004.人狼の呪い

身体が鉛のように重い。常より剣を持ち、訓練と実戦を繰り返してきたイェルルージュは普通の女よりも身体は鍛えているはずなのに、なかなか起き上がることができなかった。

それでもいつまでも寝ているわけにはいかず、イェルルージュはのそのそと起き上がって窓の外を確認する。太陽はいつも起床している時間よりもずいぶん高くなっていた。寝過ごしてしまったのは明らかだ。枕元にはいつもの薔薇が飾ってあり、その下にメッセージカードが添えられていた。

『起床される時間に合わせて浴室を用意しておきます』

その筆跡はシルフリードのものだ。イェルルージュは昨晩、シルフリードに何をされたのか、何をしてしまったのかを思い出し、カア……と身体が熱くなって強張った。

寝過ごした理由と侍女に起こされなかった理由も、どちらにももちろん心当たりがあって消えてしまいたい。昨晩、夜通しシルフリードに身体に触れられていたのだ。何故かひどく乱れた気持ちになって、触れて欲しくてたまらなかった。しかも、イェルルージュは詳細を覚えていない。何をされたのか分かっているのに、細かなところやシルフリードがどんなことを言ったのかなどは、頭が朦朧としていて思い出せないのだ。

寝台を下り、部屋に設えてある浴室でシャワーを使いながら、自分の身体に触れてみる。昨夜までのソワソワと落ち着かない気分はまったく感じず、あれは一体なんだったのだろうかと頭を悩ませる。ため息を吐き、湯を止めた。昨夜のことはともかく、何故あんな風になったのかは突き止めなければならず、気が重い。

朝からシルフリードに会わなければならないことに憂鬱になりながら、イェルルージュは身体を拭き、用意されている服に着替えた。白いブラウスに赤いタイを掛け、コルセットスカートを重ねる。

そして、ちょうど着替えが終わった頃合いに扉がノックされた。侍女が主人の着替えを手伝いに来たのかと思い、髪の手入れをさせようと返事をした。

「おはようございます、イェルルージュお嬢様」

「シ、ルフリード?」

「入ってもよろしいでしょうか」

しかし、予想と反して聞こえてきたのはシルフリードの声だった。

服は着ている。だが、髪と化粧はまだだ。普段のイェルルージュならばそのいずれも侍女に手伝わせながら、あるいはシルフリード自身に手伝わせながら仕事の話をさせるのだが、今日はそんな気分になれない。だが寝坊した手前、入らないでと命じることもできなかった。

逡巡していると、再びノックの音が聞こえた。

「何も着ていらっしゃらないのですか?」

「も、もう着ているわ!!」

思わず答えると、「では失礼します」と澄ました声と共にシルフリードが入ってきた。女性の、しかも主人の部屋に許可なく入る。本来ならば考えられぬことだが、それが主人にとって必要なことであればこの執事にとっては関係がない。しかし、あんなことがあった夜の明けた朝、この男と顔をあわせるのは憂鬱だった。

シルフリードは常のように変わらぬ冷静な表情で鏡台の前に座っているイェルルージュの背中に立った。

「髪をお梳きいたしましょうか?」

「か、かまわないわ、エマにたの……」

「では、エマを呼びましょうか」

「だめ!!」

「どちらですか」

侍女の名前を出してみたものの、これから行われるであろうシルフリードの報告の場に一緒にいるのかと思うと気分がよくない。この男と二人きりになりたくはないが、二人でいるところも見られたくなかった。

結局イェルルージュはシルフリードに櫛を渡し、忠義な執事は丁寧にイェルルージュの深緋色の髪を梳き始めた。

美しい髪はだいぶ乾いていて、するすると柔らかく櫛を通っていく。シルフリードは決してどこにも髪を引っ掛けることなく梳りながら、今日の予定について話し始めた。

遅くに起きてしまったが、幸いなことに今日はなんの予定も入っておらず、確認も手短に、シルフリードが切り出した。

「昨晩のことですが」

びく……と肩を震わせてしまったが、イェルルージュは努めて平静な風を装って続きを促す。

「二週間ほど前、お嬢様は人狼と戦闘になった際、噛み付きにより大怪我をなさいましたね」

「……ええ」

いまだ生々しく覚えている戦いだ。あの時できた傷はイェルルージュの身体にも少なからず影響を与えた。まだ内側は治りきっていないのだろう、剣筋はまだ鈍く、元の動きに戻すには少しかかりそうだった。

