エクスの世界に存在している、セタという意識がバラバラになり、セタはどうやら「作り直された」ようだった。
『ルイスとヴァーツを殺して』
命令はたったそれだけだったが、相当の強制力をもたらした。大切な仲間、大切な女、それを破壊してバラバラに食いちぎりたいという衝動が身体を苛む。しかし同時に気づいた。ヴァーツは大切な仲間、ルイスは大切な女。……それを知っている自分は、元のままだ。
作り直されれば記憶を失うはず。しかし、バラバラになった意識のピースは寸分違うことなく元に戻ったらしかった。元の、ショウ・ダルトワの意識再現率5%のまま、ルイスに惹かれてこの世界に姿を現し、ルイスと仲間を欲したままの自分だ。
まだ、間に合う。
まだ、この手は動く。
一瞬の隙を作れば、あいつらをラズの元に行かせてやる事が出来るはずだ。だから言ったのだ。
「来るなといったろうが、バカが……」
その時、ルイスもヴァーツも気づいたようだ。ルイスが「行け」ではなく「行ける」と言ったことでセタも自身の真意が伝わった事に気づいた。しかし両方を行かせることは、さすがにできないだろう。
行かせるとしたら。……いや、自分の手に残すとしたら。
自分の狂いそうな心を元に戻すとしたら。
「ファルネ」
……助けてくれ、俺はお前を殺してしまう。
ルイスの左手から流れる血の匂いと、氷でつながれた2人の身体と、零れたルイスの涙に、セタの破壊衝動の枷が外れる。僅かに残った理性が感じ取った、背後の気配にセタは賭けた。
「 ……お前を殺したくないんだ」
言った瞬間後頭部を殴られて、セタの身体はルイスから離れた。
****
「なら私が殺してあげましょう」
無造作にセタの後頭部を殴ったのはユリアナだった。いつまでたっても引き金を引こうとしないセタに、業を煮やしたのだ。
金属で出来た錫を思い切り振って、セタの頭を殴った。頭が砕けたかと思ったほどの衝撃だったが、横に吹っ飛んだセタを視線で追うとぐう…と喉から唸るような声を上げていて、どうやら無事のようだ。その様子にルイスが、ほ…と息を吐くと、今度はセタに代わってユリアナが上に立つ。
ユリアナはルイスをまたぐように立つと片方の足で腹を踏み付け、冷たい瞳で見下ろした。まるで別人のようだ。
「まるで、別人のようね……ユリアナ」
「そう? ……でもこれが私です。ルイス」
「どうしてずっと一緒に居たの?」
そんなことをしなくても、ラズをフウカにフィードバックさせる機会はあったように思えた。このエクスの世界、ここに居るだけでシステムの手中にあるようなものだ。
「ショウ・ダルトワが再現されたからです」
「ショウ……セタ?」
「ええ。セタの存在が、アルキス様の邪魔になるかならないか、それを見極めるために。……ですが、セタは警戒して私を側に寄せ付けない。ルイス、貴女がセタに一番近かった」
「だから、私と……?」
仲良くしたのか。その問いにはユリアは答えず、別の理由を口にする。
「……それにいざというときに貴女の命を盾に出来る」
「なるほどね」
それを聞いても不思議とルイスの心は騒がなかった。ただ残念だった。ルイスにとってユリアナは憧れだった。同年代の女性であるのに、自分とは全く違う女性だ。女らしい感情と優しさを素直に表に出していて、どんな話題にも楽しそうに受け答えて、どんな人に対しても優しく接する。自分には恐らく一生出来ない表情だと感嘆した。
ふと気がつく。
「アルキスの、ため?」
「ええ。あの方のため」
「フウカのためではないのね」
その時、急にルイスの片方の頬に衝撃が走った。ユリアナが身体を少し低くして、ルイスの頬を張ったのだ。
すぐさまルイスの胸倉を掴んで起こす。
「誰があんな女のために!」
「あんな女……?」
「そうよ、あんな……死んでなお、アルキス様を惑わして……」
ああ、と、女であるルイスは理解した。ショウとフウカとアルキスとユリアナの、永遠に交わらない残酷な平行線が、この世界の歪みを生み出したのだ。
「あなたは、アルキスさんを……」
「黙りなさい!」
パシッ!……と二度目の乾いた音がして、再びルイスが頬を張られて横を向く。横を向いたまま、ルイスは問いを重ねた。
「それなのに、どうして手を貸したの」
ルイスの言葉にユリアナの目が憎しみに翳る。
ユリアナはアルキスの秘書だ。アルキスが会社を立ち上げた頃からずっと秘書として仕えてきた。
会社がどのような状況にあった時も、アルキスがどのような目にあった時も、ユリアナはずっと側でサポートしてきた。ひたむきに仕事に打ち込むアルキスの姿が好きで、真剣な眼差しが眩しくて、ユリアナはアルキスに上司と部下以上の感情を抱いていた。
