aix story

027.crack :妹

いつからだったか。

ショウはフウカが自分を見る目が妹のそれではない事に、気づいていた。

それは少しずつ、本当に僅かずつ、些細な事の積み重ねによる変化だったように思う。まだ10歳にも満たないころ、弟と泥だらけになって庭を転がって遊んだ後の、うらやましそうなフウカの表情。そうした後、必ずフウカがわざと弟にそっけなく接する事。

それでも最初は兄弟仲は悪くないと思っていた。ガウインもフウカを慕っていたし、幼い弟なりに身体の弱い賢い姉を尊敬して賢明に構ってもらおうとしていたのだ。車椅子を押したり、命じられるままに人形遊びに興じたり。だが、成長するにつれてフウカは弟を遠ざけるようになり、弟もまたフウカを最低限以上には慕わなくなっていた。

しかし、ショウはフウカほど弟にも妹にも冷たくはなれなかった。どちらも可愛い自分の妹であり弟で、それ以上もそれ以下も、その2人についての優劣は全く無かった。優劣が無かったからこそ、ショウは若い頃からフウカとガウインのよそよそしい様子に苦悩した。ショウは良くも悪くもごく普通の兄だったのだ。

成長するにつれてショウはフウカの異常性に気づき始めた。中等教育過程の時に初めて手をつないだ女はすぐに引っ越してしまい、高等教育過程の時初めてキスした恋人は、ショウが浮気をしたと思い込み裏切り者と罵って自分の元から去った。その裏には必ずフウカの存在があった。ショウはダルトワの長男である。フウカがダルトワの家名と財力を使って手を回せば、すぐに気づく。

そうした状況の中、ショウは自身の身体能力を生かして軍務に着くことを選んだ。高等教育過程を修了後、すぐにトキオの通常憲兵部隊に身を置いたのだ。フウカを正常な妹に戻すためという名目だったがそれは言い訳で、自分に異常な執着を見せるフウカからショウは逃げた。

一方、フウカは人工現実の研究にのめりこんでいく。両親はフウカの兄弟差別を、身体が弱くて抑圧されている環境に置かれているからだろうと判断していたらしく、研究に没頭していく様子を見せても止めなかった。さらには、人工現実の世界に対するフウカの研究の功績が認められれば認められるほど手綱を緩めたのだ。一時期はルーノ研究所への投資と話題性がダルトワ家に利益を与えたのだから無理も無かった。

軍務に着いていたショウはほとんど家に帰らなかった。それでもたまに帰って来ると、明らかにフウカの様子が粘着性のあるものに変化している。帰る度に退役しろと脅され、女性関係を調べ上げられ、ショウの足は実家からはますます遠のいた。

しかし、父親の死と母親の入院によって実家に戻らざるをえなくなったとき、ショウは悟る。

フウカのショウ・ダルトワへの干渉はひどくなり、親や弟でさえ、ショウを側に置くためならば攻撃の対象になったのだ。誰も止められなかった。誰もがそうしたフウカを抹殺するほど、残酷にはなれなかったのだろう。

ショウは弟のガウインと話し合い、ガウインがダルトワ家を継ぐ事になった。家族を守り、決してショウとフウカに関わる事の無いようにと諭す。さらに、ルーノ研究所への支援から徐々に手を退く様にさせたのだ。ガウイン自身も家族を守るため、それを承諾した。ダルトワ家の余力はまだ大きく、フウカとルーノ研究所を切り離すことくらい造作も無い。

そしてショウは退役し、フウカの秘書兼護衛にするという話におとなしく従った。もし断れば、ダルトワ家がフウカ1人の手で崩壊しかねない。

研究所の一員になってから、ショウは何度か女性職員からアプローチを受けたがもちろん断り続けた。

そうした中、一度だけ強引に誘われたことがあり、その時はどういう訳かフウカが2人をけしかけたのだ。にっこりと笑って、行って来たら、と。それに薄気味悪さを覚えて、さらに言えば男として誘惑に負けた。女は素晴らしく、愛らしかった。

しかし、その女もフウカの手でトキオから離されてしまう。離されたというのは表向きで、実際に女がどうなったかは分からない。思えばフウカはショウを試したのだろう。普通の女に誘惑される男かどうか。そしてショウは特定の女の居ない普通の男らしく、誘惑にかかった。