「その時、人狼の唾液……が、お嬢様の体内に入ったようです」

「唾液……?」

手を止めたシルフリードは、一瞬恐ろしく不機嫌そうな表情になったがすぐに平静に戻り続ける。

「人狼の魔性を移されたのでしょう」

「人狼の、魔性……」

動物に噛まれたら病気を移される危険があるように、魔性との戦いによって血を浴びたり噛まれたりしたときに、その血が持つ魔を移されることがある。人狼の魔性もその一種だ。そして、魔の力は月の満ち欠けに影響されやすい。魔獣や魔性がその本来の力を発揮し活動するのは夜だというが、それは月が空の主役であるからだ。

そして、人狼の魔性は満月の夜に人を狂わせる。理性を取り払い、情欲をあらわにする。

「狂う……?」

「そう言われております」

「私はおかしくなったということ!? ……痛っ!」

思わず振り向き、梳いていた髪が櫛に絡まった。髪を引っ張った痛みに思わず顔をしかめると、シルフリードが少し手を緩めた。

「おかしくなった、との自覚がおありではないのですか?」

「それは」

あるに決まっている。しかし、今それを口にしてしまうと、昨日の夜のことを言及されそうで口を閉じた。詳細なんて聞きたくもなかったし、シルフリードが何を考えてあんなことをしたのかも聞くのが恐ろしい。治るのかどうか、それすらも聞くことができなかった。次の満月にもああなってしまうのか、もしなってしまったら……。

イェルルージュはまだ処女おとめであり、誰かに身体を開いたことはないし、その感覚も知らない。しかし、一応の作法を知らないわけではなかった。シルフリードは最後まで、本当の意味でイェルルージュの身体を奪いはしなかった。つまりは、まさに義務的にイェルルージュの身体を沈静化メンテナンスしただけに過ぎないのだ。

彼はあくまでも執事としてそれを実行したに過ぎず、イェルルージュの処女が守られたのは喜ばしいことであり、褒めるべきことなのかもしれない。だが、よかったと心から言えない自分もいた。そうした自分の感情を、どう表現していいのか分からずに沈黙する。

「あの人狼の男についてですが」

そして、シルフリードはいつもと全く変わらぬ口調でイェルルージュに対応していた。この男が顔色を変えるところなど見たことがないが、それはあのような夜があったとて同じことのようだ。自分ばかりがおろおろとしているようでひどくみじめだった。

シルフリードは自分の執事であり、そしてひとつ間違えれば狩人であるイェルルージュの敵にもなり得る吸血鬼である。

そのシルフリードを執事にしたのは自分だ。シルフリードはイェルルージュの剣であり盾であり鎧、それを前に自分ばかりが動揺していては主人など務まらない。

イェルルージュは昨晩のことを無理やり頭から追い出し首を振った。

「お話しなさい」

先ほどまでの口調とは全く異なる凛とした声で、イェルルージュがシルフリードに命じた。シルフリードは手を止めて、イェルルージュに一礼する。イェルルージュの意識から男としてのシルフリードは消え失せ、目の前にいるのは人ならざる忠実な執事だ。

だが、イェルルージュはシルフリードがいつもより何倍もの時間をかけて、彼女の髪を梳いていたことに、最後まで気がつかなかった。

****

グラウフカは王族と、それに仕える貴族が治める国だ。貴族は国王より特権を認められた一族のことで、当主は政を決める議会に出席する権利が与えられる。イェルルージュ・シェーラーは五位の子爵の身分を世襲により継いでおり、事業の自由な運営を条件に、議会への出席権を返上していた。貴族として民を守るという義務は事業の経営によって間接的に行い、政に関わらない、野心が無い、という意思表示だ。

しかし貴族達が皆、イェルルージュのように政治に興味がない訳ではない。むしろ野心の無い方が稀だ。大貴族にもなればなるほど、誠実で清廉な人物とは程遠くなる。貴族達の中には魔獣や魔性を利用し、大きくは戦場の勝敗を操り、影では暗殺という手で貴族や王族の生き死にを操り力を得た者も多くいた。もちろん、それらの情報が表向き知られているわけではないが。

シルフリードからの報告によると、先だって終結を見た国境での競り合いから帰って来た傭兵たちの多くが、首都の有力な貴族に再就職を世話されたのだという。貴族が絡んでいるということは、確実に首都にその人材が流れてきているということだ。

