キスの日小話。
部屋の中にはほんのりといい香りが漂っているが、決してきついものではない。胸がすっきりと爽やかになるような風合いの香りが、ほんの少しだけ香っている。
娼館<弓なり月に鈴の家>の姐さん方にお弁当を届けにきたミチルは、メイランさんの部屋にお呼ばれされたのだ。一度訪ねたことはあるが、改めて訪ねるのは初めてで、娼館という場所にもちょっとだけ胸をそわそわさせながら、案内された部屋に通された。
美しい刺繍を施した薄い布が風に揺れている。その向こうに大きな影……まさかお客さん!?……と思ったら、その布がひょいと捲られた。
「よーう、ミチル」
「エティエンヌさん!」
見知った顔にほっとして、早足でエティエンヌの側にいくと、その大きな熊の影にメイランがしなやなか猫の顔をふくふくと微笑ませていた。
「メイランさん、こんにちは。お弁当を注文していただいて、ありがとうございます」
「いいえ、一度お願いしていたいと思っていたのよ」
そう言って、うふふ、とメイランさんが笑ってお茶を差し出した。ちょうど非番だったエティエンヌは、メイランのところに遊びに来ていたらしい。どうやらエティエンヌの夫マリオンの仕事のよしみで、ちょくちょく遊びにくるらしい。なぜかエティエンヌは<弓なり月に鈴の家>の姐さん方に人気で、マリオンが商品を持ってくるよりも歓迎されるのだという。
「せっかくの非番だってのに、マリオンのやつがこれを持ってけ、あれを持ってけってうるさくてな」
「マリオンさんのお仕事?」
ミチルの問いに、エティエンヌは大きな熊の肩をすくめて答える。続きはメイランが引き取って、猫の耳をぷるりと震わせた。
「唇に効く美容液……というのを仕入れてよ。ミチルさんにも分けてあげましょうか」
「……えっ?」
「ああ、なんかマリオンがシャンカラの女神直伝とかいう、うさんくさい化粧品を仕入れてきてたな」
「あら、私の館では人気よ」
言いながら、掌に乗るほどの小さな薬壷をミチルの手に乗せてくれた。それほど高そうなものではないが、小さくて綺麗な石の飾りがいくつかついた可愛らしい入れ物だ。もちろん、ミチルだって可愛いものが好きだ。綺麗なリップクリームを貰って嬉しくないはずがない。わあ、と嬉しくその入れ物を見ていたら、エティエンヌの声が何故か追いかけて来た。
「これを付けて、たまにはミチルからラザフォードに迫ったらどうだ」
「ええええ!?」
目を丸くして仰け反るミチルにメイランがころころと笑った。
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……そうして、今、ラザフォードの前に神妙な顔をしたミチルが座っている。
「ミチル……?」
ミチルが湯を使った後、ラザフォードも同じように湯を使って出て来たのだが、寝台の上に……なんというか、よく分からない格好で座っているミチルがいた。膝をたたみ、ふくらはぎに太ももを乗せて座っている。そんな座り方を見た事が無いラザフォードは、首を傾げてミチルに近付いた。
「……ら、らざふぉーど」
「ん、どうした?」
相変わらず、きゅん……とくる、甘い声にミチルの正座が砕けそうになる。だが、「たまには女から誘わないと、男も自信が無くなるもんだぜ」とエティエンヌからアドバイスされ、……確かに夜、その、夫婦の営みは、いつもラザフォードからのお誘いで。ミチルから誘った事は無いなと思い至ったのである。しかし、ミチルから誘うなどと……ラザフォードしか経験の無いミチルには敷居が高過ぎて、眼を回していると、メイランが、「出来る事からしてみてはいかが?」とフォローを入れてくれた。
というわけで、お肌をふかふかにし、唇をぷるぷるにしたミチルはラザフォードの風呂上がりを待っていたのである。
「えっ、と、ここに、座ってください」
「あ? ああ」
ラザフォードを正面に座らせて、ミチルはまじまじと自分の夫を見つめる。……黒銀の鱗に琥珀色のきょとんとした丸い瞳が、格好よくて……正視できない。
だが、
「あの、あのね?」
「ああ、どうした?」
「目を、眼をつぶってください!」
……。
ミチルから、誘う……という目標に到達するにはまだまだだが、最終的に行き着くところは一緒のようだ。その夜、いつもよりも柔らかな唇を堪能したラザフォードは、そろそろ……両方を満足させても、かまわないだろうか……と箍を外した。(かもしれない)