aix story

028.crack :兄

分かっていたのだ。

自分のこの思いが成就するはずもなく、成就させてはいけないものなのだと。

生まれつき身体の弱いフウカにとって、物心付いた時からずっと側にいるショウという兄がたった一人の自分の騎士ナイトだった。少し走っただけで息切れしてしまい眩暈がする自分は、ほんの僅かの移動も車椅子に乗せてもらわなければできない。そんな自分に比べてショウの身体は伸び伸びと動き、いつもフウカに優しくて、いつもフウカに何でもしてくれた。

大人になり冷静になって考えればショウは長男だったし、身体の弱い妹をないがしろに出来る性格ではなかった。真面目で、責任感の強い男だ。ダルトワ家に生まれる男は頑強で女は身体が弱いのだが、そうした家系も少なからず影響を与えているのだろう、弱く生まれた妹を大事にしなければ…という役割を自然に担っていた。

富裕で事業家の家によくあるように、ダルトワ家に生まれた者は男も女も、経営に必要な勉強は一通り学ばされる。しかし、後継者さえ確保できれば他は自由だ。ショウ・ダルトワは長男であったにも関わらず、早くから家を出て軍務に着いた。軍にでも入って実家と妹から離れようとしていたのではないか…と今ならば思える。

だが、フウカは当然それを許さなかった。

フウカは常にショウ・ダルトワという兄を許すことが出来なかった。自分よりも健康な身体、誠実で、真面目で、強くて、フウカにもガウインにも平等に優しい、平等な兄。小さい頃は兄を独占したくて、でも独占できなかった。それは真ん中の妹として、誰にでもある至極当然の気持ちの流れだったはずだ。

しかしフウカは弱い身体と富裕な家系に生まれていた。小さな頃から恵まれた医療と暮らしを約束されており、さらに病弱だったがゆえに我侭に育てられた。そうしたフウカが、自分と弟の存在を平等に扱われて耐えられるはずが無い。フウカから見ればそれは平等ではないのと同義だ。

フウカはショウが憎かった。ショウが自分以外の何かに興味を持つことが、嫌で嫌でたまらなかった。ティーンエイジャーになり、ショウの興味が家の中から外の世界に向けられ、ショウにガールフレンドが出来る。若い男としては当然の健全な流れが許せない。だから、学校とやらに行って女の子と仲よく手をつないでいるショウの姿を見て、強烈に嫉妬したのだ。当時出来る最大限の手を使って、その家族を遠くに引越しさせた。

自分はその隣に並んで歩くことすら出来ないのだから、当然の報いだと思った。

その思いだけでショウのプライベートを、フウカは邪魔し続けた。

分かっていた。自分がショウに執着すればするほど、憎く思えば思うほど、そして…ショウを求めれば求めるほど、ショウも家族も世間もフウカから乖離していく。その証拠に、ショウが実家に帰ってくる足はどんどん遠ざかった。だが止められない。一度噴き出したどす黒い思いは、どうやっても止めることが出来ず、一度してしまった行為は箍を外して次を産む。

こんなことをしていれば、ショウは自分から離れていくばかりだ。フウカの心のどこかは常に警鐘を鳴らし続けた。だからこそ、自分のこうした醜い欲望を表に出したくなくて、当時興味のあった人工現実の研究に没頭していった。仮初の世界でショウと過ごすことが出来れば、現実の世界のショウを傷つけなくて済む。

けれど、ショウは仮初の世界ですら好きにすることが出来ず、フウカはとうとう一線を越えた。

自分に縛り付けることが出来ないなら、ダルトワ家に縛り付けてしまえばいい。ショウを繋ぎとめるために、フウカは家族を失った。

そしてどこにも行けないように、護衛兼秘書として研究所の所員にしてしまった。抵抗するかと思われたショウだったが、あっさりとそれを受け入れてフウカは一時的に満足する。

しかし、それも一時的なものだ。

一時の満足に酔いしれて、フウカはあり得ない罠をショウに掛けて、そして失敗した。多少は自分の方に気が向いてくれただろうと、当時ショウに思いを寄せていた女を、さらにショウに近付けたのだ。今まで女からの誘いを受けたことのなかったショウは、今度もきっとそうするだろうと思ったのだ。それなのに、その日ふたりは帰ってこなかった。

男がいて女がいれば、想う者も出てくるだろう。ショウはストイックで真面目で、逞しい紳士だ……そうした男に惹かれる女がいないはずが無い。

自分とショウ以外、この世にいなければいいのに。

もう、何をしても、どんなに研究に打ち込んでも、フウカは自分を止められない。兄はますます遠ざかり、隣にいるのに自分を見ない。名前すら呼ばれなくなって、フウカは静かに発狂した。

ショウを自分だけのものにしてしまいたかった。そうしなければこの執着も苦しみも止まらないのだ。

いや、止められる方法が一つだけあった。それはどちらかが死んでしまうことだ。どちらかが消えて無くなれば、もうこんな苦しく醜い執着を続けなくても済む。

それならば、自分しか居ない。そもそも自分は身体が弱い。それも内臓の疾患が主だ。治療を止めれば長く生きる事は出来ないだろう。苦しかった。終わらせたかった。いっそ、完全におかしくなってしまえばよかった。いや、まだ間に合う。今ならまだ、兄を救える。もう終わろう。死んであの世界に閉じこもってしまおう。そうすれば、ショウを……兄を解放できる。弟も、誰もかれも、これ以上憎まなくて済む。

