足を踏み入れた部屋は予想に反して真っ暗だった。暗闇というのは人間に言いようの無い不安を与える。常よりも何倍も慎重に、ヴァーツは足を進める。
「ラズ? いるか?」
声が反響する。
歩みを進めると病院か何かのような無機質な気配が濃くなってきて、ふ…と周囲が明るくなった。驚いて足を止めると、目のまえにはいくつものモニター、そしてその前にはテーブルのような機械が置かれていた。テーブルの板は画面のようになっていて、黒い中にいくつかの点が明滅している。それらを前に、アルキスが顎を手に当てて何かを考えていた。
「…あんた、メロヴィング・カンパニーの社長だよな」
「ヴァーツ君。ようやく来たかね」
追い詰められているというのにアルキスは穏やかに笑って、黒い画面から顔を上げた。幻想の世界には全く不似合いの現実的なスーツに身を包み、眼鏡の奥は相変わらず紳士的に微笑んでいる。
「ルリカを、返せよ」
そのあまりに直情的な台詞に、ははっ……とアルキスは楽しげに声をあげた。
「返してあげるさ。もちろん」
フウカをフィードバックさせてね?
そう言って、子供をなだめるように首を傾げてみせる。その態度に、「てめえ……!」とヴァーツが拳を握り締める。それでも激昂して飛びかかりそうになる自分をなだめ、ゆっくりと黒いテーブルへと近付いた。
「ラズを、返せ」
「ラズ?」
「ラズとルリカを返せよ! あれはあんたらのもんじゃねえ、ラズのもんだ!」
「なるほど、正論だ」
全く、間違っていない。子供というのは実に純粋で、真っ直ぐでいい。そう感心しながら、アルキスは黒いテーブル……どうやらシステムの操作盤になっているようだ……に手を触れて、横に流す。
部屋の明るさが変わった。モニターにいくつかの映像が映されたのだ。
1つはこの部屋の映像、1つはどこかの天井が映っていて時々労しげに覗き込むルリカの父親……ガウインの姿が映っている。恐らくルリカの着けているゴーグルからの映像だろう。
そして別の1つには。
「ラズ!」
「ヴァーツ?」
向こうにも同じようにモニターがあるのだろうか。その映像の中にいる黒い長身のエルフは、泣きそうな表情でこちらを見ている。
「ダメだよ、ヴァーツ、帰って!」
「何言ってんだよ、お前も帰るんだよ!」
「ダメだよ、ヴァーツ、お願い。フウカが、みんなが……」
殺されてしまう!
「うるせえ! おい、アルキス! こんなことやったって無駄だ! ラズは、ルリカが、フウカを受け入れる訳がねえだろう!」
「ふむ」
「だからラズをログアウトさせろよ! じゃないと……」
「なんだね?」
「こ、の、システムを破壊してやる」
ふ……とアルキスが笑う。小さな笑いはやがて肩を震わせるほど大きくなり、最後には涙を見せんばかりになっていた。
「んだよ! 何がおかしいんだよ!」
「はっは……、ああ、すまない。決して君を馬鹿にしている訳では無いんだがね。いやはや、若いというのは素晴らしい。純粋で真っ直ぐで、実に健全だ」
「な」
「まず、3つ答えてあげよう」
ますひとつ。
ラズはラズのもの。なるほど、間違いなく正論であり、全く異論は無い。だが、そもそもフィードバック先の所有権を問うくらいならば、こうしたシステムは作らない。世の中には手段を選ばない、ということがあるのだ。このシステムを使おうとする人間が、醜悪な思考に反省するほど全うであるはずがない。
そしてふたつ目。
システムは破壊出来ない。そもそもプレイヤーはシステムに干渉出来ないような仕組みにしてあるのだ。何を破壊出来て何を破壊出来ないか、それらは全て厳密に決めている。つまりこの世界にいる限り、プレイヤーは絶対にシステムに反抗出来ない。
そして、みっつ目。
フウカの意識をルリカ……ラズが受け入れるかどうか。
「受け入れるさ。これを見れば」
「フウカ……、ルイス……」
ラズの泣きそうな声がモニターから聞こえた。視線を上げると、何かを見ているラズが映っている。その下には別のモニターがあり、一つには水色のドレスを着たフウカが黒いドレスを着たフウカに首を掻き切られて血塗れになる映像が、もう一つにはルイスがセタに左手を刺され、額に銃を突きつけられている映像が映し出されていた。
ぷつ…とそこで映像が切れる。
ラズがはっとした表情をしたので、ラズの見ている映像も同様なのだとその時に分かった。
「さあ、ルリカ? 君の知るフウカはあの通り死んでしまった。ルイスもセタに殺されるだろう。そして」
