「ヤトウィア」
シグムントの低い声がヤトウィアの耳をくすぐる。侍女も部下も下がらせ、部屋には漆黒の王とヤトウィアのみとなった。
光を抑えた室内で、名を呼ばれたヤトウィアが顔を上げる。透けるように白い肌。そして何より、白く長い髪に銀色の瞳。他に類を見ない容貌は、白妙姫と呼ばれている。
この手に……と望んだヤトウィアの姿にシグムントは笑んだ。隣に座り、細い顎を掴む。剣を持つシグムントの手が少し力を入れればすぐに壊れそうな、細い面を自分に向かせた。銀と漆黒の視線が絡み合い、互いの吐息が掛からんばかりの距離だ。
「……変わらぬな、ヤトウィア」
シグムントがまるで見知った者であるかのように、ヤトウィアに声をかけた。ああ……と溜息を零し、顎にかけた手を頬に滑らせる。
「遅くなって悪かった。白妙姫。会いたかった」
「陛下……」
「陛下などと。……以前のようにシグと呼んでくれ、ヤトウィア」
シグムントが愛しげにその名を呼ぶと、ヤトウィアの銀色の瞳からもまた、熱い感情が零れる。わななく唇が何かを言いかけ、吐息は熱を帯びてその奥は確かにシグムントを求めているようだった。
……だが、その光が見えたのは一瞬。
ヤトウィアはすぐに視線を伏せ、シグムントから逃れるように身をよじる。
「陛下は……誰か人違いを為さっておられるのでしょう。私は陛下にお会いしたことはございませぬ」
「……ヤトウィア?」
シグムントは眉をひそめ、離れたヤトウィアを逃さぬように引き寄せた。その身体はたちまちシグムントの腕に包み込まれたが、腕の中でヤトウィアの身体が酷く強張る。その強張りに拒否を感じて、シグムントは己の心臓が締め付けられるような心地がした。
「何を……」
「陛下。どうかお引き取りを……。私などではなく、他の方をお求め下さいませ」
「ヤトウィア。お前は……お前は、何を言っているのか分かっているのか」
自分の声が低くなり、心の奥から怒りがふつふつと湧き始めるのに気付いた。決して瞳を合わせないように銀色を逸らすヤトウィアの姿に心が焦り、王であるはずの自分の声が情けなく掠れる。
「あの夜のことを忘れたと……?」
その掠れた低い声がヤトウィアの耳に響き、腕の中で細い身体がびくりと震えた。彼女の声もまた、震えていた。それは怯えではなく悲しみだったが、その意味をシグムントは理解できない。
「……忘れたなどと。ただ、覚えがありませぬ」
「あれほど愛し合ったのに?」
「陛下はどなたか他の方とお間違えに……」
「ヤトウィア」
シグムントの怒りに沈んだ声が、ヤトウィアの言葉を厳しく遮った。先ほどまでの穏やかな笑みも、戸惑った瞳も消えうせ、暝い怒りに満ちた漆黒の瞳をヤトウィアに向ける。普通の人間ならば恐怖に逸らすだろうその怒りの色を、銀の瞳は受け止めた。ヤトウィアの唇が再び何かを言いかけ、そして顔を背ける。
忘れたはずがない。
知らぬはずがない。
嘘をつけるほど器用な女ではないことを、シグムントはよく知っている。
この部屋に来て、最初に瞳が合ったときの満ち足りたあの輝きから、一転して自分を拒む沈んだ瞳。その落差がシグムントの心を鞭打った。そして今、腕の中で身を竦めるヤトウィアは、覚えがないと言いながら、なぜこれほどまでに悲しい瞳で自分を見るのか。
シグムントは逃げようとするヤトウィアの身体に腕をまわし、無理矢理抱き寄せた。
「どうしても知らぬと申すか」
漆黒の声の響きが変わる。ほとんど耳に口付けるような位置で、唇を寄せて重く低く囁いた。
「ならば思い出させてやろう。お前が泣いて謝るまで」
****
これは、国の誰もが知らぬことだ。
シグムントがヤトウィアに出会ったのは3年前。シグムントはいまだ王ではなく、ただ王の血を引くというだけの戦士だった。他に兄弟は居らず、剣の腕と勇猛さから、シグムントが王になることは決まっていたが、王となる前に諸国を旅していた頃があった。
