001.せめて夢にも君を見えこそ

「どこかによい公達きんだちはいらっしゃらないかしら」

御簾をぴったりと下し几帳を立てかけた中で、炭櫃の炭を箸で突きながら伴道由女とものみちよしのむすめ時子は何度目かのため息を吐く。

「ああ? どんな公達がいいんだよ」

時子の前には几帳を隔てもせず、随分と柄の悪い髭面の男が足を崩して座っている。野太い声はその男のものだ。並の女ならば震え上がりそうな声にも時子は平気な顔で、箸を突く手を止め、ううん……と少し考え込んだ。

葛貫くずぬきは、上手に歌が詠めて、お父さまのように手蹟の美しい人がいらっしゃるというの」

葛貫……と呼ばれたのは、時子の側に控える女房で、少々お行儀の悪い時子とは違って上品に檜扇で顔を隠している。

手蹟、ねえ」

時子は再び火鉢の中を少し掻き混ぜながら、夢見がちな声で、ほう……と息を吐く。

「内裏には、物語に出て来るような素敵なお歌を歌う公達や女官の方々が、たくさんいらっしゃるのでしょうね」

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時子の父と母は、仲の良い夫婦であったそうだ。

あまり風雅なことに興味の無かった父……伴道由とものみちよしは、華やかな他の公達とは異なり大勢の女には通わず、珍しい事に母にだけ入れあげた。やがて小さいながらも北の対を持つ家に母を呼び寄せ、数人の使用人と母とで暮らし始める。父は下級ながらも宮中に勤める貴族で、数人の家人と父と母とが慎ましく暮らしていくにはそれほど不自由ではなかったようだ。時折贅沢をして、それ以外は素朴な暮らしに満足する中、そろそろ子供の一人を持ったとてよかろうと望み、やがて時子を授かった。

父も母も時子が生まれた事を大層喜び、時子の家は賑わった。この頃が家がもっとも華やかで賑やかだった頃だろう。時子の世話をさせるために使用人も少しばかり増やし、調度品もきちんと調えられた。時子は色白な丸い愛らしい童で、父も母も家人らもすっかり時子に夢中になった。

時子が三つになったころ、父の宮中の友人が子供を連れてよく遊びに来るようになった。

その子供の名前は三善頼景みよしよりかげという。時子とはとお離れた体格のいい男子おのこで、父の供に連れて来られるのはいいが、実は時子が大の苦手だった。頼景は小さな時子をどう扱ってよいやら分からぬのに、何故か気に入られて、何事かむにゃむにゃと言いながら追い掛け回されるのだ。小さな時子が大きな頼景をよちよちと追い掛ける様は可愛らしく、時子の父母も頼景の父も、二人を見てはいつも笑っているのだった。

しかし頼景は十五になった頃、受領に任じられた父と共に京を離れてしまった。

そして四年後、都には頼景だけが戻ってきた。頼景の父は任期を満了しても延任を命じられ、母と共にそのまま任国に滞在していたが、若い頼景は内裏に仕えるために一人戻ってきたのである。

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頼景が内裏に勤めるようになってから、三年ほど経って時子の裳着を迎えたすぐ後に、時子の両親が儚くなった。寒い冬に風邪をこじらせ、随分とあっけなかった。時子の家は、父方の親戚や何人か残った使用人、時子の女房である葛貫くずぬき、そして頼景の援助に頼らねばならぬことになった。

しかし、頼るだけの暮らしは心もとないと時子も分かっているのだろう。どこかのよりよい公達と懇ろになり、宮中や公卿のもとに勤める手だては無いものかと思案していた。

「私によい公達が通ってくださるようになれば、皆の世話も出来るし、もしかしたらお務めのお話もあるかもしれません」

「よい公達ねえ」

頼景は時子に酒を注がせながら、ふうんと顎をさすった。畳の上に二人並んで座り、少し離れた場所に澄ました顔の葛貫が控えている。本来ならば葛貫が酌をするべきところだろうが、頼景が頼むのは時子で、時子も嫌な顔を一つもしないために仕方なく黙っている様子だ。時子の家を助けているのもまた頼景であるから、口出しもし難いのだろう。だが頼景から見るに、葛貫は自分のことをよくは思っていないようだ。いつも自分を見る眼が冷たい。

