aix story

025.depth :病院

自分はすごく恵まれた子供だと、ルリカはいつも思っている。

生まれ付いて足は動かなかったけれど父は最先端の治療を受けさせてくれたし、そのおかげで、もう少しで動く足も取り付けてもらえそうだった。それでも、外で思い切り飛んだり跳ねたり、そうしたことが出来ない自分がもどかしくて、父親や母親につれない態度を取ってしまうこともあった。

年頃と言われる年齢が近付くにつれて、父や母に素直に笑う事が出来なくなった。楽しいこと、美味しいもの、綺麗なもの、可愛いこと、日常に転がる様々な出来事に、素直に反応できなくて、もうすぐ足を動かすリハビリが出来ると聞かされても、ひどく面倒でうらめしい。

外の世界への入り口は、ネットワークから集める情報だけになってしまったルリカは、エクス…という名のサービスを知る。

昔流行ったという、リアルな人工現実の世界だそうだ。ルリカにとって人工現実の世界というのは、愛らしいアバターでポップな世界を歩くというだけであって、現実の世界と見紛う程の緻密な人工現実を体感できるゲームなど信じられなかったし、聞いたことも無かった。

けれど、それを体験してみたらどうなるだろう。

初めて歩くということへの期待と、それを上回る不安。

足が動いたら、どんな事が出来て、何が起こるのだろうという希望。

この気持ちを、人工現実の世界は体験させてくれるのだろうか。そう思って、応募した。

軽い気持ちだったのだ。どうせ当選することなどないだろうと思っていたのに、すぐにサービス会社の社長自身から連絡が入った。医師体制を万全に整え、ルリカにフィードバックする影響を観察し、ぜひリハビリに役立てましょうと打診されたのだ。

[death due to sensory feedback]のために、リアルな人工現実の世界は危険という考え方が世間では通説だ。だが医療に役に立つということが証明されれば、研究が見直されることもあるだろう。そうした社会的な宣伝活動もあるのだろうなと分かったが、それでもやってみたいという気持ちはますます膨れ上がった。

ログインするにあたり、自分の姿は自由に決められるのだという。

自分自身のパーソナルデータから姿形を決めることも出来たのだが、どうせなら全く異なる容姿にしてみたかった。どういう見た目にするのか随分と迷って、自分が大好きな物語に出てくる「エルフ」という耳の長い種族にした。エルフは色白で金髪というのが当たり前らしいが、自分が金髪のために髪の色は黒にした。黒い服を着て、武器には弓を選ぶ。好きな物語のエルフのキャラクターが弓を使っていたからだ。

弱々しいルリカと決別したくて、性別は男にした。口調も「僕」にして、全くの別人を楽しむ。

冒険は楽しかった。世界を歩くだけで楽しかった。土の匂いも緑の香りも初めての体験だ。弓矢を使ってモンスターを倒すことについては最初は躊躇したが、皆と行動することによって、それらにもまた慣れていった。

自由に動けること、人と同じ視線で笑い合えること、普通の人ならば極当り前にできることの全てがルリカには初めての体験で、そのどれもが素晴らしかった。手に入れたかった。このテストが終わって手術する足、リハビリがどれだけ苦しくて痛いものであろうと、きっと私は我慢することが出来る。12歳の心がそんな風に決意した。

けれど、今、ルリカはその世界に囚われてしまっている。

抗えない己の不甲斐無さすら認識することが出来ずに、ルリカはただ真っ白い世界で1人呆然としていた。

「ルリカ」

不意に、呼ばれる。

少女らしいその声に振り向くと、そこには水色のワンピースを着たフウカが立っていた。そういえば……とルリカは思う。薄い色合いの金髪に淡い色の瞳、真っ直ぐな髪のルリカと比べるとくるりと愛らしい巻き髪だったが、顔立ちがなんとなく自分に似ているような気がした。

