魔王様は案外近くに

001.俺のアレ。

「あ、八尾やつお課長だわ。」

同期の芹沢が、飲んでいたコーヒーから唇を離して顔を上げた。視線の先にあからさまな憧れの色を投げながら、はあ…と長いため息をつく。一緒に昼食を取っていた坂野葉月さかのはづきも、つられたようにちらりとそちらへ視線を向けた。その先には、3人の男性社員が歩いている。

真ん中に居て、両脇の男性社員に指示を与えている男。
それが今、社内で絶賛話題になっている八尾課長だ。

海外支社から帰国したばかりの3人組で、そのリーダー格が八尾高司やつおたかし。現在は課長待遇。支社でいくつものプロジェクトをまとめ、現地での取引や部下達を率いた功績を認められ、将来的には本部長以上の出世が約束されているだろうという噂だ。しかも、眼鏡の似合うストイックなイケメン。独身で男盛りの33歳とくれば、女子社員が騒ぐのも無理は無い。その八尾の取り巻きも、同じく八尾について出世するのだろう。八尾は敷居が高くてもその取り巻きならば…と、こちらの2人もまた人気だ。

「いいなあ、葉月は。八尾課長の下で働けるなんてさ。」

「いや、別に…なんか忙しくなっただけで。」

「そりゃあ、今をときめく八尾課長のチームだもん、忙しいのは当たり前じゃない。」

「まあ、仕事は忙しくなったけど楽にはなったね。」

「でしょう! やっぱり実力者なんだよ。ルックスはいいし仕事もできるし。ほんっと、うらやましい。」

八尾が日本に帰って本社勤務になってから、4月の組織変更で葉月も八尾のチームに入れられた。彼が率いる短いスパンのプロジェクトをいくつか経験し、葉月自身も八尾の実力はすごいと認めるところだ。ともすれば切迫しがちなスケジュールも、一番最初に作る基盤が安定しているためブレないし、チームの人数が少なく小回りが利くため、イレギュラーが発生しても対応が遅れず大事に至らない。それだけに、その下で働くのは忙しく緊張感がハンパないが、それは活気のある忙しさと緊張感で、絶望的な忙しさとは全く異なる。

「飲みに行ったりもするんでしょう。チームの山下から聞いたわよ。すっごいおしゃれな店に行くかと思いきや、味と安さが自慢の居酒屋で楽しく飲んだとかさー。なんかそういうところも抜かりないっていうか。」

確かに抜かりない。先日、担当のプロジェクトが終わった打ち上げに行ったのだが、海外帰りのおしゃれイケメン3人組が選んだのは、こじゃれたダイニングなどではなく、軟骨の唐揚げと鱚天とたこわさの美味しい居酒屋だった。

要するに、仕事が出来てルックスも抜群、部下の信頼も厚く、かといって気取ったところも無い、上司としても仲間としても完璧な男。それが八尾なのだ。

別にそれはいい。
仕事が出来る上司というのは、部下にとってプラスだ。仕事もやりやすい。

たった一つ。困ったことがあった。
八尾の行動が最近、おかしいのだ。

****

その日の葉月の帰りは少し遅かった。

入社したての時に関わったことのあるプロジェクトの第3期が、最近になってこけたらしく、第1期に少し関わっていたから…というだけの理由で、調査依頼や相談が舞い込んでくるのだ。普段の仕事には影響を与えない範囲でならば…と、八尾の許可も得ているが、一度許せばずるずると依頼が増えてくる。そろそろストップさせなければ…と分かってはいるが、自分がここでストップを掛けるとあちらのプロジェクトが滞り、客先に迷惑がかかる。さて…と考えたところで、自分を呼ぶ声が聞こえた。

「坂野。まだ残っているのか。」

「八尾課長? おかえりなさい。」

「ああ。」

外回りに行っていたのだろう、八尾課長とその取り巻き、課長補佐の三羽みはねとチームリーダーの一尋いちひろが帰社した。気がつけば、フロアは自分だけだ。電気も落とされていて僅かに暗い。時計は20時を回っている。

「遅かったのですね。どうでしたか?」

「特に問題は無かった。こちらの提案を精査して、後日改めてプレゼンに参加していただけるそうだ。…それよりも、坂野はなぜ残っている。それほど仕事は残っていなかったはずだが。」

「少し調べ物を。」

「例の第3期か。」

八尾の声が一気に不機嫌になった。三羽と一尋は顔を見合わせ、肩をすくめる。ちなみにガタイのいい方が三羽で、ちみっこい方が一尋だ。八尾が葉月の後ろに回り、マウスを持つ手のすぐ側に自分の手を付いた。画面を覗き込む。

葉月は怪訝そうな表情を浮かべた。

八尾が部下を心配するのは常のことだ。任せている仕事量に対して、極端に残業があればすぐに気づき問題点を把握する。だから、今日のこの状況も八尾に報告していないのは葉月のミスといえばミスだし、八尾が把握しておきたいと考えるのは上司として当然の思考だ。だが、

常に無く、距離が近い。

マウスを横に動かせば、手が触れ合いそうだ。覗き込む八尾に視線を向けると、男の首筋がすぐそこに見える。頭をわずかに後ろにずらせば、八尾の身体に包み込まれそうだった。

