シグムントは魔都ウラスロを発つ前に、腹心である親衛隊の隊長を呼び出した。
「……準備は出来ているか」
「はい。すぐにでも発てます。……ヤトウィア様は」
「俺が抱いて馬車に乗せた」
「シグムント様……」
その意味を知って声を落とす腹心の言葉を、シグムントは苦々しく制する。
「言うな。それよりプロント。しばらく、こちらに残ってくれぬか」
昨晩の行為のせいで、ヤトウィアは動けぬほどになっていた。それでも気丈に立ち上がり動こうとするのを見かねて、シグムントが手を貸し馬車に乗せたのだ。ヤトウィアはシグムントが触れるのを嫌がったが、抵抗は出来なかった。周囲には寄り添っているように見えたはずだ。
その時の様子を思い出してシグムントは顔をしかめたが、すぐに表情を戻す。今度は低く、ひそやかな声だ。一枚の紙をプロントに渡す。
「……その名の人間を調べよ」
「これは……」
「今度ばかりは言い訳できぬな。……すまん。俺の個人的な頼みだ」
「……陛下」
唸るように搾り出したシグムントの声だった。忠誠を誓うシグムントの命とあれば、それが個人的なことだろうが問答無用で動くのが親衛隊の役割だ。断る理由などは無い。プロントは真面目な顔で頷き、渡された紙をくしゃりと握りこんだ。
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漆黒王が白妙姫を連れて魔都より凱旋した。
同盟の再締結後とはいえ奪われるように連れて来られた姫だったが、生みの母を失いひっそりと修道女のように儚く生きていたのを、漆黒の王が救いあげた……という譚となり、情に厚い気質の民達は歓迎の空気で受け入れた。
その漆黒王が連れてきた姫は、馬車の中でちらりとその白い髪と淑やかな顔が覗いただけだったが、その姿を伺い見た者達は溜息を零して笑いあった。
「まあまあ、可愛らしいお姫様が来てくだすったこと。ずうっと奥さんを貰わなかったっていうのに、うちらの王様もすみにおけないねえ」
「あの真っ白い雪みたいな髪を見たかい? シグムント様の漆黒と合わせて、なんともお似合いじゃないかね」
「それにしてもちゃあんと食べてるのかしら。栄養いっぱいつけて、もうちょっと太ってもらわないと。強くて健やかな子を産むには、心配でいけないよ」
「あんたみたいに、丸っこくなるのは困るけどねえ」……などと、陽気な声で笑いながら、王都の人々は街頭で手を振って見送った。
武勇の民に漆黒王は愛されている。誰が見てもそれが知れる凱旋だった。
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白妙姫は、侍女を1人連れただけだった。出立までの日が浅かったといえど、洗練された魔都の王女としては慎ましい様子に、荒々しいラディスの王城は戸惑った。
ヤトウィアが連れてきた侍女以外に、ラディスからも侍女が用意され、シグムントが信頼している護衛も幾人か付いた。だが、その護衛を連れる必要の無いほど、ヤトウィアは与えられた部屋で大人しい。王城を出歩くこともなく、部屋で本を読んだりするだけだ。連れてきた侍女以外はあまり側に寄せ付けない様子に、やはりラディスの地は気性に合わぬか……と、周囲をやきもきさせていた。
魔都での様子から、もとよりすぐに馴染むとは思っていなかったが、火の消えたようなヤトウィアにはシグムントも溜息をつかざるを得ない。シグムントが知るヤトウィアは、確かに大人しかったが表情の豊かな女だった。笑う時は花が零れるように笑い、気遣うときは水にそっと触れるようにこちらを見つめる。だが、今はそのように豊かな表情は無かった。
日中に部屋を訪ねればそれほど激しく抗われなかったが、何かの表情を浮かべることも無い。気心の知れた会話も一切無い。ただ時折絡む視線は何かを秘めていて、庭に連れ出せば横顔が僅かに綻ぶ。その様子に、ヤトウィアが真に自分を拒否している訳では無いのかと、愚かしい希望を抱く。
しかし閨だけは激しく拒まれた。いくら思い出せと迫っても絶対に知らぬふりを見せ、身を寄せてくる気配などはもちろん無い。その様子にシグムントもなお一層激しくヤトウィアを求めた。夜毎その細い身体に自分の身体を重ね合わせ、嫌がるヤトウィアに何もかもを教え込む。いや、教え込むことなど無いほど、ヤトウィアはシグムントの与える手管に反応した。口では嫌だと拒みながら、その肌ははっきりとシグムントの凶暴な愛情に応えるのだ。
だからこそ、シグムントはヤトウィアを諦めることができなかった。
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ラディスにてヤトウィアの世話を任せられた侍女のアンナは肩を落とした。
朝、少しばかり疲れた様子を見せていたヤトウィアに、ラディスの果物を絞って作った飲物を飲んでもらおうと用意したのだが、ウラスロからやってきたヤトウィアの侍女に不要だと一笑に付されてしまったからだ。そのような飲物はヤトウィア様のお口には合わぬと、取り付く島もなかった。
