003.満月の夜

父と母が死んだ場所を、当時13歳だったイェルルージュは確認させてもらうことができなかった。あまりに凄惨だったというが、父と母の死体の状態からすればそれも致し方のないことだったのだろう。父と母の下半身はズタズタで、これもまた、確認できたのは美しく死化粧を施された首から上だけだった。

戦うことを教えられただけだったその頃のイェルルージュには分からなかったが、戦うことを知り、死というものに直面するようになってから今のイェルルージュは、父や母の状態がどのようだったのか想像がつく。己の斬ってきた魔獣は、昔は可愛い獣であったものが、魔性を移されたものも多く居た。人間も同様だ。腐った身体で襲いかかろうとする死体を踏み潰し、人に近い身体を持つ鳥を斬ったこともあった。総じて、皆、皮膚を裂かれて血を流す様子は、魔性もそうでないものも変わらない。

時折、夢で血の海に沈む父と母を見ることがあった。それらは、イェルルージュから、魔性・魔獣といえど、生きる肉体を斬ることの罪深さを忘れさせないと同時に、人を襲う魔性・魔獣への憎しみも忘れさせず、己の死への恐怖心もまた、植え付けた。自分もいつか、あのような姿になって血の海に沈むに違いない。

そうなったら、シルフリードはどんな顔をするだろうか。

シルフリードと出会ったのは2年前。イェルルージュが16歳の時だ。2人の主従関係はあまりに危うく、脆いものであることをイェルルージュは理解している。シルフリードは吸血鬼。本来ならば、イェルルージュが狩る標的であり、イェルルージュもまた、シルフリードからみれば獲物の一人に過ぎない。主従の関係があるのは、あれらのいう「契約」という形式を結んだからで、その契約が破棄されるようなことがあれば、シルフリードはあっという間にイェルルージュに牙を剥くだろう。イェルルージュは常に、シルフリードの前では完璧な女王でなければならなかった。

だが、それももう終わるのだろうか。今、イェルルージュはひどく心細かった。人狼に肩口を噛まれたとき、その身体を救ったのはシルフリードの腕だった。そう……自分は初めてシルフリードの腕に頼り、それから……

それから?

「シルフリード……?」

「イェルルージュお嬢様?」

うっすらと瞳を開けると、黒い髪に黒い瞳の、美しい執事が首を傾げてイェルルージュを覗き込んでいた。その姿が、ぼんやりと濡れたように霞む。シルフリードの指先がそっとイェルルージュの眦に触れ、思わず目を閉じた。次に開けた時には視界ははっきりしていて、先ほどイェルルージュに触れた指先に唇で触れているシルフリードが見える。

「……私」

「お嬢様、ご無事でようございました」

「無事……?」

無事、本当に? あれだけ噛まれたのに……そう思って、イェルルージュは身体を起こした。ずきりと重い痛みが肩に走って顔をしかめる。その表情に、すぐさまシルフリードがイェルルージュの肩にガウンをかけ、身体を支えるように手を貸す。

「身体が重いわ」

「ひどいお怪我でしたから。出血も多くございました」

「出血……」

「血はすぐに止めましたが、身体はだいぶお疲れでしょう。しばらくはお控えくださいませ」

「そう、ご苦労でした」

シルフリードが止血した、ということは、イェルルージュの血を味わったに違いない。吸血鬼は人間を吸血することもできるが、その傷を癒すこともできるという。血を採取した代わりに、その能力ちからで傷をふさいだのだろう。イェルルージュは肩にかけられたガウンを退けて己の傷を覗き込もうとし……シルフリードの視線を感じて頬を染めた。

「シルフリード、後ろを向いていて」

「鏡をお持ちしましょうか?」

「いらないわ」

シルフリードは一礼すると、イェルルージュに背中を向けた。それを確認してからガウンを少し脱ぎ、寝間着ネグリジェの肩紐を下ろす。

確かにシルフリードの言う通り、傷口は塞がっていた。引き攣れたような丸い傷痕とそれに続く裂傷痕が、見えるところに2箇所。おそらく向こう側にもう2箇所あるはずだ。随分とひどく噛まれたもので、恐怖よりも悔しさが増した。歯を食いしばり、涙を堪える。

