魔王様は案外近くに

003.加減が分からない。

坂野葉月。
26歳。
独身。
彼氏居ない歴1年半。
珈琲はブラックのくせにスタバではソイラテをぬるめでオーダー。
好きなケーキはミルクレープとロールケーキ。焼き菓子だったらマカロン。
料理は和食が好み。
犬派。
AT車限定。

八尾の部下。

部下。

…上司と部下…か。

会議室で、上司と部下がふたりきり…。

「課長?」

「ん?」

「プロジェクターの準備と資料は整いました。」

「そうか。ありがとう。」

「いえ。後はやっておきますから、課長は戻っていただいてかまいませんよ。」

「ああ。…いや。」

八尾と葉月は今、午後からのプレゼンの準備のために会議室にいた。本来なら葉月1人でも十分だったが、八尾がそこにやってきたのである。もちろん、様子を見るなどというのは言い訳で、葉月と2人きりになりたかったからに過ぎない。

魔王ルチーフェロはその魔王という姿を偽り、八尾高司として人の界に存在している。

人間の仕事を行うのはさほど苦ではない。記憶、計算、シミュレート、折衝、行動、掌握。永劫の命を持つ上位魔族にとって、内容を理解してしまえば難しくは無かった。ただ、人というのはよく働くものなのだと思う。そうした人に混ざるためにも、八尾らは真面目に仕事はしていた。魔王の魔力を行使するまでも無い。

そこで見つけた葉月は現在、課長職にある八尾の部下である。当初は人間にしては仕事のできる、そしてその視線や表情がほんの僅かに目を惹くだけの部下だった。

しかし仕事のできる部下は気になる存在になり、気になる存在が愛しい存在になり、いよいよ花嫁にしたくて辛抱たまらん自分に気づいたのは、いつだっただろうか。一尋に言わせると、「魔王のクセに割りと普通に人を好きになるんだね」ということだったが、普通に好きになって何が悪い。人の子の使い魔となって稚い女子をかどかわしている悪魔もいるというが、自分はそんな強引なことはしない。人というのはそういった順序や段取りを重んじるらしい。欲望に忠実な魔とは、根本的に性質が違う存在なのだ。

ああ、葉月。

魔王の魔力を含んだ色気に陥落しない屈強な精神力。魔王の瞳を覗きこんでも腰が砕けない意志の力。魔王の吐息にときめかない柔軟な思考。簡単には笑みを見せないところもいいし、お茶が飲みたいな…と思ったら、丁度いい頃合に自分好みのお茶を淹れてくれるところも、自分がブラックの珈琲が飲めないことを知ってちゃんと砂糖とミルクをいれてくれるところもいい。いつだったか、「猫舌なんですか、私といっしょですね」…と小さく笑ったあの表情を見せてくれたときから、自分の心は決まっていたのかもしれない。八尾が猫舌だということを知ってからは、ぬるすぎずあつすぎない温度で飲み物を持ってきてくれるところも、どこぞの店で買ったとかいうマカロンを美味しいな…って思ったら、言ってないのにまた買ってきてくれるところも…葉月の自分に向ける行動すべてに、有頂天になって自惚れてしまう。

ずっとその思いを八尾は心に秘めていたが、先日思い切って背後を取り距離を詰め、それがかわされてしまったときに魔王の我慢の限界が来た。

(性的に)食べてしまいたい。

(いやらしく)頭から足の先まで嘗め回したい。

今まで上司と部下としての距離を保ってきてはいたが、そうも言っていられない。何かと理由を付けては2人きりになり、何かとチャンスを見つけては物理的な距離を縮める。だが、いつもいつも、抱いた猫のようにするりと柔らかくすり抜けていってしまう。じらしプレイも嫌いではないが、何事にも限度というものがある。

