八尾は完全にタイミングを間違えた。
葉月の唇を奪った高揚感から、髪の毛事件で一気に肝を冷やした八尾は、思わず自分の正体を名乗ってしまったのだ。人の子に魔王であるなどと名乗り、怯えさせてしまったか…と見当違いのことを思ったが、意外なことに葉月は真面目な顔をして、八尾の額に手を当てていた。
ひんやりとした手の平がすべすべとしていて心地よく、ずっとこのまま触れていてくれないだろうかと望んでしまう。出来れば額だけではなく、あらゆるところに…あんなところやこんなところに触って欲しいと思ったが、賢明にも口には出さないでおいた。
「葉月、大丈夫だ。熱は無い。」
「そうみたいですね。…しかし、他に変なところは? めまいがするとか。」
「…葉月、心配してくれているのか?」
「当たり前じゃないですか。」
熱も無く、めまいも無い。…しかし自分を魔王だと名乗る。あらゆる意味で心配だ。しかし、その意味を八尾は好意的に解釈した。葉月が自分のことを心配してくれている。八尾は額に触れられている手を取り、愛しげに頬を摺り寄せた。
「葉月。…心配してくれているのは嬉しいが大丈夫だ。魔王にとって、人の界に存在することなど容易いこと。どこも悪くなっていない。それよりも…。」
八尾は、紳士が淑女にするように、葉月の手の指に小さく口付けを落とした。本当は愛し合って、その身体も心も自分を受け入れてから正体を明かそうと思っていた。だが、言ってしまったものは仕方がない。順序が多少変わってしまうが、まあ、多少だ。誤差の範囲だろう。ずっと言いたかった秘密をやっと明かした…という安堵感もあってなんとも晴れやかな気分だった。八尾はそのまま、握った手をさわさわとさすりながら葉月の視線を捉える。魔王の眼力は、溶けるような赤い眼光となりその輝きを少し増した。葉月がその視線に、見入っている。
「俺は魔王。魔の界を統べる者。名をルチーフェロという。」
「…。」
「妻となるべき女を捜し、この人の界にきた。」
「…。」
「そう…その、つまり…俺は、お前を…。」
「…。」
自分の瞳に見入っている…と思った葉月は、見入っている…とは、微妙に空気が違うようで、何か珍しい生き物を見るかのような表情でこちらを伺っていた。晴れやかな気持ちは急速に静まり、少し落ち着かない。魔王としてその態度はいかがなものか、恐る恐るとした声で葉月の名を呼んでみた。
「あの、葉月?」
葉月は、じ…と八尾を見上げている。八尾が期待するような色っぽい声も自分を求める響きもそこには無かったが、間近で見る葉月の瞳は深くて率直で、魔王を魅了するには十分だった。端的に言うと見惚れた。
「八尾課長。」
呼ばれて、現実に戻される。
「…なんだ。」
「やっぱりどこか具合が悪いのでは?」
「悪くない。いたって正常だ。」
「私にはそうは見えません。」
「当然だ。」
八尾はふんぞり返った。
「なぜならば、俺は魔王だ。人間から見たら、通常の存在ではない。」
「いや、だからそうではなくて…。」
葉月が疲れたようにため息をついた。何を言おうか逡巡しているようで、何度か首を捻っている。葉月としては、当然の反応だった。普通、髪の毛が付いていた…という言い訳に「魔王だから」とは言わない。それなのに、八尾は自分のことを魔王だと真剣に訴えている。…どう考えても、尋常ではない。
「普通の人は、唐突に自分を魔王だ…なんて言いだしません。」
「普通の人ではなくて魔王なんだ。」
