001.イェルルージュ

星の輝きの見えぬ満月の夜だった。

硝子窓の向こうに絡み合う男女の姿があり、それが覗き込む月の光に照らされている。何も身につけていない二人の身体は重く揺れていて、真っ白なシーツは二人の動きに合わせて乱れていた。

男と女はすでに繋がっていて、男の欲望は四つん這いの女を深く貫いている。男の腕が女の腰を掴み、大きく引いては深く挿入した。その度に女の豊かな胸が揺れ、快楽に堕ちるように上半身が寝台に沈んだ。……女、しかしよく見ると女の身体はまだひどく若い。張りのある肌にはわずかに汗が浮かんでいて、女の真っ赤な髪が張り付いている。

男は既に精を吐いていると見える。男が抽動している合間に見える女の下腹と太ももは、二人の行為の果てだろう、白濁と透明な雫で濡れていた。

男が胸板を女の背に這わせるように重ねた。男の黒髪が女の首筋に埋まり、近づいた唇が耳へと這う。つながりあいが深くなったからか、女がまた背を震わせて達したようだ。形の整った男の唇は満足そうに笑みを象り、女に何事かを囁いた。情欲を貪っていた女が寝台へ顔を伏せたが、男の手がその顎を無理やり掴んだ。こちらを向かせると、女の瞳からは一粒……感情が流したものか生理的なものなのか分からない涙がつうと溢れる。

一瞬、本当に一瞬だけ、それを見た男が不機嫌そうに……いや、不安そうに眉根を寄せた。

しかしすぐにその表情は消え、余裕のある笑みに代わる。涙の粒が頬から離れる前に舌で舐めとり、体重を掛けるように、再び寝台に女の身体を沈めた。

投げ出された女の手に、男の指が絡まった。

絡まり合った指に力がこもる。押さえつけたのか、きつく相手を求めているのか、そのいずれかは分からなかった。

****

赤茶けた屋根と燻んだ白壁のアパートメントが並ぶ庶民街、街を繋ぐ石畳を、夜に降る雨がさらに暗い色にしている。平日で、しかも夜遅いからだろう。街路には酔っ払いの一人もいない。

パシャ、と水を踏む音がした。

かすかに残った街の灯りをかき集めれば、真っ暗というほどではない。むせかえるような雨の匂いと路地の向こうに、そうしたわずかな灯りが映した何かの影が揺れた。

影の映った白壁の足元に、四つん這いの獣の姿があった。後ろ足で立ち上がれば大の大人を越すであろうほどの体長で、その全身は毛ではなく、腐って得体の知れぬ粘液を垂らしている鱗だ。大きく裂けた口には人のそれによく似た歯が並び、ガチッガチッ……と鳴らしている。

醜悪なその姿は、魔獣ヤヴァウォークと呼ばれる低級な魔性だ。普段は森や郊外に出没するそれが街中にいるということは、おそらく、誰かを暗殺するか混乱させるかの目的で生み出したものの、制御しきれず捨てられて、行き場を失ってさまよっているのだろう。

その魔獣が見据える視線の先に、人間が一人立っていた。獣が発する腐臭漂う風に、長い髪と……そして長衣スカートがふわりと揺れている。細い首筋とその衣装から、人間の性別は女と見て取れた。

ガチ……!と鳴らしていた歯の音が止まり、噛み締めた口元からだらりと涎が垂れた。

音もなく魔獣が石畳を蹴る。

魔獣の身体が跳躍し、目の前の人間に飛びかかった。獣の口が人間の喉元を目掛けて大きく開き、そのスピードと……何よりも破壊衝動は尋常ではなく、普通の人間であれば避けきれないと思われた。

しかし。

まるで踊りのステップのように軽やかに女が横に避け、避けた瞬間に片腕を振り上げて、同時にヒュ、と空気を斬る音がした。

ギャアア!!

