バタン……と重い音がして、背後の扉が閉まった。
外も内も何の気配もせず、音もしない。シンと静まった空間を見渡すと、そこは礼拝堂のようだった。正面には小さな祭壇が置かれてあり、その奥の壁に十字架が置かれてある。十字架とそれに殉じた救世主を信仰する古い古い宗教ならば現実の世界にもあるが、この教会に置かれてあるものは磔にされた救世主を模したものではなく、単に「教会」という単語の象徴として扱われているのだろう。それでもこの空間は静謐で、澄んだ空気が漂っていた。
前から順に長椅子が置かれており、その真ん中を歩いていくと祭壇に辿り着くのはすぐだ。十字架の飾ってある壁の左隅に、小さな扉があった。
「ヴァーツ」
「ん?」
「このまますんなり、向こうに行けるとは思えないし、行ったとしても簡単にシステムの元に辿り着けるか分からない」
「……ん」
「私を置いて行きなさい」
ローブから覗く口元が小さく笑っている。その笑みを見て、「またかよ」とヴァーツが声を荒げた。その姿に苦笑して、ルイスは首を振る。
「違う、ヴァーツが思っているようなことじゃない」
「何が!」
「チャンスがあったほうが先に行こう。私も貴方を置いていくから」
「……」
いつ、どんな時に先へ進むチャンスがあるかは分からない。ゴールはきっと近いだろう、だからこそ、駆け抜けて、抜けた方が先に行く。辿り着いた先で何をするべきか、そんなことはヴァーツもルイスも分からない。しかし、とにかく辿り着かなければ始まらない。
「それから……」
ルイスはヴァーツに小さく耳打ちした。それを聞いて、「何の役に立つんだよ、それ」と呆れる。その表情、ルイスがいつものように肩を竦めた。
「さあでも、セタなら多分ヒントをくれると思うんだ。自分達がどう行動すべきか、判断できるだろう」
ああ……とヴァーツが頷いた。祭壇の前に立って、目の前の十字架を見上げる。ここまで来て一体何を信じるというのだろう。少なくとも、神などではない。
「行こうぜ」
「そうね」
何処に行くのかは分からなかったが、進むにはその道しか無い。扉を目指して踏み出した、その時だ。
「行かせませんよ」
聞いたことのない声に振り向くと、品のよいスーツを着こなした男と、もう1人、見覚えのある女が立っていた。
「ユリアナ……?」
ルイスの声にユリアナは何の反応も見せずに、視線すら向けない。まるで別人のようだ。
「あ、操られてるのかよ」
ヴァーツが言ったが、その言葉にスーツの男が心底おかしそうに笑った、
「ああ、愉快な冗談かと思ったら、どうやら本気のようだね? ユリアナは最初からこちらの人間だよ、……ヴァーツ、いや、アンリ君だったか」
最初から……という言葉に、ヴァーツが目を見開いてユリアナを凝視する。セタからの情報をもとに予測はしていたが、いざ目の当たりにすると信じられない。あれほど皆と一緒に過ごしてきたのに、そんなそぶりは一度だって見せなかった。しかし、逆に言えば彼女はずっと知っていたのだ、あんなに楽しそうなラズが、仲間達に裏切られることを。
「知ってて、あんな風に?」
意外にも、ルイスが絞り出すような声を出した。一番仲がよかったのは、ルイスだった。
ルイスとユリアナはいつも魔法の実体化と想像力について話していた。弟が実現しようと考えていた人工現実での魔法表現、その在り方を弟の代わりに求めていたのかもしれなかった。それに付き合ってくれるユリアナを、ルイスは心のどこかで頼りにしていたのだ。
そんなルイスの疑問符に、ユリアナが初めて顔を向けた。
そして、小さく笑う。
「もちろん、知っていたわ」
「知ってて、てめえ……許せねえ!」
全く心を傷めていないユリアナの様子に、ヴァーツの頭に血が登った。腰の剣に手を掛けて、金属の音を響かせる。
床を蹴った。
「アルキス様!」
抜剣の音を響かせて、剣の切っ先を向けたのはユリアナではなく男へだ。しかし男は避けず、ユリアナが前に出る。男……アルキスをかばうと、持っていた錫でヴァーツの剣を弾き、金属音を響かせて距離を取った。
互いに牽制である事が分かっているからだろう、それ以上は動かず、ルイスも軽く杖を上げただけだ。
ユリアナの後ろでアルキスが紳士的な笑みを浮かべている。
「一時的であれこんな理想郷を使わせてやったのだ。感謝されこそすれ、そんなに怒らなくてもいいだろうと思うがね」
「……んだと!?」
「さて、君達はもう事情を知っているようだ。深い説明はやめておくが、これ以上君らを進ませることは出来ない。君達も知っているのだろう、自分達がなぜここまで黙って進むことが出来たのか」
す……と片腕を上げると、先ほど向かおうとしていた扉が開いた。そこから、やはり見覚えのある男が現れる。すらりとした長身、鍛えられた鋼のような鋭い身体に、刃物のような油断ならない瞳の男。
アルキスはユリアナを置いて男と入れ違いに扉へと歩き、それを追い掛ける2人の前に、男が立ち塞がる。
アルキスは扉を開けて、ふたたび笑った。
「フウカが作り直したそうだ。君達を殺すように命じてある。……ああ、戦いは見せてもらうよ、ルリカと一緒にね。楽しませてくれたまえ」
