爽やかな初夏の風が髪の毛を揺らしている。
なだらかな丘から見下ろせる箇所に、そこかしこに死者を弔う碑が並んでおり、ある一画は整然と、ある一画は雑然と、だが一様に地の下に眠る魂への敬愛の情を持って、緑色の風景に溶け込んでいる。
ファルネとアンリは、トキオで最も大きな墓地に来ていた。
目のまえにあるのは、この墓地でも大きな部類に入る墓碑の区画だ。美しく磨かれた黒い石がいくつか並んでいる。その石には皆一様にダルトワ姓が彫られており、ここがダルトワ家の管理する墓の一画なのだということがすぐに分かった。
その墓碑の前に、ファルネは抱えていた花束の半分を置く。
あれから1年が経った。
メロヴィング・カンパニーが提供していたエクスのサービスは、システムの緊急停止により当時ログインしていた全員が強制的にログアウトされたらしい。あの騒ぎの中…と言っても、騒ぎに巻き込まれていたのはファルネ達だけだったのだろうが、いまだサービスが続いて居た事に驚いた。
もちろん、事件はそれだけではない。
そのサービスを提供していたメロヴィング・カンパニーの社長ジェイ・アルキスと、秘書のユリアナ・リーフの2名が、社内にて死亡しているのが見つかったのだ。2人はシステム専用のゴーグルを身に着けており、その死因は [death due to sensory feedback] と判定された。外部に身体的な損傷が見られず、眠るように死んでいたらしい。システムは内側から破壊されており、警察から依頼された業者では再構築出来なかったようだ。
話題のサービスの緊急停止と、そのサービスの提供会社のトップの死亡。この事件は過去最大規模の [death due to sensory feedback] の事件として大きく報道され、精密な描写が為された人工現実の世界は、もはや世間から隔絶されていく一方になるだろう。
アルキスが10年前にルーノ研究所に属していたことと、そのルーノ研究所で起こった10年前の傷害事件、そしてその被害者となったダルトワ家についても掘り返されたが、アルキスとユリアナの関係について書き立てた酷いゴシップ記事によって、そうした話はすぐに忘れ去られて方向転換をした。大多数の人間というのは、より享楽的で簡単で、分かりやすい話題を求めるものなのだ。もちろん、その裏にはダルトワ家の手も伸びていたのだろう。
おかげで、ダルトワ家の身辺はさほど騒がれずに済んだ。
「もう1年も経ったんだな」
「そうね」
墓碑を眺めながら、アンリがぽつりとつぶやく。アンリはこの1年かなり背が伸びて、見違えるように逞しくなった。一方ファルネは眼鏡はそのままだったが、頬にかかるように長かった髪をばっさりと切って、短くすっきりとした髪型になっている。
あんな事があったのに、数日経っただけで2人は日常に戻った。ただ、ダルトワ家との関わりだけは深く残る。一連の事を知っている関係者だから……というだけではない、ファルネとアンリはダルトワ家の大切な友人となり要人となった。
「アンリーーー!! ファルネーーー!!」
少し遠くから愛らしい少女の声が聞こえる。ファルネとアンリが振り向くと、懸命に杖をついて丘を登ってくる金色の髪のほっそりとした少女が見えた。
その一生懸命な姿に思わずファルネが微笑み、アンリが手を振る。
「よう、ルリカ! 手ぇ貸すかー?」
「いい、自分で登れそう!」
大きな声でアンリに答え、少女……ルリカ・ダルトワ……は、一歩一歩、ゆっくりと丘の道を登っている。
あの日。
ネットワークが断絶したあの瞬間、病室は絶望感に包まれた。しかし、もはやシステムの意味を為さぬゴーグルをガウインがそっと娘から外し、その顔をアンリが覗きこんだ時、ゆっくりと淡い褐色の瞳が開いたのである。
『お父さん、アンリ?』
少し乾いた唇から、掠れた声が響く。
『大丈夫だったでしょう。私、自分で戻ってきたでしょう』
そう言って、笑ったのだ。
あの回線はルリカと……そしてフウカのためのものだった。ルリカにはルリカ自身の戻るルートが用意されていたらしい。上ではなく下へ。自分の一番深いところ……あの時見えた奈落の、そのさらに向こうへと戻らなければならなかったのだという。暗闇の中、誰かが手を引いてくれていたのだそうだ。
エクスのサービスは世間的にはあのような形で終わりを迎えたが、ダルトワ家はシステムに関わる全ての情報を秘密裏に入手した。その中にはファルネやアンリのパーソナルなデータや、アルキスやフウカが実現しようとしていた技術など、今回の出来事に関わった全ての情報……それは公私の区別無く、全ての情報で、その中にはルリカのリハビリに役立つフィードバック情報も当然入っている。ガウインはコーチョーに依頼して、人工現実の世界の感覚を医療的に役立てる情報を解析し、ルリカの治療へと利用した。
