夜会や狩りの予定を入れなかったイェルルージュは、いつもよりも随分と早い時間に就寝し、いつもよりも随分早い時間に目が覚めた。カーテンを少し引いて窓の外を見てみると、街の建物の隙間からちょうど昇り始めた朝焼けの光が差し込んでいる。
いつもならばお行儀悪く二度寝を味わうのだが、今朝は何か得体の知れない違和感を感じて、イェルルージュは身体を起こした。誰もいないはずなのに、何かの気配を感じる。ふ、と寝台のサイドテーブルに視線を向けると、そこには、いつもあるはずのものが、少し形を変えていて目を見張った。
いつもは小さな硝子の器に短く切った薔薇が生けられている。その薔薇は最も見頃の時期を一晩だけ過ぎたもので、切ってしまって捨てられるのは忍びないと言ったイェルルージュのために、シルフリードが時々設えるものだった。
しかし、今朝は寝るときに見たものと形が違っていた。この時期いつもシルフリードが用意している華やかなロゼット咲きの薔薇ではなく、まだ開きかけの一重咲きの野生種に近い薔薇だった。香りも甘く柔らかな香りではなく、瑞々しく野のものに近い。
その香りに、イェルルージュは枕の下に置いている短剣を手に取った。短剣を片手に、警戒心の強い瞳と身体の動きでそっと寝台から下りる。
いつもと違う薔薇が置いてある……ということは、それをシルフリードの仕業でなければ、何者かがこの部屋に侵入して入れ替えたということだ。一体誰が、このイェルルージュの部屋に。呑気に寝ていて無法者の侵入を許したことは、ひどくイェルルージュのプライドを傷つけた。
裸足のまましなやかな猫のように部屋を横切る。イェルルージュはクローゼットまで行く手間を惜しみ、衣装掛けの下に並べてあった革長靴だけを履き、寝間着にストールを羽織った。短剣を置き、代わりに壁に掛けてある小剣を鞘ごと掴むと、繋がっているベルトを腰に巻く。
部屋の中に誰かの気配はない。もちろん匂いで辿れるような得意技など持っていないイェルルージュは、己の勘を頼りに屋敷を静かに歩いた。
使用人はほぼ寝ている時間だ。起きているものはいないだろう。おそらく執事のシルフリードも。
執事のシルフリードはイェルルージュの執事、という以上の働きをする。それは主として狩人としての働きだ。イェルルージュの狩りの場には必ず同行し、剣となり、盾となる。常のシルフリードはさほど力強い男にも見えないが、その腕が繰り出す剣の技と投擲ナイフの腕前は、悔しいことに、イェルルージュなど全く及ばない。
いつもならばこういう時、必ずシルフリードを連れて行くのだが、呼び出す手間はかけたくない。自分の力を過信しているわけではないが、シルフリードに己の背中の全てを預けることのできぬ事情もまた、在った。
屋敷は静まり返っている。どこにも気配を感じないが、じっとりとした違和感はずっと感じていた。屋敷内に気配を感じないということは、もう一つ……心当たりのある場所がある。
道中、全ての角を警戒して歩いたが、やはりどこにも何も潜んでいない。イェルルージュは、離れにある鍛錬場の扉の前で、足を止めた。
この鍛錬場は父が作らせたものだ。今では、シルフリードを相手に鍛錬をする場所になっているが、5年前、父と母が死ぬ前の夜までは、この場所は親子が最も多くの時間を過ごした場所だった。居間で寛ぐ時間よりも、ここで鍛錬や研究をしていた時間の方が長かったはずだ。しかしそれを辛いと思ったことはイェルルージュには無い。イェルルージュにとってこの場所は、家族との思い出の場所でもあった。
その鍛錬場の扉に鍵は掛けてあったはずだ。しかし中から気配がするということは、鍵のような仕組みなど関係ない類の侵入者がいるのだろう。
イェルルージュは扉の鍵を開けた。
****
腰の剣を抜き、そっと扉を押し開ける。一度足を止めて周囲を見渡すが、当然のように誰もいない。右手側には弓矢の的、左手側には武器の陳列棚が、いつもと変わらぬ風にあった。イェルルージュは武器の陳列棚の方に足を向ける。
「随分とたくさん集めてんだなあ、物騒な道具をよ」
背中に気配を感じ、イェルルージュは抜き身の剣を振り抜いた。剣は何もとらえず、灰色の塊がヒュ、と後ろに飛ぶ。
「おっと、危ねえ。客に剣を向けるなんて、育ちのいいお嬢様とは思えねえなあ?」
「お客様ではなく、泥棒の勘違いではなくて?」
「おいおい濡れ衣だ。なんにも盗んでないだろ !ほら」