「お嬢様。身体がお冷えになります」

「あ」

傷痕をずっと見ていたら、後ろを向いていたはずのシルフリードがイェルルージュの肩にガウンを掛け直した。肌を見られたかと思い、思わず手を跳ね退ける。

「シルフリード……!! 後ろを向いていてと言ったはずよ」

「失礼いたしました。しかし、今お風邪を召されてはいけません」

言い返すお嬢様にシルフリードは全く動じず、寝台の上掛けをイェルルージュに掛ける仕草をする。片方の手でイェルルージュのガウンを抜き取ると、背中に当てていたクッションを下ろした。押さえつけられたわけではないのに、身体が優しく寝台に横にさせられる。シルフリードの手はイェルルージュの頭をちょうど良い位置に置き、暖かな羽毛の上掛けと触り心地の極上な毛布を引き上げた。

「今、温かいお食事と飲み物を持ってきますので、身体を冷やさないようにお待ちくださいませ」

「溜まっている書類や、書簡は? ついでに持ってきてちょうだい」

「なりません。本日は1日、静養を」

「でも」

「なりません」

有無を言わせぬ口調でシルフリードはイェルルージュの言を断った。他の使用人であれば、強く言えばどんなイェルルージュの我儘でも聞くのだが、シルフリードが相手ではそうはいかない。それ以上は何も言わず、おとなしく目を閉じた。

目を閉じたまま、部屋を出て行くシルフリードを呼び止める。

「シルフリード」

「はい」

「あなたのおかげで助かったわ。ありがとう」

「いえ。……もう決して無理はなさいませぬよう」

それには返事をしなかった。しばらくして、返事を諦めたのか最初から期待などしていなかったのか、わずかに間を置いてシルフリードが出て行く音を聞く。

サイドテーブルに置いてある薔薇からは、慣れ親しんだ香りがした。

****

結局、それからイェルルージュは1週間ほどを寝台の上で過ごすことになった。3日目にはもう動けるようになったのだが、書斎への出入りは禁じられた。ベッドテーブルを置いてその上での作業なら許されたが、当然、休んでいた間の分を取り戻そうと無理をするとシルフリードにすぐに止められ、イェルルージュとしては不満ばかりの毎日だ。

だが、あれほどの傷を負ったのだから、まだ身体が重いとはいえ1週間で動くことができるようになったのは、シルフリードのおかげだろう。普通ならば何針も縫い、まだ傷はふさがっていなかったはずだ。

あれから人狼の動きは全く無い。シルフリードからの報告によれば、しばらくは動けないだろうということだった。おそらくそれは信用できる情報だ。シルフリードは必ず己の武器に手製の毒を塗る。耐性の無い人間ならば確実に死に至り、解毒は毒を作った本人シルフリードにしか出来ない。人狼の治癒能力をもってしても、回復はそう簡単ではないだろう。

そしてようやく動けるようになったある日のことだ。イェルルージュは得体のしれない気だるさに悩まされた。それは日暮れともに感じ始めた。熱くて何か柔らかいものを抱えているような気持ちになり、そして何かそわそわと急き立てられるような、何かを欲するような感情に襲われたのだ。

ソファで休んでいると自分の身体がムズムズとこそばゆいような、もどかしいような気持ちになり、湯を使うと己の指先が知らず身体を這おうとする。夕食を終えて私室に戻ろうとする際シルフリードが触れた手に、恐ろしく鼓動が早まって、まるで粘ついた水の中に垂らした糸のように、心がゆらゆらどろどろと乱れた。

その日は満月だった。

何もしていないのに、寝間着ネグリジェが肌を這う質感ですら、イェルルージュを乱れた気持ちにさせる。これがなんなのかイェルルージュには分からず、しかしひどく恥ずかしく罪深いことのように思えた。しかしそうした気持ちに相反して、イェルルージュの手は自分の身体に下りていく。

柔らかな胸に布越しに触れる。

「……ん」

そんな場所触れたこともないのに、イェルルージュの指先はどこに触れればよいのか知っているかのように動き始める。柔らかな胸に指を沈め、その切っ先を親指で弾く。

「あ」

途端に、イェルルージュを一瞬満足させる感触が走り、一瞬で飢えさせた。いけないことだと分かっている。けれどもう少しなら……と、恐る恐るもう一度、今度は何度か往復をさせるように指先でひっかく。

「ひ、あ……」

そこはすぐに硬くなり、布漉しでも分かるように起ち上がった。胸に触れているのに疼くのは下腹で、イェルルージュは片方の胸に触れながら、疼くその場所へと開いている手を伸ばす。

先ほどからうずうずとしている場所にそっと指で触れた。

「……っあ」

下着の上からだったが、途端にビリビリと痺れるような感触が走り、その初めての感触に恐ろしくなってイェルルージュは指を離した。我に返り、服を整え、上掛けの中に深く潜り込む。自分は今なんという淫らなことをしてしまったのだろう。あのような場所に自らの指で触れるなど。

