005.二度目の邂逅

魔性は月の満ち欠けに影響されるというが、それならば満月の夜に狂う自分はもう人間でなくなってしまったのだろうか。今では月を見るのも恐ろしく、イェルルージュは夜の外出を止めた。

シルフリードからは怪我が治りきっていないから外に出てはいけないと言われており、イェルルージュはおとなしくそれに従っていることになっている。しかし、本来ならばそのような言に従うようなイェルルージュではなかった。これまでにも無理をせずにおとなしくしておくように言われたことはあったが、魔獣出没の報を聞けば見回りには必ず出ていたのだ。

しかし今は違う。月の下を歩くのは恐ろしい。乱れた自分は自分ではないようで、シルフリードに何を言うか分からない。またあのような夜を……ただ快楽だけがあったことしか記憶に残らない恐ろしい夜を、シルフリードにしがみついてまた求めてしまうかも分からない。

恐ろしい。嫌。欲しくない。

そう思っているのに、あの時感じたものをもう一度味わいたいと思ってしまう自分も、心のどこかに居た。それが人狼の魔性なのだろうか。

そして、それをシルフリードに知られるのも嫌だったが、あれをシルフリード以外の男にされることを想像すれば、比喩ではなく死ぬほど嫌だった。

夜はシルフリードを早々に下がらせ、寝室に鍵を掛けて仕事をした。寝台に一人でいれば、自分の身体に自分で触れてしまいそうで、仕事をしていれば忘れるかもしれないと思ったからだ。

時間は案外淡々と過ぎてくれた。満月の夜の直前までは気持ちが乱れることもない。このまま静かに時が過ぎてくれればいいと願う。

そうして月が再び、真円になった。

「……くるし……」

太陽が沈むにつれて、再びあの心がざわつく感覚が戻って来る。しかしやり過ごせないほどではなかった。それなのに、太陽が完全に沈み、空を満月が支配した途端、イェルルージュは自分の奥から自分ではない誰かが這い上がってくるのを感じた。

これが何なのかを分からずにいた前の夜と違い、イェルルージュはこの衝動の意味を知っている。しかし知っているということは、この感覚をたやすく追いかけることができるということだ。

恐ろしかった。自分は今、身体が何を求めているのか知っている。

どうしたらいいの。どこにいけばいいの。何をすれば、この衝動を抑えることができるのだろう。

イェルルージュはその日着ていたドレスを着替えぬまま、ふらふらと自分の寝室から廊下へと出て行った。

****

人狼の衝動とは一体なんなのだろう。イェルルージュは情欲を抱えたまま眠ることも、仕事をすることも出来ず、あの日人狼と初めて会った場所……鍛錬場へと足を向けた。

鍛錬場は心と身体を鍛錬する場。父と母ともっとも過ごした場所だ。あの場所ならば、イェルルージュを救ってくれるかもしれない。鍵を掛けて、あの冷たい場所に一人転がっていれば、一晩くらいはやり過ごせるかもしれない。

そう思っていたのに。

「よう。イェール」

「あなた、は」

鍛錬場の扉を開き、ようやく安心した場所にたどり着いたと思った途端、すぐ隣から声がした。咄嗟に構えて後退しようとしたが、相手の方が一歩早い。踏み込まれ、腕を掴まれる。

「いい満月の夜だなあ? こんなところにいていいのかよ」

腕を掴み壁にそのまま押し付けられる。鍛錬場に一歩入って、すぐのことだった。いくら自分がおかしくなっているといっても、これほどまでに身体が鈍っているとは思わなかった。

目の前でイェルルージュの腕を掴んでいるのは、灰色の髪に獣耳の男……人狼だ。

「どういう意味」

「俺の置き土産、もう一回楽しんだんだろ? 誰に鎮めてもらった。自分でやったか。それともあの低血圧野郎にやってもらったか?」

「黙りなさい!」

パチン……と頬を張る音がして、人狼が横を向いた。その頬がわずかに腫れている。叩いたのはイェルルージュだ。避けるか押さつけたままでいられたはずなのに、男は敢えて腕を緩めてイェルルージュの手を受けたのだろう。ニヤ……と笑って、イェルルージュを琥珀の瞳で睨み返す。

「まだまだ威勢がいいな、苦しいはずなのに大したもんだ」

再び腕を掴まれた。強い力に手首が痛んだが、イェルルージュはそれ以上に何か別種の、危険を感じる。

手首が壁に押し付けられ、人狼がイェルルージュの胸に自分の身体を押しつけるように近付いた。豊かで柔らかなイェルルージュの胸は、すぐに人狼の身体に押しつぶされる。

「俺が鎮めてやろうか」

「何を言って……!」

今度は抵抗は出来なかった。イェルルージュがどんなに腕に力を込めても、人狼の身体は離れない。男の唇が近づき、イェルルージュの頬をかすめるほどの位置で止まった。

「なあ、あんた俺を仲間にしろよ」

まるで愛の言葉でも打ち明けるような響きで、人狼の声がひどく色めかしく囁いた。イェルルージュが何かを言い返す前に、人狼は続ける。

「あの低血圧な陰険野郎もお前の仲間なんだろ? じゃあ、俺だっていいよなあ? 役にたつぜ、俺なら……」

人狼の腕がするりと背中に回り、逞しい身体がイェルルージュを抱き締めた。その途端、イェルルージュの心臓が己の意思に反して、どくりと甘く跳ね上がる。耳元に感じるとろりとした熱に、意識が集中してしまう。

