重なり合い、絡みあった唇が離れる。
男は女を寝台の上に組み伏せて、その細い腕を柔らかな羽の枕に押さえつけていた。零れる唾液に幾度か吸い付いて、頬を辿り、耳元に舌を這わせて女の名前を囁く。その度に呼気が耳の中をくすぐって、女が甘い吐息をこぼす。
女の反応に男は満足そうだ。
「言っとくけどな、この身体がどうかは知らねえが、『俺』は初めてなんだよ」
初めて……などという割に、余裕の笑みと口付けだった。獣めいた瞳で女を見下ろして楽しげなその笑みに、女は背が凍るような、下腹が熱くなるような、そんな相反する胸騒ぎを覚える。
「だから悪いが、ガキみてえにがっつくかもな」
そう言って、男は反論しようとする女の唇を再び塞いだ。
****
遮光カーテンはきっちりと閉められていて、部屋の中は暗い。今が何時なのか全然分からず、セタはサイドテーブルに置いてある時計を見た。
「昼前か。……なんか食う前に、まだイケるかな」
時計を置くと体勢を直して、隣に眠っているファルネを背中から軽く抱き寄せる。切ったという短い髪に口付け、首筋に鼻を擦りつけ、そのまま肩を甘噛みして、二の腕の柔らかさまで唇を這わせる。はむ……とそこを食べるように咥えて離すを繰り返し、リップ音を響かせると、「ん」とファルネが小さな声を上げた。
起きてはいないらしく、そのまま二の腕の歯触りを楽しむ。
一通りそこを堪能してから再び軽くファルネを抱き締めて、セタは感嘆の息を吐いた。
「どれだけ柔らかいんだ、こいつは」
二の腕を軽く噛んだり胸に触れたりと悪戯をしても起きないのだから、よく眠っているのだろう。その原因には思い当たっているので、セタは何も言わずにファルネを眠らせている。起きている方が出来る事は多いが、寝ている身体の柔らかさを堪能するのもそれはそれでいい。
セタがこの世界の「ショウ・ダルトワ」という人間の身体にフィードバックが成功してから、10日と1日が経った。
ダルトワ家にあるフウカの研究室の奥で目が覚めたらしいが、しばらくは身体が動かず、やってきたガウイン・ダルトワとアキツという人間に助けられて、数日間のリハビリをさせられていたのだ。
ファルネとエクスの世界で別れてから、1年が経過しているのだという。しかしセタにとっては一瞬のようでもあり、何十年のようでもあった。
ショウ・ダルトワへのフィードバック情報を手繰り寄せ、ネットワークのトラフィックに身を任せた時、まるで己の意識がちぎれるかのような強烈な感覚を覚えた。少しでも気を緩めると自我を失い、何もかもが霧散していきそうで、その感覚にセタは耐えた。
いつまでそれが続いただろうか、意識が持っていかれそうな感覚に抗っていると、唐突な解放感と共にぴたりと治まる。
まるでエクスの世界で生まれた時のような気持ちを覚えたが、目も開かずに身体も動かせない。先ほどとは真逆の固定化された意識と、静かな体内だった。
初めて己の肉と心を意識する。
いや、正確には自分のものではない、ショウ・ダルトワのものだろう。その肉体を動かそうと、セタは目を閉じたまま己の身体を徐々に意識し始めた。
ショウの身体が目覚めたら即連絡が入るようなシステムになっていたらしく、ガウインとアキツが来るのはすぐだった。
医療の志もあったというアキツと、医療系の事業をやっているガウインの協力で、セタはすぐに保護されてリハビリを開始する。
さっさと会いたい女があったが、社会的にも身体的にも問題は山積みで、それらを片付けろと諭されて、我慢した限界が10日間だ。
何度か秘密裏に場所を変えて、健康診断から運動能力の測定、筋トレなどを行い、退屈な時間を過ごした。さらに、自身に与えられるトキオ市民としての、パブリックデータを頭に叩き込む。そうしたセタの市民情報は既にガウインが準備していた。セタは「セタ・アーシリィ」という姓名を与えられ、市民権を獲得したのだ。もちろん入手方法は正規の方法とは言い難いのだろうが、得た権利自体は正規のものである。手際がかなり早かったのは、セタがフィードバックする可能性を考えていたのかもしれない。
