定命の者の住まう幾つかの界に平行し、悠久の者が住まう幾つかの界もまた存在する。
その中に「魔界」と呼ばれる、界があった。闇の力を治める魔族が住まう界である。
その界の長は、どの界のどの長よりも強い魔力と美貌を持っているといわれている。強く屈強な将と、狡猾で抜け目の無い側近達が控え、別の界から流れ込む欲望を喰らい、その濃密な魔力で魔界を満たすという。とりわけ、魔王の性欲が解放されるときに生み出される魔力は、魔界に大きな悦びを与える。絶頂の叫びは欲望の中でも一際強く、生に直結した魔力だからだ。それが魔王の最も望む形であればなおさら強くなる。過去には何人もの側室を持った、色欲の魔王も存在した。
だが今代の魔王、ルチーフェロは現在独身だ。
1人に深く強く執着する、そういう闇の魔力の深い性質であった。それゆえ、嫁は生涯1人と決めている。
端的に言えば、絶賛花嫁募集中なのである。
残念なことに魔界に好みの女が居なかったルチーフェロは花嫁を探し、たった2人の従者を連れ、はるばる人間界へとやってきた。従者は魔界の将軍、嵐雨の王ベルゼビュート。そして魔王の侍従、大海蛇レヴィアタン。
彼らにとって、人間に化け、人間に混じり、人間を偽り暮らすのは容易いこと。
人間の界における魔王ルチーフェロの姿は八尾高司という。海外支社帰りの33歳課長。
顔もよければ仕事も出来る、部下にも客先にも好感度が高い。将来も約束されているこの会社一番の有望物件で、女は入れ喰い状態だ。
だが、彼がその魔王の愛を捧げようと思う女性は既に決まっていた。
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「坂野、第3期の件は向こうのリーダーに話をつけておいた。」
「ありがとうございます。」
八尾は静かに頷く。
「どうしても坂野の手が必要ならば、私を通すように伝えている。坂野に直接依頼してきたら、着手せずに報告するように。」
「はい。お手を煩わせてしまいました。」
葉月は八尾の前で一礼して、席に戻ろうとした。
「坂野。」
その背を八尾が呼び止める。
「坂野が気を患う必要は無い。上司として当然のことだからな。…過去のプロジェクトが心配なのは分かるが、あまり関わると向こうのためにもならんぞ。」
「分かりました。以後、気をつけます。」
第3期の依頼が遠慮なく舞い込み葉月の仕事に影響を与え始めたために、八尾があちらの上長に釘を刺しておいてくれたらしい。すでに客先で稼動している内容で、不具合に遅れが出るとそっちに迷惑…と考え、出来る限り対応していたのだが、あまり葉月が対応していると第3期の現行チームが仕事を覚えなくなってしまう。八尾からそう言われ、まさにその通りだと思ったので葉月も従った。八尾はいつにも増して不機嫌だ。もちろん葉月に対して…ではなく、第3期のリーダーに対しての態度だったが、報告していなかったのは葉月の失態でもあるので緊張感と共に、反省した。
「よかったですね、坂野さん。第3期の人達、面倒っぽかったし。」
「うん。」
隣の席の山下が声を掛けた。八尾のチームに所属している葉月の後輩だ。山下が新人の時分に、今は別の課だが、同期の芹沢と共に教育係をしていたこともある。そんな山下が椅子を寄せて雑談交じりに、葉月に話しかけてきた。葉月も山下に苦笑を返しながら答える。
「面倒なのはいいんだけど、際限ないのが困るのよね。売り上げにもならないし。」
「でも、ほんっとそういうときは八尾課長か三羽さんか一尋さんに相談したほうがいいですよ。」
「分かってる。でも別のチームのことだから、あまり課長を煩わせたくなかったのよ…。」
