肩にかかった生温い血と銃声にヴァーツが振り向くと、片方の眼を手で押さえたアルキスが居た。ぐらりとよろめく身体を支えて、アルキスが銃声の方を向く。
「貴様ァ……」
「ヴァーツ! 短剣を使え、システムを壊せ!」
セタの声だ。ルイスとセタがヴァーツを追いかけてきたようだった。銃声はセタが撃ったもので、アルキスの頭を狙ったそれは上背のおかげでヴァーツには当らなかったらしい。セタの声にヴァーツは頷き、腰に提げていた短剣を抜く。
「やめろ!」
「おっと……邪魔すんな。お前の相手はこっちだ」
「セタ、貴様……死んでも、なお私の邪魔をするのか!」
「知るか。利害が一致しないだけだろ」
吐き捨て、ピストルを構えようとするアルキスの腕を取って捻り、そのまま背中に回せて、ぐ、と力を込めた。骨の折れる鈍い音がして、アルキスの悲鳴が上がる。ルイスがアルキスの手からピストルを奪い、ヴァーツを促した。
「ヴァーツ、早く!」
「無駄よ」
冷たい声が響いた。いつの間に居たのか、そこにはラズをうつぶせに押さえ付けて背中から馬乗りになり、首筋に短剣を付きつけているフウカが居た。黒いエルフの衣装と黒いフウカのドレスとが混ざり合い、1つの黒い塊のように見える。
「所長、フウカ……!」
「よくやったわねえ、ジェイ。褒めてあげる」
フウカがにっこりと天使のような笑みを向けると、それだけでアルキスの瞳が安堵に輝く。その様は狂気じみていて、セタが動かぬように封じ込めている腕を一層強くする。
「ヴァーツ、馬鹿な真似は止めなさい。……ねえ、システムを壊せばルリカは確実に死ぬわよ? けど、私がフィードバックしたら、ルリカは死なない」
「フウカ、お前は……」
「システムを壊すなら、ここで私がルリカを殺すわ。どっちにしても貴方たちに選択肢は2つしかないの。ルリカが死ぬか、私が生きるかのどちらか」
だから、ねえ、もう止めましょう? 私がルリカとして生きてあげるから、その手を止めて?
そう優しく囁かれて、ヴァーツは思わず腕を止める。フウカの声には麻薬のような、逆らえない何かがあった。いっそ抗わずに身をゆだねれば楽なのだろうかと思わせるような声だ。
ルリカが死ぬか、フウカがルリカとして生きるか、どちらか1つ? フウカがルリカとして生きれば、ルリカの身体は死なな……
「ヴァー、ツ」
「ラズ?」
「ヴァーツ壊して、大丈夫だから、壊して!」
フウカの優しかった顔がみるみる醜く歪み、後ろからラズの首を締める。
「ほんっとうにうるさいガキ。家が金持ちじゃなきゃ死んで同然のガキのくせに!」
首をしめられて、ぐう……と苦しげに息を吐くラズの声が聞こえて、ヴァーツは我に返った。ハッと顔を上げると、背後から聞き慣れた声と気配が届く。
「……ヴァーツ、フウカとラズなら、信じるのはラズでしょう!」
ルイスの声だ。ルイスはここまで、一緒に来てくれた。唯一、ラズを助けるために、現実の世界からやってきた仲間だ。
「やれ、ヴァーツ、仲間だろ、信じてやれ!」
セタの声。セタの声はいつもヴァーツを奮い立たせる。セタはいつも仲間達がログインしてくれるのを待っていてくれていたはずで、もしこの世界が無くなってしまえばどうなってしまうのだろう。それなのに、自分達の味方でいてくれる。
「…おねが、ぃ、ヴァーツ、壊して」
…そして、ラズの声。助けるって約束した、歩きたいっていつも願っていた、無邪気なラズ。ルリカ、戻ったら歩くための手術をして……。こんなところで、死んでいいはずがない。
赤い宝石は「勇者みたいだろ」と言って選んだものだ。こんなところで怖気づいている場合なんかじゃない。ヴァーツは手の中の短剣を両手で持つと、思い切りシステムに向かって振り下ろした。
「止めなさい、ヴァーツ死にたいのっ、ジェイ、止めさせて!」