「お前の忠実な犬になってやる」

「やめて、シ……」

シルフリード、たすけて。執事の名前を呼ぼうとした瞬間唇が塞がれた。抵抗の暇すら許さず、人狼の舌がイェルルージュの唇を割って入って来る。

「ん……」

ぬるりとした感触に下腹がぞくぞくと響き、思わずくぐもった声がこぼれてしまう。その声を聞いて、人狼が唇を離した。

「はは、可愛い声だすなよ、イェール」

「声なん、て」

「思わず勃っちまうだろう、なあ?」

そうして、人狼はイェルルージュの身体に腕を回したまま、振り返る。

「低血圧執事さんよ」

人狼の腕に力がこもり、イェルルージュの腰がぐっと引き寄せられる。イェルルージュが驚きに顔を上げると、そこには恐ろしく冷たい顔をした執事が立っていた。

「……シルフリー、ド……」

イェルルージュの声がか細く、消えそうに響く。シルフリードに見られていたことに、なぜかこれまで感じた恐怖の中で一番恐ろしいものを感じて、心がぎゅっと締め付けられた。違うの、これは、……これは……? 言い訳をしたかった。しかし一体何のために、どのような言い訳をすればいいのか分からない。

「犬。お嬢様の身体から手を離せ」

「さて、どうしようかな。なにせお嬢様が離してくれなくてねえ」

「誰がっ……っ」

イェルルージュが抵抗しようとした瞬間、人狼は抱きしめている腕に力を込めた。怪我をした方の肩口が強く押さえられ、ずきりと痛む。抵抗すればするほど締め付けられ、見つめるシルフリードの顔が険しく冷たくなっていった。

「なあ低血圧。俺も仲間に入れろよ」

「仲間?」

「ああ。満月の夜にお前、この女で楽しんだんだろ? おこぼれをくれよ。俺は3人で仲良くやっても全然問題ねえぜ」

「下品な口を聞くな駄犬」

一歩、二歩、人狼へと近付く度にシルフリードの声が、低く冷たく、鋭利なものになっていく。そして、その度に、人狼の声が面白がるような響きを帯びた。

「ひでえな、ラウバルトって名前があるって言ったろ?」

「犬に名前など必要ない。お嬢様から手を離せと言っている」

「手ぇ? こうか?」

人狼……ラウバルトの手が、イェルルージュの丸く形の良い胸を掴むように当てがわれた。刹那、イェルルージュの身体が別の腕に強く引き寄せられ、同時に骨が砕かれたような鈍い音が響く。

一瞬の静寂。

直後、後退したラウバルトが顎をさすっていた。

「……ってえな、てめえらしくない動きするじゃねえか」

シルフリードにしては感情的で反射的な動きだった。

無造作にラウバルトに近づくと、イェルルージュの身体を掴んで引き寄せ、その代わりにラウバルトの顎に拳を入れたのだ。まさかシルフリードのような男が拳で攻撃してくるとは思わず、ラウバルトにも読みきれなかった。咄嗟にイェルルージュから手を離して後退したが、間に合わなかった。

続けざまに投げてきた投擲スルーナイフを避けただけマシだ。

「ケチな男だな。減るもんじゃねえだろうに」

「黙れ、犬」

「ラウバルトだっつってんだろうが。……あー、クソが」

ラウバルトはゆっくりと身体を起こして首を振った。少し後退したが、シルフリードは追い掛けない。ラウバルトは殴られた衝撃で少し唇の端を切ったらしい。拭いながら、ニ……と余裕の笑みを見せた。

「まあいい。なるほどな。……満月の夜に、嬢と楽しみたいのか?」

「なんだと……?」

「てめえ、その女とヤってないんだろ」

「黙れ!!」

シルフリードがジャケットの中の短剣をスラリと抜いた。イェルルージュを片手に抱いたまま、床に叩きつけるようにそれをラウバルトの足元に投げつける。

鈍い音を立てて、床に短剣が突き刺さった。

無論、後ろに一歩飛んでそれを避けたラウバルトは、初めて顔から笑みを消した。シルフリードはもう何も言わない。じろりとラウバルトを睨みつけたまま、無言で後退を促す。ラウバルトも笑みを消したまま瞳を細くしてシルフリードを見つめていたが、やがて、ふい……と窓の外に身を翻した。