「課長。長い髪の毛がどうだって言うんですか。からかわないでください。」
「からかってはない、本当に…」
八尾は黙り込んだ。どのように説明すれば、葉月に理解してもらえるのだろう。八尾は葉月を逃さないように、ゆるく腕に囲った。囲われた葉月は、逃げなかった。八尾の顔が真剣だからだ。葉月も同じように真面目な表情で、八尾を見上げている。そんな葉月に言い聞かせるように、八尾は頷いた。
「魔王の姿を取ると髪が伸びるんだ。」
言った瞬間、ブフッ…と葉月が噴出した。「す…すみません…」と言いながら、僅かに顔が赤い。八尾が真剣だから笑ってはいけないと思ったのだが、真剣ならば真剣なほど、「魔王の姿だと髪が伸びる」という言葉がツボにはまった。
しかし八尾にとってどんな理由であれ、葉月の笑顔はよいものだ。心が浮つく。なぜ笑われたのかはよく分からなかったが、葉月が笑うのならば自分も嬉しい。2度言うが、なぜ笑われたのかはよく分からない。たが、ともかく葉月の笑顔に心が温まり、頬に手を当ててうっとりと八尾も微笑んだ。
「笑うお前も可愛いな。」
「かわ…、ちょっと課長、変なこと言わないでください。」
「変なことは言っていない。お前が可愛いのは本当だ。…ともかく葉月、信じてくれたか?」
「何をですか。」
「俺が、魔王だ…ということだ。」
「ですから…。」
照れた葉月もかわいい…と思っていたら、名残惜しいことにその表情が消えて、再び困ったような顔になった。どうやら…まだ信じてもらえてないようだ。どうすれば信じてくれるのか。自分の正体を明かして、愛を告白して、結婚を申し込んで…そして、こうこつ、恍惚の…。
八尾は意を決した。これもいずれ通る道だ。
「葉月…俺の髪が伸びるのは本当だ。…実際に目の当たりにすれば、信じてくれるのか。」
「え…?」
八尾は葉月に回した腕に力を込めて、互いの身体を近づけた。突然の動きに葉月の身体が強張る。八尾は葉月の背中を一度優しく撫でると、自らの内なる力を表に現出させた。
仕事のために着用していたスーツは、軍服を着崩したようなものに代わり、前が大胆に肌蹴た浅黒い肌に直接葉月の頬が触れる。さらりと落ちてきた黒い髪、耳元から長く伸びる黒い羽。背にも、コウモリ羽が1対と鴉のような黒い羽が1対。そして紅みを帯びた瞳が異様な存在感を放ち、驚いて八尾を見上げる葉月を見下ろしていた。顔の造作は人間であった時とあまり変わらないが、肌の色と紅い眼光が雰囲気を全く別のものに変えている。
「これが、俺の正体だ葉月。どうだ、髪が長いだろう。」
「か…課長。」
「この姿のときはルチーフェロと呼んでくれ、葉月…。信じてくれたか?」
「し、しんじてっ…て、髪が長いとかそういう問題では…。」
「葉月…ああ…。」
魔王の欲望がせり上がる。この姿を取ると溢れる魔力と情欲を抑えきれないのだ。この身体のまま愛する女に触れたいという欲求が溢れ、興奮してくる。少しでいい。葉月に…。
「お前の中に…」
八尾の…いや、ルチーフェロの身体が葉月に覆いかぶさった。そのまま貪欲に舌を伸ばし、葉月の唇を侵略する。愛らしく開いた唇は魔王をたやすく受け入れた。いやらしい水音を立てて中をまさぐってみると、唾液が流れ込み口の端から溢れ、それでも腕に抱いた柔らかな身体がさらにルチーフェロを誘い、興奮に吐息が荒くなった。夢中で葉月の唇を味わっていたが、途中で気づく。葉月は応じもしないが抵抗もしない。むしろ、徐々に力が抜けて…抜けて?
