夜の病棟は静かで、足音が高く響く。裏口はどうやら特別病棟の関係者のみが使用できる入り口らしく、今全員が歩いている廊下も同様だ。ルリカの件については病院でも、ルリカの主治医とその関係者だけが知っていることらしい。
病室に到着した。
広い部屋だ。病院の病室とは思えないほど普通で、温かみのある壁紙とカーテンが設えており、調度品も病院の備品とは思えないような愛らしいものが揃っている。柔らかそうなソファや感じのいいテーブルセットも置かれていた。
「……ラズ?」
窓辺に寝台が置いてあり、そこに小さな少女がゴーグルを付けて横たわっているのが視界に入った。アンリが恐る恐る名前を呼ぶと、先導していたガウインが場所を開ける。
「娘のルリカだ。…君たちは、『ラズ』と呼んでいるのかい?」
「うん、……あ、はい。あの、本当にルリカですか?」
ファルネと共にルリカの居る寝台へと近付きながら、戸惑ったようにアンリがガウインを振り返る。ガウインの隣にはコーチョーも並んでいて、厳しい表情をしていた。
「確かに娘のルリカだ。2日前にログインした後、目覚めていない」
「……ルリカ」
全員がルリカの寝台の側に並び、困惑するアンリを勇気付けるようにコーチョーが肩を叩いた。
困惑するのも当然だろう。「ラズ」を助けるためにやってきたが、現実の世界にアンリの知っている無邪気な「ラズ」はおらず、いるのは弱々しい「ルリカ」という少女だけだ。すぐに「ラズ」と「ルリカ」は結びつかなかった。
「……アンリ、これを見て」
しかし、不意にファルネがアンリを呼んだ。アンリが視線を向けると、ファルネがガウインの許可を得て、ルリカの枕元、サイドテーブルに置かれていた一冊の本をめくっている。そこにはいくつかの付箋が貼られていて、ちいさく「セタ」とか「ルイス」とか「ユリアナ」「フウカ」……とメモされていた。どうやらその本は架空の武器や魔法について書かれている読み物で、メモと付箋の貼られたページを比較すると、たとえば「銃」のページには「セタ」とメモが貼られていて、「魔法」のページには「ルイス」とメモが貼られている。
それらを見て、思わずアンリがつぶやく。
「ラズだ」
アンリの声に頷いて、ファルネがさらにページをめくった。
「見て、これ…勇者・ヴァーツ、だって」
「くそっ…」
あのバカ!…と吐き捨てるように言って、アンリが眠ったままのルリカを見下ろした。不自由な身体で何を思って、病室で仲間達の名前と空想世界の本を読み比べていたのだろう。アンリは黒いエルフの青年が素直にエクスの世界に心を動かしていた様子を思い出して、唇を噛んだ。
ルリカとラズ…姿形は全く異なるのに、確かに同じ人物なのだ。
「アンリ、ファルネ…君たちは、ルリカ……『ラズ』と?」
一緒に冒険していた仲間たちなのかと、ガウインが説明を求めた。ファルネは促されるように状況を説明する。どこまで説明するかについては一度躊躇ったのだが、ガウインとコーチョーの口から改めてフウカの異常性について語られたので、ファルネ自身が知っていることを隠すことなく話した。ヴァーツ、ラズ、そしてユリアナ……と離れ離れになった経緯、フウカが死んでしまった様子、フウカが乱心しセタとルイスを罵倒した状況などを説明する。
また、それと交換するようにガウインはジェイ・アルキスと自身の関係を明かした。ルリカへのフィードバックが本当であれば、それはジェイ・アルキスも一役買って仕組んだものだろう。そもそもルリカへの機器接続から手続きまで、ジェイ・アルキスが自ら行っている。彼はフウカの復活に協力しているのだ。
ガウイン自身、兄姉であるショウとフウカとは縁遠い生活を行ってきた。研究所の内容も、投資に必要な内容を検証してはいても、ショウとフウカについては一切口出しをしなかった。それは、実は兄自身から研究所よりも自身と家族を大事にするようにと言われたからというのもあったが、そんなことは兄から言われずともガウイン自身の最重要事項であったし、彼は、フウカという異常な姉から目を逸らし、兄に押し付けていた。己には関係の無いことだと割り切っていたのだ。だからこそ、ジェイ・アルキスがフウカのフィードバックに手助けしているという話は始めて聞いた話だった。
