魔王様は案外近くに

004.魔王。

会議室を慌しく出た葉月は、そのまま化粧室に駆け込んだ。誰も居ないことを確認して、はあ…と息を付く。

「今、の。」

顔が熱く、火照っているのが分かる。気持ちを落ち着けないと、フロアには戻れなさそうだ。自分がたった今どんな顔をしているのか、自信がない。

普段の葉月は自惚れとは程遠い女だが、…だがそれでも、意識せずには居られない。好き嫌いの問題は置いておいて、あれは…八尾は、自分との距離を意識的に詰めようとしているらしい。ここ最近、ずっとだ。第3期の問題で残業しているのを見つかったときから、ずっと。2人きりになると妙に距離を縮めてきて、潤んだような瞳で見つめられる。耳元に声を掛けられ、すぐに背後を取られる。

時々、強い腕が身体に回りそうになるのを感じていつも避けていたが、今日は逃げ遅れた。

なんとなく八尾が何をしようとしているのかは分かる。だが彼の場合その合間合間に妙な行動が挟まり、その心情が全く読めないのだ。抱き寄せられるだけならば、まだ男女の意図があるのか…と自惚れかけることもできるが、そうでもなさそうだった。たとえば、指を舐める…とか。そういう奇妙な行動を、普通の男であればしない(多分)。

要するに、まるで未知の生物がこちらを観察しているような、味見をされているような、そんな感じなのだ。指を舐められたときも、人懐こい犬に飛びかかられて舐め回されたような気分だった。

そうなってくると、こちらも八尾の行動が気になる。何かおかしなことをしでかさないかと、ついちらりと目で追いかけてしまうのだ。

後になってよく考えるとここで八尾の行動を「この変態め!」…と思わなかった時点で、葉月も八尾という男にほだされていたのかもしれない。だが、今の葉月にとっては八尾がなんだかおかしい…そして、変に気になる、それだけだった。

「困ったな…。」

妙に意識してしまう。

抱き寄せられた時には下半身が明らかに硬くもぞもぞとしていたし、葉月にだってあれが何かは察しが付く。付け加えておくと、色っぽいというよりも、犬にマウントポジションを取られた時のようないたたまれない気分になっただけだった。単に欲求不満なのだろうか。…八尾課長という人が? そんなはずは無いだろう。八尾ほどの男であれば、それこそ女性などは数多居り、自分などに声を掛けなくてもよりどりみどりのはずだ。いつだったか、八尾の首筋には長い髪が付いていたことがあったではないか。

髪の毛を見つけたとき、八尾は相当あせっていて、女慣れしていそうな男があんなに慌てふためくなど何事かと思ったものだ。何事か…女性しかいないではないか。そういう人がいるのに、なぜ自分に声を掛けるのだろう。疑問の堂々巡りは最初に戻った。フラれた腹いせ…というのも考えにくい。八尾がフラれることがあるのか、という意味で。

どのような意味であれ、葉月は八尾を意識している。それは自覚していた。そうした男性にあれ以上近寄られたらどうにかされそうで、我に返ったところで混乱し、頭をはたいてしまったのだ。あんな完璧な男の整った顔を叩くなんて、芹沢辺りにバレたら何を言われるのか分かったものではない。

葉月にとって八尾は尊敬している上司で、完璧だと思っているのに、少し変な行動が妙に目の離せない人。ただそれだけ。だが、それだけだからこそ、「意識してしまう」という感情を、このまま放っておくとどうなるかを葉月は知っていた。

しかし、葉月は素直にそういう感情を楽しむことが出来ない。芹沢などには、よく笑われる。

『相変わらず、クールで男に興味ないって顔するのね。』

『そういう顔してた?』

『してたしてた。あんまり興味ない?』

『そういうわけじゃないけど…。』

『けど?』

『どういう表情をすればいいのか…ってだけで。』

葉月とて別に恋愛だの男だのに興味が無いわけではない。気持ちを向けられれば嬉しい。ただ、同年代の女性と同じようにはしゃいだり感情表現したりするのが得意ではないのだった。素直ではないと自分では思う。自分に強い感情のベクトルを向けられるのが、苦手で。

そもそもあの行動がそういった意味の感情かは不明だ。気を引き締めないと。

****

会議が無事終わった頃には外は暗くなっていた。会議室はチームの皆で片付け、お疲れ様を言い合ってメンバーは帰っていく。山下も八尾らも、帰宅したようだ。葉月は議事録用のメモを少しまとめて帰ろうと、デスクに座った。

