身体の奥がじくじくと熱い。揺らされる度に中が溶け、ぬるぬると何かが動いているのを感じる。
意識は混濁しているが、不快ではない。目が開けていられないほど眠いのに与えられている感覚だけは何故かはっきりとしていて、それは身体の奥を下半身から抉られるときの、あの感覚だった。けれど、激しさは無い。高みを目指していくような、あの強引さも無い。ゆっくりと優しく、肌と肌が触れ合い粘膜と粘膜がじっくりと混ざり合う時の、もどかしくて切なくて柔らかな心地よさだ。
誰かの手が自分の頬を大きく包み込み、その人の唇が自分の唇に吸い付く。唇だけではない。頬も、瞼も、額も、耳元も。堪えるような荒い息遣いが肌をくすぐり、獣が少し味見をするように、ぺろりと濡れた舌が這う。
そうしている間も、下半身をゆっくりと嬲られる感覚は続いている。
自分の頬に触れていた手が、身体に回され抱きしめられた。
つながっている部分の動きが早くなる。だが、かなり濡れているのか滑らかにそこは動く。夢の中なのだろう、サイレント映画のように吐息の音も互いの嬌声も聞こえない。ただ、じわじわと…ゆっくりと、…その感覚は、確実に押し上げられていく。
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確かに1年半ほど恋人はいないが、自分はそれほど欲求不満だっただろうか。
誰かと優しく抱き合う夢を見た。情熱的に…というものではなかったが、確実に繋がりあい、求め合った内容だった。そして、目が覚めたら、自分の全く知らない部屋の寝台の上にいたのだ。
葉月は置かれた状況を把握できず、ゆっくりと視線を彷徨わせた。見知らぬ天井、見知らぬ窓、見知らぬ寝台、自分の部屋とは違う空気と香り。そして、身体を温かくて力強い何かにつかまえられている。しかもその温度が、何故か自分の肌に直接伝わってくる。どうやら下着しか身に着けていないようだ。
「…な…っ!」
知らない寝台の上、知らない部屋で、男と思しき身体に抱きしめられている。しかも、…(ほぼ)裸で。どうしてこういう状況になったのか。突然の出来事に、自分が眠る直前のことをまったく思い出せずに、身体をがばりと起こす。しかし、自分をつかまえているたくましい腕がさらに強く絡みつき、葉月の身体はもぞもぞと揺れただけだった。
「葉月…?」
甘いバリトンが首筋にぞくぞくと響いた。思わず、がっしと相手の頭を掴んで離すと、それはどう考えても見覚えのある顔だ。
「…や、八尾課長っ…!?」
「ああ、…気分はどうだ、葉月。」
「き、き、き、きぶんは…って、わた、私なんで…。」
「…葉月、触れるならもう少し優しく…」
「課長! 起きてくださいよっ!!」
「起きている。」
腕の拘束が外れた。すかさず葉月は上掛で身体を隠して起き上がり、ずささささーーーーっと寝台の端に寄る。その様子を見ながら、少しばかり残念そうな表情を浮かべて八尾も身体を起こした。上掛の半分は葉月が取ってしまったから、八尾の身体の半分を隠すものは無い。下半身は分からないが、上半身だけ露になった八尾は当然のように何も身に着けておらず、無駄な贅肉など微塵も付いていない引き締まった身体を晒していた。眼鏡も外し、いつもは整っている短髪も今は寝起きだからかだらしなく崩れていて、無防備な色気を放出している。
あの夢。
見知らぬ寝台。
下着姿の自分。
隣には裸(下半身は不明)の八尾。
「ど、どどどどど、どういうことですか、これは…私、…何を…!」
「落ち着け葉月。」
「落ち着けません課長!」
「…ちゃんと説明するから。」
「ち、近付かないで!」
近付こうとした八尾に、思わず葉月が言い放った。八尾の動きが止まり、傷付いたような表情を浮かべる。その表情に、逆に葉月が傷ついた。まるで懐いた子犬を見捨ててしまったようなひどい罪悪感を感じたのだ。よくよく考えれば状況は明らかに葉月に不利であるのに、何故か焦って言い訳を口に仕掛ける。
「あ、えっと…。」
だが、何を言ったらいいのか分からない。
すると傷付いた表情を少し寂しげな笑顔に変えて、八尾がきちんと身体を起こして葉月に向き直った。
「大丈夫だ。まだ何もしていない。」
「まだ?」
葉月は、ちらりと自分を隠している上掛をめくって、身体を覗き込んでみる。何かの痕などは無い。それに、身体に違和感も無い。意識の無いときに…とはいっても、情事を迎えた後であれば何らかの感覚は身体に残っているはずだ。だが、特に何も感じられなかった。ということは、本当に何も無かったのだろうか。あの夢は…ただの夢で?