もう、いっそ食べてしまおうと何度思ったことか。

だが、ここは人間界であり会社という公の場だ。葉月はそういう面はしっかりした女性なので、ここで性的に襲ってしまうと嫌がられ、嫌われるのは必至だろう。そもそも同意を得ていない。この切ない思いはいまだ八尾1人のものであり、葉月に伝えていないのだ。その順序を間違えてはいけない。一尋などは今でこそアドバイスを与えてくれているが、当初は、「もうさ、めんどうくさいし、魔王ですって名乗って城に連れて帰って無理やりヤったら?」などと言っていた。しかしそれはダメだ。生涯嫁1人を強く深く愛しぬくと誓い、その相手に人間を選んだのは自分だ。できる限り、誠実でありたかった。

そんなわけで、葉月はいまだ八尾の恋人でもなんでもなく、ただの部下であった。

だが、上司と部下が会議室に2人きり…というのは、ある意味興奮するシチュエーションだ。

よし。

今日は押そう。

ちょっと押すだけならば、順序を間違えたことにはなるまい。いやむしろ、順序通りだ。ちょっと押す→良い雰囲気になる→思いを伝える→了承を得る→押す→押し倒す→正体を明かす。…おっと、そうだ。夜、誘いを掛けるのも忘れてはいけない。…ということは、

ちょっと押す(イマココ)→良い雰囲気になって食事→思いを伝える(夜景など見ながら)→(R18的中略)→もう一回押し倒す(朝←New!)

これだ。

八尾は心を決めた。

「坂野。」

ブラインドを下ろしている葉月の後ろを塞ぐように立つ。

「今日の夜は、空いているか?」

「え?」

ガシャ。…振り向いたらあまりにも八尾が近くにいたからだろう。驚いた葉月の身体が後ろにバランスを崩し、背がブラインドにぶつかり音を立てる。八尾の手が思わず葉月の身体に回って、崩れるのを支えた。

「坂野? 大丈夫か。」

「あ、の。八尾課長、ちょ…」

両手で葉月が八尾の身体を押して、それ以上近付かないようにブロックしてきた。普通の女性なら、こうして見つめれば別の意味で腰が砕けるというのに、葉月にだけはそれが効かない。それにしても、近づくといい香りがする。花のような香りは葉月の使っているシャンプーだろう。銘柄はアナスイだ。真面目なくせに官能的な香りを使う。けしからん。これが他の男ならば誘っていると間違えてしまうだろう。自分だからこそ、ちょっと押すだけで留めることができるのだ。

しかし、もう少しだけ押したい。少しだけだ。例えるならば先だけ挿れる程度。

八尾は試しにもう片方の腕も葉月にまわしてみた。触れ合った人の肌の体温は抗い難く、表面張力ギリギリで保っている八尾の欲情が零れ落ちそうになる。腕の中の葉月の身体が緊張からか力が入っていて、それをなだめるように抱く力は緩いが、葉月がどれほど力を入れても外れなかった。

「人が、…来ますからあの、離してくださ…」

「心配するな。誰も来ない。」

会議室に2人きりになった時点で、魔王の結界を張った。人間をはじめとするあらゆる意識体、蚊の一匹すら、この会議室に入れないはずだ。こんな時なのに、どもっている葉月の様子が愛らしくて非常に危険だ。かなり高ぶる。

「坂野。質問の答えをまだ貰っていない。」

「あ、の…とりあえず、離して。」

葉月の懇願とは逆に、抱いていた両腕に力を込めた。

片方の手は背を抱いて捕まえ、もう片方の手を腰にまわして下半身に押し付ける。葉月の腕が抗おうとしたまま無理やり抱きしめたからだろう。細い手は八尾の胸板に縋るような形になっていて、それでも相手が上司だからか、それとも八尾という男だからか、身体が緊張しているだけで激しく暴れたりはしなかった。戸惑ったように八尾のスーツの襟元を、かし…と握り、潤んだような黒い瞳で見上げてくる。

大きな男の手が、女の身体をざわりと撫でた。背を抱いていた手が葉月の首元まで上がり、髪の毛を梳き、首筋をなぞる。その途端、は…、と小さく葉月から息が零れて肩がぴくんと痙攣した。煽られて、どくんと何かが脈打つ。