人狼の男、ラウバルトは退却したらしい。イェルルージュが恐る恐る顔を上げると、冷ややかな黒い瞳がイェルルージュを見下ろしていた。

「……お嬢様。寝室にいらっしゃると思っていましたが」

「シルフリード……」

「満月の夜、気狂いになると分かっていて、あの男にお会いになったのですか?」

「ち、がう」

「口付けされても嫌がらず、抱きしめられても抵抗もせず?」

「私……」

シルフリードは常から表情の動かない男だ。それはイェルルージュも知っている。今もまた、表情は微動だにしていない。それなのに、こんなに恐ろしい顔は見たことがなかった。黒いはずの瞳は刃の煌めきのように銀色に光り、見つめられているだけで心臓が凍ってしまいそうだ。

「シルフリード……」

心臓は凍りそうなのに、身体のどこかがドロリと熱い。シルフリードを見ていると、冷たくて怖いのに、手を伸ばして触れたくなる。

イェルルージュの細い指先が、シルフリードの頬に触れる。

触れた途端シルフリードの眉間に深く皺が刻まれて、唇の端から牙が覗いた。

男の手がイェルルージュの髪に指を通して上を向かせ、その上に覆いかぶさる。貪るようにシルフリードが唇を重ね合わせると、びくりとイェルルージュの身体が反応した。

唾液を流し込むように舌を出し、唇をこじ開けると、イェルルージュの唇もそれを受け入れる。まるで欲情する恋人同士のように、水音を伴った激しい口付けが始まった。舌先が互い違いに絡まり合い、幾度もそれが互いの舌の上を往復する。少し唇を緩めて、側面を触れ合わせた。

イェルルージュの背中が愉悦に震え、腰に力が入らなくなっている様子が抱き寄せる腕に直接伝わる。

シルフリードが少し唇を緩めて冷たく言った。

「同じ反応を、あの犬相手にもしたのですか?」

つ……と銀糸が溢れ、解放されたイェルルージュの唇が震える。

まるで重い罪の許しを乞うように、イェルルージュの瞳から涙が溢れた。

****

先ほどラウバルトがしていたのと同じように、シルフリードはイェルルージュの身体を壁に押し付けた。再び唇を重ね合わせ、イェルルージュの唇を舌先で探る。こじ開けずともそこは随分と簡単に開いた。

もう一度、濡れた舌が触れ合った。以前の満月の夜、シルフリードはイェルルージュの純潔と同様に唇も奪いはしなかったのだが、この口付けが初めて交わすものであることに、彼女は気が付いているだろうか。

少し浮かせて唇を甘噛みすると、イェルルージュもまた、そんなシルフリードの動きを真似して唇を啄んだ。幾度も互いの唇に噛み付いて、再び深く重ね合わせる。

そうして舌先で戯れあいながら、シルフリードはイェルルージュの形の良い胸の膨らみを探った。開いたドレスの胸元を下着ごと掴んで強引に下ろし、こぼれ落ちるような柔らかみの上に指を滑らせる。

「ん……ん、あ」

幾度も触れて口にした胸の切っ先に触れると、あの時と同じ反応を見せる。押さえつけていた手を離し、もう片方の手は布の上から同じ場所を探り始めた。触れていると摩擦ですぐに弾力が変わり、シルフリードの指先に応える。下から掬い上げるように持ち上げると、しっとりと吸い付くような肌触りが心地がいい。指先を沈めればその動きに合わせて、とろけるように形を変えた。

あの犬が、ほんの一瞬でも触れたことが忌々しい。

この胸も、そして何よりこの唇に。

「イェルルージュ……様」

再び唇を重ね合わせて、互いの舌を踊らせる。そうして執拗に胸の頂を弾いていると、身体の下でイェルルージュがびくびくと震え始めた。シルフリードはイェルルージュを挟むように腰を近づけ、己の熱量を押し付ける。未だ暴かれぬそこを、挿入を思わせるかのように当てがい、幾度も突く真似事をした。

「……あっ、や……めっ、あっ……!」

イェルルージュの秘部に当たるのだろう。同時に胸も激しく触れられて、細い身体がひときわ大きく跳ねた。ガクンと腰の力が弱くなり、崩れ落ちる身体を抱き寄せて受け止める。

「胸に触れただけで達してしまわれたのですか?」

「……ん……」

我を失っているだろうイェルルージュの身体を抱き起こし、シルフリードはなんの感情も込めずに囁く。イェルルージュの薔薇色の唇は何も答えず、ただ、弱々しく震えていた。

満月の気狂いは、身体の感覚を鋭敏にさせ、欲望に対する理性を取り払う。あの時、イェルルージュを抱き寄せている犬……ラウバルトを見たときに、シルフリードは一つの可能性に気がついた。もしあのままイェルルージュを奪われていたら、彼女の身体を最初・・に蹂躙したのは、あの駄犬だったのだ。

「あの夜、そのような可能性など消しておけばよかった」

シルフリードは呪いでもかけようとするかのように低い声で呟く。しかし己の冷たい表情と声とは真逆の優しい手つきでイェルルージュの髪をやんわりと撫でると、横抱きに抱き上げ、鍛錬場を後にした。