「でも、服はっ…」
「皺になるから脱がせた。」
得意げだ。
「な、んで、課長まで脱いで…。」
「葉月が風邪を引くとよくないだろう。こういうときは、裸で抱き合うのが一番いいんだ。知らないのか?」
さあ褒めろといわんばかりだ。
「…まだ…っていうのは…?」
「今すぐにでもお前と交わりたいが、夢の中だけで我慢した。」
真面目に言い切った。
「…。」
「葉月…?」
いろいろおかしなことを聞いたような気がするが、ここまで堂々と胸を張られると納得しない自分が悪いような気分になってくる。いや…それにしても、今は起きたばかりだからなのか、すぐに脳が答えを出さない。そんな覚醒前の脳に、無邪気にも聞こえる八尾の声が響いた。
「まだ何もしていない。俺は順序を守るからな。」
「ああ、そうですか…順序。…順序?」
「そうだ。順序。」
八尾が神妙に頷く。
葉月が寝かされていた寝台は普通のシングルサイズに比べれば格段に広いが、そうは言っても限界がある。近付かないでという声を無視して、八尾が前のめりになってゆっくりと葉月との距離を詰めてきた。葉月は慌てて自分の身体を隠す上掛をぎゅ…と握り、寝台ぎりぎりまで身体を逃す。だが、そんな距離など2人の間には関係が無いのだ。押し倒すギリギリで、八尾の腕が葉月を捕らえ、その身体が寝台から落ちないように背中に回した。
今ちらりと見えたが八尾は下着は履いていたようだ。よかった。
全然よくない。
「葉月…。」
「課長、順序って何を…あっ…」
「お前のことを(妄想の中でいたしてしまうほど)愛している。」
八尾の裸の胸に葉月の頭が抱き寄せられた。強引なのに腕は優しく、肌同士が僅かに触れ合う感触も香りも、決して不愉快ではない。背中に回っていた手が頭を抱え、髪を柔らかく梳いていく。髪に触れられるのはこんなに心地よいものだっただろうか。何故か動く気になれず、そのまま身を委ねてしまいそうになる。しばらくそうしていると、八尾の吐息が髪にかかった。
「だから、結婚してくれ。」
しかし唐突すぎた。
この雰囲気、確かに色めいたものだ。キスしたことも思い出した。…だが素直に頷くことが出来ない。しばしの間、八尾の言った言葉を反芻し、…ひとしきり考え、葉月は一気に覚醒した。
「って、結婚…!?」」
「現のお前が欲しい。結婚してくれ。そうして永劫、俺の側に…」
「か、」
突然の告白に二の句が告げずに唖然としている葉月をうっとりと見つめ、八尾が至極当然のことのように言った。
「葉月。俺はお前が欲しい。魔王の花嫁としても女としても、お前が欲しい。心も身体も、何もかもが欲しい。欲しくてたまらない。お前と交わりあい、愛し合いたいのだ。」
八尾の両手が葉月の頬を挟み込み、ぐ…と持ち上げた。この感覚に葉月は覚えがある。予想通り、ゆっくりと八尾の唇が下りてきて、ぬるりと舐められた…が、葉月が抗うように暴れた。ただ、暴れた程度では2人の身体は離れなかった。むしろ離さないように八尾の腕がさらに葉月に絡まり、じたばたと暴れる足と足の間に男の身体が割り込む。
「ちょ、ちょっと、待って、だからその魔王って…結婚って…ま、ま、交わるって、課長、最初からちゃんと説明してください…!」
「課長ではなく、ルチーフェロと呼んでくれ。」
「そんなの無理ですよ、どうみても日本人じゃないですか!」
「日本人…? そうか、ならば真の姿を取ればよいのか。」
「だから待って、まずは、状況の説明をしてください!」