八尾は、カチと小さな金属音を立てて眼鏡を外し、側の机に置いた。

「坂野。」

呼んで、葉月の頬に手を当てて少し角度を持たせる。僅かに開いている唇は綺麗に調えられていて、控えめにグロスが塗ってある。濡れたような艶が柔らかそうで、ここもいつかは蹂躪するのだと考えると自分の欲望を表す一点が熱くなった。

が、まずは…。

魔王の眼力は人間には強い麻薬となる。人間の姿になって魔力を抑えていても、瞳というのはそもそも力の強い部位だから押さえ切れない。だから普段は眼鏡を掛けているのだが、葉月にはその強い眼力ですら効かない。眼鏡を外したのは、単に邪魔になるからだ。

「坂野。…私は…」

「か、」

そうだ、眼鏡など邪魔になる。2人の唇が触れ合うのに…。

八尾が葉月に顔を近づけた。濃密になる肌の香り、今にも届く葉月の息。もう、一押しだ。

「坂野のことが……」

ぺチン!

唇が触れ合うか合わないか…というところで、八尾の額に何か衝撃が加わった。何事か…と思って腕の中の葉月を見ると、何とか抜け出した右手を持ち上げて、真剣な顔で八尾の額を押さえている。ぐ…と顔を強引に寄せようとしたが、葉月の腕にも力が入ってそれ以上近づけない。

「坂野?」

ぎぎぎ…と、押さえられたまま、葉月を呼ぶ。

「虫が。」

虫…?

「蚊が。」

一瞬三羽…ベルゼビュートが邪魔しに来たのかと思ったが、違うらしい。

「蚊がいました。八尾課長。」

「あ、ああ、そうか。よくやった。」

「はい。では、…私はこれで失礼します。」

思わず離してしまった腕から、葉月が逃れた。ばたばたと資料をまとめてぺこんと一礼し、慌しく八尾の前から立ち去る。ばたんと会議室の扉が閉まる音を見送りながら、八尾は深くため息をついた。そういえば、今日の夜空いているかどうかちゃんと聞いていなかった。夜の予定すら聞けないなど、魔王がなんと情けないことだろう。…少し押しただけだというのに、いったい何がダメだったのだろうか。一尋に聞いてみなければならない。

直後、魔王の結界には蚊の一匹すら入れないはずだということに気づいた。

****

「好きで、愛しているのに…触れたいだけなのに…なぜ上手くいかないんだ。」

「魔王様…。」

結界を解き、会議室に姿を現した一尋と三羽を前にして、八尾はいつになく苦しげに息を吐いた。三羽が眉をひそめて、痛ましいものを見るように肩を落とした八尾に声を掛ける。伴侶を求める魔力は常に無く濃密だが行き場を失い、魔王は手負いの獣のように弱々しいが瞳だけが高揚している。

魔王の結界には蚊の一匹も入れない。それなのに、「蚊がいた。」と嘘を付いた葉月…つまり、八尾を拒否したのだ。時々だが見せてくれる笑顔も、目を逸らさずに見上げてくる視線も、いつも柔らかくてそれほど嫌われてはいないと思っていた。するりと八尾の腕を逃れても、少し距離を置いてまた、あの表情を向けてくるのだ。だからどうしても捕まえたい。それだけなのに。

「あのね…。」

うーん…と一尋が腕を組んで、言葉を濁す。

「俺は葉月に嫌われているのか?」

「そうじゃないと思うよ。」

「なら、なぜあんなにも拒否するんだ。」

「拒否したわけじゃないと思う。」

「じゃあ、何故なんだ! 勃っていたからか!」

深刻そうな表情をしていた一尋が、がっくりと肩を落とした。本人はいたって真剣なのだろう。それは分かるが、全く深刻さを感じさせなかったのは何故だろう。一尋は肩を落としたまま、八尾をちらりと眺める。