「所長、フウカ! 早く、フィードバックを……!」
セタに押さえつけられたままのアルキスの叫びに促され、フウカが後ろからラズの背中に両手を当てた。さらさらとフウカの身体が金色の粉になって溶けていき、ラズの身体に混じっていく。
それと同時にヴァーツの短剣がシステムに深々と刺さった。あれほど硬かったシステムの操作盤だったが、嘘のようにすんなり短剣の刃を受け入れて、バチッ……と火花が散る。
「ラズ!」
「フウカ!」
仲間達がラズを呼ぶ声と、アルキスがフウカを呼ぶ声が重なり、同時にシステムが真っ二つに割れた。しかも、その裂け目はシステムだけではなく床へと到達し、ぴしりとヒビが走る。…ヒビが走ったと思ったのは一瞬で、次の瞬間には部屋が真っ二つに裂けた。
****
「ルイス……!」
セタがアルキスの身体を投げ捨てると、床の崩落に身体をよろめかせたルイスを抱き止めて、裂け目の向こう側へと転がる。その裂け目を隔てて別の向こう側にヴァーツは転がった。
今や誰もがはっきりと認識した。システムが破壊されたことにより、世界が…あるいはルリカの回線が崩壊しようとしているのだ。ぐらぐらと揺れる床の真ん中には小さな崖のような裂け目が通っていて、その底は見えない。ラズの身体はいまだうつぶせに倒れたままで、そちらに向かってヴァーツが駆けようと立ち上がった。
しかしその足首を、アルキスが片方の腕で掴む。
アルキスはちょうどセタから投げ飛ばされた時に、裂け目の入り口に引っかかったようだった。
「くそっ、離せ!」
「行かせん、フウカは、俺の、ものだ……」
「フウカじゃねえ、ラズだ。ラズのもんだ!」
「フウカ、所長!」
片方の目を潰されたまま、狂ったようにアルキスはヴァーツの足にしがみついた。たった一本の腕だけで捕まえられているだけなのに、信じられない力でふりほどけない。ルイスを助けたセタがそれに気づき、銃を構える。
しかし。
がくんとアルキスの身体が、裂け目に引きずり込まれた。
『……あ る き す さ ま』
「な、ユリアナ……?」
『あ る き す さ ま……こ ち ら へ』
いつの間にか、アルキスの身体が金色の粉にまとわりつかれていた。その金色の粉は女の身体の形を為していき、必死でしがみつくアルキスの背中を抱き締める。
『う れ し い、や っ と あ る き す さ ま が、わ た し の も の に』
「やめろ、ユリアナ、止めろ!!」
『せ か い に、と け て、い っ し ょ に……』
「やめろおおおお!!」
金色の身体の女の顔は、ユリアナだ。ユリアナは死んだあと、世界に溶けて残留していたのである。かつてエクスの世界で死んだフウカと同じように、その残留していた意識が愛する男を求めたのだ。
ユリアナに引きずり込まれるように、ずるりとアルキスの身体がヴァーツから離れ、あっけなく奈落の底へと落ちていった。アルキスの断末魔の叫び声を聞きながら、セタが銃を納め、呆然としているルイスを抱き寄せた。
「世界が崩れるな」
「セタ……」
世界が崩れる……という言葉に、ルイスは抱き寄せられているセタの胸に額を押し付けた。呼応するようにセタの腕が強くなる。世界がこのまま崩壊すれば、ルイスとセタはどうなるのだろうか。ユリアナが愛する男と落ちて行った奈落を見て、心のどこかが羨ましい……と感じていた。
次にヴァーツ達がいる方を見る。視界の端でヴァーツがラズに到達し、その身体を助け起こしている様子が見えた。それにほっと安堵の息を吐くと、床の感覚が消える。
身体が浮いた。
「セタ……!」
ルイスの身体は何もかもが落ちていく世界とは逆に、上へ上へ上がって行こうとしていた。しかしルイスは慌ててセタにしがみつく。その腕を、セタは取ってやった。
「……ルイス」