振り向いたイェルルージュと距離を置き、目の前には灰色の髪のたくましい男が一人、立っていた。男はファーの付いたダークグレーの革のジャケットをだらしなく羽織り、何も持っていないことを主張するように両手を挙げてぶらぶらと振っている。
少し長い灰色の髪に、男らしい、骨太で精悍な顔付きをしている。ニヤリと笑んだ口元が男の雰囲気を軽薄なものにしていたが、射るようにイェルルージュを見る琥珀色の力強い視線は、目を反らすことを許さない。
そして、この男が通常の人間とは全く異なる様子が一目で分かる場所があった。灰色の髪の合間から、尖った獣耳が覗いているのだ。髪と同じ灰色の毛皮の獣耳は、まるで狼を思い出させる。
そう、狼。
この男は、人間ではない。
「人狼……?」
「正解」
ぽつりと呟いたイェルルージュの声を拾って、男は瞳を楽しげに細くした。
人狼とは、人の姿をした魔性の一種で、狼型の獣人のことだ。目の前の男は耳だけ獣化しているが、完全に狼の姿に変化出来るものもいると聞く。人間にはありえぬ筋力と能力、闘争本能、自己治癒力を持った魔性で、しかし見た目は人と同じであることも出来るため、傭兵になる者も多い。そして、その凶暴さとプライドの高さから人に混じることをせず、イェルルージュのような狩人と敵対するものも多かった。確か父も何度か人狼の類と戦ったことがあるはずだ。
その人狼が、一体なぜ、わざわざイェルルージュの前に現れたのだろう。イェルルージュの記憶に、人狼と戦った経験は無い。
「その人狼さんが、ここに何の用?」
「ヘルツァス・シューラー、マリアデール・シューラー……知ってるだろう」
「……当たり前でしょう」
ヘルツァス、マリアデール……イェルルージュの父と母の名だ。なぜこの男が知っているのだろう。イェルルージュはさらに警戒を強めて、小剣を持ち上げた。毛を逆立てたような猫のような様子に、人狼の男がクッと笑う。
「そんな毛を逆立てるなよ。……ヘルツァス、マリア、……あの野郎ども、死んじまったんだってな」
「……」
それには答えず、イェルルージュは剣を構えたまま、人狼に続きを促す。
人狼は、10年ほど前に一度、ヘルツァス・シューラーに、敗北したことがあるのだそうだ。彼はその頃、魔獣を従え、商隊や軍の補給部隊を襲っては、人間を殺し金目のものを奪って楽しんでいた。しかしある日、ヘルツァスとマリアデールが護衛をする一行を襲い、彼に敗けた。あまりに悔しく、人狼はヘルツァス家の家紋の付いたナイフを奪って逃げたのだ。
「無様なもんだったぜ。俺からいったのによ、胸と尾と、足を切られて死にかけた」
だから、尾が無いのだという。
「相手をしたのはヘルツァスだったな。美人を食いたくなって、マリアに触れたら激昂しやがった」
腕を切られ、尾を切られ、足を切られて、瀕死の人狼は命からがら逃げ出した。それをヘルツァスは追わなかった。死にかけの人狼を追いかけるより、他の魔獣から一行の安全を守ることを優先したのだろう。
「俺はな、人間に負けたのはそれが初めてだった。だから強くなって、いつかあいつを噛み殺してやると、そう思っていた」
瀕死ではあったが、人狼の驚異的な回復力でなんとか生き長らえ、数年は自由に動けなかった身体を鍛え直した。ケチな盗賊まがいのことは止め、多くの戦場に転がり込み、より強くなる場所を求めて彷徨った。
家紋からシューラー家にはすぐに辿り着いた。しかし。
「ヘルツァス。俺が殺してやろうと思っていたのによ。嫁と一緒に死んだんだってなあ? あ?」
人狼の話を、特に何らかの感情を表す表情を浮かべず聞いていたイェルルージュは剣の切っ先を向けたまま、静かに頷いた。
「そう。ここに父も母もいません。だから用は無いでしょう。もう一度痛い目に遭いたくないならば帰りなさい」
それを聞いて、人狼が「へえ」と楽しそうに笑う。一歩、二歩、イェルルージュに近づき、それまで変わらなかった二人の距離が変わる。
「なあ、あの薔薇、見たか?」
あの薔薇……とは、今朝枕元にあった見覚えのない薔薇のことだろうか。イェルルージュは少しだけ剣の切っ先を下ろして答えた。
「……ワイルドローズ」
「そうだ。庭に咲いてるお綺麗な薔薇よりはよっぽどあんたに似合う」