そのおかげもあってか、ルリカは当初の予定通り、人工関節と人工骨を足に埋める手術を行い、成功した。何年も掛けて計画的に行っていくというリハビリも順調で、全くの自由ではなくとも、自らの意志で歩くことに喜びを感じている。
ファルネ、そしてアンリもルリカのリハビリには当然協力しており、ファルネは時折、アンリとルリカに家庭教師めいたことを行ったりもしていた。
今日はそのような中、ダルトワ家の2人…フウカとショウのお墓参りに行こうということになったのだ。言い出したのは、ルリカだった。ルリカはあんなことが合ったにもかかわらず、フウカの事がどうしても憎めないのだという。それはファルネも、そしてアンリも同様で、1年に1度くらいはお墓参りに行こうか…とガウインの許可を得て、こうしてやってきたのだ。
ルリカが懸命に登ってくるのを視界に納めながら、アンリが言う。
「なあ、ファルネ」
「ん?」
「ここってさ、俺の父さんと母さんの墓もあるんだって」
「そうだったの」
「うん。……だけど、墓参りに行く気になれねえんだ。どこにあるのかも知らない」
「……」
アンリの事情もファルネの事情も、既に互いは知っている。もちろんルリカもだ。あの事件があった後、長い長い話し合いや、打ち明けあいが続いた。互いの境遇に涙することもあれば、ただ神妙に頷くだけの時もあった。そこに同情が存在しようとも、3人は互いに気に止めなかった。同情、憐れみ、そんなものは人間には当たり前に存在する感情なのだ。消化し、受け止めるのは結局は自分自身だ。そして、この3人の間で、それらを確認し合う必要はどこにもない。
「俺さあ、…いまだにあの2人の事、許す気になれねえ」
「アンリ」
「…別に、許したいと思ってエクスにログインしてたわけじゃないんだけど。…だけど」
「うん」
「何か変わるかなって思ったんだよな。……あいつらに対する、見方が」
「変わった?」
「変わらなかった」
「そうね……別に、いいんじゃないかな。親なんて、許せなくても」
「え?」
「別にいいと思う。私が言うのもなんだけど、親だからって許される、なんて特権は多分存在しない」
「そっか」
「そうよ」
それだけ言って、ファルネもアンリも満足したようだ。
あの世界へのログイン体験は、結局はアンリの考え方を何も変えなかった。アンリは親を許すことが出来なかったし、そんな理屈よりは数倍大事な物を見つけた。青臭いけれど、仲間とか、そういうものだ。人間関係というのは他人が付けた単なる名称で、そんなものにこだわる必要はないのだと今は思える。
だからアンリは自分の親を許さないことにした。
許さずにいて、いつか忘れるか、どうでもよくなるのだろう。それよりももっと大切で、誇らしいものが自分にはあるのだから。思い悩むならそっちの方が重要だし、時間を割きたかった。たとえば、ファルネから出た宿題をどうこなすかとか、ルリカが行きたいっていう場所は大概女っぽいところで困る、とか、そういうことだ。
隣のファルネが、さて…と伸びをする。
「私は自分の家族のお墓に行って来る」
「ん。…なあ、ファルネは」
「え?」
「今でも、父さんや母さんや、弟さんのこと、好き?」
「もちろん」
「そっか。それが当たり前のことだと思う?」
「だって、アンリだってコーチョーや孤児院のみんなや、ダルトワさんや、ルリカのことを、好きでしょう?」
「うん……つか、ルリカとか、何言って、おいファルネ!」
「あなたはいい子だわ、アンリ」
くすくす笑いながら、ファルネはアンリの額を小突いてみせた。あからさまにからかわれた気配に、アンリはむすっとしていたが、ルリカが追いついてきたので歩を緩める。気楽になった空気にもう一度笑ってから、ファルネはもう少し別の、一般庶民の墓地になっている箇所に降りて行く。
****
アンリは変わらない…と言ったが、ファルネは少し変わった。顔を見せることを恐れなくなり、他人の目をあまり気にしなくなった。いまだに人と話すことが苦手だし後ろ向きになる事もあったが、そういう自分でも今はいいと思っている。自分を偽って、いそいで明るく前向きに生きなくたって別に構わない。意外な事に、ナガセがそれに賛同した。
あれからナガセとは時々ランチに行くくらいの仲にはなった。実は付きあって欲しいということも言われたのだが、ファルネは首を縦には振らなかった。好きな人がいる、と断っていた。それは報われる恋愛なのかと聞かれて、どうだろう……と首を傾げる。