「セタ、行きたくない!」
「ルイス、ダメだ」
「嫌だ、セタ……おいていかないで」
おいていかないで。
その切ない願いは、いつもいつもセタが願っていた事だ。その願いを、今度はルイスが口にする。自分と重なるルイスの願いを受け止めて、セタが初めて見せる穏やかな顔になり、そして首を振った。
「俺を置いていくのは……お前だよ、ルイス」
「違う、ちがうわ。嫌なの。……セタ、お願い、一緒にいて」
ルイスは、決意していたのだ。今度こそ好いた者と一緒に……最後まで一緒にいることを。それは確かに後ろ向きな決意だった。家族に置いていかれた、死んでいかれた、いつまでもいつまでもその枷から逃れられない女の後ろ向きな決意だった。今度は好きになった男と離れてしまう。もう2度と、誰とも離れたくはないのに。
こんな考えはおかしいのだ。分かって居た。フウカやユリアナの愛情を狂ったものだなどと笑えない。自分だって十分に狂っている。システムが生み出した意識体だけの男を愛して、その男のためにこの崩れていく世界に居たいと考えているのだから。
そんなルイスの答えを、セタはとうに知っていた。何故なら、それは心の何処かでセタが望んでいたことだったからだ。
だが、知っていて、手を離す。
「泣くな、ルイス。大丈夫だ」
「何が……」
「お前から手を離せ。お前から生きることを選べ。大丈夫だ……俺はお前のことを置いていったりしないから」
……離れ掛けた手を握り、ぐ、と近づけた。セタとルイスの身体が近付き、唇が触れる。セタが忙しなくルイスの唇を味わうと、最後に音を立てて離れた。零距離にあるルイスの耳元に、そっと何事かを囁く。
ルイスの瞳が驚愕に見開き、慌てて首を振る。だが、反対にセタは頷いた。
「行け、ルイス。……いや、ファルネ。行ってくれ。俺を持ったまま、お前の世界へ」
女の手から力が抜けていく。ルイスが……ルイスから、セタの手を離したのだ。それに満足気に頷いて、セタがいつもの皮肉めいた笑みを浮かべた。
そんなセタの表情を意識に焼き付けながら、奈落の底とは反対の光の見える高い場所へと……ルイスは吸い込まれていった。
****
「ラズ、ラズ、大丈夫かっ?!」
足場の不安定な状況の中でヴァーツはラズの元に這うように近付いた。うつ伏せのラズをひっくり返し、そうしたもののどうすればいいのか分からず、そっと頬に触れる。
静かに瞳が開いたので、それを覗き込む。
「ヴァーツ?」
「おう、分かるか、俺のこと」
「うん」
「フウカ……じゃねえよな」
「ん、たぶ、ん、大丈夫」
「立てるか」
頭を振るってラズが上半身を起こそうとしていて、その背の高いエルフの背中をヴァーツがそっと支えてやる。
パアッと天井が開き、明るい光が差し込んだ。
思わず2人がそれを見上げると、ふっと床が消える。
「うお? なんだ?!」
「ヴァーツ、浮いてる」
「え」
床が無くなったのではなく、ヴァーツ達が浮いているのだ。
部屋は底なしの奈落の暗さと、健やかな上への明かりとが対照的な、光と影の二色に分かれているように見えた。ヴァーツとラズは、上を目指しているようだ。
セタとルイスが見えた。
2人の唇が触れ合い、傷付いたように離れていた。そうした別れの様子になぜかラズは胸が痛くなって、思わずヴァーツの手を握る。その感触にヴァーツが頷いて、行こう……と、2人で上を見上げた。
昇って行く。
まるで生き返るみたいだと、ラズは思う。
仲間と手を繋いで、一緒に帰るのも、
仲間から手を離して、静かに帰るのも、
死ぬかもしれないのにここに来てくれた勇気も、
死を選ばずに生きることを選んでくれた勇気も、
みんな持って帰ろう。
その時だった。
「あんたはこっちよ」
低い、女の声が聞こえた。
****
「あ」