多くの戦を重ねてきたゆえか、ラディスの王族は国外においてはその命を狙われることがある。シグムントもまた同様で、身分も名前も明らかにしてはいないのに、どこからか嗅ぎ付けてくる刺客を相手にすることがあった。
魔都ウラスロの都城周辺の森に、守られるようにひっそりと佇む修道院を訪ねたときも、シグムントは数名の賊を返り討ちにした。その際手傷を負った。それほどの怪我ではなかったが、ヤトウィアに見つかってしまったのだ。
産みの母を失い、その見目を皇后に疎まれたヤトウィアは、母が死んだその日から離宮に移され、父王が死ねば完全に都城から切り離され、修道院の世話をしながらひっそりと暮らしてきたらしい。産みの母の死は皇后の手によるものだという噂もあった。
当時は身分を隠していた激しい気性の漆黒の戦士シグムントと、優しくたおやかなヤトウィアが、恋に落ちるのに時間はかからなかった。白い容貌は触れれば壊れてしまいそうだったが、その瞳の奥に見える頑固で気持ちを曲げない光にシグムントは心惹かれた。
国にどうしても連れ帰りたかったが、当時のシグムントにその力は無かった。戦士としては一流であっても、王としてはどうか。当時は国交の無かった魔都ウラスロは、小国のラディスを田舎の蛮族と侮っている。そのラディスの王子が、ひっそりと生活しているといえど魔都の白妙姫を娶ることなど出来はしない。無理矢理奪えば、王位継承や周辺諸国との関係に影響を与えるだろう。むしろ、シグムントが王族などでなく、ただの旅人であれば奪い去ったかもしれない。しかし、それは出来なかった。
だから、シグムントは帰国したのだ。
ヤトウィアの身に、一生消えぬ傷を残して。
最後の夜、シグムントはヤトウィアの寝所に忍び込んだ。継母に冷遇され、離れの宮で静かに暮らしていた彼女の元にたどり着くのは容易かった。必ず会う。必ず迎えに来る……と約束を交わし、心を交わし、身体を交わした。たった1度だけの交わりだったが、それは忘れえぬほど深く、痛みと快楽をヤトウィアに刻み付けた。そしてシグムントは、他の男にヤトウィアの身体が売られることの無いよう、白妙姫がならず者によって傷物になったと護衛や侍女に見せ付けて別れたのだ。自分にそれほどの執着と、偏愛の情があるとは思いもしなかった。
蛮族の戦士にヤトウィアが娶れぬならば、帰国して王となればよい。シグムントはウラスロとの間に国交を作り、同盟を締結した。ヤトウィアがもし誰かの妻に下がるとなれば、恐らくシグムントは奪っただろう。だが、ヤトウィアは賊に身体を奪われ傷物であるという噂が防波堤になりえたのか、誰の妻にもならずにあった。平和の内にヤトウィアを娶ることが出来るに、越したことは無い。
ただ、それはなかなか実現できなかった。シグムントの執着が知れたのか、ウラスロの宮廷は簡単には王女を明け渡さない。取引のカードになり得るのだ。当然のことだろう。
だから、此度の事は好機としか言えなかった。絶対に勝利を得る自信もあった。過ぎた挑発を皇后相手に仕掛け、皇后の手によってウラスロに戦火を開かせる。皇后の暴走に手を焼く宮廷に、秘密裏に同盟の提案を為す。引き換えはいくつかのラディス寄りの同盟の条件と、そしてヤトウィアだ。
そうして手に入れた白妙姫であるというのに。
「ヤトウィア……ヤト……」
「……ん……っあ、……それ以上、は……」
「あの時と変わらぬ……お前の身体は。……まだ少し中が痛いか」
寝台の中で、シグムントはヤトウィアの細い身体に己を突き刺し獣のように味わっていた。3年の間、男を受け入れることは無かったのだろう。分け入ったその奥はきつく、波打つ内奥はシグムントを痛いほどに締め付けてくる。
「……存分に濡れているが、まだきつい……ああ……まるでお前の純潔を奪ったときのようだ」