あの時、男から手を離したのは自分だ。自分から選んで手を離し、自分から別れを選んだ。そしてあの男の言った言葉を胸に生きている。それが正しい事なのか悪い事なのかは分からない。ただこれだけははっきりしていた。あの世界は崩壊してしまい、もうどこにも残っていない。もしセタの手を選んでいたら、恐らくファルネは [death due to sensory feedback]によって死を迎えて居たはずだ。
好きな男と共に、その気持ちも存在もエクスの世界で消える。……それは確かに魅力的ではあった。だが、ファルネはセタに対する思いと自分自身の弱さを、自身の世界に「持ち帰る」ことを選んだ。だってセタにはフィードバックする先が無くて、ファルネにはあるのだから。
正直に言えば、喪失感が無いわけではない。あの時手を離さなければよかったと思うことも何度かあった。しかしそんな風に思い悩んでいれば、セタが消える事は無い。ルイスや父や母がファルネの中で、仲のよい大好きな家族であり続けるように。
「だからもう少し、悩んでいいかな。父さん、母さん、ルイス」
ファルネはアオサキ家の墓の前に、残ったもう半分の花束を置いてそっと墓前に語りかけた。
「まだ……分からないの。全然忘れられないの。忘れたくないの。好きなままでいたいの」
「悩んだままで、いろよ」
突然、墓碑が翳って、ファルネの言葉に答えが返ってきた。ファルネの影を隠してさらに余る長身の男の影と、低く聞き覚えのある声にファルネの肩がびくりと震える。
「…っ…!!」
その男の名前を、ファルネは1つしか知らない。呼ぼうと声に出したが、その声が発する前に振り返った身体がきつく抱き寄せられた。
逞しい胸板にファルネの身体が飛び込み、出そうとしていた声が吸い込まれた。大きな手が背中を辿って腰を抱き、短くすっきりとしたファルネの髪に吐息が掛かり、唇が触れている。
「……気の済むまで悩めよ。それだけのことがあったんだから、当たり前だ」
「……!!」
ファルネが、ぺちん…と抱き締めている腕を叩く。それでもびくともせず、反応を見せない腕を何度も何度も叩く。
「だがこれからは俺がいる。……ファルネ」
「セ、タ……?」
「ああ」
何度も何度も腕を叩いて、やっと解放される。いまだに男はファルネを腕に囲っているが、拘束を少し緩めて顔を見せた。口角だけを上げて不敵に見える笑みは、見覚えのある顔だ。これは一体誰だろうか。セタに見えるけれど、セタは生きているはずがない。
「……幻?」
「ん? ……随分かわいらしいことをいうな。お前はそんな女だったか?」
しかし幻としか思えなかった。男はファルネが確かに好きで、愛して、そして手を離した男そのものだったが、エクスの世界でしか存在し得ないはずだったからだ。
「どうして……?」
「さてね……いろいろあってまだ慣れちゃあいないが、まあ間違いなく俺はこっちの人間になったぜ?」
「本当に……本物の、セタ?」
「本当に、本物の、俺だ。お前の猟犬だ」
「あ……」
やっと実感して涙が出てきたファルネをもう一度……今度は柔らかに抱擁する。ファルネの髪の手触りを味わうように梳きながら、「言っただろうが」とセタは言う。
あの時セタがファルネに言った言葉は、とても残酷でひどいものだった。セタはたった一言、ファルネに言ったのだ。
『好きだ、お前が』
と。
自分を置いていけと言っているにも関わらず、セタはファルネに愛を告げる。それを告げれば、ファルネがセタの言葉に囚われて、それをよすがに生きていくだろうことを知っていて、あの男は口にした。
『好きだ、お前が。……俺の存在がある限り』
ひどい男だとそう思ったが、その言葉にファルネは自分で手を離した。残れば心も消える。行かなければ、心すら一緒にはいられない。セタのその思いを胸に抱いたまま死ぬ事はできなかった。セタとのことを持って帰って、生きて、ずっとずっとセタのことを好きでいたかった。例えセタに2度と会えないのだとしても、ファルネの存在がある限り。
シンプルで、複雑な、そんな思いでファルネは手を離した。
「……私の事、後ろ向きな女だって、笑う?」
「どうして? 一途で正直なんだろう」
「好きなの、……セタが」
「知ってる。言っただろう。俺もお前のことが好きだ」
セタは泣き出したファルネの頭をなでてくれた。
****
既に一通りの墓参りを終えて下りて来たアンリとルリカは、車で迎えに来ていたガウインとコーチョーに詰め寄った。
セタを連れてきたのはこの2人だ。
「なあ、どういうことなんだよ」
再会の喜びに抱き締め合う恋人同士の姿を、ルリカは憧れの眼差しで見つめている。アンリも別に祝福しないわけではないが……、だがどうにも腑に落ちないのだ。だってあんなにも決死の覚悟で、2人分かたれのではなかったのか。