「フウカ?」

「うん」

フウカはルリカの隣にちょこんと腰を下ろす。

「生きてたの?」

「難しい質問ね」

「ユリアナも、そう言ってた。……あ……」

そうだ、ユリアナ。……言って、思い出す。ユリアナのあの、顔。ジェイ・アルキスと一緒になって、ルリカを……。

声を落として唇を噛み締めたルリカを心配そうに覗き込み、フウカがそっと頭を撫でた。よく考えてみるとルリカは今、ルリカ自身の姿形をしているようだ。手も足も細くて、視界にちらりと入る横髪は黒ではなくて金色だ。服は病院で着るようなワンピースだったし、裸足だった。

そうだ、足。

ルリカは投げ出して伸ばしている足の指を、動かしてみた。動く。

「動く……」

「ん?」

ぼんやりと自分の足を見ているルリカを見て、そうね、とフウカは頷いた。

「ここは、まだエクスの世界だから」

「まだ?」

「うん、エクスの世界の、もっともっと深いところ。心の奥底を閉じ込めている場所」

「心の奥底……」

「そう。昔私もここに居て、すごく懐かしい人を見つけて、そしてみんなのところに、行ったの」

「懐かしい人?」

「うん。セタ」

「セタ、知っている人だったの?」

「大好きな、兄だったの」

「あに……」

真っ白なこの世界で2人は何もすることがなく、フウカはぽつぽつとルリカに語り始めた。いつも無邪気に遊んでいる、兄と弟が羨ましかったこと。自分は動けないのに、自由な兄を憎らしいと思ったことがある事。元気だったら兄と遊べるから、弟のことを憎らしいと思った事があること。

外の世界を普通に歩きたくて、兄と、歩きたくて、人工現実の研究者になったこと。

完成が近くなってきたときに、自分はもう長くないのだと気付いたこと。

死んだらこの世界で、仮初でもいいから兄と一緒に過ごそうと思っていたこと。それなのに……。

兄が死んでしまったこと。

「兄はね、多分わざと死んだのだと思うの」

「わざと?」

ルリカの疑問符には答えずに、フウカはじ……とルリカを見つめた。

「今はね、私の研究を引き継いでくれた人がいるの」

「アルキスさん?」

「そう」

頷いて、フウカは困ったように笑った。

「私を、ルリカの身体にフィードバックさせようとしているんですって」

「フウカを、私の?」

「ねえ、私に、ルリカの身体をくれない? ……ルリカなら私の気持ちも、分かるわよね?」

ルリカの身体を、フウカに……?

問われても、ルリカの心は騒がなかった。ただ、ああ、そうだなあ……と思う。きっとフウカも外の世界を自由に歩いてみたいと、ただそれだけを思ってきたのだろう。その気持ちはルリカにも分かっていた。

分かっているけれど。

「私の身体で戻って、意味があるの?」

ルリカの身体にフウカの心。その実態に一体何の意味があるのだろう。ルリカは12歳だ。その幼い心にも、それが不自然なことくらいすぐに分かる。

「……そんなあべこべな身体で、本当にフウカって言えるの?」

フウカじゃないものになって、何か意味があるのだろうか? それはルリカなのだろうか、フウカなのだろうか。お父さんや、お母さんはどう思うのだろうか。お兄さんはどう思うの、弟さんはどう思うの? そんなことをして一体誰が幸せになるというのだろう。フウカが? でも、そんなフウカの隣を一緒に歩いてくれる人なんて、いるのだろうか。