「坂野。」

八尾がその姿勢のまま振り向いた。正確に言うと、少し下の位置にある葉月の顔を見下ろす。吐息がかかりそうなほど近い距離で、眼鏡越しの八尾の瞳を葉月が覗き込む形になった。かすかに赤みがかった、茶色の瞳だ。じっと八尾の眼鏡を眺めていた葉月は、思わずその綺麗な顔と首筋に手を伸ばした。2人の間に一瞬、濡れたような色めいた雰囲気が落ちる。

「さか…」

八尾が葉月に誘われるように、顔を近づけた。…が、葉月の視線は八尾を離れて自分の指先を追う。それにつられて八尾も視線を追いかけると、葉月の指先に摘まれているのは八尾のものでも葉月のものでもない長い髪の毛だった。八尾の首筋に落ちていたらしいその髪の毛は、つー…と、葉月に引き抜かれて、そのまま近くにあるゴミ箱にポイされた。

女の髪の毛か。さすが八尾課長。モテる男は違う。そんな風に思いながら、葉月はゴミ箱から再び八尾の顔に視線を戻した。

「で、なんでしたっけ。」

「坂野! いま、いまのは違うんだ!」

「は? 何がですか?」

心の底から不思議そうな葉月に、何故か頬を紅潮させた八尾が迫った。一度のけぞり、その後、若干前のめりになりながら、がっしと葉月の肩を掴み必死の形相をしている。まるで、恋人に女の髪の毛が落ちているのを見つかってしまったかのように焦っていた。

「今のは、髪じゃないんだ! あ、いや、正確には髪なんだが、お前の思うようなアレじゃないんだ。そうじゃなくて、なんていうかこう、私が、わたっ。」

「いや、あの、それは今どうでもいいんで、この第3期のことなんですが…」

「そっちのほうがどうでもいい!」

「いやいや、ですから。あの、八尾課長?」

葉月はいつもとは全く異なる八尾の様子に若干引きながら、第3期の調査事項について説明を試みた。だが、よく分からないが八尾の様子がおかしい。そもそも肩を掴まれていて顔が近い。恥ずかしくて直視出来ないくらい近い。いつもなら冷静にこちらの報告を聞くのに、こんなに頬を染めている八尾の顔は見たことが無い。そんなに女性の存在を知られたくなかったのだろうか。悪いことをしてしまった、だが、そもそも葉月には関係のない話だし、吹聴する趣味も無い。それよりも、第3期の報告が遅れたことに言い訳をしたい。

「坂野!」

「はい。」

「落ち着け。」

「課長が落ち着いてください。」

どう考えても八尾の方が慌てているし、落ち着きが無い。

「とにかく、今のは間違いだ。」

「課長。」

「な、なんだ。」

葉月は、八尾を安心させるようにゆっくりと頷いた。少しだけ口元に笑みを浮かべる葉月に対して、八尾が見惚れたようにハッとした。

「大丈夫です。」

「そ…そうか。よかっ…」

「誰にも言いませんから。」

八尾の安堵した表情が、すぐにがくりと崩れた。うぐぐ…と歯噛みするほどの感情を滲ませて、再び必死の視線を向ける。

「だから、本当に、違うんだ!」

「分かってます。課長。大丈夫です。あの…また、明日、ご報告しますね。今は落ち着いてください。」

女性がいるのが部下にバレた…というだけで、ここまで慌てるなんて…八尾という完璧な上司にもこのような一面があるのだな、などと葉月は思う。今まで言い寄る女性は数多く居たという噂だったが、そのどれも噂の域を出ておらず、どのような女性が現在のパートナーか…などというプライベートを知っている人はいない。そもそも八尾ほどの男となれば、本命の女性が居る…などと周囲に知られるのも困るものなのかもしれない。

ともかく、今の八尾には何を言っても無駄そうだ。落ち着いて明日にでも話した方がよいだろう。

葉月はパソコンの終了処理を始めようとマウスを動かした。すると、すぐ側に置いてあった八尾の手が触れて指が触れる。びくっ!…と大袈裟なほど八尾の手が緊張し、だが遠慮がちにその手を、そっと…

「課長。」

「あ、ああ。」

「申し訳ありません。…少し、ずれていただけませんか。私、そろそろ帰ります。」

八尾がそこにいると、動けない。

その言葉を受け、理由は分からないが、とてもしょんぼりした表情で八尾が動いた。葉月は荷物をまとめて、肩にかける。相変わらず、静かな表情でゆっくりと八尾に頭を下げた。

「では、お疲れ様です。」

「お疲れ。気をつけてな。」

それにしても、やっぱりいつになく八尾の距離が近かったが、いったいどうしたことなのだろう。
あんなに近くで見る、八尾の眼鏡越しの瞳はいつも見慣れているストイックな光ではなく、心なしか赤く…熱かったのは気のせい、だろうか。さすがの葉月も、あの至近距離であの顔に見つめられると、そわそわしてしまう。