急に下へと身体ごと引っ張られて、ヴァーツの手を握っていたラズの手が緩む。それに気づいたヴァーツが、すぐにラズの手を握りしめた。
「ラズ!」
「ヴァーツ……っ!」
そっと下を覗いて見ると、ラズの長い足と腰にフウカが抱き付いていたのだ。
「あんたは、こっちよ、ルリカ」
「くそっ、フウカ、離せよ! 離せっ」
今にも離れそうなラズの手をヴァーツが必死で掴んだ。だが、信じられないほどの強い引力はラズを下へ下へと引きずって行く。このままでは、ヴァーツもろとも奈落へと落ちて行くだろう。
「ヴァーツ、は、はなして……」
「ダメだ」
「はなして、ヴァーツ」
「ダメだ! くそっ、何言ってんだよここまで来て!」
「このままじゃ。君が」
「約束したんだよ、絶対お前連れて帰るって、一緒に帰るんだよ、くそっ、あきらめんな、ラズ……っ」
ラズが何と言おうとも、ヴァーツは離すつもりは無かったのだ。あとわずか、あとほんの少しで帰る事が出来るのに。それなのに、ずるりとヴァーツの手からラズの指が離れる。
いつもの顔で、ラズが笑った。
「大丈夫、だから」
「ラズ、……くそっ、ダメだ」
「大丈夫、ちゃんと……る、から」
「ルリカ!!」
「アンリ、ありがと」
たすけにきてくれて
ありがとう
ラズが最後にそう言って、ヴァーツの手からその重みが完全に消える。
嘘のように、ぽーん…と奈落へ落ちて行くラズを信じられない思いで見つめながら、…ヴァーツはやがて白い光に包まれた。
****
「ラズっ!!」
身体を起こしたアンリはゴーグルを投げ捨て、すぐにルリカの寝ている寝台のそばに駆け寄った。唐突に覚醒したアンリの様子に、ルリカを診ていたガウインが慌てたように振り返る。
「アンリ君?!」
「ラズ、くそっもうちょっと、だったのに!」
アンリが叫びながら、ルリカの肩を揺さぶる。
「ルリカ、ルリカ……目ぇ開けろよ!」
アンリの胸が後悔に軋み、ありがとうの言葉にどうしようも出来ないやるせなさを感じてしまう。何であの時、手を離してしまったのか。もう少し、もう少しでラズを連れて帰る事が出来たのに。……本当に、あと少しだったのに。自分さえ手を離さなければ、ルリカは目を開けていたはずなのに。
「ルリカ、ラズ! ラズ!!」
「ヴァーツ、ダメ」
いつの間にかゴーグルを外したファルネがそばに来て、暴れるアンリの肩を後ろから抱きしめた。
「離せよ、くそったれ、離せよお! ルイス、離せ!」
「ヴァーツ、ラズを信じて」
「っにがだよ!」
「私、見てたの。ラズの手が離れる瞬間を」
「…っ!…」
「あの子は、わざと手を離した」
「違う、あれは、おれが、俺が離したんだ!」
「違わない!」
違う、自分のせいだ。そうじゃなければ、何のために助けに行ったのだ。ラズが生きたいって願ってくれなければ、自分達は何のために、何人も殺して、あんな風に……。
「違う! ルイスに何が分かるんだよ!」
「分かるわよ、私も自分から手を離したから」
苦しげに言われて、アンリはハッと顔を上げた。涙で瞳が真っ赤になったファルネと目が合う。自分の瞳もじくじくと熱くて、きっと泣いている。
死んだ人間もいる。
そしてセタみたいに戻る事が出来なかった人間も、ファルネみたいに大事な人を向こうに置いてきてしまった人間も、いるのだ。
「アンリ、私達は戻ってきた。ラズも、自分から手を離したの。きっと、ちゃんと……」
自分で戻ってくるために。
だから、信じて、待って。
ファルネの涙混じりの声に、アンリが、力無く腕を下げる。
「ネットワークのトラフィックが…!!」
コーチョーが珍しく声を荒げて、室内に緊張が走った。ガウインがルリカの手を握って震えている。
機械が物理的にシャットダウンされた音が響き、ルリカに繋がっている回線のネットワークが完全に断絶した。