それにはコーチョーが答えてくれた。
「これですよ」
携帯端末を取り出し、あるアプリケーションを見せる。ガウインもまた、同様に携帯端末から同じアプリケーションを開いた。
そこには [OPEN] という文字だけが表示されている。
「ダルトワ家の長子、ショウ・ダルトワは襲撃によって腹部にナイフを受けたが、実は治療に成功はしていてね」
「え?」
コーチョーの言葉を引き継ぎ、ガウインが説明する。
フウカをかばって死んだとされているショウ・ダルトワだったが、あの襲撃の直後に行われた全ての治療は成功したのだという。だが、脳にも損傷は見られないのに、何故か意識だけが戻らなかった。何が原因なのかは全く分からず、このままでは本能的なものもいつ停止してしまうか分からない。そこでショウ・ダルトワの身体は冷凍睡眠されていたのだ。
ショウの身体が保存されていることを知っているのは、弟のガウインと…そして、プロフェッサー・アキツだった。ガウインはフウカが亡くなった後、ショウの身体が保存されていることを知った。ショウの身体の意識が戻ることがもしあれば、携帯端末のアプリが[CLOSE]から[OPEN]へと切り替わる。そのシステムをダルトワ家の自分が1人背負うのではなく、ダルトワ家と全く血縁に無い、それでいて信頼出来る者に託すべきだと考えたのだ。
エクスの世界は最初からショウ・ダルトワの身体へとフィードバックするようにシステムが構築されていたらしい。このシステムを最初に構築したのはフウカ・ダルトワで、フウカはシステムが存続する限り、あらゆる回線を通じて……、ショウ・ダルトワのコールドスリープ先にフィードバック出来るように構築していた。セタはその回線群を通じてフィードバックしたようだ。
フウカはいずれセタが完全にショウ・ダルトワを取り戻したら、フィードバックさせるつもりだったのかもしれない。しかし、最後までショウ・ダルトワは復活しなかった。ショウの意識は完全に死亡したのだろう。セタはフウカが実験に使ったショウの意識体の残滓のようなもので、存在している事自体が奇跡的なことだが、ショウとは全く異なる意識体だ。
だからこそ、それは勝負だった。成功するまで何度も何度も挑戦し続ける勝負だった。世界が完全に崩落する直前にショウの身体にフィードバックし、その意識が復活するまで何度も何度も試したのだろう。つい先日、動かないはずの端末が[OPEN]を示したのだ。
「いつまでくっついてんだよ!」
「いいじゃない、久しぶりで、奇跡的なんだから。いいなあ、ファルネ!」
「ったく、だから女ってのは……」
「ふふ……今日、新しいお店にケーキ食べに行こうって話してたけど、セタも来るかな?」
「ああ? ケーキどころじゃねえって気がするけどな」
ルリカとアンリ、そしてガウインとコーチョーがファルネとセタを見守っている。かくして、仲間達がケーキを食べに行くという約束は後日にまわされ、この後セタはファルネを連れて逃亡を図るのだが、それはこれから始まる日常の物語の、始まりの一部である。
see -n aix.log
….
出来るんだろう?
あなたって、本当に意地の悪い男ね。
ああ。
初めから、その可能性に気付いていたんでしょう?
どっちでもいい。なあ、出来るんだろう。
確率的には五分五分よ。
それだけありゃ十分だ。確実にやってやる。あいつが泣くからな。
狂ってるわね。
てめえに言われたくないね。
あの女、多分一生あのままよ。
知ってる。それでいい。他には渡せねえ。
呆れたわ。
想像以上なんだよ。
何が?
ずっとあいつのことを考えてる。
……あの女しか、いないんでしょう。
あたりまえだろう。なあ、お前、最初から記憶があったんじゃねえか?
どういう意味?
短剣、お前の仕業だろ。誰かに壊してもらいたかったんじゃねえの?
さあね。くだらないおしゃべりは終わり。私は行くわよ。
ああ。
どっちみち、間違ってたことなんだから……。
そうだな。
けれど、行ってしまう前に、ちゃんとしておいてあげないとね。
へえ?
たったひとりの、私達の弟なのだから。
そうだな。……俺にとってはもう知らねえ男だが、そうなんだろう。お前が行ってこい。
うん。やっと、あの子のためになることをしてあげられる。
何言ってんだ。諸悪の根源はお前だろうが。
そういえば、そうね。…でも私がいなければ、貴方は産まれていなかったでしょう、セタ。
それが一番腑に落ちねえな。
ひどいわ。
まあいい。じゃあな。
ええ。さよなら。
….
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