「くそっ…!」
目覚めたヴァーツはゴーグルを取り去って、壁をドン…! と殴る。瞬間我に返り、時計を見ると丁度21時だ。
身体的にはずっと寝ていたはずなのに、走った後のような疲労感を覚えて胸を押さえる。フウカのニヤついた顔と放たれた言葉が脳裏にこびりついて、離れない。
『あんたの親はあんたよりゲームを選んだんじゃない?』
ぐう…と唸るような声を喉から出して、アンリは頭を抱えた。ガリ…と頭をかきむしって、叫びたい衝動を我慢する。
death due to sensory feedback …感覚的フィードバックによる死。
丁度11年前にアンリの両親が死んだ。その死因である。
****
しかし、アンリにはそもそも両親の記憶がほとんど無かった。お腹が空いてうずくまっていると、だらしない格好をして部屋から出てきた女が冷蔵庫を開けて何かを取り出し、気まぐれのようにアンリに向かって食べ物を放り投げるというだけの記憶である。時々それが男になる事があったが、男だろうが女だろうがアンリには大して違いが無いし、それが果たして両親だったのかどうなのかの自覚も無かった。声を聞いたことも無かったし、そうした記憶は一瞬すぎて、あの家でどう過ごしていたのか小さなアンリには何も残っていないのだ。
ただはっきりと覚えている場面があった。
お腹が空いたのにいつもの部屋からは誰も出てこず、冷蔵庫を開けても何も無かった。水だけで何日もはとうてい生きられず、「たすけて、たすけて、ごめんなさい」と延々泣きながら玄関のドアを叩く。
たすけて
たすけて
おなかすいた
たすけて
ごめんなさい
たすけて
どれくらいの時間「たすけて、たすけて、ごめんなさい」を繰り返していたか。何時間かもしれなかったし、何日かもしれなかった。時間間隔など、幼いアンリにはとうに無くなっていた。
唐突にその扉が開いて、大人たちが何かを叫ぶ声が聞こえた。「大丈夫か」とか「お父さんとお母さんは」とか聞かれた気がするが、それも後になってそうかと分かっただけで、当時のアンリにはそうした言葉が何なのかも理解できなかった。
ばたばたと大人たちが散らかって汚い足の踏み場も無い部屋の中を動き回り、いつも男と女が出てくる部屋の扉を開けた。食べ物をくれる人が出てくる! ……そう思ってアンリもそちらに駆け出す。
不意に後ろから抱き締められ眼を塞がれた。
視界が暗転する直前に見えたのは、寝台に横たわるやせこけた細い身体だ。
物心ついてからアンリはようやく知る。両親の死因は、ヴァーチャルリアリティのゲームに没頭した挙句に引き起こした、[death due to sensory feedback]。アンリの両親はゲームに夢中になる余りに育児放棄し、ゲームの世界で死んだのだ。
この事件は当時かなり世間に衝撃を与えた。もちろん、アンリに対して同情の声が強く、死んだ両親を批判する声は大きかった。しかし報道された言葉の中で一番多く使われたのは「育児よりもゲームの世界を選んだ両親」「子供よりもゲームを選んだ親」などというもので、世間がいくらアンリに同情的であったとしても、そうした言葉はアンリを深く傷つけた。
親は自分よりもゲームを選んだのだ。
その事実に、アンリはいつも思う。一体自分が何をやったというのだろうか。何をやってしまって、親に見捨てられたのだろうか。幼い頃の自分のことを、アンリははっきりと覚えていない。一体自分の何が気に食わなくて、子供よりもゲームの世界を選んだのか。死んでしまうほどゲームの世界が好きだったのだろうか。アンリのことは大して好きじゃなかったのだろうか。
両親というのは、そういう生き物なのだろうか。
「あいつらは、自分よりあっちの世界を選んだんだ」
…しょうがないか、俺はこんなクソガキだから。
だから。
幼い頃はしおらしかったアンリだったが、年齢を経るにつれて荒れるようになった。誰もがアンリのことを「ゲームのやりすぎで死んだ親の子供」という目で見ているような気がしたからだ。かわいそうにと言われるたびに、自分がどうしようも無い無力で馬鹿なガキなんだと思い知らされるようだった。
そんな荒れたアンリを最終的に引き取ったのが、コーチョーだ。
もともと人工現実の研究者だったというコーチョーは、今はもう現役を退き、ただ静かに孤児院を経営している紳士に過ぎなかった。当然、アンリは相当反発したが、押しても退いてもどこか飄々としているコーチョーに折れたのは、やはりアンリの方だった。コーチョーはアンリが他人に迷惑を掛けたりしない限りは、何も言わなかった。アンリから聞かれない限り両親のことを言及することも無かった。アンリのことを両親が死んで孤児院に来た少年……としてではなく、1人の人間として尊重してくれていたのが、若いアンリにも伝わったのだ。