「坂野。」

耳元で、甘い声が響く。急に声を掛けられた衝撃に、思わずびくんと肩が揺れてしまったのが自分でも分かった。

「は、はい?」

まったく気配を感じさせずに、何故か後ろには八尾が居るらしい。しかもこの距離感は、耳元に唇が寄せられている。葉月の背中を囲うように机に手を突いていて、後ろから身体を寄せられているようだ。息が感じられる。なんというか、動けない。このまま動けば絶対に八尾の身体に触れてしまう。

ぴたりと動きを止めて、葉月は視線だけを動かした。少しだけ斜め上に視線を向けると、八尾の掛けている眼鏡の縁がすぐ側だ。ダークブルーのマットなメタルフレームがちらりと見える。冷んやりとした金属製なのに、艶を消していて落ち着いた雰囲気だ。今日は会議だからだろう、細身のレンズの下に縁の無いタイプで眼鏡があまり主張せず、それでいて八尾の整った顔に品のいいアクセントを与えていた。

というか、眼鏡の縁に触れられそうなほどの距離は、どう考えても近すぎる。八尾にはこういう、距離感が全く分かってないのではないか…と思われる行動も多々あった。2人きりのときは特にそうだ。変に近い。人懐っこさが過ぎて距離を見失い、身体をぐいぐい押し付けてくる犬のようだ。

頬が触れそうで、肌が近づいている独特の気配に緊張する。

「八尾課長?」

「ああ。」

「まだ残ってたのですか?」

「夜、空いているか…という答えを貰っていないからな。」

「見ての通りです。」

「空いているのか。そうなのだな!」

「いや、あの、仕事が」

「議事録は山下にまかせたはずだ。」

「サポートを…」

「そろそろ坂野のサポートも外さなければ、山下も上に上がれんぞ。」

「それは…。」

もっともだ。色めいた声が、急にいつもの課長としての厳しい声色に変わり、別の緊張感にドキリとする。だが、それでも今回の議事は外したくない。そう食い下がると、空気が優しく緩まった。

「坂野の気持ちは分かる…が、既にメモをまとめているのであれば、それだけでもかまわないだろう。議事の内容は、俺が一字一句全て覚えている。」

その断固とした言い回しに何か引っかかりを感じて、葉月が八尾の方に顔を向けた。その瞬間、しまった…と思ったが、遅かった。

頬が触れるほどの距離で葉月が顔を動かせば、八尾のほんの少しの軌道修正で、2人の唇が柔らかく重なる。

偶然触れ合った…とも思われる優しい感触が感じられた。しかし、唇は離されなかった。強引ではないのに抵抗は許さない強さで、八尾の大きな手のひらが葉月の頭を押さえる。そのまま自分の唇の上で八尾のそれが動き、なぞり始めた。

少し唇が開いては、咥えるように音を立てて幾度か角度を変える。少なくとも、葉月にとってはとても戯れの口付けとは思えない。もう片方の八尾の手が、葉月の首筋に伸ばされ、上を向かされる。厚ぼったく濡れたものが、ぞろりと自分の唇を撫でた。触れられる感覚に葉月の背筋が震えたが、それに押し流されないように抗って、八尾の腕から逃れる。

「か、課長、ちょ、っと…!」

「やわらかい。」

「は?」

唇が離れた隙を見計らって、葉月が抗議の声を上げた。見上げた八尾は眼鏡を掛けていない。真っ向からなんの遮りもなく見つめる瞳はわずかに紅く、葉月の声を聞いてはいないようだった。

「お前の、唇が。」

「…え?」

「すまない。」

何が?

「もう少し…奥へ…。」

いやだから何が?

…と、聞く間もなく、葉月の顔が八尾の手の平に包まれ、ぐ…と上を向かされて本格的に入り込んできた。

舌が。

いつのまにか椅子ごと完全に八尾の方を向かされ、身体ごと押されて背もたれがぎしりと軋む。ぬるぬると口腔内を探る八尾の舌は、今まで経験してきた男のものとは全く違う。質も、量も、動きもだ。

声は完全にふさがれ、吐息と唾液が流れ込んでくる。葉月の舌はすぐに八尾に追い立てられ、吸い付かれるように絡まりあった。舌をぺろりと捲り上げられ、なぞられて、吸い上げられる。押しても引いても、葉月の力では八尾の身体はまったく動かず、逆に拘束が強まる。拘束…といっても、抱きしめられているわけでも、押さえつけられているわけでもないのに動けない。