シューラー家に植えてある薔薇は、イェルルージュが生まれた時に植えたものを、何年かごとに株分けしては増やしたものだ。洗練された形と気品のある香りは、王宮の薔薇よりも美しく可愛らしいとイェルルージュのお気に入りだった。しかし今朝枕元にあった野生種の薔薇は、イェルルージュも見たことがないものだ。
「どうやって忍び込んだの」
「さてな。人間の作った鍵なんざ、俺らにとっちゃ、あって無いようなもんだろ。あんたの寝顔、可愛かったぜ」
人狼の挑発するような物言いに、イェルルージュはあからさまに顔をしかめた。しかし声の調子は崩さず、ただ、鞘を握る手にわずかに力を込める。
「なんの目的で私のところにきたの」
「言っただろ。ヘルツァスとマリアデールは死んじまった」
「……復讐の相手がいなくなったから、私のところに来た、ということ……?」
「だったらどうする」
急に、ふ……と人狼の声が真面目なものになり、重心を低くした。反射的にイェルルージュも隙の無い小剣の構えを取り、その様子に人狼がニヤリと笑う。
「遊ぶ相手がいなくなったんだ。ちょっとは遊んでくれてもいいだろ」
キ……と音がして、人狼の手首から刃物が伸びた。カタールのような武器を仕込んでいて、その刃の音と同時に人狼が跳躍する。イェルルージュは人狼が突き出した右腕の刃を避けずに斜めに飛び込み、下方からすくい上げて受け流した。さらにそのまま刃同士を絡めてくるりと回し、二度、三度、刃を打ち合って一歩下がる。
打ち合った回数からは想像できないほど一瞬で離れて睨み合い、間合いを計る。
「へえ」
人狼が楽しげに笑う。イェルルージュの動きは予想外だったようで、瞳の色がぎらりと変わった。琥珀色の瞳は、虹彩が濃い金色に変わり、笑んだ唇から尖った犬歯が覗く。
「正直、最初の一撃でやれると思ったんだが、女にしちゃ上出来だ」
冗談めかした口調を、イェルルージュはもちろん信用しない。実力は俄然人狼の方が上だろう。自分の武器は小剣ひとつで、そばにシルフリードはいない。本音を言うと最初の会話で引き下がって欲しかったが、人狼の目的が金目のものでなく、イェルルージュと「遊ぶ」ことであるなら、刃を合わせずに帰ることはまずあるまい。
戦わない時間を出来るだけ引き延ばしたかったが、人狼もその危険を分かっているはずだ。
再び跳躍。
しかし今度はイェルルージュは踏み込まず、一歩逃げて人狼の刃を受け止めた。受け止めた瞬間に下方向へと刃を滑らせると、擦過音が響き火花が散る。
人狼の力は予想以上で、押さえつけられるように剣の切っ先が床に当たった。
剣が引っかかったと気づいた瞬間イェルルージュは剣から手を離した。受け止める刃が軽くなったと同時に人狼がイェルルージュの身体に飛び込む。
二人の動きが止まる。
「……っう」
喉元を狙ったはずの人狼の牙は、目測を外した。イェルルージュが羽織っていたショールを引き、人狼の視界を隠したのだ。人狼の牙は喉ではなくイェルルージュのちょうど肩の部分に食い込んだ。グルル……と喉を鳴らしながら、人狼は食らいついたままイェルルージュを見上げる。
人狼の琥珀色の瞳が爛々と煌めいている。瞳だけで、ニイと笑ったのが見え、見えたのを理解したと同時に、何かの声が聞こえて人狼の身体が飛んだ。ぶつりと牙が肩から抜ける感触がひどく生々しく、傷口の熱を痛みと理解する前に床へと倒れる。
しかしイェルルージュの身体を受け止めたのは、冷たい鍛錬場の床ではなかった。
「私が居らぬ間になんということを……!! イェルルージュ……お嬢様」
イェルルージュの身体を受け止めたのはシルフリードの腕だった。声に意識を引き戻され、人狼に視線を移す。かろうじて視界に入った人狼は、脇と肩に太いサイズのスルーナイフが刺さっていた。シルフリードのものであれば、即効性の毒が仕込んであるはずだ。
「くっ、そ、邪魔しやがって」
人狼はすぐさまナイフを抜くと、シルフリードを睨みつけた。始めは傷を負わされた相手に対する憎しみの視線だったが、みるみるうちに、驚愕の表情に変わり……最後に、口元が何故か笑んだ。
「はは。こりゃあ、うさんくせえやつが出てきたじゃねえか」
「貴様……人狼か」
「なあ、お前、どうやって嬢に取り入ったんだよ」
「黙れ犬。毒が回る前に去れ」
「へえ、心配でもしてくれるのか? お仲間だから」
人狼から「仲間」……と言われたシルフリードが、視線だけで殺しそうなほどの鋭い瞳を向けて、口元を冷笑で象った。
「心配? 私が心配しているのは、汚い犬の死体を片付ける手間だ」