コーチョーの孤児院は居心地がよく、勉強が遅れがちだったアンリに対して学校へ行けとも言わなかった。ただ、将来好きな道を選ぶにあたり、知識を持っていることの有意義さを客観的に教えられた。両親のいない子供のためにある基金や設備も、アンリにはまるで「施し」のように見えて嫌だったが、コーチョーはそんなものの体面や呼び名など気にせず、利用できるものは利用しろと諭された。そして利用する限り、それを自身のために役に立たせなさいと。
それを聞いて、アンリはいくつかの通信教育を受けた。最終的にはアンリが自主的に受けたものだ。学校には無理に行かなくてもいいが、それならそれで、勉強の機会をくれた。コーチョーの教え方はとても上手く、信頼の出来る何人かの教師も時々呼ばれて、その人たちの教育も分かりやすいものだった。
フィードバックによる危険の少ない安全な人工現実の世界のサービスが始まった…と知ったのは、そうした生活が当り前になった時の事だ。もはや自分の中に、両親に対するトラウマなど無いとアンリ自身は思っていた。だからこそ、親が選んだ「ゲームの世界」というものを一度見てやろうと思ったのだ。
それがこんな風になるなんて、思ってもみなかった。
何かが変わるかとか、そういうことを期待していたわけではなかった。ただ自分でもよく分からなかったが、両親が何故自分ではなくてゲームの世界を選んだのか、多分そういうことが知りたかったのだろう。それなのに、今は違う。親がどうしてゲームの世界に死んでしまったのか……などという、そんなものはもうどうでもよかった。親が死んだことも、親が自分を選ばなかったことも、それに傷ついていた自分のことも、どうでもいいささいなことで、忘れてしまっていた。
それよりも、たった今、死なせたくない人間の方が大切だ。この世界に意味を見出すとするならば、仲間を、ラズを、置いていかないというその気持ちだ。
「ラズ…」
このままではラズは、[death due to sensory feedback]で死んでしまう。ラズがこっちでどんな人間かは知らない。けれど、ゲームの世界で死んでしまっていい人間なんかじゃないはずだ。少なくとも、このままだとラズもそうなってしまうのだと、アンリは知っている。
ラズ、自分より背の高いエルフの男のクセに、どこか頼りなくて無邪気だった。こちらの世界では全然違う人間だとしても、そんなことは関係ない。
「このままで、終わらせるかよ……」
ぎ……と奥歯を噛み締めて、気合を入れる。アンリが顔を上げた時、コンコン……と部屋の扉がノックされた。
****
夜半といってもまだ21時ごろ、プロフェッサー・アキツのところに電話が入った。この時間にこの老人に電話を掛けてくる人間など早々いないし、そうした事態も今では少なくなったはずだ。端末の表示を覗くと、かつてこの孤児院に少しの間だけいたことのある女性の名前が表示されていた。
今からそちらを訪ねたい。アンリに会いたい。
……そう言われて、アキツは息を吐いた。
10年前に停止していた事象が、やはり動こうとしているらしい。しかもアンリとファルネが同時にそれに関わっているとは、なんという偶然なのだろう。
アキツはフウカ・ダルトワの前のルーノ研究所の所長だった男で、若い頃は安全性の高い人工現実の世界を構築するために、その研究を続けてきた。度重なる[death due to sensory feedback]の症例を見続け、安全なフィードバックのシステムを研究していた。もちろん娯楽としての意味合いだけではない。人工現実の世界からのフィードバックが与える、人体への好影響、それを人工現実のものではなく現実のものにするための研究だった。あらゆる疾患を持つ者の治療として、人工現実の世界を利用したいと願っていた。しかし結局のところ世間は人工現実の世界にただ娯楽性だけを求め、各社が競うように描写だけが緻密な人工現実の世界を提供し、[death due to sensory feedback] は増加していく一方だった。
ルーノ研究所は幾度も危機に陥ったが、そこにフウカ・ダルトワという天才的な女が現れた。フウカはダルトワ家の資産を生かして研究所に支援を続け、自らも研究員としてその力を発揮したのだ。アキツはその女に研究を譲り、引退した。
そうして自ら手を引いた世界は、代替わりした研究員達の手によってあっけなく幕を閉じた。しかし、それにもアキツは心動かされる事はなかった。もう自身の研究も過去の遺産だ。