カチャリと硬い音をさせて、アルキスがスーツの懐からピストルを取り出した。慣れた手で、銃口をヴァーツへと向ける。「やめてよ!」と、悲痛な声はラズだ。どうしてだろうか、黒髪の男エルフであるはずなのに、その口調は紛れも無く少女のものなのだと分かる。
「ルリカ。もう君には希望も何もないのだ。……君に出来る事は、このヴァーツ、いや、本名はアンリというそうだよ? 15歳なのだそうだ。死なせたくはないだろう?」
「おい、ラズ……」
ヴァーツが映像のラズに向かってゆっくりと首を振る。しかし、ラズは呆然とヴァーツを見ていた。
「死ぬ……ヴァーツが?」
「そう。でも、君がフウカを受け入れれば、ヴァーツ君はお父さんとお母さんの元に返してあげよう」
「おとうさん。おかあさん……」
「しかし、君が同意しなかったら」
くそ……と毒付いて、ヴァーツが走り出そうと身体を弾かせると、何の躊躇いも無く、パン! と音がして、それはヴァーツの左足に直撃した。
「なっ……」
痛みは無いが衝撃で床に転がる。「嫌ぁ、ヴァーツ! ヴァーツ!!」と、ラズが必死で叫んでいる。ラズの叫び声を聞きながら、アルキスの瞳は真っ直ぐにヴァーツを見つめたままだ。
「この通りだ。ああ、安心したまえ。痛みは無いからね。腕をちぎろうが、足をちぎろうが、痛くは無いよ」
「やめて、お願い…アルキスさん!」
「分かるかい? 爪を剥ごうが、髪を毟ろうが、肌を焼こうが、痛くは無い。悲鳴もあげないだろう。面白いショーだと思わないか?」
「くそっ、聞くなよ、ラズ、聞くな!!」
「とりあえず、その眼を撃ってみようかな」
「嫌!! やめて、おねがい、聞くから!」
ラズの声もむなしく、再び乾いた音が響いた。しかし今度は半身を捻って避け、身体を起こす。撃たれた左足は痛みは無いが感覚が薄くて、がくりとよろける。よろけながらヴァーツは唇を握って、低く唸るように声を出した。
「ラズ、やめろよ」
「お願い、アルキスさん。なんでも聞くから、言うことを聞くから、おねがい」
「ラズ、やめろって、おれは平気だから!」
「……おねがい……」
「いい子だね、ルリカ。しかし」
アルキスはちらりとラズに視線をやり、優しく笑った。
「やはり邪魔な虫は殺してしまおう」
そして、足をひきずって自分に近付くヴァーツに向き直り、ヴァーツの頭に狙いを定める。
「……いや、やめて、ヴァーツ……アンリッ!!」
ラズの悲痛な叫びを無視して、玩具のような銃声が響く。
そのまま仰け反るようにヴァーツが後ろに倒れて、全ての映像が、ぷつんと途絶えた。
****
シンと静まった室内で、カツンと足音を立ててアルキスはヴァーツの元に辿り着く。止めを刺す為にピストルを構えて、倒れているヴァーツへとそれを向けた。
死ねという言葉も、皮肉すらも言わずに、無言で引き金を引く。
だが。
「くそっ……がっ!」
ヴァーツは右に転がると、怪我をしていない方の足を近付いてきたアルキスの足首に絡ませた。唐突なその動きに一瞬アルキスがひるみ一歩退き、ヴァーツの足は当るに至らない。しかしその隙に思いきってヴァーツは背中を向けて両手を床に付き、立ち上がる。
向き直ったヴァーツに、アルキスはふむ…と頷いた。
「なるほど、私の銃弾は当らなかったのか。だがまあいい。ルリカは死んだと思っているようだから、それで」
「っせーよ……」
「それにこれから死ぬのだ。一緒だろう」
「ぺらぺらうっせーんだよ、このクソ野郎が!!」
再び銃声が響いた。アルキスがやはり無言で銃を撃ったのだ。その銃弾はヴァーツには当らず、頬を掠める。
「くそっ、なんで……!」
何故、上手く避けることが出来ないのか。ぎり、と奥歯を噛み締めるヴァーツに、アルキスが笑う。
「言っただろう、攻撃判定はシステムが厳密に決めている。避ける・当てる……という選択が自由にあるとでも、錯覚していたのかい?」
「ち、くしょう」
つまりアルキスはシステム側のプレイヤーであり、攻撃判定の優先権はアルキスにある。アルキスの攻撃を、ヴァーツは自身の身体能力で持って避けるしかないのだ。
普通に行ったのでは勝てない。辿りつけない。……でも足が動かない。なぜだ。そこまで考えて、ヴァーツは足を見下ろした。撃たれた左の脛からは、思ったほど血も出ていないし、痛くもない。セタが言っていた言葉を思い出す。矛盾が生まれないイメージならば実現される……。
矛盾が生まれないイメージ。
今、ヴァーツは足を撃たれている。痛みは無いが、足の感覚が失われている。
痛くない。
足は痛くない。
怪我なんてしてない。
いや、怪我なんてしてたって、俺は。
自分の、足は、まだある。骨もあるんだ。だから。
走れる。
走れ!!