「葉月? 葉月っ!?」
じゅる…と葉月の唇からルチーフェロの舌が離れ、その身体が崩れ落ちていく。どうやら気を失ったようだ。葉月の無抵抗の身体を抱きとめながら、その息があることにほっと息を吐いた。
「あーあ、伸びちゃった。」
いつの間にか2つの気配がルチーフェロの背後にあった。まず声を掛けたのは、身体に薄青色の鱗を生やし、ルチーフェロよりはやや簡素な軍服めいた意匠の服を着た男だ。声は一尋のものである。髪は少し濃い青で、くるくると巻いており、耳の辺りには鰭が生えていた。
「レヴィアタン…。」
「ルーちゃん、完全に告白のタイミング間違えてたよね。」
「そ…それは…」
ぐ…と言葉に詰まり、葉月を腕に抱いたまま肩を落とす。
「しかし、これはまたとない好機では…?」
レヴィアタンの隣に並んだのは、レヴィアタンと同じような服を着用し、覗く浅黒い肌にびっしりと刺青を施した、たくましい体躯がはち切れそうな男だった。背からは、薄いトンボのような羽が1対。肩からは4本の手が伸びていて、1対の手が腕を組んでいる。
「ベルゼビュート…家に、連れ帰れ、と?」
「いずれにせよ、ここに放置しておくわけにもいきますまい。説明を施すなり、この隙に性交を行うなり…どうとでも出来ましょう。幸い、明日は土曜日です。」
「お、言うねえベルゼ。」
いつになく大胆なベルゼビュートの言葉に、レヴィアタンがひゅ…と口笛を吹いた。しかしルチーフェロは、なぜか仰け反る。
「こ、この隙にっ!?」
「魔王のクセにここで、躊躇うところがなんていうか、ルーちゃん…。さっきは強引にキスしていろいろ飲ませてたくせに…」
「それはっ…真の姿に戻ると、欲求が抑えられなかったんだ。これでも抑止した!」
「まあ、葉月ちゃんが気を失ったからとはいえ、よくあそこで終わったもんだよ。」
「そうだろう!」
「しかし、魔王様のこの魔力…。いよいよ坂野が花嫁…ということになりますな。」
ベルゼビュートの太い声に、ルチーフェロが潤んだ眼光を向けた。その強い光に、従者の2人の眉がぴくりと動く。ルチーフェロはその腕にいまだ交わることの叶わぬ花嫁を抱き、情欲ギリギリの魔力を垂れ流している。それは花嫁と交わることの歓喜を待ち望んでいる。魔王が望むということは魔界全体が望んでいるのだ。魔王の欲望そのものが魔界の欲望だ。魔王の情欲が叶う時の魔力は、魔界を満たす。それがまさに、叶おうとしている。
「葉月…。」
ルチーフェロはうっとりと腕の中の女の頬を撫でた。黒い羽が一枚落ちているのをそっと払う。
「よし…。確かにこのままにしておくわけにはいかないな。…家まで送るにしても妙齢の女性の部屋にあがりこむわけには行かないし、それならば葉月の目が覚めるまで、俺の部屋に連れ帰って保護するほうがよかろう。」
うむ…と納得して、葉月を横抱きに立ち上がる。晴々とした顔のルチーフェロと、「はっ…!」と従うベルゼビュートの2人に、レヴィアタンが呆れたように言い放った。
「気を失っている妙齢の女性を自分の部屋に連れ込むのも、褒められたもんじゃないけどね…。」
けれど。
「まあ、いいか。」
…ニヤリと笑んだ。
****
あれは2人で取引先を訪問した帰りのことだ。
打ち合わせが予定より早い時間に終わったので、2人でサボるか…と、コーヒースタンドに入ったことがあった。
「坂野、先に注文しろ。」
「ソイラテを、ぬるめで。八尾課長は…」
葉月は迷わずに注文をして、八尾を見上げる。葉月のオーダーを聞いて、八尾もメニューを覗き込む。実は熱い飲み物が苦手な八尾は、冷たいものにしようと思っていたのだが…ぬるめのオーダーが出来ることを知って、それを真似してみた。
「ではおなじものを。ぬるめで。」
店員が愛想よく2つのオーダーに応じて、ライトホットのソイラテを出した。柔らかなソファ席に座って目の前の葉月が、ソイラテの入ったカップを両手に持って手を温めている。坂野葉月。仕事は出来るし周囲へもよく気配りが出来るが、他の女性と比べてあまり愛想の無い女性社員だった。だが物事をよく観察しようとするのか、いつも真っ直ぐに自分を見返してくる。この世界の人間はその身に帯びる魔力が極端に少なく、他の界に住む同種の人間族に比べて、魔法などの力は大半が想像上のものでしか無い。しかし葉月の視線は魔力とは別の強い力を持っていて、それを受け止めるのは不愉快ではなかった。