無理も無い。

頼景はもともと大柄なのもあったが、成長してより背が高くなった。田舎の山を飛び跳ねていたからか他の公達に比べて骨太で、顔のぐるりが髭で覆われている。剃ってもすぐに生えてくるから、面倒になっていつも放ってしまうのだ。妖怪物語に出てくるあづまの将軍のように、黒々としたこわい顔をしている。おまけに声は低く口調も粗野で、まことに宮中に仕えているのかというほどだ。

公達といえば、絵物語に出てくるようなふっくらとした面立ちの白肌の者が多いから、時子や葛貫にはそうした男の方が好ましいのだろう。

頼景が任国から一人都に戻ったとき、真っ先に立ち寄ったのは時子の家である。頼景の実家のかつての家人を再び呼び寄せ、宮中への口利きを時子の父に頼むためだった。

宮中ではこの容貌を珍しがられ、おかげで主上おかみに目を掛けられるという僥倖にも合った。右の大臣おとどに気に入られ、主上の側近くに置かせようと、父と同じ従五位上を授けられたのである。

「ねえ頼景さま。宮中にはたくさんの殿がいらっしゃるのでしょう? どなたか、時子をもらってくださる方はいらっしゃらないかしら」

「お前みたいなちんちくりんをか」

「まあ、ひどい!」

ぷう……と頬を膨らませた時子は、注ごうとしていた酌を止めて銚子を他所へとやってしまった。むっとした頼景は取り返そうと手を伸ばす。時子はつんと拗ねた顔で、頼景に銚子を取られまいと手に持ったままあちらこちらへと動かしている。

まったく人の気も知らないで。

頼景は酒を注がせることを諦めると、盃を置いた。

「頼景さま?」

そうするとたちまち時子は悪戯が過ぎたかと心配そうな顔で頼景を覗き込む。

曲がりなりにも女房を持つほどの貴族の娘が、御簾を介することなく夫でもない男と対面しているだけでも非常識なのに、時子は扇で顔を隠す事も無く、全くの無防備で頼景の顔に近付いてくるのだ。

頼景が都に戻ってきたばかりの頃は人見知りを見せていた時子も、しょっちゅう訪ねればすぐに打ち解けるようになった。まだ時子も裳着を迎えていなかったから御簾や几帳を間に置いていなかったし、裳着を迎えたら迎えたでその頃に父母を亡くしてしまい、気落ちしている時子を几帳の向こうに一人にさせておくには忍びなかった。それでついつい、時子と会うときは無遠慮になってしまう。

だが、それらは男の頼景の言い訳である。

「私、次の元日には十六になりますのよ」

黙り込んでしまった頼景に、頬を膨らませた時子が訴える。

「十六にもなるのに、御簾にも扇にも隠れねえで男に会ってるじゃねえかよ」

それを聞いてからかうように言ってやると、聞いた時子がぽかんとして、それから再びむう……と唇を尖らせ、すぐさま自信の無さげな顔をした。まるで百面相だ。

「だって、お相手が頼景さまなのだもの……」

そうして、最後にこんな顔をする。頼景は軽くため息を吐いた。

****

頼景がまだ三つの時子に初めて会った時、時子は葡萄色の袿を着せられたふっくらまるまるとした色白の童だった。時子は頼景とよく遊びたがった。転ぶと頼景が慌てて抱き上げる。それが楽しいからか、時子は頼景の前でわざとぺちゃりと転んでみせたりした。頼景が中庭に下りれば自分も下りるといい、鞠を蹴れば自分も蹴るという。大きな黒い瞳に豊かな黒髪、喜怒哀楽がはっきりとしていて物怖じしない時子を、苦手だと言いながら一番夢中になったのは頼景だ。