エクスの世界で娘と過ごして居た……というファルネとアンリを見る。
ガウインから見ればアンリはまだ全くの子供だし、社会人といえどファルネは若い。自分で行く事が出来ればいいがそれは叶わず、全くの他人であるそのような若者に命を掛けさせて、安全ではないエクスの世界に行かせなければならないのだ。
「アンリ、ファルネ、……準備が出来ました」
ルリカに接続しているログイン用の機器で作業をしていたコーチョーが、身体を起こして2人を呼んだ。
コーチョーが調べたところによると、ルリカには一般回線ではなく特殊なネットワークの線が用意されているらしい。機器を接続したのはジェイ・アルキス本人だ。その時に、ルリカがログインするための回線を特殊なものにしたのだろう。たとえログインの時間から外れていたとしても、たとえアンリとファルネがログインを拒否されたとしても、この回線を使えばあるいはログイン出来るかもしれない。逆に言えば、この回線を使ってログイン出来なければ、ラズの下に行く手立てが無い。
実のところその類の心配はないだろうとファルネは考えていた。
コーチョーやガウインには言っていないが、フウカはルリカの身体にフィードバックさせるために「仲間達が殺し合う姿を見せる」と言っていた。いまだルリカが目覚めていないという事は、フウカがまだフィードバックしていないということであり、恐らく目的を達するためにヴァーツとルイスとセタを争わせるだろう。
だからシステムがヴァーツとルイス…アンリとファルネのログインを拒絶することはないのだ。
そしてファルネはアンリがログインすることを快く思っていなかった。端的に言うと、少しでも死の危険性があるのなら遠ざけたかった。自身の弟とアンリを重ねているのかもしれないが、それでもアンリを連れて行く事は無い。
そうした感情が面に出て居たのだろう。先手を打たれた。
「ルイス、俺、行くなって言われても行くから」
「けれど」
「うるせーな。絶対行く、行くったら行く」
「……ヴァー……アンリ」
行かないで欲しいという自分の気持ちを上手く言い表すことが出来ず、ファルネが眉を寄せて困った顔をしていると、ガウインがアンリの前で身体を低くした。
「本当に、行ってくれるのかね……?」
改めてガウインが問い直す。その声には、娘を救いたいという感情と関係の無い人間を危険な目に合わせるという後ろめたさとが混ざり合っていて、苦しげだった。それにファルネが答える前に、アンリが前に出る。
「別に、あんた……ダルトワさんに頼まれなくたって、行く」
「アンリ君」
「あんた、父さんなんだよな。ルリカの」
「そうだよ」
アンリにとってガウイン・ダルトワはルリカの…ラズの父親というだけで、別に特別な関係にある人物というわけではない。それなのに、「父さん」という言葉になぜか痛々しい、泣きそうな顔になって聞いた。
「もし、あんたがルリカを助けられるとしたら、行く?」
「当たり前だ。ルリカは私の一人娘で、私は父親なのだから」
「そっか、そうだよな。父さんだから」
それを聞いて、うん…とアンリは頷いた。先ほどまでの泣きそうな顔は、悲痛そうなものではなく泣き笑いになっていた。
「『父さん』だから、心配だよな。当たり前だよな。……分かった。俺が、助けてくるから」
「アンリ君」
「絶対、連れ戻してくるから」
アンリの決意を聞いて、ファルネも何も言えなかった。コーチョーはそんなファルネの肩を叩いて、頷く。
「……アンリのこと、頼みましたよ」
その言葉に含まれた意味を知って、ファルネは瞳を伏せた。コーチョーは暗に言っているのだ。
エクスの世界を利用して、死を覚悟するな、と。
いずれにしろ、それぞれの思惑を胸に抱いて、ファルネとアンリはエクスの世界にログインした。
概要を聞いたコーチョーの話によれば、ルリカにフィードバックするためのシステム的なコマンドか、あるいはシステムそのものが何処かに存在するのではないかということだった。フウカはそうした特殊なシステムを作り上げる時、仮想の世界の中にも象徴的で物質的な物を構築するのだそうだ。それを壊すか、操作するか、或いは全く別の方法か。