女が腕を動かすと、それに呼応したように魔獣の咆哮が響く。しかし魔獣の身体は一度地面に落ちたものの、二度目の跳躍を行った。確かに手応えはあったはずなのに、弱るどころか一度目よりも殺気が強くなっているのは、死に際の力を振り絞ったのか。

だが、そうした最後の抗いも、女はやすやすと後ろに一歩退いて避け、そうかと思うとすれ違うように踏み込んだ。

濃い血の匂いが満ちている。

グシャリと魔獣の身体が女の足元に崩れ落ち、雨とは別の液体で石畳が染まっていく。

ひくひくと最後の肉の反応を見せている魔獣の身体に無造作に銀色の刃の切っ先が突きつけられ、それは何のためらいも無く魔獣の心臓を貫いた。断末魔の悲鳴すら聞こえない。

すぐに剣は魔獣の身体から引き抜かれ、ヒュ……と振って血を飛ばす。不思議なことにその一振りで、銀の刀身に付いていた朱は消えた。

魔獣の声も聞こえなくなり静寂が戻ったかと思われた路地裏に、コツ……と硬質の足音が響いた。

「お嬢様」

「……シルフリード」

緊張を孕んだ空気が解け、女の肩が下がった。「お嬢様」は手に持った小剣を腰に下げた鞘に納め、呼ばれた方へと振り向く。そこには黒い青年が一人、立っていた。青年……シルフリードは目の前の魔獣の死体に視線すら向けることなく、ただまっすぐに「お嬢様」の側に控える。

「お帰りに寄り道をするご予定はなかったはずですが?」

「急な予定が入ったのよ」

魔獣ヤヴァウォークを倒すことが? ご予定に?」

「だから急だと言っているでしょう」

冷静ではあるが責めるようなシルフリードの口調にうんざりしながら、「お嬢様」は魔獣の死体に背を向けた。もうここには用はない、という風の「お嬢様」をシルフリードの手がエスコートする。

「お嬢様、夜は冷え込みます。これを」

「かまわないわ」

「かまいます。さあ」

シルフリードは自らの着ていたフロックコートを脱ぎ、歩こうとする「お嬢様」の肩に掛けた。よく見ると「お嬢様」の格好は、どこかの夜会にでも参加でもしていたかのようなドレスだ。シンプルな形だがスカートの部分がたっぷりと膨らみ、むき出しの肩は夜の空気には寒そうだ。とても剣を振るに向く姿とは思えない。「お嬢様」はかまわないと言いながらも、肩にふんわりと掛けられた男物のフロックコートを引き寄せた。

「馬車を呼んでおります」

「そう。ありがとう」

「……お嬢様」

「まだ何かあるの?」

うんざり気味に振り向くと、シルフリードが身体を巻き付けるように側に寄り添った。まるで抱き寄せるかのように、しかし、決して身体が触れることもなく……ただ、手袋を着けた手だけが「お嬢様」に触れることを許されたかのように細い指先を取る。

「お怪我を」

「これは、さっき壁で引っ掛けて……」

「魔獣の牙ではありませんね。それならばよろしい、しかし」

もし明かりがあれば、「お嬢様」の手の甲に石壁で擦りでもしたかのようにかすかな擦過傷があり、わずかに血が滲んでいるのが見えただろう。今はほぼ暗闇に近いが、シルフリードは正確に「お嬢様」の傷を検知し、手の甲を持ち上げた。手の甲の主は、形の良い眉をあからさまにしかめる。

しかし咎める声はなく、シルフリードは「お嬢様」の手の甲に唇を寄せ、舌を出して一度、二度……血を舐めとった。

舌の這った手がピクリと震えたが、避けられることも叩かれることもない。シルフリードは胸ポケットから白いハンカチーフを取り出し、舐めた後の手の甲をそっと包み込んだ。ハンカチーフをめくるとそこにあるはずの血は付着していない。シルフリードはすっかり傷のふさがったその様子に満足げに頷き、まるで美味なる蜜でも味わったかのようにぺろりと唇を舐めた。そうして、口調は慇懃だが、その口調にまったくそぐわぬ挑戦的な視線で「お嬢様」を見据えて静かに笑う。