さらに、セタはダルトワの遠縁に当たる男として、ダルトワの持っている警備会社の訓練士として雇われることになった。ガウインが経営している会社のひとつで、銃の携帯を許される警護要員というのは需要のあるものらしい。一見平和に見えても、実のところ物騒な世の中なのだ。
社会的な身分も仕事も保証された。あとは欲しいものを手に入れるだけという状況になって、セタはやっとあの女に会えることになった。
それから丸一日、女と寝台にいる。
****
一度寝台から出たセタは、キッチンに向かって冷蔵庫を開ける。ミネラルウォーターを出して一口飲んだ。
ここはファルネが暮らしているアパートメントだ。
セタにはひとまずの住居として会社の寮と生活用品一式が与えられ、契約金と称する一時金も支払われた。全てはガウインの手配だ。身内としての温情だけではないはずだ。口止め料、定期的な検査を受けて冷凍睡眠の一例としての検体、中には純粋にセタの腕を買って……というのもあるかもしれない。セタの仕事のひとつとして、ルリカ・ダルトワの警護なども含まれている。
もちろんそうした裏があろうが無かろうが、利用するのに躊躇いは無い。ダルトワ家に依存するにしても、それに見合うだけの働きはするつもりだった。すでにそうした話し合いを、ガウイン・ダルトワとは続けている。
しかしそれ以外の全ての時間はファルネと自分のものだ。自身の部屋には寝に帰るつもりもなかった。眠るのならば、あの女の隣で眠るに決まっている。
ゆっくりと室内を見渡してみる。真面目そうなファルネの部屋らしくすっきりと片付けられていて、女らしさが無いわけではないが、少し殺風景な部屋だ。
壁際のチェストの上に、写真立てが置かれている。そこには少し若いファルネと、同じ位の男の子と、年嵩の中年の男女が並んで居た。恐らく、ファルネの家族だろう。
不思議な気分だ。
セタには家族というものがなく、そもそも「身内」というものがいない。血縁だけで言うならば、この身体のDNAはガウイン・ダルトワの兄であるし、ルリカ・ダルトワの伯父にあたる。だが、ショウ・ダルトワという人間の記憶はセタには無く、恐らくこれからも無いままだ。セタはショウを元に作られたが、ショウではない。
しかしセタは孤独の身ではない。
「セタ……!」
セタを呼ぶファルネの声と、ドサッ……!と何か物が落ちるような音がして、跳ねる様にセタが身を翻す。音の元は寝室だ。
「ファルネ!?」
見るとそこには、シーツに包まったまま寝台から転げ落ちているファルネの姿があった。顔を真赤にしてセタを見上げている。
「……どうしたんだ、寝ぼけたのか?」
一瞬侵入者かと思って切羽詰ったような声を出してしまったが、ファルネの無事らしい姿を見て、自分でも信じられないほど安堵する。それにしても、どうしてそんな姿で寝台から転げ落ちたのか。問うとファルネは泣きそうな顔でじっとセタを見つめ、やがてふるふると頭を振った。
「ん? どうした」
「……起きたら、セタが、いなくて」
「……」
「セタが隣にいたのは……夢だったのかなって思って、慌てて、その」
それを聞いて、一瞬セタが驚いたようにファルネを見る。
その後、盛大に舌打ちして、口元を手で隠す。にやついて不自然な表情になりそうだった。つまり、隣にセタがいなくて不安になったというのか、この女は……。寝相が悪いななどと言ってからかってやろうと思っていたのに、これは不意打ちだった。床の上でもぞもぞと起きようとしているファルネが愛しくて、欲しくてたまらない。
「馬鹿が、まったく」
セタはミネラルウォーターのボトルの蓋を閉めて寝台に放ると、ファルネの身体をシーツごと抱き上げた。
「え!? ちょっと、歩けるわ」
「いいから大人しくしておけよ。腰が動かないんだろ」
「それはあなたが!」
「俺がなんだ?」
