棄したのも、またウラスロなのだ。そのまま皇后の首を刎ね、幼い王を擁立すれば魔都の宮廷を懐柔するのは容易いだろう。だが、それをしないのは、皇后も知らぬ魔都の宮廷との取引に過ぎない。
同盟の再締結はこの場で初めて申し入れたわけではない。
先にラディス側から平和的な解決方法が提示されていたのだ。ただ、それは宮廷に留まり皇后と王へは届かなかったようだ。皇后の下に届けば、捨てよと一刀両断されてしまうからだろう。それゆえに宮廷はシグムントに、皇后との直接の会見を提案したのだ。古い都に必要なのは古い王族の血筋のみのようだ。皇后と宮廷は完全に心が離れ、幼王ルドヴィグを生かす……という1点のみで共闘しているにすぎない。宮廷はこの幼い王を生かすためなら、皇后の命も差し出すだろう。あるいは、それを漆黒の王に期待したのかもしれない。だが、シグムントは皇后の命を取るまではしなかった。
「ただで同盟の再締結……などというわけがなかろう……。欲深な蛮族めが……!」
皇后とて、同盟の再締結をただで……という話は虫が良すぎると分かっている。ただ、この場での力の差が歴然としていても皇后の矜持ばかりは張っていた。一方「蛮族」と呼ばれたラディス勢はシグムント以外、全員が剣を構えなおして前に出る。しかしシグムントだけは泰然と笑ったのみだ。片方の手を挙げて、荒ぶる親衛隊を制した。
「詳しい内容はあとで確認してもらうとしよう。……ただ、必ず頂くものが1つある」
低い声で悠然と言った。
「魔都ウラスロの王女ヤトウィア……白妙姫はこのシグムントが貰い受ける」
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「ヤトウィアをいただくと言ったときの皇后のニヤついた顔を見たか、プロント」
「は」
シグムントはウラスロの都城を歩きながら、親衛隊の隊長に話しかけた。剣国ラディスでも、最も強い精鋭部隊である。同盟の再締結がなされ、彼らは現在客人としてもてなされていた。だが、それほど多く滞在するつもりは無い。シグムントの目的は達せられた。その目的のものをこの手に、明日にでも魔都を発つ予定だ。
「幾度見てもウラスロの宮廷は狸ばかりで扱いづろうございます。その狸ども相手にあの条件で同盟を締結出来たことは、皇后の暴走も多少は役に立ったということでしょうか」
「同盟ばかりではない」
「……白妙姫、ですか」
「あの皇后は、ヤトウィアを売って自分の命が助かるならば、安いものだと思っているのだろう」
魔都の王女ヤトウィアは21歳。年頃であるにも関わらず、いまだに魔都の貴族にも他国にも嫁いではいない。今までラディスが同盟のよしみに幾度妃に……と申し入れても、渡されることが無かった。神秘的で美しい容貌とラディスの申し入れの熱心な様子から、せいぜい高く売りつけるつもりなのであろうと囁かれていた。しかしその裏に、ヤトウィアが嫁がぬのは卑しい盗賊にその身を穢されたことがあるからだ……などという下卑た噂もあった。そのせいで、売り物にならぬのだ……という。
くだらぬ……とシグムントは笑う。古い慣習にありがちな処女信仰だ。だが、そのおかげでヤトウィアはいまだ誰の物でもなく、シグムントの手に入る。
皇后はせいぜい、得をした……などと思っているに違いない。
共にヤトウィアの住まう離れの宮に向かうプロントは、いつになく機嫌のよい漆黒の主の横顔を伺う。シグムントが自ら特定の女を望むことなど今まで無かったことだ。だが、もしや……とも思う。魔都ウラスロを手に入れることなく、同盟の形を取ってきたのは、平和裏にヤトウィアを得たかったからではないのか……と。ウラスロが同盟を破棄する一因になったのは、過剰な挑発という手を取ったからだ。主君にしてはめずらしいその手によって、あちらが原因で戦は起こり、恩を着せる形で終結した。それによって、今までウラスロ寄りな条件で締結していた同盟関係が、ラディスに大きく傾いたのだ。
ヤトウィアとて、冷遇はされないはずだ。古の都、魔都の白妙姫と、気鋭の新国、剣の国の漆黒王が夫婦となるのだ。諸国は悔しがるだろうが、もとより武を好む素朴なラディスの民は、主の妻となる美しい姫君の存在を素直に歓迎するに違いない。
もっとも、ヤトウィアの意思はそこにどれほど存在しているのか。
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「ヤトウィア様。……お会いにならなくてもよろしいのですか?」
「ええ」
「……よもや、皇后様から何か……」
「ヴァンダ……おやめなさい」
ヴァンダ……と呼ばれた侍女は、主の言葉に口を閉ざす。ヴァンダの主人ヤトウィアは咎めるような視線を向けた。その視線も落とし、瞳を伏せる。
「ヤトウィア様。かの方は悪いようにはなさらぬのでは……? 私が命に代えても……」
「ヴァンダ、やめて。……命に代えても……などと言わないで」
「…………申し訳、ありません」
瞳を上げ、ヤトウィアは強い意思で首を振る。
「周囲は認めぬでしょう。これ以上はもう……」
ヤトウィアの心持はヴァンダには知れず、この忠実な侍女はただ一礼した。そっとヤトウィアの手を握る。淑やかで優しいヤトウィアは、少々自己犠牲的なところがあり、部下の使い方を知らない。王女でありながら王女の教育を受けず、修道女のようにひっそりと育てられたからかもしれない。それでも、何かを決めたときの、頑固で強い眼差しをヴァンダは知っていた。ヴァンダの母はヤトウィアの乳母だった。乳姉妹として小さい頃から共に育ったヤトウィアを、ヴァンダは侍女という垣根を越えてずっと守ってきたのだ。本来、ヤトウィアの側に控えるのは自分のはずだ。しかし、ラディスでヤトウィアの側に仕える侍女は、他に決まってしまった。彼女を守ることは、もう出来ない。
「ラディスには……私は……参れませぬことになりました」
「知っているわ」
「身辺お守りできず、申し訳ございません……。必ず、すぐに馳せ参じます」
痛々しい表情で頭を下げる侍女に、ヤトウィアは悲しげな笑みを向けた。
「貴女のせいではないもの。大丈夫よ。代わりの侍女が付くから」
……だから、大丈夫ではないのだ……と言いたかったが、ヴァンダは口をつぐんだ。
侍女は皇后が用意したもの。ヤトウィアの行動は、今後全て皇后に筒抜けになろう。それがどういう意味を成すのか。
ヤトウィアは目を閉じた。
あの日からずっと目を逸らされ続けてきた自分の身に、嫁ぎ先が決まった。早急な話だ。心を決めねばならぬのも、また早急だった。全てはあの時、口を閉ざした自分が悪いのだ。引き受けるべきは自分だけで構わない。
ノックの音にヤトウィアは目を開く。
予感がした。
自分に会いに来た者……扉の向こうに立っているのが誰なのか。
ヴァンダが扉を開くと、そこには漆黒を纏う剣国の王が立っていた。