そんな風に決意した時、あっけなくショウが死んだ。

信じられなかった。軍役に就き、今まで何度かそうした襲撃も撃退してきた兄が、素人のナイフを受けて倒れたのだ。ダルトワ家の力を存分に発揮して治療を行ったのに、ショウの意識はとうとう戻らなかった。

これは罰だ。

ショウに執着して、憎んで、愛した、その罰だ。

いつからこんな風になってしまったのだろう。

普通に妹として兄を愛したかっただけだった。
弟のことだって本当は可愛がりたかったのだ。
普通の家族を築きたかった。
友達だって欲しかったのに……。

それらの全てを壊して歪めたのは、ほかならぬ自分だ。

苦しくて苦しくて、やっと悟った。この苦しみは、ショウが死んでも終わらない。

終わらせるには、やはり自分を終わらせるしか無いのだ。

完成に近付いたエクスの世界で、フウカは自身の胸に短剣を突き立てた。

****

終わったはずだった。少なくともショウが死に、フウカが死んだ事で何もかもが。

それなのにフウカはエクスの世界で目が覚めたのだ。

しかし目が覚めたフウカには全ての記憶が無かった。計らずもセタと同じように、この世界の仕組みだけを知っている。

最初は戸惑ったが、それを上回る自由にフウカは酔いしれた。普通に歩ける事、走っても息切れしないこと、世界の匂い、水の匂い、人の手の温もり。自由を感じる心。何もかもから解放された自分の感情。全ての事が、どうしてこんな風に新鮮なのだろう。

初めて言葉を交わした男の子、ヴァーツと言った。そそっかしくて、強くて、こちらが大人ぶるとすぐに拗ねて見せる様子は、外見は自分よりも年上なのにまるで年下のようでからかうのが楽しい。

その後出会ったログインしてくるプレイヤー達とも仲良くなった。弟みたいなヴァーツ、背が高いくせにドジなラズ、優しいユリアナ、不思議なルイス。

……そして、お兄さんみたいなセタ。

セタも自分と同じように他のプレイヤーとは少し違うようだったが、皆がログアウトしている時に互いに関わり合う事は無かった。なぜか、それをしてはいけないような気がしたからだ。そうした不思議な感覚だけはあったが、この世界での生活はとても素敵で、離れがたかった。まるで家族と友達が同時に出来たみたい、そんな風に思った。

もちろん、皆がログアウトしてしまえばそんな夢想も終わる。それでも、フウカは羽が生えたように、心に重い枷の無いこの時間を愛しんだ。

けれどそんな先の無い願望は、あの時、ルイスを抱き寄せているセタを見て、あっけなく終わった。

何もかもを思い出したが、その渦巻く感情にフウカはついていけなかった。兄の思いを独占しているルイスへのどす黒い嫉妬心と、ルイスだけを見つめている兄を許せないという憎しみ。そしてセタを一時でも「兄のように」慕うことが出来た喜びと、大事な仲間たちへの想い。相反する感情がせめぎ合い、優先権を争った。

いけない……と、そう思ったが、そのような願いも空しく、フウカの最後の理性がぶちりと切り離される。

その途端、この声が自分の声かと思うほど、おぞましい叫び声が出てきた。耳を覆いたくなるような汚い罵詈雑言が、自分の喉から飛び出してくる。同時に心が引き裂かれた。苦しくて、自分の中から汚い怪物が出てきた気がした。否、気がしたのではない。まさにフウカの中から怪物が出てきたのだ。

終わらせたと思っていた。

「何を? 終わってないわ、バカね」

もうこんな辛い感情は嫌だった。普通に健やかに過ごしたいだけだったのだ。

「生きることに健やかも汚いもあるわけないでしょう?」

こんなのは間違っていた。こんなのは愛ではないのだ。

「分かってるわよ、誰も愛なんて言ってないわよ、本当に頭が悪いわね」

どうして。どうして、こんな。

知らないわよ
憎いのよ
好きなのよ
欲しいのよ
触れたいのよ

潰シタイノヨ
壊シタイノヨ

自由ニ

ならナいのが

悪イノヨ

自由なのは自分だけだと分かっていた。他人は自由になんてならないのだ。

「他人じゃな、い、あれは兄さま よ」

それならなおさら。

「あ あ、本当にう、うルさイワ ネ」

これ以上関わってはいけない。もう一度「兄」を失ってしまう。やっとできた仲間も壊れてしまう。だから止めて、正気に戻って。正気? 何が正気なの、何が狂気なの、何が、なにが……。

「あなた、本当に邪魔だわ。死んでよ」

死んでよ。

望んでいたでしょ?

分かっていたでしょ?

死ぬしかないって。

化け物との対話は一瞬で終わり、フウカの目の前の教会の扉が閉まった。ヴァーツとルイスが行ってしまった。もう2度と会えないだろう。2人だけではない。ユリアナにも、ラズにも、セタにも。

「ごめんね、セタ……ルリカ……みんな」

フウカの瞳から滴が零れ落ちて、同時に、喉元に煌いた刃が横に引かれた。