「葉月、なぜそんなに怒っているんだ、俺は順序を守ったのに。」
「怒ってないですし、順序とかどうでもいいですから、まずは…」
「どうでもいいのかっ!? 夢でお前を抱かずにはいられないほど我慢したのに、どうでもいいのか!?」
「そんな泣きそうな顔で…課長、ちょっと近い…近いですって、課長…!」
「葉月だって夢の中であんなに激しくねっとりと…ふがっ」
「もう…っ、もうっ、分かりました、分かりましたから、まずは説明…課長…!」
「ルチーフェロと呼…」
「だから、無理ですってば…!!」
鼻息も荒く迫る八尾の顔を鷲掴みにしてそれ以上近付くのを防ぎ、顔を真っ赤にした葉月がほとんど叫ぶように訴えた。
****
今がいったい何時なのかよく分からない。
葉月が「何か着るものを」…と言うと、八尾が渋々バスローブを渡してくれた。しかし、2度「本当に着てしまうのか?」と言われ、2度「やっぱり着ないほうがいいのではないか?」と訴えられたが、心を鬼にしてスルーし、「課長も着てください。」と言うと、「おそろいだしな。」…とよく分からない納得をして、ようやく裸を隠してくれた。互いにあつらえたようにサイズがぴったりだったことには目を瞑る。ここまで来たら、些細なことだ。
そうして、相変わらず寝台の上で向き合っている。魔王と魔界とルチーフェロ。魔界の王の伴侶は1人だという話と、ついでに三羽と一尋も同じ魔族だという話を聞かされ、目の前で長い髪と浅黒い肌と羽根を見せられた。一度寝台を離れた八尾が持ってきた、焼き加減が絶妙な美味しいトーストを食べ、嬉しそうに「葉月も猫舌だったろう。」と言われて、ふうふうされたブラックの珈琲を渡されて一息ついた頃には、葉月も八尾の話を信じざるを得ない心理状態になっていた。少なくとも、…八尾が普通の人間ではない…というところは理解できる。普通の人間は、いきなり羽根が生えたりしない。
だが、なぜ、自分なのか。
その疑問を葉月が口にすると、今は八尾高司という人間の姿の男が心底不思議そうな表情で首をかしげた。
「理由が必要なのか? …葉月の表情が動くのが気になって、それを見せて欲しくて、どうしても目が離せなくなって、自分の相手にはお前しか考えられなくなった。葉月以外は欲しくなくなった。…これだけではダメなのか。他にどういう理由が必要なんだ。」
「そ…。」
そのあまりの率直さに葉月が黙り込んだ。反論も出来なければ、抗うことも出来ない。
「葉月。」
隙を見せてしまったからか。向き合っていた身体を葉月の隣に寄せ、八尾がその身体に片方の腕を回す。
「俺のことが、嫌いか?」
「そんなわけが……」
「葉月、そうか!」
「嫌いではない」という答えに、八尾が葉月の身体を押し倒した。抵抗する暇を与えることなく、ぎらぎらとした燃えるような紅い瞳で葉月を捕らえる。
「ならば好いてくれているのか。そうなのだな!」
「いや、それは…。」
「違うのか…? それでは、嫌いなのか。どっちなのだ。」
どっちなのか。
なぜここで性急に答えが求められるのだろう。そんな疑問を挟む余地は無かった。それならば…自分は、八尾が好きなのかどうなのか。改めて考えてみる。仕事のできる八尾課長のことは尊敬している。女性社員が騒ぐルックスは別段どうとも思わないけれど、書類を読んでいるときの真剣な横顔は嫌いではなかった。…いや、むしろ好きだ。それに、自分と同じ猫舌だということも知っている。完全無欠の八尾課長にも、そんな弱点があったのか…と楽しく思ったものである。
