001.昔むかし

国の大きな都市から程よく離れたシェンスタドという街の郊外に、こじんまりとした家があり、風を通す為に開けた小さな窓から甘酸っぱい果実とシナモンの香りが漂ってくる。

家の中では愛らしい娘が1人、楽しげに鼻歌を歌いながらリンゴのタルトを仕上げていた。焼きたてのタルト生地の上にシロップを含ませた刷毛を滑らせると、パリパリと小気味のいい音を響かせて、香ばしい香りが広がる。リンゴを飴色に煮込んだお鍋の上にタルト生地で蓋をすると、すぐにくるりとひっくり返した。リンゴをどっさり使ったタルトの完成だ。

「ん、おいしそうに出来たわ!」

娘は2つあるタルトのうち、ひとつを持ち上げて、ふんふんと香りを確かめた。出来たての温度とリンゴとバターの香りは、我ながら上出来の予感がする。

娘はテキパキとリンゴのタルトを大きなカゴに入れた。

「今日も、売れますように」

この娘の名前はしらゆきという。

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しらゆきは、シェンスタドの郊外でお菓子を作って1人で暮らす少女だ。

白にも見える白金色の髪に紫水晶アメジストの瞳、ぷるんと潤んだ桃色の唇。娘はシェンスタドを潤す雪解け水の源に、一番最初に降る雪のように美しい白い肌をしていたため、「しらゆき」と呼ばれていた。

「やあ、しらゆき。今日も上手く焼けたかい?」

「ええ、今日もとっても上手に焼けたわ!」

威勢のいい声は、シェンスタドで唯一のお菓子屋さん<7人の小人>というお店の主人だ。<7人の小人>は、いつもしらゆきの作るお菓子をいい値段で買いとって、店に並べてくれる。しらゆきの作るリンゴのお菓子はとても評判で、この地方の領主も時々注文してくれるほどだ。

しらゆきの両親は、駆け落ち同然で結婚したらしく、逃げてきた先のこのシェンスタドで温かく迎えられた。父は狩りを、母はお菓子を作って、じきにしらゆきが生まれ、親子3人仲良く暮らしていたのだった。しかしその両親は、しらゆきが15歳の時に病で亡くなってしまった。

もうすぐしらゆきも年頃……という時期に、はかなくなってしまった両親は、しらゆきを1人置いてどれほど心配だっただろう。しらゆきもまた、訳が分からぬほど幼くもなく、だが泣き暮らすほど子供でもなかった。しっかり者のしらゆきは、泣いてばかりでは食べてはいけないと立ち上がり、母親ゆずりのお菓子作りの腕を奮って健気に暮らしている。

そんなしらゆきであったから、街の者も彼女に親切だった。年頃の娘が1人暮らしは危ないと養子に迎えようかと言ってくれる人も何人もいた。しかし、両親の残してくれた家を自分の手で守りたかったしらゆきは、1人暮らしをすることに決めたのだ。1人暮らしという心細さ以外は何不自由なく暮らしている。

「しらゆき、配達に行っている間、少しお店を見ててもらってもいいかい?」

「分かったわ、ちいさなおじさま、いってらっしゃい!」

<7人の小人>の主人は中年の姿をしているが、小柄なしらゆきよりもさらに背が低い。たくさんのお菓子をカゴにいれてよちよちと歩く様子を見ながら、ついついしらゆきは「ちいさなおじさま」と呼んでしまう。

ちいさなおじさまは今日は配達のようだ。店番を頼む主人の声に頷いて、しらゆきは店のカウンターに入った。お菓子を作って卸すだけではなく、主人が配達に出かける時間に店番をするのもしらゆきの仕事だ。ちいさなおじさまの奥方は、もうすぐ産み月が迫っているという。ちいさなおじさまとちいさなおばさま夫妻の間に初めて出来る子供はどんな可愛らしい子なのだろうと妄想するのが、最近のしらゆきの楽しみだった。

今日も楽しくそんな妄想をしていると、店の扉が開いた。ドアベルがカランコロンと素朴な音を立てる。

「やあ、しらゆき。ごきげんよう」

「ダンテ?」

背の高い男性が1人入ってきた。短い黒髪には柔らかそうにウェーブが掛かっていて、男の甘い顔立ちと相まって、その立ち姿をさらに甘い雰囲気にしている。白いシャツに黒いトラウザーズ、同じ黒い色の短いマントを羽織っていた。腰には細身の剣を佩いていて、墨黒の長靴ブーツが床を蹴るとカツンと気味の好い音を立てる。黒を基調としているが全体的に緩い雰囲気で、どこかの貴族がお忍びで街をぶらぶら歩いているかのような格好だ。