アルキス自身も他のどのような人間よりユリアナを信頼してくれていて、……そして、ユリアナに秘書以上の働きを求めた。ユリアナはアルキスに求められるままに、何もかもを差し出した。そこには、女としてアルキスに身を差し出すことも含まれる。もちろんユリアナはアルキスの恋人ではない、だがそれでよかった。それでも、自分は単なる秘書ではない存在だと自負していたのだ。
それなのに。
アルキスがこのサービスの計画を決めた時、会社を立ち上げた本当の目的を打ち明けられた。アルキス自身はフウカの事について男女の感情は匂わせなかったが、ユリアナはすぐに気付いた。
あのひたむきな姿は、全てフウカという女のためだったのだ。アルキスには利益など二の次で、自分にひたすら仕えてくれる人間が必要だっただけで、それがユリアナという人格でなくてもよかったのだ。
その証拠に、サービスを始めてからのアルキスは、フウカとルリカに対して今まで見たことのないような執念と情欲と、そして愛情の混じった顔を見せるようになった。そうした表情は決してユリアナに向けられることはない。ユリアナに向けられるのは、いつもの上司が部下に……いや、駒に対する顔ばかりだ。
アルキスのあの表情を、自分に向けさせることは絶対に出来ない。
そばを離れれば、苦しみから逃れることが出来たかもしれない。しかしそれは選べなかった。そばを離れたところでアルキスは別のユリアナを見つけるだろうし、引き止めることもしないだろう。あるいはこんな馬鹿な所業を止めればよかったのだろうか。しかしそれこそもっと出来なかった。止めればユリアナはアルキスから恨まれ、憎まれただろう。
だから、最後までそばにいることにしたのだ。
アルキスのやろうとしていることは常軌を逸している。正しい事とはとても思えない。叶えたとて、ルリカのその後が保証されるはずなどない。だが、それがこの人のただ一つの望みなのだ。この望みを叶えるためならば、アルキスはユリアナをそばに置いてくれる。
それの何が悪いのか。
好きな人のそばにいたくて、好きな人の望みを叶えたくて、一緒にいただけだ。それに理由がいるのか。たとえ、それが自分の望みの正反対だったとしても。
「私は間違っていない!」
再び三度目の音が響く。
「あの方が、あの方は、どんなことをしてもこちらを向いて下さらなかった! だから、せめて、その横顔が笑ってくださるようにと……」
「ユリアナ……」
ルイスにも分かっている。それはきっと間違っていない。愛する男が横顔しか見せてくれないのなら、その横顔が笑ってくれるようにと、ただ願うことの何が悪いのか。
いいも悪いもなく、正しいも間違っているも無い。
ただルイス自身がそれに従う必要は無いはずだ。四度目の平手打ちは届かなかった。ルイスはその手の平を受け止めると、ユリアナに掴みかかる。しかし避けられて、床に叩きつけるようにルイスの身体が投げ出された。
起き上がろうとしたルイスの肩を、ユリアナの錫が突く。しかし、それを転がって避けると、ルイスは倒れているセタに近づいた。そこには、セタのいつも持っている銃が転がっている。ルイスは懸命に手を伸ばす。あとほんの少しで、指が届く。
しかし、それが届く前にルイスの意図に気付いたユリアナが、伸ばされた手を踏んだ。やはり痛みは無かったが、ぐ……と思わず喉からうめき声が零れる。
「今なら、まだ間に合うわ」
「間に合う?」
「ログアウトなさい」
「……」
「そうして、この世界のことを忘れなさい」
「戦わせるんじゃなかったの?」
苦笑して、床に転がったままのルイスがユリアナを見上げる。しかし、やはりユリアナの顔には何の表情も浮かんでいない。
「勘違いしないで。私はシステム側の人間よ? 勝負が着くと思うの?」
なるほど、だからさっきからユリアナの平手打ちが避けられなかったのかと、びっくりするほど呑気に思って、銃から手を離す。
足は退かなかったが、ユリアナの視線は外れた。
咄嗟に腰の短剣…セタからもらったものを抜き、身体ごとひねるように横に一閃する。踏み付けているユリアナの足を狙った。
「無駄って言ってるしょう!」
その動きに気付いたユリアナが足を下げたが、シュ…と布の裂く音がして、僅かに朱が引かれた。短剣の刃が触れて、足首が切られたのだ。
「な……?」
痛みはないが、攻撃を受けたことに動揺してユリアナが足を緩める。
「じゃあ、俺ならどうだ」
不意にユリアナの背後から声がして、背中に鈍い衝撃を受けた。今までに受けたことのない暴力的な重みに抗えず、長椅子に腹を打ち付ける。