それから10年が経った。どうやらフウカの意思を継いだらしい元研究員が、安全性の高いフィードバックを謳った世界を構築したらしい。アキツ、フウカ、そしてメロヴィング・カンパニー。もはやアキツが目指したものはそこには無く、自分は手出しをすることは許されない。
フウカの異常性とショウとの関係を聞いたのは、フウカが死亡した後、ガウイン・ダルトワからだった。当時、アキツは既に孤児院を経営しており、完全に研究からは一線を退いていたのだが、信頼の出来る人間に預ってほしい…と、ガウインからあるものを委託されている。
携帯端末に保存している、そのシステムを起動させる。
画面には、[CLOSE] という文字だけが表示されていた。
****
「アンリ君…?」
「お、おう」
22時頃に訪ねてきたファルネ・アオサキと改めて向かい合ったアンリは、なんとなく人見知りしてしまってそっぽを向いて挨拶した。ファルネはそれを気にする風でもなく、コーチョーを前にソファに座り直す。
聞きたいことは、1つだけだった。
「コーチョー、聞きたい事が、あるのですが」
「聞きましょう」
「アンリ君」
質問してもいいか、というファルネの視線にアンリもゆっくりと頷く。
「フウカ・ダルトワと、ショウ・ダルトワという人物を知っていますか?」
「もちろん、知っていますとも」
「……率直にお聞きします」
す……と息を吸う。
「フウカ・ダルトワが、今も人工現実の世界に生きていて、別の人間の身体にフィードバックしようとしています」
コーチョーが目を見開いて顔を挙げ、真剣な顔でファルネを見つめる。アンリも難しい顔をして、ファルネを覗き込んでいた。
「その『別の人間』が誰なのか、私達は知りたい」
急に、バン!……とテーブルに手を付いて、アンリが身を乗り出した。
「フウカには……っ、セタ……ショウって兄貴のほかに、もう1人、兄貴だか弟だかがいたんだよな!? そいつのこと、コーチョーは知ってる?」
「アンリ君」
「俺、絶対その弟が怪しいと思うんだ、……なあコーチョーは、ルーノ研究所にいたんだよな? だったら」
「アンリ」
コーチョーが、片手を上げてアンリを促した。アンリは泣きそうな顔になって、ソファに身を沈める。「だって、ラズ、死んじゃうだろ」……と表情を歪めるアンリを優しい眼差しで見て、コーチョーは手を組んだ。
「ダルトワ家には、当時3人の兄妹がいました。ショウ、フウカ、……そしてガウインです」
ルーノ研究所の所属になったショウとフウカの代わりに、事業を継いだのはガウインだ。しかし、ガウインはゆっくりとルーノ研究所への支援から手を引いていった。そうしたこともあり、2人の兄姉とガウインはかなり疎遠な仲だったらしい。
ショウとフウカは死亡してしまったが、ガウインは真面目な事業家として誠実な人生を歩んだ。学生のときに出会った女と結婚し、一子を設けて可愛がり幸せな家庭を築いている。
「一子?」
反芻するファルネに、コーチョーは頷く。
「ええ、娘。ルリカ・ダルトワというそうです」
「娘……ルリカ……それって」
今度はアンリが、思索するように視線をあちこちに動かして何事かを考えている。2人の表情を読みながら、コーチョーも息を付いた。
「ただ、ダルトワ家に生まれる女子は、身体的に弱いところがありましてね」
家系的なものなのでしょうが……と続け、
「ルリカ・ダルトワは現在、シロガネ・ビレッジで療養しています。足が悪いらしい」
「足が……?」
そこで、ファルネとアンリの脳裏に真っ先にラズのことが思い浮かんだ。地面を歩くときに「柔らかかったり硬かったりするんだね」などと不思議なことを言っていたラズ。運動神経のよさそうな狩人のクセに、何もないところで転んで皆に笑われていたこともあった。足が悪いから? 歩き慣れていないから?
「その子、は、今……」
焦ったようなファルネの声を聞いて、コーチョーもまた信じがたいものを見たような表情になっている。断片的な情報が1つにつながる。おぞましい、話だった。
「ルリカが、フウカのフィードバック先だと? そんな……」
しかし、あるいはフウカのあの頭脳なら……と、コーチョーは暫し思案する。そして顔を上げ、頷いた。疑わしい雰囲気の無くなった様子に、ファルネが安堵する。
「信じてくださるんですか?」
「来なさい。……残りの事情は車の中で聞きましょう」
「どこへ行くんだよ?」
コーチョーは立ち上がり、いつになく険しい顔でソファに座ったままのファルネとアンリを見下ろした。
「シロガネ・ビレッジです」