ソイラテを口に運ぶ。
「熱いな。」
ぬるめ…と言ったが、やはり熱い。少しだけ眉をひそめると、眼前の葉月の瞳が柔らかに細まる。
「熱いけど、喉に入らないほどではないんです。」
「そうか?」
そう言われて、もう一口…じんと熱い温度を少し堪えて飲んでみると、なるほど、確かに熱くて飛び上がるほどではない。むしろ、この熱さが心地よい。きちんと、熱い飲み物を飲んでいる…という感がある。
「大丈夫ですか?」
「ああ。飲めた。」
「よかった。」
八尾の言葉に葉月が確かに笑った。だが、すぐに表情が元に戻ってしまった。
「八尾課長も猫舌なんですか。私といっしょですね。」
いつもならそんな些細な言葉に動じるような八尾ではない。自分と同じ幹部候補の女性課長から口説かれても、豊満な身体付きの色魔に迫られても動揺したことなど無い。それなのに、何故かそう言った葉月の言葉と声と表情から、目も意識も離せなくなった。思わず葉月を見つめたが、当の本人はすでに自分の言葉に興味を失ったようで、ソイラテを飲むのに夢中だ。やはり熱いのか、少しずつ飲んでいる唇も咀嚼する首筋も…実に柔らかそうだった。
とくんと、自分の内の魔力が熱を帯びたのを感じた。
もう一度、笑ってくれないだろうか…と八尾は思った。もう一度視線をこちらに向けてくれないだろうか…とも思う。ソイラテに落とす瞳も、時々周囲に滑らせる視線も、次の瞬間にはこちらを向くかもしれない。そう思うと、目が離せない。
「課長?」
八尾の視線に気づいて、僅かに心配そうな色を帯びた葉月が首をかしげた。肩口辺りで切りそろえられた髪は綺麗な黒で、首を傾けるとそれが揺れて音を立てそうだ。八尾はごまかすように眼鏡を直し、「いや…なんでもない」と言葉少なに応じる。
葉月の裸体を見た訳でもなければ口付けた訳でもないのに、それを目の当たりにしたような生の欲望が湧き上がった。精力を彼女に解放したいという、紛れもないこれは魔王の情欲だ。
理由など、もはやよく分からなかった。
それから以後、八尾は葉月の表情が動く様子が見たくて、ずっと意識を向けるようになった。そして、時折自分に向けてくる葉月の表情に心が奪われ、もっともっとと渇望した。自分の腕の中だけで独占し、葉月の全てを我が物にしたくてたまらない。
レヴィアタンに話すと、「魔界の魔王が、そんな高校生みたいな恋の落ち方するなんてさー。」などと笑われたが、何がきっかけで恋に落ちるか…など、正しい答えがあるはずが無い。
魔界の魔族の力は闇の力。闇の力は大きければ大きいほど深さを増す。性欲や伴侶の選択へと向かえば、ただ一つの存在に深く執着するようになるのだ。
その存在が、今、八尾の…魔王ルチーフェロの腕の中にある。
自分の姿を見て動転したのか、事態の展開に心が追いつかなくなったのか、あるいは魔王の魔力をいきなり注ぎ込んだからか、葉月は気を失っている。今はその葉月の身体を、八尾という人間として使っている自宅の、自分の部屋の自分の寝台へと横たえていた。
「葉月…。」
ルチーフェロは寝台の脇に腰掛けている自分の身体をゆっくりと倒して、葉月の顔を両手で包み込んだ。長い髪がその傍らに落ちかかって、葉月の頬をくすぐる。そのまま顔を下ろして、ぺろりと唇を舐めた。先ほどのようにこのまま無理やり舌を押し込みたかったが、そこは堪える。
ここは人間界なのだ。…順序は守らなければ。だから、早く目を開けるといい。葉月の顔を両手に包み込んだまま、唇を柔らかな頬に押し付けて感触を楽しむ。しばらくの間そうしていると、ふと、葉月の着ているスーツが視界に入った。
「ふむ…。」
このまま寝かせていては服が皺になってしまうな。しかし脱がせると風邪を引くかもしれない。
それならば。