などと思っていたのだが…この日を境に、葉月に対する八尾の態度が奇妙なものになってきたのである。

****

呆然と葉月の背を見送っていた八尾が、その姿が見えなくなった途端、がっくりと肩を落とした。どこに居たのか、三羽と一尋が姿を現す。うなだれている八尾を面白そうに眺めているのは一尋。哀れそうに見つめているのは三羽だ。

「絶対勘違いしたままだよな…あれ。何が…何が悪かったんだ…。」

「いや、割といろいろダメだったよ。」

八尾の中低音の甘い声に答えたのは、爽やかな一尋の声だった。その評価に、八尾が、きっ…と鋭くにらみつける。

「どこがだ! 後ろから迫った角度も完璧。覗き込んだ距離感もばっちり。葉月だってまんざらではなさそうだった! 見たか? 葉月と瞳が合った瞬間のあの甘い吐息!」

「でも、その後、あんなに動揺することなかったでしょ。」

「それは、あの髪の毛は俺の髪であって、他の女のものではないのに葉月が…。あれは明らかに勘違いしていただろう。誤解されたままなのは困る!」

「だから。八尾課長ともあろう人が、女の髪の毛くらいで動じてどうすんの。そこはスマートにあしらわないと。」

…その瞬間、八尾がはっとした顔になった。

「それか! お前の唇に触れたい…と、正直に口説かなかったからか!?」

「いや、それ、かんっぺきに違うと思う。ってか、人の話聞いてる?」

「じゃあ、何を言えばよかったんだ!」

「…。」

三羽が、痛い子を見るような表情で八尾を眺め、ぽん…と肩を叩いた。

「…大丈夫です。次こそは…。」

「ベルゼ…。そうか…分かった。次こそは、必ずや葉月を私のものにしてみせる!」

八尾は『ベルゼ』と呼んだ三羽と共にうんうんと頷き合っている。一尋はそんな2人に冷たい視線を送りながら、額を押さえていた。

「あーあ、ベルゼがまた無責任なこと言っちゃったよ…。」

「レヴィ。…お前も、女性が得意分野ならばきちんと助言を与えぬか。何のために、人間界こちらに来ているのだ。」

「助言与えたって、ルーちゃんが無視しちゃうじゃん。ストイックな表情のクセに、性的には猪なんだから。」

「それは、性的に猪突猛進と言いたいのか! そうなのか!」

『レヴィ』と呼ばれた一尋の肩をがっしと掴んで、ゆっさゆっさと『ルーちゃん』…八尾が揺さぶった。揺さぶられながら、一尋が再び呆れた声を上げる。

「あのね、別に技術が無いとか言ってるわけじゃなくてね。」

「そっち方面は大丈夫だ!」

「大丈夫とかそういう問題じゃないし、ドヤ顔されても困るし。」

八尾が一尋を揺さぶるのを止め、はあ…とため息を吐いた。その姿を見ながら、一尋はさっきからずっと呆れ顔だ。

「大体、何で葉月ちゃんのことになるとまともに口説けないの。他の女の子なら声掛けられようが掛けようが抱こうが抜こうが動じないのに…。」

大きなため息を吐く一尋を完全に無視して、八尾はうっとりと窓の外に視線を向けた。

「それは…他の女とは違うからだ。何をやっていいのかまるきり分からなくなる。…俺はいつもと同じように口説いているつもりなのに。」

「それはきっと坂野葉月がまことの花嫁だからですよ。」

八尾を元気付けるように、気遣わしげな声は野太い。三羽だ。その様子を見ながら、一尋が「まーた、ベルゼはルーちゃんを甘やかすー。」…と抗議の声を上げる。だが、八尾は三羽に勇気を貰って、気を取り直すように大きく頷いた。

「そう…花嫁。やっと見つけたのだ。…葉月でなければダメだ。」

眼鏡の位置を直し、八尾は、ふ…と瞳を細める。その横顔は整っていて、憂いた表情は精悍で美しい。中低音の乱れの無い声は、今は何かに恋焦がれるような切ない響きを含んでいた。その真剣な表情で、八尾が確信を持って言う。

「葉月でなければ、…俺のアレは勃たない。」

「ルーちゃん。それ、絶対葉月ちゃん口説く時には言わないでね…。」

そう言った一尋の声は八尾に届いていたのだろうか。振り向いた八尾は、女ならば誰もが孕みそうな色っぽい笑顔で言った。

「分かっている。勃起不全だと思われたら、印象が悪いからな。」

「いやそうじゃなくて。」

「次こそは…待っていろ。葉月。」

月夜に向かって、八尾はぐっ…と拳を握り締める。

「お前はこの私の花嫁なのだ。そして、お前と交わり…こ、こうこ、…」

「『恍惚』です。」

突っ込んだのは、三羽である。

「恍惚の夜を迎え、その営みに育まれる魔力で、魔界は満たされるのだ。ベルゼビュート、レヴィアタン、行くぞ!」

「はっ。」

「行くぞって家に帰るだけじゃん。」

はーあ…と一尋がため息をつく。三羽は八尾をやさしく見守っている。そうして、2人は礼儀正しく一礼した。

「いずこまでも、あなたとともに。魔王わがきみルチーフェロ様。」