「今宵はこのまま。エスコート抜きのお嬢様は、どこに寄り道なさるとも限りませんから」

振り払われそうになった手を強く握って離さず、任せられるのを待つ。攻防は一瞬。ため息を吐いて諦めた「お嬢様」は、シルフリードに手を預けた。

「帰宅したら、剣の手入れを。暖かいココアを入れましょう。イェルルージュ様」

そうして、シルフリードは……女主人イェルルージュの手を引いて真夜中の路地を歩き始める。しばらくすればすぐに広い街路にでて、そこには馬車を待たせているはずだ。

設えの好い馬車の家紋が表すのはシェーラー家のもの。

イェルルージュはシルフリードの手に自分の手を任せ、夜の路地を歩き始めた。しかし何かを感じたように、数歩歩いたところで足を止め、ふ……と後ろを振り向く。その視線の先には何もなかったが、シルフリードもまた、イェルルージュの視線につられたようにそちらを見た。

シルフリードが執事として仕えるのはシェーラー家当主、名前をイェルルージュという。

昼は美しいこの街の、薄昏い夜の魔を狩る狩人ハンターである。

****

世界に生きる者は、何も人間だけではない。世界を支配しているのは自分たちだと思っているのは人間だけであり、実際には魔性、あるいは魔の素質を持った人型のものも多く存在している。それらは人間たちとは相容れない存在として忌み嫌われ、敵対し、互いに狩り、狩られる対象となってきた。

ここ、グラウフカ王国の首都レトラでもそれは同じだ。人間の方が圧倒的に数は多く、表向きは平和に見える。しかし太陽が沈み月が昇れば、魔の時間だ。暗闇に紛れた魔性の、あまり賢くないもの……知能の低い魔獣などは無差別に人間を襲う。

そうした者を狩るのが、グラウフカの狩人ハンターだ。

狩人は賞金を懸けられた魔獣を狩って生計を立てる者たちのことで、イェルルージュの両親は王家に仕える貴族でありながら、狩人の資格を持った稀有な人間だった。魔獣が忌み嫌われるのと同様に、それを狩るものもまた忌まれる。害虫を駆除する者は世間に必要であるにもかかわらず、なぜか人に好かれぬ職業であり、決して英雄になれぬのと同じだ。

狩人というのもそうした者で、特に貴族たちには下賤の職業として忌まれていた。だが、イェルルージュの両親は、身分はそれほど高くないとはいえ、貴族でありながら狩人として生きることを選んだのだ。そして、狩人としての最期らしく、二人は魔獣が原因で死んだ。

現場こそ見ることができなかったものの、痛ましい姿になった両親と対面した娘が魔獣……魔に対して嫌悪と憎しみを持つのは必然の流れだった。イェルルージュは父の小剣と母の短剣、そして両親の技を受け継いで、両親と同じ狩人となった。

貴族の狩人というのは貴族達に忌まれるものの、狩場に困らぬ需要がある。なんといっても貴族同士の宴に潜り込むことができるし、王城に入り込むこともできるのだ。実は最近最も多い魔獣出没の現場が、貴族の周辺だった。

野生の魔獣だけではない。いわゆる魔の力は人間たちによって研究され、時に暗殺や戦争の道具として使われている。そうした残骸が、病気のように蔓延し、人畜無害な動物までもが魔獣化する。あるいは誰かを殺し、誰かを混乱させるために放たれた魔獣が、目的を失って彷徨い、無関係の者たちを襲う。そのような魔獣化した動物も狩人の主要な標的だ。最も忌み嫌う貴族の周辺に魔獣が現れるのも皮肉で、そして自業自得な話だった。

イェルルージュは現在18歳。貴族を名乗るには若過ぎる年齢ではあるが、法律上の不備は全く無い。両親と同じく狩人であることを明かさず、表向きは両親の遺産と事業を引き継いで、周囲の助けを得ながら生計を立てている。幸いなことに古くからシェーラー家に仕えてくれている使用人達を養うくらいには、貴族としてやっていけているつもりだ。