かは、と、嫌な音が肺から漏れた。
しかし体制を整える前にルイスが起き上がり、振り返ったユリアナの前に銃を突き付ける。左手を怪我しているからだろう、右手だけで構えていた。追い詰められたユリアナは一瞬で悟る。目の前に、正気に戻ったセタがいる。セタの戦闘能力はこの世界でも桁違いだ。なおかつ彼もシステム側の人間であり、ユリアナを傷つけることが出来るはずだ。叶うはずがない。
とうとう詰みだ。
ユリアナは身体から力が抜けたように、ずるりと座り込んだ。
「セタは、分かる。けど、なんで、ルイスのナイフが、私に……?」
「あれはシステムが……恐らくフウカが生み出した武器だ。だからシステムに関係無く、全てを傷付けられるんだろ」
「そんなはず……」
「さてね。あのクソガキの世界だ。何が起こるかは分かりゃしねえよ」
そしてシステムの生み出した男セタの攻撃は、ユリアナに致命的なダメージを与えた。痛みはないが、身体の内側が損なわれているのが感じられる。
「これが……」
[death due to sensory feedback]……すなわち、感覚的フィードバックによる死だ。初めて自分の身を襲う感覚に、ユリアナは笑いが込み上げてくる。死の認識をしなければ生きていられると思っていた。フィードバックを封じておけば「死の感覚」もフィードバックしないのだと信じていた。けれど、実際にはそれほど甘いものではない。死ぬという認識は、理性を越えた本能的なところで感じるものなのだ。
今のユリアナには、それを覆すことが出来るほどの精神力は無かったし、抗うつもりもなかった。ヴァーツを逃し、セタもルイス止められなかった自分が、これ以上アルキスのそばにいられるはずもない。それに、たとえフィードバックが成功したとて、フウカに情愛のこもった視線を投げるアルキスなど、見ていたくなかった。
信じられないものを見つめるような顔で銃を構えるルイスの様子に、ユリアナは笑う。
「何してるの。殺しなさいよ、ルイス」
「ユリアナ……」
それでも引き金を引きそうにないルイスに、疲れたようにため息を吐く。
「もうログアウトしたいの」
「ログアウト……?」
「私は自分からはログアウト出来ない。アルキス様の許可がなければね。……だから」
「これは、……ログアウトなの?」
「そうよ。知っているでしょう、この世界のフィードバックは遮断されて居るの。死ぬはずがないでしょう」
「嘘」
そう。嘘だ。
ユリアナははっきりと認識して居た。自分は恐らく、ここで消えてしまうともう戻る事は出来ないだろう。[death due to sensory feedback]にフィードバックの断絶など、関係なかったのだ。
ルイスが迷っていると、背中から抱き締められたような温もりを感じ、銃を構えるルイスの指に男の指が重なった。後ろからルイスを抱き寄せたセタは、ひとつひとつ優しく震える指を退かせて銃を握り直すと、安定した仕草で撃鉄を起こす。
それを見て、ユリアナが笑った。
「あなたの勝ちね、セタ」
「どうだかな」
ドン!と、いつもの重い銃声が響いてかくんとユリアナの頭が力を失った。血は出ることなく、たださらさらと金色の粉になって消えて行く。
まるで、モンスターを倒した時のようだった。
「ユリアナ……」
かつての仲間で敵だった女が、金色の粉になって空間に溶けていく。その様を見ながら、ルイスが涙を落とした。その瞳を、後ろから大きな男の手が覆う。
「あれは俺がやった。ルイスは関係無い」
「けど……」
「いいんだよ。あれで」
「……ごめんなさい」
「何が」
「引き金を、引けなくて。あなたに……」
「違う。俺が勝手に引いたんだ。なあ、ファルネ、頼むから泣くな」
ちっと舌打ちの音が聞こえて、ルイスを覆っていた手が外された。無理矢理身体をセタの方に向かされて、額を軽く押される。
セタの右手がルイスの左手を守るようにつながれた。そのまま身体を引き寄せ、顔が覆いかぶさり、ルイスの唇が塞がれる。
人工現実の世界で、仲間を殺した後なのに、触れ合うことの感覚を思い出すなど自分達はどうかしている。こんな感覚だけはきちんと感じさせるシステムの生々しさに、互いにしがみつく手が震えてしまう。
静かに重なり、軽く音を立てて吸いつかれて咥えられ、また吸いつかれる。ルイスが息を吐くと、その吐息に誘われるようにぬるりと舌が絡まった。女の腰を抱く腕が強くなり、男に掴まる指がきつくなる。吸い付きあっている唇も、その中で繋がる濡れた感触も、求め合う繊細な指先も無骨な手も、触れ合っている柔らかな胸も逞しい胸板も。
全てが信じられないほど温かくて、熱かった。