そんな悲しい事、してもいいのだろうか。

だって私はどうなるのだろう。歩こうと思って居た事、待っているお父さんとお母さん、そういうのを全部捨てる事なんて、出来やしない。

私は私の足で、歩きたいって思ってるのだから。

「ごめんね、私はフウカに身体をあげられない」

「そうね」

いいのよ、と、フウカは言った。

そして、その気持ちを忘れずにずっと持っていて、とも言ったのだ。

「もし、フウカがルリカの身体にフィードバックしようとしてきても、フウカがルリカに何を見せても、ルリカにどんなことを言っても、絶対にフウカを許さないで」

「フウカ?」

「お願い、約束して」

「……あなたは、フウカじゃないの?」

その質問に、フウカは悲しそうに笑って首を振った。

別のフウカがいる。ドロドロとした兄への執着だけで生きている、兄以外ならば例え親でも殺すことができるだろう、あの、フウカが。

フウカがルリカの身体にフィードバックしたとしても、誰も幸せになんてなれやしない。それは皆が知っていることだ。それでもフウカはルリカへとフィードバックしようとするだろう。

兄なんて、もうどこにもいないのに。

****

車の運転をしながら、ナビゲートシステムにつなげた人物とコーチョーが話し合っている。その内容から、人物がルリカの父親なのだとすぐに知れた。

コーチョーやファルネ達が予想した通り、ルリカはエクスのテストを受けており、丸2日間ログアウトしていない状態なのだという。ただ他のプレイヤーのそうした情報はほとんどない。ルリカの父……ガウイン・ダルトワは直接メロヴィング・カンパニーに出向いたが社長には会わせてもらうことが出来ず手詰まり状態で、警察への連絡を考えていたところだったらしい。

ただ、ルリカの身柄はエクスの世界にある。

警察がどこまでルリカの無事を保証し、メロヴィング・カンパニーに手を入れるか、システムを調査出来るかは分からない。下手に手を出してルリカが戻って来ないようなことがあれば、悔いても悔やみきれない。

話を聞きながらファルネとアンリは顔を見合わせて頷いた。間違いない、ラズだ。

アンリはコーチョーの指示で、ログイン用のゴーグルと機器を持ってきていた。ファルネもシロガネ・ビレッジへ向かう途中でアパートメントに寄ってもらい、同じようにログイン用の機器を用意する。

「これで、ログイン出来るのですか?」

時計を見ると既にログイン可能な残り時間は30分を切っていた。シロガネ・ビレッジに到着してルリカの父親に話を付けることが出来たとしても、それからログインする時間が無いように思える。

「それについては心配いりません」

感情を押し殺したような声でコーチョーが答えた。コーチョーの話によれば、恐らくルリカがつないでいる回線に交接すればログインは可能だろうということだ。しかし、それはもはや正規のログインと言えるかどうかは分からないし、正しくログアウト出来るかどうかも分からない。

「それでも、貴方方は行きますか?」

ハンドルを握ったまま真っ直ぐに正面を見据え、僅かに掠れた声でコーチョーがファルネとアンリに問いかけた。

「行くに決まってる!」

アンリが声を荒げて言った。コーチョーとファルネの眼には、その様子は若いからこその勢いにも見えたが、それこそ今はその勢いが無ければラズ……ルリカは助けることが出来ないかもしれない。アンリは行くだろう。その勢いのまま。しかし、ファルネは?

「貴女は? ファルネ」

「もちろん、行きます」

アンリとは正反対の静かな声で、ファルネは答えた。そこには決然とした意志があったが、どこか後ろ向きな決意もあるように思う。

止めるべきなのだろうとコーチョーには分かっていたが、それを出来ないことも分かっていた。ファルネとアンリの話が本当ならば行くなと止めてもログインするだろうし、ログインしなければルリカというガウイン・ダルトワの一人娘は確実に死んでしまうのだ。

シロガネ・ビレッジに到着すると、すでにガウイン・ダルトワが非常用の入り口に出てきていて、コーチョーを出迎えた。ファルネとアンリに、思い詰めたような表情を向ける。

「……君たちが……娘の」

「ファルネ・アオサキと言います」

「あ、アンリ、です」

「来てくれて感謝する。早速だが、娘の病室に来てくれるかい? 話はそこでしよう」

どこと無く緊張している2人の自己紹介にガウイン・ダルトワは頷き、ルリカの元へと案内してくれた。