しかし、通常の人間であれば震え上がるその視線を、人狼はやすやすと受け止めて、シルフリードの皮肉を笑った。ただ、人狼自身も己の身体に急速に毒が回っているのが分かっているのだろう。今は己の能力で毒の効果を抑制しているが、少しでも気を緩めれば、毒が一気に回って身体は死に至る。目の前の「仲間」とやりあうことはさすがにできない。
無論シルフリードもそれを分かっている。しかしシルフリードとて腕の中に瀕死のイェルルージュを抱えて人狼の相手などできるはずがない。互いに睨み合ったのは一瞬で、二人はそれを理解した。人狼はククっと笑って、窓際まで後退する。
「俺はラウバルトだ。イェルルージュって名前なんだな、その嬢。イェールが目を覚ましたらよろしく言っておいてくれよ……あんた」
「シルフリードだ」
「シルフリード、お上品な低血圧野郎。せいぜいイェールを可愛がるんだな」
「気安い風に呼ぶな……駄犬が!」
声を荒くしたシルフリードに一声笑って、人狼……ラウバルトは最後の力を振り絞って窓から身を翻した。気配が消えるまでその姿を睨みつけていたシルフリードは、イェルルージュに視線を落とす。
首筋に指をあて、唇に顔を寄せる。脈とわずかな呼吸を感じ取って、シルフリードは長い安堵のため息を吐いた。
まさか己の動きにくい時間帯に、敵がイェルルージュを狙うなど。
嫌な予感が、普段はシルフリードを動かさぬ時間帯にシルフリードの目を覚まさせた。妙な気配がはびこる屋敷だったが、怪しげな人の気配はない。まさかと思いイェルルージュの部屋に行ったが、そこに主人の姿と剣はなく、活けた覚えのないワイルドローズだけが置かれていた。
散漫する己の力を落ち着けてイェルルージュへと集中させると、鍛錬場へと足が向かう。扉に手をかけた瞬間、むせかえるように香る甘い血の香りに喉を鳴らした。
主人の身を案じる気持ちと同時に、この世で最も甘美な美酒の香りに酔う。しかし酩酊を振り払って、シルフリードはラウバルトを後退させた。どういう因果かは知らないが、イェルルージュを食らおうとした駄犬……。しかし、駄犬といえど、人狼の牙が人間の急所を確実に捉えれば、食われた人間はただでは死ねない。餌として心臓を動かした状態で生かされる。もしもイェルルージュがそうなっていたとしたら……考えただけで心臓が冷えた。イェルルージュが狩人でなくただの貴族の娘であれば、イェルルージュごと連れ去られていたはずだ。
しかし、かろうじてそうなることは避けられ、イェルルージュはシルフリードの腕の中にいる。
「イェルルージュお嬢様」
そっと呼んでみたが、イェルルージュから返事はない。気を失っているようだ。シルフリードは傷口を強く押さえていた手をそろそろと外し、血が噴き出す前にそこに唇をつける。
甘い血がシルフリードの喉に流れ込んだ。
「……く……う……」
色めかしい声が我知らず、血を舐めるシルフリードの喉からこぼれ落ちる。傷口を塞ぐよう、血の向こうを舌で掻き分けて肌に触れる。その間もすでにあふれていた血はとめどなくシルフリードの舌に乗る。甘美な血の美酒は、薄い柔肌の向こうにも生きて流れている。今は赤く染まった白い肌にぷつりと穴を開ければ、それは再びシルフリードを潤すはずだ。
その姿は、吸血鬼だった。
シルフリードは人の血を啜って生きる、吸血鬼という魔性である。人狼が人の肌と肉を求めるように、吸血鬼は人の血を求める。人狼のように極端な闘争本能や肉体的能力を持っているわけではないが、高い知識と技術、そして治癒力を持っていた。
その吸血鬼は、今、目の前に溢れる血を欲していた。しかし、シルフリードは本能とも呼べる欲望を退け、人狼が開けた傷口をふさいだ。痕は残るだろう。いくら自分の力を持ってしても、これほどのひどい傷は塞ぐだけが精一杯だ。人狼の噛み跡には、人狼が宿っている。己の力では治せない。
まずは出血を止め、シルフリードは長い時間をかけて丁寧にイェルルージュの肩口に残る舐めた。これほどまでに大量の血を摂取したのは久しぶりで、これほどまでに己の理性を抑える必要があったのも久しぶりだった。
イェルルージュの血だらけの肩を己の唾液で綺麗にすると、シルフリードは口元に付いた血を拭う。胸ボケットに入れていた白いハンカチーフが朱に染まり、シルフリードは不機嫌に顔を歪めた。
「……駄犬が」
血は甘く美味だったが、常のイェルルージュの血とは異なり、わずかに駄犬の味がした。