ウラスロからやってきた侍女は、元は皇后付きの侍女だった……という。王女が異国へ嫁ぐのを儚く思って、自らの侍女を1人つけたのだということだった。ただ、この侍女が控えているときは、ラディス側の人間が近付こうとしても、ヤトウィアはそういう気分ではないと離される。異国の地に疲れているのだと言われてしまえば、それ以上は干渉することが出来ない。
確かに歴史のある魔都から、こうした田舎の小国に嫁いだのだ。気分が塞ぐのも仕方が無いことかもしれない。だが、少しでもラディスに馴染んで欲しいと思っているアンナには、それが少し残念だった。
せっかく作った飲物だったが、そのまま捨ててしまうのは忍びない。護衛の戦士達に振舞おうとヤトウィアの部屋の庭に回ったときだった。
カタン……と音がして、テラスに出る扉が開く。ハッとしてアンナがそちらを向くと、白い髪の姫君が姿を見せたのだ。息詰まる中から開放された風に疲れた様子で、置いてある椅子に身体を沈める。その様子に思わずアンナは声をかけた。
「ヤトウィア様」
ヤトウィアがアンナの声に顔を上げた。一瞬その表情に警戒と緊張の色が浮かんだが、アンナの気遣わしげな瞳に気づいたのか、安堵したように柔らかく微笑んだ。
「あなたは確か、アンナ……ですね」
「は、はい」
なぜ、安堵したような表情を見せたのか。ヤトウィアの心がどこにあるのかには気づかずに、アンナはただ、この気疲れした様子のヤトウィアに思わず近寄った。
「あの、……ヤトウィア様。お疲れのご様子ですが、大丈夫でございますか?」
「疲れてはいません、大丈夫です。ありがとう、アンナ」
「いえ、そんな」
礼を言われ、恐縮する。アンナは言葉を掛けられた高揚感から、手にしていた飲物を思わず見せた。
「ヤトウィア様。……お疲れならば、これはいかがですか? ラディスのリューシュという果物を絞った飲物です。疲れが取れます」
「リューシュ?」
「あ、あの、お口に合わぬのならば無理にとは……」
「頂いてもよいのですか?」
「そんな。ヤトウィア様に飲んでいただくために用意いたしましたから」
「ありがとう、是非頂きます」
ラディスのリューシュと聞いたときに、ヤトウィアの顔が優しくなった。その様子に安心して、アンナがヤトウィアの前に杯を用意する。
一口、それを口にしたヤトウィアが柔らかな表情を浮かべた。アンナの方に瞳を向けて、小さく頷く。
「甘酸っぱくて、よい香りなのですね。とても美味しい」
「はい。その酸味が疲れが取れる……と、こちらではよく飲まれるもので。お酒にもなるのですよ」
「そうなのですね。知りませんでした。こちらの食事は、その……余り出されなかったので」
その言葉にアンナは首を傾げた。確か、ヤトウィアがラディスの食事は口に合わないから……と言って、飲物などは特にウラスロのものを用意させていたように記憶している。
「ラディスのお飲物はお口に合わないとばかり思っておりました」
「そんなことは……。これは初めて口にしますもの。とても美味しくて……」
ヤトウィアの言葉と自分達の認識の違いに、奇妙な違和感を感じる。その疑問が浮上する前に、室内から咎めるような声がかかった。
「ヤトウィア様!」
ヤトウィアがウラスロから連れてきた侍女だ。その声に、明らかにヤトウィアの表情が強張る。一度大きく息を吐くと今までの花のような表情が一瞬で消え、いつもの控えめで俯きがちなものに変わってしまった。
姿を表した侍女が、室内の高い位置から無表情でアンナを見下ろす。侍女同士であるから身分的な差異などあるはずがないが、思わずアンナが一礼した。侍女はそんなアンナからすぐさま視線を外すと、再びヤトウィアの名を呼ぶ。
今までのことがまるで無かったかのように、ヤトウィアが立ち上がり、だが最後にちらりとアンナに視線を向けた。
ヤトウィアはただ寂しげに、頷いただけだった。
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部屋に戻ったヤトウィアに、侍女が冷たい視線を向ける。音もなくその側に近づき、不意に唇を歪めて笑った。
「よいのですか、ヤトウィア様」
その冷たい声にヤトウィアの身体が硬くなる。
「あまりお心を許すのは得策とは言えませんね。ご協力申し上げているというのに」
「ベスプリム……陛下に……ラディスの方にご迷惑をお掛けするのは止めて」
「おや。……あのような蛮族どもに情けを掛けるとは。ご自分のことをお分かりになっておられないようですね。ヤトウィア様」
そうして、舐めるようないやらしい声でそっと囁く。
「私はいつでも見ておりますよ、ヤトウィア様」
冷たく笑ったベスプリムの顔は、ヤトウィアの心をも一気に冷やした。手が震え表情から色彩が失われていく。その様子をベスプリムは満足げに見やると、すぐに冷たい顔を常の侍女のものに戻し、何事も無かったかのように一礼をして部屋の片隅に控えた。