方向を変えるたびに小さく零れる、喘ぎ声とも吐息ともつかない音と、中で掻き回されている湿った音が2人の間に長く響いた。激しい動きではないが重く濃厚で、容赦なく追い詰められる。どちらがどちらの味かも分からないほどの蹂躪が終わり、ゆっくりと八尾の舌が葉月の唇から引き抜かれた。とろりと残滓が糸を引き、それを啜るような小さな口付けを最後に落とされる。

うっとりと視線が絡まり合い、八尾の口元が満足げな笑みを象る。

「葉…」

「かちょうううううう!」

「な、なんだ!?」

我に返った葉月が、力の抜けた八尾の身体を引き離す。抱き寄せようとしていたところを引き離され、八尾の両手がわきわきと行き場を失っていた。はあ…と息を付いた葉月が軽く唇を拭い、八尾の肩に手を置く。

「何を…なさっているのですか。課長。」

「何をって、」

「課長。」

「はい…。」

葉月は真剣な顔と真っ直ぐな視線を向け、素直に返事をした八尾にゆっくりと言い聞かせた。

「女性を、そのようにからかってはいけません。」

「か、」

「他に女性がいらっしゃるのでしょう。何があったかは分かりませんが、とにかく…」

「な、違う。女などいない! 断じていない! 誓っていない。俺が好きなのは、坂…」

「しかし、髪が…、髪の長い女性がいらっしゃるのでは…?」

八尾が瞳を丸くして、必死で頭を振った。

「…俺に付いていた髪の毛のことを言っているのか?」

葉月が黙り込む。それを肯定の意味に受け取って、八尾が思わず葉月の両腕を掴んだ。

「違うんだ。あれは、あれは…」

女にも負けない綺麗な顔なのに、こうして見るとやはり男らしい。真剣な面差しは引き込まれる魅力があった。その雰囲気に負けて、葉月も口を閉ざして八尾の言葉を待つ。

「あれは、俺の髪だ。」

「…。」

八尾の顔があまりにも真剣だったから、葉月も真剣に聞いたのだ。…それなのに、この言い訳。葉月の表情が一気に訝しげなものになり、疑わしそうに眉をひそめた。その表情を伺って、さらに八尾が焦る。

「本当なんだ。俺の髪なんだ。」

「課長。」

「なんだ。」

葉月はちらりと八尾の短めの頭髪に目を向け、次に真っ直ぐに赤みを帯びた瞳を見つめた。その表情に、八尾が少し気おされたように身を引く。

「どう見ても課長の髪は私よりも短く見えるんですが。」

「しかし、本当なんだ…! あれは俺の髪だ。信じてくれ。」

「言い訳するならもっと上手い言い訳を考えてください。」

「だからっ…!」

「課長、あの時も課長の髪は短かったでしょう。普通の人間の髪が、そんなに伸びたり縮んだりしますか。」

「普通の人間じゃないんだ。」

「……?」

「坂野…いや、葉月。お前が相手だから言おう。いずれ知られてしまうことだからな。」

さりげなく葉月の名前を呼び、しかも、今まで見たことのある一番真剣で…真摯な表情で、八尾が葉月の頬に手を伸ばした。優しく触れて、そのまま髪に指を滑らせる。そうして、何か重大な秘密を葉月に教えるかのように耳元に唇を寄せ、秘めやかなしっとりとした声でささやいた。

「俺は人間ではない。…魔界の王。魔王ルチーフェロという。」

「え。」

葉月の口がぽかんと開いた。

よく考えてみよう。

男の首筋に女のものと思われる長い髪を見つけ、それが誰のものかという問答になる。ここまではよくある話だ。別に八尾と葉月は恋人同士…というわけではないが、今はあまり関係ないだろう。そして、その言い訳をしているのは、女に関しては百戦錬磨(だと思われる)八尾課長。

その口から飛び出した言い訳が、

魔王。

葉月は大きくため息をついて、首を振る。なるほど、最近八尾の行動がおかしいと思っていたのだ。葉月は顔を上げて八尾と瞳を合わせた。そしてゆっくりと立ち上がる。八尾に掴まれた腕もそのままに立ち上がったから、まるで抱き寄せられているかのように2人の距離は近い。そしてその眼差しは実に心配そうに八尾を見遣り、重傷を負った兵士を看取る戦場の看護婦さながらの労わりの表情に満ちていた。

「…課長、熱でもあるんですか?」

葉月は、八尾の額に手をあてた。