湯は使ったばかりだったが、自分がひどく汚れたような気持ちになってイェルルージュは寝台を出た。裸足の足先に部屋履きを探って履き、まるで己の身体を隠すようにナイトガウンに包まった。

冷たい水が飲みたくて、だが使用人を呼ぶのも憚られ、イェルルージュは廊下に出た。その間もずっと身体が熱に浮かされたように、ぐらぐらと熱く身体中に触れたくて堪らない。

「お嬢様。イェルルージュお嬢様……?」

「……っ!?」

シルフリードの声だ。その声を聞いた途端、どうしてか羞恥を覚えてイェルルージュは廊下にしゃがみ込んだ。しかし当然のようにシルフリードの身体に抱き寄せられ、受け止められる。

「っあ……さ、わらないで、シルフリード」

「お嬢様……?」

「はなしてぇ……」

イェルルージュの様子に、シルフリードが眉根を寄せた。腕の中で弱々しくもがくイェルルージュを抱え直し、首筋に唇を寄せる。熱い吐息がそこにかかり、イェルルージュはたったそれだけの刺激でびくりと身体を震わせた。

「なるほど……これは」

「シルフリード……?」

「……あの駄犬め……」

「な、に……」

チッ……とシルフリードが舌打ちし、イェルルージュの身体を抱き上げた。何をするのとイェルルージュが暴れようとするがうまくいかず、寝室に戻されるのはすぐだった。

イェルルージュの身体は寝台にそっと横たえられ、シルフリードは一度扉に戻るとカチャリと鍵を掛けた。窓のカーテンを引き月明かりを遮ると、起き上がったイェルルージュの傍に腰掛け背中を支える風にして抱き寄せる。

「シルフリード……なに、してるのやめて」

「やめて、欲しいのですか?」

「え……?」

「イェルルージュお嬢様」

囁くようなシルフリードの声がイェルルージュの耳朶に触れ、再び身体がびくりと跳ねた。シルフリードは片方の手袋の裾を口で咥えて脱ぎ、ゆっくりとイェルルージュの胸のふくらみに添え、持ち上げるように撫でさすった。

シルフリードの手の動きに合わせ、イェルルージュの声が弱々しく囀る。

「あ……あ……」

「今までご自分の手で触れていたのですか?」

「や、ちが……」

「違いません。こんなに固くなっている」

「……んっ……あ」

布越しに触れる指先が、イェルルージュの切っ先に引っかかるのが分かる。それは先ほど己の指で触れた時とは比べものにならないほど、的確な刺激をもたらした。シルフリードは無言で、カリカリとそこを何度も引っ掻いた。その度に背中を伝う愉悦は止め処なく、出したくも無い声が上がってしまう。イェルルージュは思わずシルフリードのシャツにしがみついた。シルフリードはその手を握って、深緋色の横髪に唇を埋めて耳たぶにそっと口付ける。

小鳥のような声を上げるイェルルージュに小さく、そして冷たく笑う。

「おつらいのですか、お嬢様」

「ん……シルフ、シルフリード……」

「私が、鎮めてさしあげましょうか?」

鎮める……? 何を、どうやって? この身体を這う乱れた感触を、シルフリードがどうにかするというのだろうか。普段のイェルルージュならば、それがどういう意味を持っているのか冷静に判断できたはずだ。しかし、今、イェルルージュの思考はまるで溶かされたように、それに従うしかなかった。イェルルージュはシルフリードにしがみついたまま、執事のドレスシャツに顔を埋めた。

それは、是の意味なのか否の意味なのか。

シルフリードは何も言わず、イェルルージュの身体を寝台に沈め、横になっても豊かさを損なわない張りのある胸の膨らみに唇をつけた。軽く咥えると、それだけでイェルルージュの身体にじくじくと何かが広がる。下腹が熱くなり、何かにすがりつきたくなった。

そのままシルフリードの舌がねっとりと這う。

咥えられ、指で触れられるよりも、もっと粘ついた感触はこれまでに感じたことのないもので、イェルルージュはそれを引き剥がすことができなかった。布越しに触れられるのがもどかしく、この手が肌に直接触れたらもっと……。

「やっ……あっ……」

「いやではないのでしょう? 何も言わずともかまいませんから、感じるままにおいでなさい」

シルフリードは少し身体を離すと、もう片方の手袋ももどかしげに脱いだ。イェルルージュの寝間着の肩紐を下ろし、胸をあらわにする。白く柔らかな胸が男を誘うように晒されて、シルフリードの手が下から掬い上げるように捏ね回すと、吸い付くように形を変える。

