いつか、同じ星を

001.蜥蜴族の男

いつも見ていた。

やさしく自分を覗き込む瞳。話し掛けてくる柔らかな声。
ゆらゆらと動くキレイな指先が、大切なもののようにそっと頭に触れてくれる。

たったそれだけのもどかしい毎日。

だが、ある日言ってくれた。

―――――― 明日、キミを連れて帰ろうか。

それをあなたが望んでくれるなら、どこにだって行く。
側にいて欲しい。毎日触れて欲しい。

分不相応な愚かな願望がまさか叶えられるなんて思ってなくて、明日が来るのが待ち遠しくて、楽しみで、ずっとずっと待っていた。

それなのに。

その人とは、2度と、会えなかった。





グリマルディという世界がある。

様々な種族が交じり合って生きているこの世界にいくつか存在する国、そのひとつ、クーロン国は狼族の王が治める国だ。グリマルディは多様な種族がいるからといっても、もっとも多い種族は人間であり、大国のほとんどが人の子の王が治めている。そうした中にあって、クーロンは初代王……狼と人の子の王妃が礎を成した国で、それゆえ、異なる種族が交じりあうことに対して寛容な国だ。そうした気質からか、クーロンには人間以外の種族の往来もまったく珍しくなく、特に港街ゼルニケには他の大陸から流れてくる、稀少な種族の者も時折見受けられた。

そのゼルニケに、小さいながら居心地のよい寝台と美味しい料理が評判の宿屋があった。<ちいさな海猫亭>と言われるこの宿屋からは、いつものように、元気のいい若い女の声とそれに応えるがさつな客達の賑やかな声が響き、泊まり客以外も利用できる食堂は心地よい喧騒に包まれている。

「ミチル! ケタケタのムサ葉包み焼き出来たよ!」

「はあーい! ケタケタ、誰でしたっけー?」

「おー、ミチル、こっちこっち!」

「また、ケタケタ? エティエンヌさん、ほんっと好きだよね、ケタケタ料理」

「いーじゃん、別に、美味いし」

「はい、どうぞ!」

その小さな宿屋で、ミチルは働いている。

少し巻き気味の黒い髪をスカーフで一まとめに括り、肌の色は象牙色。顔立ちもこの世界では珍しく、あまり彫りが深くない。瞳の色は一見黒に見えるこげ茶色で、少し大きくて猫のようにきゅ……と上がった目じりの印象が強い。

ミチルがこの宿屋で働き始めたのは1年ほど前だ。その前までは、どこで何をやっていたのかは、誰も知らない。

****

彼女の本当の名前は、吉崎ミチルという。ミチルは1年前、地球……日本を23歳で去った。

夢だった仕事があった。ずっとバイトでがんばってきたが、そのがんばりが認められて正社員として採用された。なんのことはない、小さなショップの店員である。その夢が叶って正社員として出社するはずだった日の朝、交差点で信号待ちをしているところにトラックが突っ込んできたのだ。

走馬灯……というのだろうか。周囲の景色がゆっくりと見えて、もしかしたら避けられるのではないか……などと馬鹿げた考えすら浮かぶ。でもミチルは身体をぴくりとも動かせずに、反射的に目を閉じた。

瞬間、心臓を引っ張り出されるような感覚に胸がきつく締まり、なにか澄んだざわめき声が聞こえるところを通り過ぎたような気がして、それらが全て無くなった時に目が開いた。

……そこが、今、ミチルが働いている宿屋だったのだ。

この宿の地下には、神棚がある。別に特別なものではない。このグリマルディでは多くの神様の信仰が盛んで、特にこうした商売をしている建物には商売がうまくいきますようにとか、多くの財を成せますようにとか、そういった願いを込めて神棚を作ることが多い。神殿から分けてもらったお守りを大切に保管している可愛らしい木箱と、それを置いている石の棚という簡素なものだ。その日も、いつものように宿の主人が女将と一緒に、綺麗な水と出来たての料理を供え、短い祈りを捧げるためにやってきた。一通りのお祈りを捧げた後、「さあ、今日も一日がんばるか……」と神棚に背中を向けた時、ガタンと物音がして、振り向いたらミチルが倒れていたのだ。