忍耐の無い男と誰が責められただろうか。大切な存在が出来れば全てフウカに害されてきた男は、いわゆる普通の男女が抱く情に飢えていた。

しかし、この出来事を境にショウは完全に女から心を閉ざした。同時にフウカからも心を閉ざしたのだ。フウカを妹としてすら扱わなくなった。もちろん女として扱うわけではない。ただの守るべき「顧客」として扱った。「フウカ」とすら呼ばなくなった。徹底して「ダルトワ様」と呼び、フウカを世間に出さぬよう見張る代わりに、誰のものにもならぬことを選んだのだ。

ある日、シロガネ・ビレッジという病院で、女……少女を見た事があった。事故にでもあったのか右足を引きずっていて、右の頬に大きなガーゼをして俯いていた。横髪が頬に掛かっていて物憂い少女だった。

「陰気な女」

車椅子のフウカが吐き捨てるように言う。ショウはそれには答えずに、すぐに視界から彼女を外した。フウカはそう言ったが、ショウはそうは思わなかった。捨てるために置いていかれた動物のような瞳をしていて、それが酷く気になった。あの少女は何か大切にしていたものがあったのだ。そして、それに置いていかれた。痛々しい喪失感だった。自分はどうだ。自分の手で捨てるほど残酷にもなれず、ただ現状に縛られて、それに甘んじていて、孤独だ。

自分は自ら孤独を選んだくせに苦しんでいる。
あの少女は突然孤独を押し付けられて泣いている。

どちらが不幸なのだろう。

事業を継いだガウインの経営によって資金の援助が徐々に打ち切られ、研究所は継続の危機に陥っていた。フウカの独善はもはや誰にも止められることができなくなり、異常な実験にこもるようになる。もう限界だった。孤独を選んだのは自分だったはずなのに、ひどく息苦しい。

なぜこんな狂った妹のために自身を犠牲にせねばならないのか。なぜ狂った妹のために家族を失い愛する感情を捨てねばならないのか。どこで間違ってしまったのか。何故こんなにも、自分は1人なのか。

みっともない子供のように、ショウは孤独の苦しみに慟哭した。それでも表向きは冷静でなければならず、妹に憎しみの目を向けることも出来なかった。

フウカの執着と自身の孤独から逃れる手が一つだけあり、ショウはそれに飛び込む。自分で選んで得たはずの孤独に、ショウは耐え切れなかった。

ショウ・ダルトワは、死をもってフウカから逃げたのだ。

****

目が覚めた時、セタには何の記憶も無かった。

ただ、分かることはこの世界がエクスという人工現実の世界であり、この世界の外にはトキオという都市があり、エクスの世界にはプレイヤーとして外の世界の人間がログインしてくるのだということだけだ。

エクスの世界の全てをセタは熟知しており、戦いの方法、サバイバル術、全てを身に付けている。そして、この世界からは出る事が出来ない。

記憶が無くても感情が無いわけではなく、感じるのは孤独と、何もかもがどうでもいいという虚無感、そして自身を縛るものは何も無いという戸惑うばかりの自由だ。

周囲を見渡すと自分がいる場所はどうやら草のまばらに生えた荒地で、すぐ側に甘い匂いの気配を感じる。

それは自分とは全く別種の孤独を抱えていた。どう立ち回ったらいいのか分からず震えていて、そのくせ誰かの手を拒んでいるようだった。そうした混乱を何とか抑えて自分を保っている。周囲に溶けていたそんな気配を感じたのは一瞬で、すぐにそれは消え、何も感じられなくなる。

どうやら、自分はその気配に心惹かれて生まれたようだ。

セタは一瞬だけ感じたその抗いがたい孤独な気配に導かれるように歩き始める。記憶は何も無い。ただ、何かにすがりついて酔いたいという願望だけがあった。女でも酒でも血でもいいから何かに溺れたい。抑圧が解放された己に感じるのは、ただ剥き出しの欲望だ。