そうでなくても、八尾は忙しいはずだ。忙しいくせにそれを感じさせない余裕っぷりが八尾らしいが、動いている仕事だけを見れば気の休まるものではない。だから、自分で処理できる範囲であればこなすつもりだった。だが、最終的に八尾に頼ってしまう羽目になったのだから、面目次第も無い。ふう…とため息をついて、空になったマグカップで手遊びをしていると、山下がさらに葉月に近づき、ひそひそと耳打ちする。
「そうは言っても八尾課長、坂野さんが第3期に取られてる間、すっごい機嫌悪かったんですから。」
「それは…こっちの仕事に迷惑かけてたから…、悪かったと思ってる。」
それは違うでしょー…と言おうとした山下が口をつぐんだ。背筋に言いようの無い悪寒が走ったのだ。
「ま、まあ、ほんっと、頼りになりますよね。課長たち。」
風邪でも引いたかな…と、そそくさと山下が席に戻り、肩や首筋をもみながらパソコンに視線を向けた。その様子を見送り、葉月もマグカップを洗いに行こうと立ち上がる。
課長の席で仕事をしているフリをしながら、八尾は山下と葉月の会話を聞いていた。いくら声のトーンを落としたとて、魔王の耳に届かぬことなど無いのである。そこで聞こえてきたのは、「八尾課長に迷惑を掛けたくない」という葉月の心遣いだった。うれしい心遣いだ。しかし八尾は言いたい。声を大にして言いたい。八尾の機嫌の悪いのは迷惑を掛けられたからではない。葉月が忙しくなると話す機会が減ってしまうからだ。そして、山下、葉月から離れろ。葉月の耳に近づいていいのは自分だけだ。八尾は眉間に皺を刻んで、眼鏡を直す。
一尋が席を立った。
「山下クン。」
綺麗な顔は、にっこり笑えば天使のようだ。一尋が山下の肩に手を置いた。呼ばれた山下が振り返ってぺこりと頷く。
「あ、はい。」
「金曜のプレゼンの書記、山下クンね。」
「え。」
「議事録お願い。」
「ええっ。」
その様子を見ながら、八尾は先ほどの不機嫌さを隠して、上司が出来のいい部下を眺めるような表情を向けてやった。
「そろそろお前も外向きの対応を覚えて貰わないとな。今回のプロジェクトは山下がメインで担当だ。あまり坂野の手も期待するなよ。」
「マジっすか…、がんばります。」
「坂野さん、あとで山下クンに必要なドキュメント類、一式用意してあげてね。」
一尋の指示に、微笑ましいものを見たように表情を緩めた葉月は「はい。」…と小さく笑って頷いた。だが、すぐに笑みをおさめて給湯室へと下がっていく。そんな葉月の後姿をひとしきり眺めてから、八尾を振り向いた一尋の天使のような笑顔が引きつった。
どす黒い表情で八尾が睨んでいたのだ。
…魔王の黒いオーラを受けて一瞬ひるんだ一尋だったが、そこはさすがに側近を勤めているだけの魔族ではある。
『葉月ちゃんの笑顔見たからって僕のこと睨むの止めて! ってか、給湯室チャンスが来たよ。今なら2人きり・イン・ザ・給湯室でしょ!』
魔族にのみ分かるジェスチャーで八尾に指示を入れると、ぴくりと眉を動かして、八尾がすっくと立ち上がった。
「あ、か…」
「山下。」
「三羽さん? なんでしょうか。」
「金曜のプレゼンの話だが、先日クライアントに挨拶に行ってきたときの事項を連携しておきたい。」
「あ、了解です。それ聞こうと思ってたんです。」
八尾を呼び止めようとした山下の用件を三羽がさりげなく奪い、八尾は心置きなく給湯室へと足を運んだ。
****
給湯室へ足を向けると、洗い物をしている葉月が居た。八尾に背を向けて腕まくりをしている。細い腕をそんなにむき出しにするのはやめなさい…と注意したい。
「八尾課長?」