彼の名前は「ダンテ」という。

それ以外に姓があるのかもしれなかったが、ともかくそれ以上の名前をしらゆきは教えて貰っていないから知らなかった。

「いらっしゃい、ダンテ」

「うん。しらゆき。今日は君の作ったお菓子、売りきれてない?」

ダンテはしらゆきの顔を驚かせない程度に覗き込んだ。そうして顔を傾げた拍子にさらさらと前髪が揺れる。ふわりと柔らかそうな前髪を邪魔になるからと搔き上げて、ダンテはキラキラした顔で笑ってみせた。女ならば誰もが虜になるであろう、魅惑的な笑みだ。

しかし、しらゆきはその一連の仕草を営業スマイルを浮かべたままきょとんと見つめて、何事もなかったかのように素面で頷いた。

「あるわよ。今日はダンテの好きなリンゴのタルトよ。お店で食べていく?」

「う……うん。君の淹れたお茶も一緒に頼むよ」

「銘柄はいつものね」

それを見て、ダンテが少しだけ眉を下げてしょんぼりとしたが、リンゴのタルトを取ろうとしたしらゆきには見えていなかった。ダンテの動向は全く気にすることなく、しらゆきは店の棚に並べてある切り分けたタルトを1つお皿に取り、お茶の準備を始めた。

お店には少しだが椅子とテーブルを設えていて、その場でお菓子を食べることができるようにしてある。ダンテは大人しく客用の椅子に腰掛けた。

「いい匂いだね。今日は早くに来てよかったよ」

「お店開いたばかりよ、せっかちさんね」

「この間は食べられなかったからね」

3日ほど前。やはりしらゆきが店番をしているときにやってきたときは、残念なことに焼きリンゴのケーキも、リンゴのパイも、もちろんリンゴのタルトも売れていた。おまけのお土産用に焼いたパイ生地の切れ端まで残っておらず、その時のダンテの落胆ぷりといったら、まるでこの世の終わりでも見たかのように酷いものだった。

「はい、リンゴのタルトよ」

「わ、ありがとう」

ダンテは店にきたら、必ずと言っていいほど店内で食べて帰る。それはそれは美味しそうに食べてくれるため、しらゆきはダンテの食べる様子を見るのが好きだ。自分が作ったお菓子を美味しく食べてもらうほど、嬉しいことはない。

「今日のタルトもすごく美味しいね、お砂糖を変えてみた? いつもよりも濃厚な感じがするよ」

「よく分かるわね。今日使ったお砂糖、この間隣の国から来た隊商に分けてもらった物を使ったの」

「しらゆきはすごいね」

しらゆきはカウンターの中から、いつものようにお菓子を褒めるダンテにくすくす笑った。

「そんなに大袈裟に褒めなくても」

「だって美味しいからさ」

「まあ、ありがとう」

そう言って、しらゆきが今度は華やかに笑った。しらゆきは、ダンテが誘惑めかして浮かべる甘い微笑にはきょとんとするだけだったが、お菓子を美味しく食べているダンテを見る時は、心からの笑顔を見せる。ダンテは、しらゆきのそうした笑顔をマジマジと見つめて頬を赤くした。

店内に心地よい沈黙が落ちる。しばらくの間、しらゆきがカタカタとお菓子を切ったり、包み紙の用意している音だけが響いていた。ダンテもそんな風に働くしらゆきを優しく見守っていたが、不意に視線を外に向ける。

「……」

そうして形のよい眉を一瞬ゆがめて、何かを考え込むように瞳を伏せた。

「ダンテ?」

沈黙とは違う雰囲気を感じ取ったのか、気が付けばしらゆきがダンテのすぐ側に来ていた。ふ……と顔を上げて、ダンテがしらゆきを真剣な顔でじっと見つめる。急な眼差しに、しらゆきが不思議そうに首を傾げる。

「どうしたの、ダンテ。お茶、淹れなおそうか?」

「あ? ああ、いや、大丈夫だよ」

少しだけ不安そうな声のしらゆきにダンテは笑って首を振り、優雅な所作で席を立った。そばに来たしらゆきを思わず見下ろすと、少し大きめに開いた襟から年の割りに豊かな膨らみの、上4分の1ほどが見える。

白くてふんわりふっくらしていて、噛んだら柔らかそうだ。

「ダンテ、鼻から血が出てる」

「えっ?」

「やっぱり大丈夫じゃないじゃない、ほら座って、待ってて、今、鼻紙を持ってくるから」

「あ、待ってしらゆき!」

ダンテは鼻を押さえながらしらゆきを呼び止めたが、鼻紙を取りに行ってしまった。

「不覚……」

なぜかダンテはがっくりと肩を落としたが、しばらくして、しらゆきに向ける眼差しとは全く異なる鋭い視線をシェンスタドの街に向ける。その視線の先に敵がいれば、2,3人は死ぬだろう、それほど強い眼光だった。