しばらく歩くと動いている人間が見て取れた。視線の先にはフードを目深に被った華奢なプレイヤーが、赤いトカゲの集団を相手に奮闘している。

「人間か」

何でもいい。孤独を埋めるものならば。

何故自分が孤独なのかも分からない。自身の名前すら知らなかった。

その人間の名前を聞いたら、いとも簡単に答えが返ってきて拍子抜けする。自分に興味を向けていない様子に少し苛立ったが、僅かに考えて、自分自身に名前を付けた。

「俺は、猟犬セタ

「ルイス」と名乗った人間の声は澄んだ女のものだった。セタは初めて見た女とその女の孤独に、欠けた何かを埋めるように手を伸ばす。

****

孤独なだけの女だと思っていたが、ルイスはそうではなかった。失った物を見つけようとしているかのように、世界の仕組みと自分の想像力を試している。顔を隠していて、口調も男のようだ。そのくせ声色は繊細な女のもの。アンバランスなその存在は他の誰よりも危うくて、何もかもに執着が薄いようだった。

セタはこの世界に来るまでのことを一切覚えていない。ただ分かるのは、自分にはフィードバック先の身体が無く、すなわちこの世界からログアウト出来るような類の存在では無い、ということだ。それは同時にルイスがログインしてこなければ、二度とあれに触れることが出来ないということを意味する。その事が、常にセタの心を掻きむしった。

仲間、ルイス……全てが仮初めだと分かっていた。それでも求めずにはいられない。それはセタ自身も知らない、かつてショウ・ダルトワだった頃の願望だったのだろう。自由に成りたいと願いながらも捨てた願望だ。それがセタという新しい存在になって初めて与えられた。

ルイスは怪我をしないからといって攻撃はギリギリで避け、1人にすると初めて遭遇する敵にも無造作に近づいた。他人に対してはいつも一歩引いているくせに、他人が何をしているかにはよく気を配っていた。それなのに、自分自身の扱いは極めて雑だ。

他人を近づけないために、他人の行動を気にする。関わり合いになりたくのに、見捨てることも出来ない。何かに傷ついたことでもあるかのようにルイスは常に恐る恐るだったが、周囲の仲間達はそれには気づいていないようだ。しかしセタはルイスから目が離せず、だからこそ、気が付いた。

そんなルイスを無理矢理腕に囲うと、不安そうに震えて男を自惚れさせる。セタにだけ見せる顔、セタにだけ震える身体。これを苛めてみたくて仕方がなかった。ルイスの孤独を自分で埋めたいと思い、その思いがセタの孤独を埋めていく。

そして埋められた孤独から、得体の知れない何かが生まれた。欲しいと思っていた感情だった。

セタという存在が、初めて手にした女。

しかし孤独が埋まれば埋まるほど、ルイスがログアウトした時の反動は大きくなる。外の世界で彼女は一体何をしているのか、他に男がいるのか、誰に笑っているのか、そんなことがセタを蝕む。

「ルイス……」

いない間に思いだすのは、戯れに触れたルイスの細い手首と腰の曲線のまろやかさと、吐息の甘さだ。

「相当キてるな、俺も」

自分が一体何者なのかも分からないくせに、ただ孤独だというだけでルイスという冴えない女に己を見出して執着して、……分かっているのに。

「お前は、こっちの世界の女じゃない。そうだろう、……ファルネ」

親と弟に死なれて、「置いていかれた」女。そして恐らく自分はフウカの兄とやらの、意識体ですら無いのだろう。フウカは言っていた。セタのことを「残りカス」だ……と。セタにも感覚で分かった。自身の「元」になる存在は、恐らくこの世に存在しない。その存在の意識体の残滓から生まれた者がセタなのだ。まさに「残りカス」だ。生まれて来る事自体がイレギュラーで、無用の存在なのだ。

その無用な存在に存在する意味を与えたルイス……いや、ファルネという女は、なんと残酷な女なのか。

ファルネ……絶対に知り得ることはないだろうと思っていた、女の本当の名前を何度も何度もセタは口にする。

「ファルネ、ファルネ……ダメだ」

来るんじゃない。

来たら、自分はファルネの心の弱さに付け込んで、自分の世界に閉じ込めてしまうだろう。

しかし、そんなセタの弱い弱い願望は、たった一言で消し去られる。

「来たわよ、ヴァーツ達」

楽しげなフウカの声が聞こえて、セタはゆっくり立ち上がる。来ると思っていたのだ。……ヴァーツも、ルイスもバカな奴らだったから。

****

「ここ……」

「通路みたいだな」

ログインの成功した2人は延々と続く灰色の通路に居た。後ろも前も遥か遠くが見えないほど真っ直ぐで、どちらに歩けばいいのか分からない。

「どうする? ……二手には……」

「別れない方がいいだろう」

「だよな」

しかし、どっちみち誰かが接触してくるだろうという予感はあった。

タタ……と小さな足音が聞こえる。

「……おい、あれ!」

ルイスがヴァーツの視線を追いかけると、視界の隅に水色が揺れたような気がする。

「フウカ!」

止める間もなく、導かれるようにヴァーツが駆け出した。ルイスも一歩遅れてそれに続く。罠だとしても、もはや頼りはないのだ。

フウカ見えた方角へ走って行くと、走るに連れて周辺の景色が変わっていく。洞窟、草原、酒場、病室らしき場所……そして周囲の景色が森に変わった時、先に走っていたヴァーツが足を止めた。