空いたコーヒーカップを手に持って立っている八尾に気付いた葉月が振り返り、手を差し出した。思わず差し出された手を取って、やんわりと握る。水に濡れていて、少し冷たい。握ったまま、もそもそと温めるように撫でながらじっと見下ろしていると、戸惑った葉月が身を引こうとした。
「あの…」
「坂野。手が冷たくなっている。」
「水洗いしてましたから。」
「そうか。」
「あの、課長?」
「あまり冷やすのはよくない。湯を出せ、湯を。」
「コーヒーカップ洗う程度でお湯は使えません。で、あの、課長。」
「坂野。」
「はい。」
八尾が葉月の手をぎゅ…と強く握って言い聞かせる。
「こんなところで節約しなくてもかまわないんだ。」
葉月の手が冷たくなってしまうくらいならば、給湯室の給湯程度、どれほど使ったって構わない。むしろ使え。そう言ったつもりだったが、葉月はますます手を引いた。だが、逃げられると追いかけたくなってしまい、ついついまた力を込めてしまう。
葉月の声は当たり前だが困惑していた。
「課長、そうではなくて、」
「ん?」
「コーヒーカップを。」
洗うので、貸してください。そう言って八尾を見上げた。
「ああ、ありがとう。」
「いえ。」
不承不承、手を離してコーヒーカップを渡すと、葉月は八尾に背を向けて再び水を出して洗いものを始める。そんな風に背を向けられると、襲い掛かりたくなる。たとえば、だ。結婚してエプロンをして洗いものをしている葉月を後ろから、ぎゅうっと抱きしめたりなどするとしよう。「もう、高司さんったら、まだダメです。洗い物がまだ残って…んっ…」「いいだろう、洗い物なんて後で…葉月…。」「や、…高司さん…」みたいなシチュエーションも思いのままなのだ。ああ、くそ、結婚とはなんといいものなのだ。早く結婚したい。
そうなると必然的に後ろから…か。葉月はどっちが好みだろう。後ろからと、前からと。切れ長の瞳をさらに細めながら、クールな横顔でそんなことを考えていると、どうしても葉月に触れたくなった。戯れるように、耳元に触れる。
「あ…っ!」…と随分色っぽい声を出して葉月の身体が跳ね、次の瞬間、ガチャン!…と陶器の割れる音がした。
「坂野、どうした、大丈夫か?!」
「だ、いじょうぶ、ですけど。あの、課長、今…」
「何もしていない。」
耳に触ったくらいなら、何かした範疇には入らない。
「そ、そうですか? なんか今、明らかに…」
「気のせいだ。それよりも、大丈夫か。坂野のコップが割れてしまったな。それに、」
「え、あ、はい…大丈夫です。また持ってきて…って、課長、ちょっと!」
八尾が葉月の手を取ると、指先をぺろりと舐めて、ちゅ…と吸った。割れた陶器で少し切っていたのだ。葉月の指先に傷を残すわけにはいかない。そう思って、僅かに魔力を込めると一瞬で傷は治った。そして舌に乗る赤い味…、これが葉月の体液だと思うとそれでだけで興奮する。
「さか…」
興奮のまま八尾が見下ろすと、呆気に取られて顔を真っ赤にした葉月の瞳と目が合った。
しまった。
今のは失敗した。
上司が部下の指を舐めるなどという行動が、通常ありえるはずが無い。
「かちょ…」
「坂野! い、今のはっ」
「は、」
思わず葉月の両手を掴み、ほとんど抱きしめるくらいの距離に詰め寄る。焦りのあまり顔が近くなり、息を吸い込むと…髪の毛がとてもいい香りだ。いや、それはいい、今はいい。今はこの状況をなんとかせねばという一心で、八尾は一気にまくし立てた。
「今のはだな、八尾家に伝わる伝統的な傷の直し方で、代々八尾の家では割れた陶器で傷ついた指はこのように舐めて治癒するという謂れがあってだな、つい幼い頃を思い出して、なめ、」
「あの、課長! 分かりました、分かりましたからっ、課長、手を…」
「え。」
「手を、あの、離してください。」
「ああ、すまん…。」
名残惜しく手を離した。