しかし元服を迎えた頃、頼景の目には、大きくなるはずの時子がどんどん小さくなったように見えた。それほど自分が大きくなったのだろう。

父に付いて西に赴いたのはそれからすぐのことで、長い事会えないのだというと時子は「やあだ」とわんわん泣いて、父と母を困らせていた。頼景とて後ろ髪引かれる思いであったはずなのだが、それはそれだ。十五という若い時分でもあったし、西での暮らしは何もかもが物珍しく、山川を近くに身体を鍛えるうちに、頼景は時子のことをさほど思い出さなくなった。

それなのに、都に戻り時子の父を訪ねてみれば、すぐに鮮やかな記憶が蘇った。

ちょうど九つになった時子は庭で雀を追い掛けていた。裏山吹の袿姿の時子は、渡殿に立っている大男を見てきょとんと瞳を丸くする。そして、チュピチュピと鳴きながら飛んでいった雀と、頼景を交互に見た。

そんなきょろきょろとした表情の時子を見て、頼景はなぜかは分からぬが安堵した。

西国では国司の息子として敬われていたが、都ではそういうわけにもいかない。殿上人に交じれば頼景など大勢の中の一人だ。一人帰京し運よく取り立てられたものの、殿上人の多くが受領の息子あがりの男など田舎者よと謗るような輩である。それらをかわし宮中を渡り歩くのも男の仕事ではあるが、性には合わないし、何より精神を磨り減らすようだ。そんな折に時子を訪ねるのは快かった。

最初は時子の父に宮中での仕事を倣うための訪問だったが、次第に愛くるしい無邪気な時子が頼景の目的になった。時子の父も母も思うところがあったのだろう、時子が頼景の相手をしていれば邪魔する事もない。

最初は可愛らしい猫の子でも眺めるような気持ちでいたが、美しく成長していく時子を猫のようには見られなくなった。頼景にとって時子は、いつからか美しい愛しい女になった。

しかし時子は歌や縫い物は知っていても、男と女の事情など知らない。裳着を済ませ男を受け入れられる風になったとはいっても、恋は物語の中だけ、男は絵巻物の中だけしか知らず、都の公達と恋文の一つも交わした事のない初心な娘なのだ。

そのような小さい時子を、大男で不美人、おまけに無作法な頼景が望んでもよいはずがない。それよりも、折角宮中に縁があるのだから、時子にふさわしい風雅な男を捜してやった方が時子のためではなかろうか。この都にある限り、婦女子の幸せはよりよい公達に囲われる事だ。時子の器量であれば決して無理な話ではない。

「素敵な公達が、お歌でもくださったらいいのにな……」

銚子を下げさせた時子が再びため息を吐く。

そのような時子の顔を見ながら脇息に寄りかかり、頼景もまたため息を吐いた。

****

頼景に時子がそうした愚痴を話してしばらく経った頃、文が一通届いた。

「時子様、何やら文が……」

「え?」

「どこぞの公達からのようですわね」

文を持ってきた使いの者は、顔も見せずにすぐに帰ってしまったのだという。

葛貫は時子が十になる前に、母方の縁を頼って家に来た。最初は母に付いていたが時子の面倒もよく見ていて、乳母が都を離れたのを機に女房になってくれたのだ。歌も物語もよく知っていて、縫い物も上手く手蹟も美しい。顔もすんなりと細面で、丸顔の時子の憧れだ。頼るよすがが無くなってからは時子も懸命に家の中を取り仕切るようにがんばっているが、それらを教えてくれるのは姉のように慕う葛貫だった。

美しい葛貫にも素敵な公達が現れないかしら。そのためには、主人である自分がしっかりしなければ。

そう思って奮闘しているつもりなのだが時子の許には一向に公達の一人も現れぬ、そんな折に届いた文である。時子は期待に胸躍らせて受け取った。

『昼も夜も 如何なる君と 思ひぬれば せめて夢にも 君を見えこそ』

昼も夜もどのような方かと考えてしまうので、せめて夢にでも貴女に会うことが出来れば良いのに……。

書かれているのは白一色の檀紙に流麗な男文字である。時子も見た事の無いような美しい文字で、随分と風雅な男が書いた物だろうということがすぐに分かる。気品のある伽羅の香りが微かに香った。