鸚鵡返しに聞くと、ファルネが再び頬を染めてそっぽを向く。もちろん、ファルネの腰が立たなくなる程のことをしでかした覚えがあるので分かっているが、分かっているからこそ、セタは楽しげだ。
一度、ちゅ……と唇を軽く触れ合わせて、ファルネの身体を寝台へと戻した。先ほど投げたミネラルウォーターのボトルの蓋を開けて一口煽る。
そのまま今度は深く口付けた。
口移しにファルネに水を飲ませる。喉が渇いていたのだろう、今度は大人しくなってセタから水を受け取った。
「もっと飲むか?」
「うん」
2口目はボトルを渡してくれたので、ファルネは身体を起こした。一息にこくこくと飲んでいるファルネの背中を抱き寄せ、自分にもたれさせる。
あやすようにゆっくり髪をなでていると、少しだけ重みが掛かった。ファルネの身体が自分に触れる事、その圧力が増える事、重みを自分に少しでも寄せてくること、その全てがセタという男を満たしていく。
だが不思議だ。
満たされれば満たされるほど、足りないものがある。
ようやく落ち着いたところを見計らって、セタがボトルを奪いとった。ファルネに向かい合うように身体を反転させると、今度はセタが、女の細い首筋に唇を這わせて体重を掛ける。そのまま押されるように、ファルネの身体が寝台へと身体が沈んだ。
「ちょっと、セ、セタ、もうお昼だから……あっ」
「知ってる。だけどまだ、あと2、3ヤっても一緒だろ」
「2、3って……! や」
ファルネの抗議は今は聞けない。セタはシーツを剥ぎ取ると、まろやかな身体の曲線に手を触れ始めた。
時間を掛けて、しかし少しばかり強引に、柔らかなあちこちに手と唇と身体の全てで触れて啼かせる。そうして指と舌とで溶かして、溶かした場所へと深く沈んでいく。
「ああ」
ファルネ。手にした女。
うっとりと名前を呼んで身体を揺らすと、ファルネの身体も抱き付いてくる。腕だけではなく、触れ合っている箇所全てがセタを誘った。
「セタ……」
「ん?」
「セタ、好きよ」
「ああ……」
「好きなの、セタ……セタ……」
その声と言葉に、セタは意識と感覚の全てを奪われる。女の身体が男を飲み込み、男も女の咀嚼に身をゆだねた。
****
事後の余韻に荒い息を吐くファルネの細い肩を抱き寄せて、セタもまた荒く息を吐く。
起きたら隣にいなくて。
夢かと思って。
ファルネの言った言葉が不意に思い出されて、この猟犬が、不覚にも泣きそうになる。それを隠すように、セタはファルネの首筋に顔を埋めた。
「セタ?」
身体をきつく抱きしめたまま緩めようとしないセタに、ファルネが不思議そうに身じろぎをする。だがそれにも返事はせずに、再びぎゅうと抱き締める腕に力を入れる。
搾り出すように、懇願する。
「ファルネ、……お前こそ、いなくなるなよ」
「え?」
「ログアウトしたまま、いなくなるな」
「セタ、何を……」
だって、この世界はエクスの世界じゃない。トキオだもの。ログアウトした後の世界でしょう。……そう言い掛けて、ファルネはセタの中にある自身と似たような不安を感じ取る。
あの時確かに、自分達は別々になることを選んだ。しかし、その目的は正反対で、ずっと一緒に居るというそれだけなのだ。そして最終的に、2人は一緒にいる。強くなったのか弱くなったのかは分からないが、しかし例え弱くなったのだとしても、もうこれ以外の場所には行けない。
だから、今は、素直に願う。
一緒にいて。
いなくならないで。
「いなくならないわ」
「ああ」
「一緒にいて、セタ」
「当たり前だろう」
ようやくセタが腕を緩めて、ファルネの顔を覗きこんだ。ファルネもセタを見つめている。正面から視線がぶつかって照れたように一瞬うつむいたが、すぐに顔を上げてセタにすりよってきた。その温もりを、セタは再び抱き寄せる。
ため息を吐くような甘い声だ。
「少し、眠ってもいい?」
「ああ。こうしておいてやる。……離れるなよ」
「うん、お願い」
寝台の上で抱き合って互いの身体に包まって、そんな風に囁きながら、2人は二度寝のまどろみへ誘われた。