「坂野、手は大丈夫か?」
言われて、葉月が自分の手をまじまじと眺めた。切り傷は治っている。だが、そもそも切り傷を受けた…ということ自体に葉月は気づいていないようだ。そうして、八尾を見上げて小さく微笑んで頷く。葉月の笑顔…役得だ。
「はい、大丈夫です、課長。」
だがその後、葉月が綺麗に指先を洗っていたのを見て、しゅんとした。
****
「…で、一緒に割れ物片付けて帰ってきた…と。」
「初めての、共同作業だな…!」
「すばらしい前進です、ルチーフェロ様。」
「あのね…ルーちゃん。」
八尾のマンションの一室。腕を組み、うんうんと頷く三羽と得意げな八尾に向かって、一尋が何度目かのため息をついた。…魔界の長、魔王であることはこの際置いておくとする。だが、将来幹部の地位も約束されたエリート課長が、落としたい女と給湯室に2人っきりで、耳に触って指を舐めるという変態行為を行っただけで帰ってくるとは…。
「なんだ。指を舐めたことは、あれから何も言われなかった! …多分分かってくれたはずだ。」
「いや…。なんかすごい株下がったような気がするんだけど、まあいいやもう。ほら、たとえば金曜の夜に食事に誘うとか思いつかなかったの?」
「しょくっ、」
「夜景を見ながら食事だよ、分かるでしょ?」
「分かるって…何を、だ。」
もう、これだからルーちゃんは…と一尋は肩をすくめた。天使のような愛らしい顔をにやりと歪め、ここにいるのは魔王とそれに仕える従者の3人だけだというのに声を落とす。爽やかな声はややトーンを下げ、何かをたくらむように潜められた。
「いい年の男女が2人っきりで夜に食事行くんだよ? 終わった後に何をするか、なんて、さすがの葉月ちゃんだってそこまで来たら断らないよ。」
「しかしそもそも、坂野が誘いに乗るか…というのは問題ではないか?」
「ベルゼビュートもお堅いねえ。葉月ちゃん、今フリーだもん。ルーちゃんにだってチャンスはあるでしょ。誘うのはエリートの八尾課長なんだしさ。」
「む…。」
むむう…と八尾が腕を組んだ。
夜の食事。その後…そのあと。…給湯室で見た葉月の後姿と腰の曲線を思い出して、八尾は色っぽい息を吐き出した。
「…葉月…。」
「ね。ホテルの部屋取ってもいいし、ルーちゃんの部屋に連れてきてもいいんじゃない? 美味しいワインがあるとか言ってさ。」
ふふん…と一尋が自分の提案に満足げな表情を見せる。それを見ながら、八尾がふと視線を向けた。
「美味しいワインがある…とか、意外と使い古された鉄板な台詞だな、レヴィアタン。」
一尋のこめかみに、ぴし…と青筋が立つ。
「なんか、それをルーちゃんに指摘されると、かちんとくるんだけど…。」
ふっ…と三羽が笑う。ガタイのいい無口な男だが、そういった類の男が好きな女にはモテそうな雄々しい顔である。笑みを浮かべた三羽に、さらに一尋がムッとした。
「ちょっと、ベルゼまで何笑ってんのさ! …あのね、ルーちゃんは鉄板なルックスの眼鏡エリートなんだから、こういうときは鉄板のイベントでいいの! 鉄板見せといてかーらーの、焼き鳥屋とかに行けばいいんだよ、もう、僕アドバイスするの止めるよ!?」
「ああ、すまんすまん、レヴィ。感謝してる、ホントに。」
腕を組んでぷんすかと怒る一尋と相変わらず静かに頷く三羽の顔を見渡して、改めて八尾も膝を叩く。
「よし…分かった。明日誘う。絶対誘う…そして、」
掛けていた眼鏡を取り、瞳を鋭くさせた。物騒な色は紅く、獲物を狙う猛獣のようだ。
「必ず、葉月を俺のものに…。」
愛おしい標的の声と瞳と表情を思い浮かべ、魔王の纏う魔力に欲望がぎらつく。あの心も身体もすべてが自分のものになると思うと、身体が滾って仕方が無かった。