まるで絵物語に出てくる姫にあてたような真っ直ぐな恋文に、時子の胸は一気に高鳴った。

「まあ、葛貫!いったいどちらの公達なのかしら。お文の使いの方は? お返事をどうしましょう」

何しろ初めてもらった恋の文である。時子はよい香りのするそれを胸に抱いて、染めた頬で辺りを見渡した。葛貫は時子をたしなめると、「そうですわね……」と思案する。

「次に文を持ってきた折にお返事をいたしましょう。紙と墨を用意しておかなければ」

「そ、そうよね」

冷静に紙や墨の手配を始めた葛貫に、初めてだらけの時子はおろおろとするばかりだ。それでも、懸命に返事を考えて何度も文字の練習をした。

すぐにも渡したいところだったが、文の相手は分からない。次の文が……使者が来なければ、返事をする事も出来ないのだ。

やきもきしながら時子は文を待っていたが、次の機会はほどなくしてやってきた。

「時子様、どうやら例の公達から、また文が……」

「本当に? 葛貫、使者の方には待ってもらって。すぐにお返事を書かないと」

「すでにそのように手配しておりますわ」

葛貫はさすがである。すぐに墨と紙を用意し、時子に返事を考えるように促した。

貰った文には、先日の歌の続きらしき言葉があった。

『幾度寝も 幾度の夢も 見えじ君 うつつの我の 思い足りじや』

幾度寝ても幾度夢を見ても貴女には会えないでしょう。現実の私の思いが足りないのでしょうか。

そのように書かれた文字は、先日見た手蹟と同じものだ。相変わらず美しいが、最後の文字が少し揺れている。会いたくて心が動いています……とでも言いたげな演出だ。前よりも情熱的な内容に、時子はすっかり舞い上がった。

粗相の無いお返事を書かなければ。

そう思うのだが、こういう時に限って何も思い浮かばない。男の人はどのような言葉を喜ぶのだろう。たくさんの絵物語を読んで、たくさんの恋歌を見てきたのに、急げば急ぐほど頭の中が真っ白になってしまう。

「葛貫、どうしましょう。私何も思い浮かばない」

「……私が、代わりにお返事を考えましょうか?」

主の代わりに返事を考えるのも、また優秀な女房の役割でもあった。初めての返歌でもあるし、高貴な姫君であればもったいぶって一度二度は女房や乳母が返事をするのも珍しくは無い。しかし時子は首を振った。自分はそれほど高貴な姫君ではないし、もったいぶるような身分でもない。それに生まれて初めての恋文なのだから、真面目に返事をするべきだ。

とはいえ、どんな風に返事をすればいいのかしら。

うんと考えて、時子はいいことを思いついた。

「そうだ。思いついたわ葛貫」

「まあ、時子様。さすがでございます。……いかような歌にいたしましょう」

そうして時子が諳んじた歌に、葛貫は小さく笑んで頷いた。いつも真面目な葛貫の顔がほころぶのは珍しい事で、時子はほっと胸を撫で下ろした。合格点を貰ったということだ。

いくつか手直しして、時子は丁寧に歌をしたためた。

『いくどねも みえぬ あえぬと いうなれど ゆめにかくれず あふぎにかくるる』

幾度寝ても見えない会えないと貴方はいうけれど、私は夢に隠れず扇に隠れているのです。

「……少しあけすけすぎるかしら」

「時子さまはまだお若いのですし、素直なお心が伝わるかと思います」

「本当に?」

「ええ」

歌を考えているときの楽しそうな時子の顔に、葛貫もまたつられるように微笑んだ。何やら楽しい事を想像しながら考えたに違いなく、歌にも文字にも時子の素直で愛らしい人柄が現れているようだった。