片方の胸の頂は親指で擦り、もう片方は唇に含む。粘液に絡まる熱にイェルルージュの背中がびくびくと跳ねたが、シルフリードに身体ごと押さえつけられた。

「ど……して、わたし、こんな」

「人狼の牙に噛まれ、傷口から唾液を移されたのでしょう」

「……っ、あ」

「夜が更けてお嬢様の様子がおかしかったのに……もっと早く気づくべきでした」

シルフリードが何を言っているのか理解できない。人狼? 月……。でも、今はそんなことは関係なく、ただこの熱を慰める身体がほしい。胸に触れるシルフリードの指と絡まる唾液はイェルルージュの欲しいものを与えてくれたが、それにも増して満たすものを欲した。

助けてほしくて、でも求めたくなくて、イェルルージュは請うように腕を伸ばした。胸を切っ先に舌を沈み込ませていたシルフリードが顔を上げると、その黒い髪をイェルルージュの細い指が掴もうとする。

「シルフリードぉ……」

違う。こんなのは自分ではない。そう思うが、甘い声が止められない。そうしたイェルルージュの様子に、これまで冷静な表情でイェルルージュの胸に口付けていたシルフリードが、表情を歪めた。

「……くそっ」

「ああ……っ!!」

シルフリードの手がやや強引に、イェルルージュの裾を捲り上げる。太ももにつう……と指を這わし、下着の上から足と足の間に触れる。

その途端、イェルルージュが「ひ」と声を上げたが、シルフリードはそれには何も答えず淡々と下着を下ろした。

「足を開きなさい、お嬢様」

「い、や」

「嫌? もうこんなに濡らしているのに?」

「……はっ……ん」

先ほどからずっと、胸に触れられていたはずなのに熱と疼きが溜まっていたその場所。イェルルージュが指先で触れようとしたそこを、シルフリードの指がどろりとなぞった。指は何も引っかからず、ぬるぬるとぬかるんでいることがイェルルージュにも分かる。そして、シルフリードの指は、胸に触れていた時に感じていた感覚と同種であるのに、明らかに違う何かをもたらした。

「今から少し楽にしてさしあげます。感じる感覚をそらさぬようになさい」

「や、いやあ……」

秘部を往復していた指が、ゆっくりとぬかるみに沈み始めた。なんの引っ掛かりもなく指は付け根まで飲み込まれ、そのままずるずると引き抜く。そのたびに膣内なかが擦られて、熱くむず痒い……トロトロとした何かが下腹を這い上がってくる。

「気持ちがよいのでしょう?」

「きもち、……い……って」

気持ちがいい? これが……? だが、これにおとなしく身を委ねてしまってはいけない気がする。だが、もう……これを受け入れなければ胸が苦しくて、気がおかしくなってしまいそうだった。

イェルルージュを苦しめるわずかに残った理性。それを取り払うように、シルフリードの指の動きが大きく、早くなる。そうして、指が挿入されている部分より少し上の部分にある膨らみを、円を描くように触れた。

一気に身体の熱……熱としかいいようのないものが高まり、思わずその感触をなぞってしまう。

「あっ……なにっ、それ……や……いやあ」

「お嬢様」

「や、おかしくな……て、シルフリ、ド、……」

「イェルルージュ」

一度尻尾を掴み、追いかけてしまった快楽は、容易にイェルルージュの身体を襲う。だが、引き金になったのはシルフリードの声だった。

「イェルルージュ」……と、シルフリードが耳元に口付けて、唇の動きで耳たぶを揺らした。耳朶を呼気で温めながら囁く主人の名。それはまるで秘密の言葉をひそやかに口にしたかのように、甘く掠れた声だった。ぞくぞくと背中が逸れ、シルフリードの触れている膣奥から一気に愉悦が駆け上がる。

かろうじて、声はあげなかった。しかし上がらぬ嬌声の代わりに、荒い呼吸とびくびくと跳ねる腰がシルフリードにイェルルージュが達したことを知らせる。シルフリードは何度も跳ねる白魚のような身体を丁重に抱きしめて抑え、ゆっくりと指を引き抜いた。

はあ……と息を吐くイェルルージュを寝台の上に横たえて、シルフリードがその美しい肢体を見下ろした。

「もう終わりですか。まだ、治らないでしょう……?」

「……あ……」

シルフリードは再びイェルルージュの身体に手を伸ばす。

まだ満月の夜は終わらない。

シルフリードは、イェルルージュの下半身に顔を下ろし、今度は指と……そして舌とで、哀れな主人の身体を慰め始めた。