昼はそうした通常の雑務に追われ、夜は魔獣を追う。それがイェルルージュの生活だった。

「お嬢様。イェルルージュ様」

ノックの音が響き、イェルルージュが書き物をしていた手を止めて、執務机から顔を上げる。声はイェルルージュの執事、シルフリードのものだ。部屋に入るように促すと、シルフリードは使い込まれた朱色の革鞘に収められた一振りの小剣を持って室内に入った。

「手入れに出していた剣が戻ってまいりました」

「ありがとう」

「確認いたしますか?」

「当然よ」

イェルルージュは席を立ち、シルフリードが両手に捧げ持っている剣を取った。これは父と母がイェルルージュの誕生日に作ってくれた小剣で、イェルルージュでも振ることの出来る軽さのものだ。父の使っていた剣は大きすぎて使うことができないのだが、この剣ならばイェルルージュの素早さと技の確実さを活かすことができる。魔獣が苦手な銀で作り、護符の意味で、髪の色と同じ色の石を嵌め込んでいる。先日魔獣を切った後、魔獣の血の検査と手入れに出していたのだ。

鞘から引き抜いて、刀身の輝きを確認する。曇りの無い銀の刃は、先日魔獣の血を吸ったとは思えぬほど美しく、イェルルージュを満足させた。

キ、と音を立てて剣を鞘に戻す。イェルルージュは剣を持ったまま、執務机に戻った。シルフリードは茶器を用意している。

「そういえば、昨夜もまた、シュヴァルツレン通りで殺人があったそうです」

「知っているわ」

イェルルージュは書類に戻りながらシルフリードの話に耳を傾ける。ここ数ヶ月、動物や人が何かに噛み殺されるという事件が多発していて、同時に魔獣の類の発生率が上がっている。殺された死体の惨状はどれも似ているがどれも違う。おそらく犯人はいずれも違う魔獣なのだろう。昨夜倒したような低級な魔獣であっても、力を持たぬ一般市民には脅威だ。

「戦が終わり、傭兵が何人も帰還しているといいます」

「それが……?」

「傭兵の中には、魔を持つ者も多いとご存知でしょう。戦場という名前の行き場を失った者たちが、首都に流れているようです」

一切の乱れのない作法でイェルルージュのお気に入りのカップに紅茶を注ぎながら、シルフリードが淡々と答える。イェルルージュはまるで猫が獲物を狙うように少し顔を低くして、強い瞳でシルフリードを伺う。

「どういう意味?」

深い緋色の髪はいつも結わずに下ろしている。さらさらと頬に落ちてきた柔らかなそれをプイと後ろに払うイェルルージュの様子に、シルフリードは眩しげな視線を向けたがすぐに表情を消した。

「魔獣など所詮けだものに過ぎない。そのうち、人と同じ強かな聡いものが首都に現れるかもしれません」

魔性……魔を持つものを総じて魔性と呼ぶのだが、そうしたものは何もけだものの姿ばかりしているわけではない。中には人以上の知能や理性を持ち、人と変わらぬ姿の者や、人のそれではない美しさを持つものもいる。人に混じっているもの、人を支配して生きているもの、戦いを好むもの、性格や本能も様々で狩人とて全てを把握しているわけではない。全てが敵というわけではない代わりに、全てが味方というわけでもない。そして、もしも彼らが敵に回れば、魔獣など比べ物にならないほどの恐ろしい脅威になるだろう。

シルフリードは、傭兵として戦場で活躍しているそうした高位の人型の魔性が、仕事と金を求めて首都に集っていることを懸念しているのだ。

「ゆえに、夜の外出はお控えください」

「そんなこと出来るはずがないでしょう? 魔獣が暴れているというのに」

「私はお嬢様の身を案じて言っているのです」

「よく言うわね」

イェルルージュは面白くもなんともない冗談を聞いたような顔になって、小さく肩をすくめて出された紅茶に唇をつけた。喉を通る今日の紅茶は、イェルルージュの一番好きな花の香りをブレンドしたものだった。