もちろん最初は驚き、怪しまれた。最初から言葉が通じたため、ミチルにはここがグリマルディという世界であるということすら分からなかったし、どこか知らない病院に運ばれたのではないかと疑ったほどだ。だが、ミチルが(宿屋の主人と女将から見て)か弱い女性だったこともあり、また、このグリマルディでは、神の御許から人間が「降って沸く」ことがある……という言い伝えが残されていることから、なんとか話を聞いてもらうことが出来た。

グリマルディには、世界各地に、神の御許からやってくる人間の言い伝えが残されている。そうした奇跡の痕跡は神の息吹とも言われ、クーロン国の王族にも伝承が残っていた。クーロンの初代王の王妃はそうした人間だった……ということと、信心深い王には時折神の御許から娘が遣わされる……という伝説だ。しかし、その伝説も6代前までの王にさかのぼらなければならず、現実味の無い出来事である。それでも空想の出来事ではないことを、グリマルディの人間は知っている。

こうして、ミチルは紆余曲折を経たものの、宿屋の夫婦に受け入れられた。宿屋夫婦に子供が居らず、神棚に降って沸いた娘はまさに「神様からの贈り物」だったのだ。

「あいかわらずうまいなー、親父の料理!」

むっしゃむっしゃとケタケタ料理……日本でいうところの鮭に良く似た魚を、大きな葉っぱで包んで蒸し焼きにしたものを、熊一族の兵士が豪快に食べている。エティエンヌ……という名前に似合わず顔は熊。手も熊。熊の手で器用にナイフとフォークを持って鮭を食べている様子は、非常にシュール、かつどこか愛嬌があった。エティエンヌはミチルが働いている<ちいさな海猫亭>の常連客だ。こう見えてもクーロン国ゼルニケ方面駐留隊……町の治安維持と守護を目的とした、国の正式な兵士の1人なのである。エティエンヌ1人でちいさな食堂が一杯になったと錯覚してしまうくらいに大きい。大きな熊の獣人が鎧を来てもっさもっさと歩いている様子を初めて見たときは、ミチルも腰を抜かしかけるほど驚いたが、今では見慣れた光景だ。

<ちいさな海猫亭>の客は船乗りも多いが、こうした兵士達も多い。なんでも店の主人が昔はクーロン王都で料理屋をやっていたことがあるらしく、王都風の洒落た料理が得意だからだ。兵士は王都から派遣された者も多くいるので、そうした料理が受けるのだろう。

「ミチル、こっちまだー?」

「あ、はいはい今運びます!」

「これ持っていくぞ?」

「……どれ? あー、ポメアの煮込みリゾット風? ちょっと待って、あ、はいはい持っていっていいですよ、すみませんねー」

忙しいときは、客も店員のミチルも入り混じってのちょっとした騒動だ。そういう忙しさを常連は分かっているので、自分の料理は自分で運んだり、うろうろと賑やかだった。

そんな中、カランと店の扉が開き、また1人の新客が現れた。

「あ、いらっしゃい、ま……」

せ。

……と言おうとして、ミチルの動きが止まる。

目の前には身長2メートルはゆうに超えた、旅装の男が1人立っていた。身体付きは一見分かり難かったが、太い首と太い足……そして太い手が男の逞しさを物語っており、肉厚さは隠し切れていない。ただ、筋肉は隆々とはしておらず、背の高さも印象に加わってむしろスマートだ。だが、ミチルが驚いたのは背の高さでも筋肉でもなかった。ちらりと覗いた手首はびっしりと綺麗な黒銀色の鱗に包まれている。

扉から差し込む陽の光を遮るようにミチルの前に立ったその男、フードで顔を隠していたがミチルの位置から覗き込めば否が応でも分かる。

男の顔は蜥蜴だった。グリマルディでも珍しい、蜥蜴族の男だったのである。

その姿を見た瞬間、ミチルは雷にでも打たれたような衝撃を受けた。月並みな表現になってしまったが、ともかくその男を見たときのミチルの衝撃は、今まで生きてきた中で未経験の、甘く、切ない歓喜に満ちたものだった。

もっと分かりやすく言うと、ミチルはこの蜥蜴の男に一目惚れしたのだ。