「勃ってたんだ?」

うぐ…と言葉を詰まらせて、八尾が歯噛みする。

「仕方が無い…。あんな風に近づいて、あんな風に抱き寄せたんだぞ? それにどれだけしてないと思っているんだ!」

「…別の者と性交したら欲が収まる…というものでもありますまい。」

三羽の言葉に八尾が頭を振った。否定の意味ではない。肯定の意味だ。葉月を好いている自分に気づいてから、まるで腑抜けのように他の女には何も感じない。たった一人、葉月のことを思い浮かべただけで、何杯でもいけるというのに。

「分かっている。葉月以外と交わるなど、考えられない。彼女以外、欲しくないんだ…。」

「ルーちゃん…。あのね…あまり強引に迫ると、葉月ちゃんも混乱しちゃうでしょ。」

さすがの一尋も心配そうに言葉を詰まらせる。

「あれで強引、すぎたのか…。」

ちょっと押しただけのつもりだったのに、あれがダメならどこまでがいいというのだろうか。魔族の自分には加減が分からない。ただ抱きしめて、口付けて、その先に行きたい…それだけだ。いや、それから「愛してる。」とかも言ってもらいたいし、言いたいし…。いきなり進んでは駄目だというのは分かる。だが、それならばどこで待てばいいのだ。

「あのさ、ルーちゃん。」

一尋が八尾を見ながら、ぽつりと言った。

「会議が終わった後、きっと葉月ちゃんは残業するよ。」

八尾がうつむいていた顔を上げる。

「葉月ちゃん、山下クンに議事録任せるの心配って言ってたから、多分自分でもメモまとめると思う。山下クンが帰った後でね。」

「…。」

2人きりになるチャンスはまだある。葉月はいつも、自分が書記でなくても会議が終わればその内容を自分用にまとめている。会議が上手く進めば議事も重要なものになる。仕事はその日の内に済ませたい性格の葉月は、夜、何の予定も無ければ残るはずだ。

八尾が珍しく表情を消した。

「なるほど…分かった。」

八尾が低い声で短く返答し、踵を返した。従者を残し、会議室を後にする。いつも仕事では冷静、葉月に関しては鼻息の荒い八尾が、魔族の王としての本能を一瞬剥き出しにした。望むものが手に入らないもどかしさに、纏う魔力がイラだっているのだ。従者の2人の肌にも痛く感じるほど伝わり、久々に張り詰めたような緊張を覚えた。

八尾が消えた扉を眺めながら、三羽が解けた緊張感に息を吐く。腕を組み、一尋を見下ろす。

「よかったのか?」

「何がさ。」

「ルチーフェロ様をあのまま行かせて。」

いつもは飄々としている一尋も僅かに緊張していたのだろう。少しばかり苦笑して、肩をすくめる。

「どういう意味?」

「今のルチーフェロ様では欲を抑えきれないのではないか?」

「そうかもね。」

一尋が女にも見えそうな秀麗な顔の、口角を上げた。

「もういっそ、魔王の欲に任せてしまえばいいと思うんだよ。」

「しかしそれでは、」

「あれだけ人間の順序とやらを守ろうとしてた、ルーちゃんの苦労が報われない?」

「…。」

三羽が黙り込む。どうしても葉月を手に入れたくて、人の子らしいアプローチを続けてきた(つもりの)八尾だったが、いまだそれは叶わない。それは、魔界の欲望が叶わない…という意味でもある。

だが、本来、自分達は魔族だ。魔族というのは優しく慈悲深い生き物ではない。

悠久を生き、欲望を喰らい、欲望のままに生きる、そういう存在だ。
魔王がその情欲を堪え、己の望みを叶えない…など。

「ベルゼはルーちゃんに甘いね。」

「甘いのはお前だろう、レヴィ。」

魔王わがきみルチーフェロ。望みを叶えたければ、その欲望のままに欲すればいいのだ…と魔王の侍従は思う。

例えその形が、どのようなものであろうとも。