「その中に、驚異的な働きを見せた灰色髪の傭兵がいた、とのことです」

単なる灰色の髪の傭兵であれば目立たなかったかもしれないが、その男は違った。国から遠く離れて物資もそれほど豊かではない環境で、一人で相手の部隊を一つ全滅させるほどの働きを見せたのだという。それでいて上官が労を労おうと招集しても応じない。作戦にはほとんど従わず、ほぼ独断で行動していたそうだ。

「勝敗に影響を与えなかったの?」

イェルルージュの質問に、シルフリードは首を振る。

「こちらが勝利しているのですから、そういう意味では影響を与えている、といえるでしょうね」

それほど卓越した男が一人で放置されれば、当然敵側の狙いは集中し、すぐに瓦解するかと思われたがそうはならなかった。男の参加した戦いは、彼が単独で戦おうが、周囲が支援しようが必ず勝利したからだ。

その男が、イェルルージュを襲った人狼ではないか……とシルフリードは考えている。

「でも、あの男がそう簡単に貴族などに従うかしら」

「おや、随分と買い被っておられるようで」

「違う、そうではないわ」

シルフリードの声が冷たく硬くなった。しかし考え事をしているイェルルージュはそれに気づかず、あっさりと首を振る。

「貴族になんて頼りそうにない、もっとプライドの高そうな人に見えた……のだけど、シルフリード?」

深い緋色の髪を指先に巻きつけながらイェルルージュは顔を上げた。ようやくシルフリードが不機嫌な様子であることに気がつき、首をかしげる。

「どうかしたの?」

しかしシルフリードはまるで潮が引くように、すっと表情を消して、「特に何も」と首を振った。話はそれで終わり、イェルルージュは身支度を整える。

「……書斎に移動します。食事はそちらに運びなさい」

「かしこまりました」

シルフリードが主人に片方の手を差し出すと、その白い手袋に己の手を重ねてイェルルージュは立ち上がった。

布越しに触れた一瞬、わずかに強く、イェルルージュの指が掴まれた気がした。

****

1日の仕事を終え、シルフリードは自身に与えられた部屋に戻ると深いため息を吐いて寝台に倒れこんだ。

白手袋を着けた己の手を欠け始めた月にかざしてしばらく眺め、やがてその手を額に当てて再び長いため息を吐く。

今は夜。魔性が最も活動を活発にする時間だ。今宵もどこかで魔獣どもが誰かを襲っているだろう。イェルルージュは外に出たがったが、シルフリードはしばらくの間の夜の外出と戦闘を禁止していた。イェルルージュが考えているほど傷は浅くない。まだ剣を思い切り振るには身体に負担がかかるはずだ。かといって、シルフリードが街に出没する魔獣を狩るために一人で出かけるはずもなかった。シルフリードが自身の力を使うのは、イェルルージュのためだけで、不特定多数の人間が殺されるからといってそれを助ける正義感などは一欠片も持ち合わせていない。

イェルルージュは、本心はどうあれ、満月の夜と人狼の関係を話した時にわずかに動揺しただけで、最後までシルフリードに何も聞かなかった。しかし何をされたか知らないはずはない。

詳細は覚えているのだろうか。あの時のイェルルージュは随分と乱れていて、我を失っていた。どちらかというと夢現つの状態で、シルフリードのことを気に留めていなかった。

たとえばあの夜、シルフリードがイェルルージュの身体に触れながら何を言ったのか。イェルルージュは覚えているのだろうか。我を失っているのならば、覚えてはいないかもしれない。

イェルルージュはあの夜、確かに快楽に乱れ、シルフリードの指を受け入れた。しかし、それは人狼に移された魔性の為だ。満月の呪いがそうさせたのであって、イェルルージュの意思ではない。

シルフリードは昼間、イェルルージュの指先に触れた己の手をぎゅっと握りしめた。目を閉じれば、乱れたイェルルージュが自分に触れようとしてきた指先と、昼間の姿からは予想できない嬌声を、はっきりと思い出すことができる。

しかしあれはシルフリードが触れたからではない。シルフリードを呼んだあの声も、快楽に濡れた身体も、全て満月の呪いのせいなのだ。

その事ばかりが、何故かシルフリードの胸をザリザリと蝕んだ。