直接的な言葉を投げかけながら、声を堪えるヤトウィアの足を抱え、その身体を揺らす。動かすたびにねっとりとした音が響き、2人が繋がりあった部分がいかほど濡れているかを示していた。ヤトウィアの身体の奥からは沸き立つように蜜液が溢れ、抽送を助けシグムントを温かく包み込む。
「まだ思い出せぬか、ヤトウィア……」
「……りませぬ……」
「ヤトウィア……感じているな」
「……しりませぬ……ああ、……どうか、陛下……もう……」
「許さぬ。……思い出すまでと言ったはずだ」
感情に任せるように、抽送が激しくなった。
シグムントの手と身体と硬く猛々しい男そのものが、ヤトウィアの身体に無理矢理快楽を打ち込む。細い白妙の身体が激しく愉悦に逸れて、声にならない叫び声を上げた。達する感覚は一瞬ではない。その波にあわせるようにシグムントが動き始め、もうこれ以上高みなど無いと思っていたその先へ、否応無く連れて行かれる。
「……くっ……ヤト……受けろ俺を……っ」
「陛下っ……やめて下さい、……いや…………、いやっ……!」
中に放たれるのを嫌がるヤトウィアの様子が、さらにシグムントの怒りを誘う。細い腰を逃さぬように抱えて子宮を小突き、放つ寸前の脈動に合わせて大きく穿った。それは、シグムント自身も声を失うほどの快楽を伴って、ヤトウィアの最も奥で解放される。長い時間を掛けて吐いた精が注ぎ込まれ、それに合わせてさらに動く。ようやく収まっても、シグムントは一筋も零さないように繋がりあったまま、ゆっくりと余韻を味わった。
「知らぬといいながらお前の身体は俺を知っている……一度きりだったからと言って、俺が忘れているとでも思ったか」
「……ん……違いま、す……陛下、どうか……」
「違わない。なんと強情な女か……」
「……ああっ」
狂おしいほど愛していたのに、3年前のあの夜に、声も音も殺して抱いたきりの身体だった。一度や二度放ったとて猛りは収まるはずも無い。挿れたままシグムントはヤトウィアの身体を抱きしめた。再び激しく奥を貫き始める。
何故だ。なぜ知らぬ振りをする。
シグムントの激しい怒りは嗜虐心となり、それでもなお愛しいヤトウィアの身体を貪り尽くした。
****
途中で気を失ってしまったヤトウィアを寝台の中で自分の身体に囲い、シグムントは眠るその顔を見下ろした。
3年もの間この手に抱きしめたいと、一途に思ってきたのは幻想だったのか。ヤトウィアも同じ思いを重ねているに違いないと、ほとんど確信のように思ってきたのは愚かなことだったか。……いや、この3年の間に、ヤトウィアが己のことを忘れていてもおかしくない……と、そう思ったことは幾度もあった。居るのか居ないのか分からぬ男に嫉妬を覚える夜もあった。
もしヤトウィアにそのような男がいるならば、シグムントは、その男を生かしてはおけない。
それほど諦めきれぬ存在なのだ。
愛してやりたいのだ。自分だけの手で。
「……さ……ま……」
「ヤトウィア?」
眠るヤトウィアの唇が動いた。シグムントがヤトウィアの涙に濡れた頬を拭い、その白い髪に指を通すと、その温度に安堵したようにヤトウィアは溜息を零した。
そして。
「……レシェ、ク……」
「……?」
ヤトウィアの口から零れた名前に、シグムントの表情が凍りついた。男の名だ。そう呟いたヤトウィアの眉が潜められ、閉じた瞳から一筋涙が零れる。
「レシェク……。一緒、に…………」
「一緒に……?……レシェク……男の名か……?」
一緒に居たいと思う、男がいるのか。
泣くほど会いたい、男がいるのか。
だから、自分を拒絶するのか。
だから、中に放たれるのを嫌がったのか。
シグムントの中に怒りが再び沸きあがってくる。
同時に、それはヤトウィアを想う心とせめぎあって痛む。
もしヤトウィアの心を、レシェクとやらが占めているのであれば、忘れさせてやろう……と、シグムントは暝く思った。
他の男のことなど、ひとかけもその心に残さぬほどに。