そして最近の八尾は…突き放すには、罪悪感が募りすぎた。
「葉月、俺はお前を好きだと言った。…お前は、どうなのだ。」
両手首を押さえられてはいるが、抵抗する気にはなれない。はっきりと「嫌いだ」など当然言い切れない。迷っているわけではない。言ってしまうとその先に進んでしまう。それが怖くて、躊躇ってしまうのだ。
葉月が言葉に窮していると、八尾の身体がさらに近付いた。
「分かった。葉月。…こうしよう。『好き』か『嫌い』か。この2択ならばどうだ。」
八尾に離すつもりは無い。有無を言わさぬ強さがあった。好きか、嫌いか。その2つしか、無いのであれば…? いや、違う。選択肢は、2つではない。
「その2択しか無いんですか?」
「それ以外の選択肢に、何があるんだ。」
「そ…れは、…それなら、」
「嫌い」などといえるわけが無い。そもそも選択肢など、最初から1つしか与えられていないではないか。
葉月の唇が、八尾の望み通りに動く。
その言葉を言い終わらないうちに八尾の身体が強引に重なり、葉月の声も吐息も全て飲みこんだ。
『まだ、何もしていない。』
「まだ」と言った八尾の言葉の意味が、今、分かった。
逃げることは叶わないのだ。
****
銀色の器に満たした水の向こうに、男が女に覆いかぶさる映像がゆらりと揺れた。三羽…ベルゼビュートがその器に、かぽん…と蓋をする。
「始まったな。」
魔界が歓喜に満ち溢れている。
魔王が花嫁と結ばれようとしているのだ。
「…ルーちゃんにしては、思い切ったね。なーんか無理やりヤったのとあんまり変わらないような気がするけど…、まあ、いつになく魔力が高まっているのは…やっぱり、葉月ちゃんだからかな。今までの恋人だの愛人だのじゃ、ぜーんぜん、これっぽっちも高まらなかったもんね。」
「レヴィ。魔王様は誠実で何事も礼節を重んじておられるのだ。」
「あのさー、欲望に忠実な魔族の王様が、礼節重んじてどうするの。そこは、強引に、ガバーッ! ムシャーッ! がセオリーじゃん。つーか、結局、ガバーッ!するんだったら、最初っからやっとけばいいのにさ。」
「最初から強引だと、ここまで魔力が高まりはしないだろう。」
「それは…そうかもね。そして、ルーちゃんも、もう我慢の限界だったみたいだ。」
一尋…レヴィアタンは感じる魔力を吸い込んだ。降り出した雨を手の平で受けるような仕草をしてみせる。
ここは魔王ルチーフェロが人間として使っている、マンションの一室だ。従者2人の住まいは両側隣だったが、今は魔王のサポートをするために別室で待機していた。サポート…というのは、主にトーストを焼いたり珈琲を淹れたり、といったようなことだ。
あれからルチーフェロは、気を失った葉月を連れて帰って寝台で寝かせた。2人きりにしてくれ…というので、もちろん、望みどおり別室へと下がった。ただサポートのために部屋の様子を時折探る。あくまでもサポートであり、覗きではない。
ルチーフェロは葉月の服が皺になってしまうから…といって脱がせ、(部屋はエアコン完備なので寒くは無かったが)寒いといけない…と自分も服を脱ぎ、葉月の身体をその腕に抱き、葉月と同じように瞳を閉じた。葉月の側近くで、そうしていたからだろう。魔王の願望が葉月の夢に影響を与えたようだ。
やっと朝になって葉月が目覚め、現状に至る…というわけだ。
そうして、魔界が歓喜に揺れ始める。
ここは魔界ではなく人の界だが、魔王の側近くに居る2人の従者にもそれははっきりと感じられた。