一番安全なのは、ラズに接触してログアウトさせることだ。ただ、ログアウトコマンドが活きている可能性が低いため、成功するかどうかは分からない。
ユリアナを捕まえて聞く……という手も考えておく。そういえば、ユリアナの正体だけは分かっていない。
「ユリアナという人物はご存知ですか?」
誰にともなくファルネが聞いてみると、コーチョーもガウインも首を振った。ノンプレイヤーキャラクターか、または実際にいる人間なのか……。考えにくいが、もし戦闘になったとして、もし殺してしまったら彼女もまた死んでしまうかもしれない。
「無謀ね……」
何もかもが不明確なままログインすることに、ファルネが苦笑すると、アンリがむっとした。
「でも行かなきゃ始まらないだろ」
「そうね」
始まらない。そして、終わらない。
行きましょう、とファルネが言ったのを合図に、2人はソファに寛いでゴーグルを身につけた。
覚えのある画面で、接続を促す操作コマンドを要求される。
2人は呆気なくログインし、その身体から力が抜けた。
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行ってしまった2人を見ながら、ポツリとコーチョーが言う。
「もはや、私のような老人が出る幕もありませんな」
「何をおっしゃいますか……こんなことならば、もっと早くに貴方に相談しておくべきでした」
「私とてアルキスが動いていると知っていて、なお、アンリやファルネを止められなかったのですから同罪でしょう」
「サービスの存在は……知っていたのですね」
「ええ。しかし、ファルネらの言ったような技術が実現されているとは思いも寄らなかった。フウカは……当然のことながら隠していたのでしょうな、この技術を」
自身の意識を全く別の身体にフィードバックする。……もし実現されれば、たとえば次の身体さえ準備しておけば、理論上は不死の存在になる事が可能だ。醜悪な技術だった。同時に、決してよい意味ではなく多大な利権を得る技術になるに違いない。昔からこの類の技術が人のために役に立ったことなどないのだ。
フウカが、そしてアルキスが、どこまで実現化させたのかは分からない。
「しかし、兄の意識まで戻った……と?」
「正確にはショウ・ダルトワでは無いようだがね」
「兄は死んだのです、姉も……それを、今更……」
「あるいは、兄の方は今更……ではないかもしれない」
コーチョーはそう言って、かつてガウインから預かり受けた携帯端末の独自アプリケーションを見る。やはりそれはいまだ[CLOSE]の表示のままだ。
「プロフェッサー・アキツ……しかし、いずれにしても、姉は確かに死んだ。私は確認したのです!」
「知っている。……だからこそ、止めなければ」
姉は死んだ。その死体は確かに確認している。
ガウイン・ダルトワは首を振った。今は余計なことを考えている場合ではなく、ただルリカとその仲間達が戻って来てくれればそれでいいのだ。
「……今は、ルリカが戻ってくれればそれで、いい。自分勝手ですな……私は」
「いや、ごく当たり前のことだ。ガウイン。大丈夫、あの子らならばきっと」
ガウインとコーチョーはソファにもたれて眠っているファルネとアンリの身体を見る。今、2人は一体どのような世界にいるのか知る術は自分達には無い。ただ任せるしか無く、無力感に苛まれる。
「しかし、我らにしか出来ぬこともあるでしょう」
「分かっています」
ルリカは必ず戻る。ファルネも、アンリも、だ。戻った後、世間にこの現状をどのように公表するか、あるいは公表しないか。そうした雑事について、ガウイン・ダルトワはダルトワ家として全力で、ルリカ、アンリ、ファルネを守る覚悟で居た。
「だから、帰って来てくれ、どうか」
眠ったままのルリカの身体と、それを救うために行ったアンリとファルネの身体を交互に見つめながら、悲痛な声でガウインはつぶやいた。