足を怪我した感覚とヴァーツの精神力がせめぎあい、ヴァーツの精神力が勝利した。足は動くと言い聞かせて、た……と地面を蹴って、ヴァーツはアルキスに飛びかかった。攻撃かと思ったアルキスはそれを振り払うように避け、銃を向ける。だが掴みかかろうとしたり、組み伏せようとしたりするヴァーツの動きが邪魔で上手く狙いが定められない。その様子に、アルキスが格闘はそれほど得意ではないのだと知る。
「ラズ!」
「……くっ」
「ラズ、聞け! 俺はまだ生きてる!!」
「黙れ、ヴァーツ」
「まだ、生きてる。アルキスは嘘を付いてる!」
「黙れ!!」
「俺にはとうさんも、かあさんも、いないんだよ!……仲間しか、いないんだよ! だからあきらめるな、あきらめないでくれよ!」
「クソガキめ……!」
ピストルで殴ろうと腕を振るが、ヴァーツも負けてはいなかった。格闘ならばセタに学んだし、そもそも現実の世界では武器など無くて、喧嘩はいつも素手だった。取っ組み合いならば慣れている。アルキスの腕を両手で受け止めそのまま掴み、噛みつくようにぶらさがる。
それでも攻撃はやはりアルキスには利かないのだろう。すぐさま手は離され、ヴァーツを吹っ飛ばす。
しかしヴァーツ自身の狙いはそれだった。
背中を打ち付けた硬質の感触は壁ではない。アルキスが操作していた黒いテーブルだった。真っ直ぐに近付いても近づけないだろうと思って、アルキスの攻撃をテーブルに背を向けて受けて、わざと吹っ飛ばされるような行動を取ったのだ。黒いテーブルに近付いたヴァーツは、その画面目掛けて拳を振り下ろす。
ガッ……と鈍い音がしたが拳がそこに通るはずも無く、2度3度殴るが、感じるのは無慈悲な硬さだった。
「壊れろよ、壊れろ!」
必死で拳を振るうが、決して壊れない。だが止められなかった。ここで諦めるのは間違っている。ここまで来て諦めて手放すなんてヴァーツには出来なかった。絶対助けるとあいつの父さんと約束した。……だからヴァーツは叫び続け、殴り続けた。
「聞けよ、ラズ! お前も、負けんじゃねー!」
拳が破れて血がにじんだが、ヴァーツは腕を振るうのを止めなかった。しかし。
「無駄だ。」
カチ、とヴァーツの後頭部に冷たいものが突きつけられる。硬質なそれは銃口のようだ。
「聞きなさい、ルリカ」
ぞっとするような淡々とした声には、何の感情も込められてはいない。……いや、わずかの焦りと苛立ちが滲んでいる。欲しい物は目の前で、あとほんの少しのところに指が掛かっている。だが完全に引き寄せる事の出来ないもどかしい苛立ちだ。確実に手に入るはずなのに、いまだ手に入らない事実に対する不安だった。だからこそ、努めて冷静に言い放つ。
「いいかね、ルリカ。ヴァーツは、君の味方は皆死ぬのだ。誰も君を助けてくれない」
銃声が響き、システムの画面にピシャリと血がかかった。