その言葉を最後に、パタンと小さな扉が閉まる。前方にはセタが居て、後方にはユリアナがいる。
アルキスは作り直した……と言っていた、その意味を、思い出す。
「セタ……?」
祈るような声はルイスだ。セタは視線を持ち上げるとルイスを捉え、僅かに顔をしかめた。
「来るなといったろうが、バカが……」
言って、無造作に腰の銃を抜く。後ろでもユリアナが錫を持ち上げた気配がした。ルイスとヴァーツは同時に身構える。
「ヴァーツ」
「ルイス?」
「行ける」
2人が顔を見合わせて頷いた、……と同時に銃声が響いた。ルイスとヴァーツが両脇に飛んでそれを避けると、扉側にヴァーツが転がる。それを視界の端に納めると、逆側の床に転がったルイスが床に手をぺたりと触れた。ミシッ……と床にヒビでも入ったかのような小さな音がして、みるみるうちに白くなっていく。
ルイスが床を凍らせたのだ。
その冷気を避けるようにセタが床を蹴って跳躍する。それによってセタとヴァーツの距離が離れた。
「走れ、ヴァーツ!!」
「……!」
自分と他との間合いが広くなったのを一瞬で感じ取ったヴァーツが、ルイスの言葉に頷くよりも先に身体を動かした。喉から唸るような声を上げて、扉へと駆け出す。
そこに後方から距離を詰めたのがユリアナだ。
「……待ちなさい、行かせない、ヴァーツ!!」
ヴァーツとユリアナの争いを無視して、セタの跳躍はルイスに向かった。ルイスはそれを敢えて避けずに、床に触れたままだ。ユリアナが床を一瞬注視したが、氷の柱は床からではなくすぐ側にあった長椅子から伸びた。金属で出来た錫を冷やし、自分の足ではなく手を絡め取ろうと伸びてくる氷の柱を、ユリアナが振り払う。ユリアナはすぐに体制を整えたが、その僅かの間が隙になった。
ユリアナがヴァーツに追い付くよりも、先にヴァーツが扉に手を掛ける。しかし、そこに追いついてきたユリアナの錫が振り下ろされた。
「させない!」
「離せよ!」
ヴァーツの剣を持っていない方の手が扉を開き身体を滑りこませようとする。それを邪魔するユリアナの錫を剣で受け止めて、一度ぐ……と力を込める。錫は弾かれず、ギシと擦れた音を響かせた。
そして。
ガシャン……と音がした。ユリアナの手から急に重みが消えて、がくんと前のめりになる。
ユリアナの力が掛かったタイミングで、ヴァーツが剣から手を離したのだ。
そのままするりと身を退いて、剣を捨てたままヴァーツが扉の向こうへと消える。パタンと扉が閉まりと、そこがピシリと凍り付いて塞がれた。ルイスの魔法が今や礼拝堂の半分を覆い尽くし、それが扉まで到達したところで止まる。
「セタ! 何をやっているの」
ヴァーツを止められなかった苛立ちに、ユリアナが声を荒げてセタとルイスを振り向いた。
そこには倒れたルイスとその上に馬乗りになったセタがいる。
セタの手には愛用のバトルナイフが握られていて、ルイスの左手と床を縫い付けるように刺さっていた。そして、そのナイフから氷が上に登りセタの腕を凍らせている。あの程度の動きで疲れているはずもないのに、セタは肩で息をしていた。額には汗すらにじませて、苦々しい表情だ。
この世界が狂い始めてから、何度も見た顔だった。
「いつも思うんだがな……ルイス、なぜ避けない」
「殺しなさいよ、セタ!!」
セタの声にユリアナの命令が被る。だが、セタはその声を無視し、自身の右手とルイスの左手がナイフでつながり、氷で拘束されている様子を見る。そのセタの様子に、何故かルイスは安堵したように笑んだ。
「作り直されたら、忘れるんじゃなかったの?」
「ルイス……ファルネ……」
「貴方は忘れてなかった。だから」
セタは言ったのだ。2人を見た時に「来るなと言ったろうが」と。2人のことをセタは覚えていたのだ。……ということは、セタは作り直されていないか、作り直されたけれど元のセタのままなのだろう。
ルイスとヴァーツはあらかじめ、セタがわずかでもこちらを知っている素振りを見せれば、他に誰がいても問答無用で駆け抜けようと決めていた。だからセタの一言を聞いて判断した。この勝負は2対2ではない。3対1だ。銃から発せられた弾道はほぼ誰も狙っておらず、2人が避けるのは容易だった。セタはヴァーツではなくルイスに飛び掛かり、自然とヴァーツから離れる。
ただ、セタが何らかの強制力で操られているのは間違いないはずだった。セタの瞳はルイスに対する破壊衝動でぐらぐらと揺れている。セタは2人を殺せと命じられているのだ。
「2人のうちどちらかが行こうと決めてた。だからいいの」
「ファルネ、このままだと俺はお前を殺してしまう」
「それで正気に戻る?」
「バカを言うな!」
セタの左手が銃を構えてルイスの額に当てる。フィードバックを制限された世界で、ルイスの刺された左手はいまだ痛みを感じない。刺しているセタの方がよほど痛そうな顔をしていて、その表情にまだ失われていないセタの心を見て……ルイスの瞳から涙が零れた。
セタの指が引き金に掛かる。
「……お前を殺したくないんだ」
その指が、震えていた。