「ここ……」

森が開けたそこは、神聖な空気が漂っている。そして目の前には小鳩のような白い教会が建っていた。

「スタート地点なの、ここ」

いつの間にか、水色のドレスを着たフウカがそこに居た。なぜか敵対する相手とも思えずに、ルイスは小さなフウカを見下ろす。

「スタート地点?」

「うん。……あの子の。ルリカの。ルリカの身体に、一番近いところで一番遠いところ」

フウカはルイスの方もヴァーツの方も見ずに、真っ直ぐに教会を見つめている。そんなフウカにヴァーツが首を傾げ、怪訝そうに問いかけた。

「どういう意味だよ」

「自己へのフィードバックは、自身を見失いさえしなければ目印は無くても容易に出来るの。けれど、他へのフィードバックはそうはいかないわ」

それで、フィードバックしやすいような象徴的なシステムを作らなければならなかったのだという。つまり、この道を通って帰ればゴールがある、とか、このシステムに連結すれば自動的にフィードバックされる……などといった「直感的」な仕組みだ。人間というのは、道が無い場所よりは道のある場所を歩きたがるし、何かを始めるときに発動機構トリガーとなる動作があった方が、それを稼動させやすい。

「だから、ジェイ・アルキスはルリカの身体への道を作る為に、専用の回線と専用の仕組みを用意したの」

その仕組みが、この教会の奥にあるのだという。それを壊せばルリカへのフィードバックへの手立ては無くなるはずだ。しかし、「壊す」というのはいささか乱暴な気がした。

「そんなことをして、ルリカは大丈夫なのかよ?」

「分からない。この道しるべは、ルリカに直結しているから。でも、ルリカにその力があればフィードバック出来るはずよ。仕組み的には、あなた達がログアウトしたときにちゃんと自分達の体に戻ることが出来るでしょう? それと変わらないから」

ヴァーツもルイスも沈黙した。「分からない」と。だが、今はその方法しか無い様な気がする。

紛れも無い「フウカ」を簡単に信用してしまうのは、愚直なことだろう。しかし、今はこの「フウカ」が嘘を付いているようには見えなかったし、自分達を害するとは思わなかった。

意を決したのは、やはりヴァーツだった。教会の扉まで進み、その取ってに手を掛ける。

最後にフウカを振り向いた。

「なあ、なんで俺らにそんなこと、教えてくれるんだよ。お前……」

ルリカの身体にフィードバックしたかったんじゃないのか。かろうじてその言葉は飲み込んで、反応を待つ。問いを聞いて、フウカは寂しそうに笑った。

「だってそうなると、ルリカがいなくなっちゃうでしょう?」

「フウカ……」

それにルリカはフウじゃない。ルリカだけのもの。その身体にフィードバックする権利は、ルリカにしかない。

「ルリカは、みんなは、私の初めての友達なの。私はみんなと友達のまま、居たい……」

だから、お願い。ルリカを助けてあげて。

言ってフウカが片手を挙げると、ヴァーツの触れて居た扉が開く。

「行って」

「………」

「早く、行って!」

フウカは何も言わなかったが、何故かヴァーツもファルネも把握した。フウカはもう1人のフウカと1つだったはずで、もう1人のフウカの傷をこのフウカは負った。フウカはこのフウカを邪魔に思っていて、そして……。

ヴァーツが意を決したように扉の方を向き、その中に入る。ルイスもその後に続こうとして、一瞬、……ほんの一瞬だけ振り向いた。そして自分と同様に振り向き掛けたヴァーツの視界を塞いで教会の中に入り、無理矢理扉を閉めた。

見えたのだ。
水色のドレスを着たフウカの後ろに黒いドレスを着たフウカがいて、その白い喉に刃が充てていた。

その刃が引かれる瞬間は見なかった。