「一尋さん、よかったら2人で次の店に行かない?」
おしゃれなダイニイングバーから、数人の男女が出てきた。合コンの1次会が終わった後のにぎやかさの中、次の店に行くか行かないか、収穫が無かったとそのまま帰るか…そんな、微妙な駆け引きが行われる独特の雰囲気が支配している。その中にひときわ目立つ容姿の男が居た。ほかの男達がめいめい女の子達の黄色い声に混ざろうとしている中、その男は少しだけ群れから外れて携帯端末の画面を覗きこんでいる。その様子は僅かに拒絶感が漂っているが、それを気にせず女が1人、声を掛けた。
女に、一尋…と呼ばれた男は、携帯端末を構えたまま視線を向ける。周囲の男たちと同年代なのだろうが随分と若く見えるのは、日本人にしては色素の薄い大きな瞳と、少し巻き気味の髪のせいだろう。男らしいというよりも可愛らしい顔ではあったが、ほかのどの男達よりも…いや、女達よりも整っている。
女の声に、一尋がにっこりと笑って首をかしげる。
一尋にはこれ以上、合コンに付き合う気は無かった。先だっての約束だったから義理で参加しただけで、もうこれで最後にしようと決めていたのだ。
「んーん、今日はムリ。ごめんね。」
「あら、最近付き合い悪いわね、一尋さん。」
「そう? …まあ、そろそろこういう夜遊びもしんどいかなー、って年齢だよね。」
女は一尋とは顔見知りだ。同じ会社で、同じフロアで仕事をしたこともある。付きあっている…というわけではないが、そうした関係が無かったわけでもない。今はそういう間柄でもなく、ただなんとなく話をする…という程度だ。女も一尋に執着しているわけではないし、一尋はそもそも女を追いかけるようなタイプの男ではないのだ。
一尋は刹那的で快楽的な関係しか、女に求めない。自分に執着してきそうな面倒な女は最初から避ける。だからといって不真面目なわけではなく、総じて女には優しく紳士的だった。だから、女関係でもめたことは一切無く、女から恨みを持たれることもない。そういう男だった。それを知っている女は悪戯っぽく一尋を覗き込む。
「一尋さんが夜遊び疲れた? めずらしい。誰か、いい人でも、見つけたの?」
女の言葉に、一尋が意外そうな表情を向ける。瞳をまん丸にした様子は一見して可愛く見えるが、決して女に隙を見せない油断ならない色も含んでいた。そんな表情が、一瞬で破顔する。本当に嬉しそうに笑うその顔は、夜であるというのに周囲を明るく灯しそうなほどだ。滅多に見ない何も企んでないその顔に、今度は女が瞳を丸くした。
「うん。見つけたんだ。」
一尋は操作していた携帯端末の画面から完全に視線を離して、まっすぐに女を見た。
「すごく、可愛い。」
その笑顔は、本当の本気に見えた。つられて女も笑う。
「じゃあ、もう夜遊び無しね。」
「うん。真面目にならないとね。」
「あら、本当に一筋なんだ。」
「本当に一筋だよ。」
「そっか。」
女が一尋の隣に並ぶと自然と合コンの集団から抜け出し、2人一緒に駅に向かって歩き始める。
「終電の時間に帰るなんて。」
隣に女が来ても咎めず、一尋があははと笑った。
「本当だ。」
「ねえ、どんな人? つきあっているの?」
「ん、まだだよ。僕の片思い。」
「え?」
一尋さんが片思い? あなたになびかない女がいるの? …そんな風に女が続けると、一尋の笑みが…ふっと不敵なものになる。これが、これこそが女がよく知る油断なら無い一尋の表情だったが、何も言わずに一尋の言葉の先を待つ。
「女の子が僕になびいたことなんか、無いよ。」
一尋はいろんな女に言い寄られて、それなりに女性関係を楽しんできたはずだ。だが、その横顔が思いのほか真面目で、女は何も言い返さなかった。
なんとなく沈黙が降りて、だがその沈黙も心地よく、2人は駅に到着した。ここから女は乗り換え無しで最寄駅まで帰宅できる。だが一尋はどうだっただろう。…そのことに思い当たって、女は一尋がわざわざ自分を駅まで送ってくれたことに気づく。
礼を言う前に、一尋が足を止めた。
「じゃあね。」
あっさりとさよならを言った一尋に、礼を言う代わりに女が笑う。
「私も真面目になろうかな。」
それを聞いた一尋が、ふふふ…と優しく笑い返した。
「そうしなよ。君、きついふりしてほんとは優しいから、素直になればいい男が見つかるよ。」
女がきょとんとした。ほらほら、その顔が可愛いんだよ…そう言って一尋が肩をすくめ、きびすを返す。我に返った女が一尋の背中に「送ってくれてありがと!」…と声を張る。タクシー乗り場に歩きながら、一尋がひらりと片方の手を挙げた。
****
「ん、3時間程度なら僕見ててあげるよ。」
そう安請け合いしたのは、いつもそれを見ている皆の様子があまりにも楽しそうだったからだ。はっきり言って、一尋はそれをどのように扱っていいのか分からなかったが、ともかく何が楽しいのか、それは感情の起伏が激しい。そしてそれを見守る魔王ルチーフェロ…八尾と葉月もまた、実に楽しそうだった。それが泣いているとき、葉月は困った顔をしてあやし、あやす葉月を見ながら魔王も同じように困った顔をする。泣き声が収まって笑顔を見せると、それを抱き寄せて2人で笑う。はっきり言って、よく分からない。それは最初からグニャグニャしていたし、不意に笑うし、不意に泣く。
だから、レヴィアタンがそれを見るときは笑顔を作ることが出来ない。緊張してしかめっつらになってしまうらしく、主君である魔王はその様子を見て「お前には預けられない」…と言って、ベルゼビュートやアスティルトに預けてしまうのだ。ベルゼビュートだって笑わないのに、妙に安定感があるらしく、それもまた、悔しかった。
だが、今日はベルゼビュートもアスティルトも魔界に戻っていて不在だ。それはまだ小さくて魔界に連れて行くことは出来ないし、3時間ほどのために宰相シャイターンや侍女頭のグレーモリーを人間界に呼びつけるわけにもいかない。そんな時に限って、魔王…今は人間界では、部長とかいう職務に就いているが、その関係で、夫婦揃って客先の記念パーティーとやらに招待されている。どうやら断ることは出来ないらしく、最初の1時間ほど顔を見せてくるらしい。その間、会場のホテルに預けようか…と相談していたのだが、それを聞いたレヴィアタンは、気紛れに自分が預かる…と言ってみたのだ。ベルゼビュートに出来て自分に出来ないことはないはずだ。
「おしめも替えたし、ご飯も食べたのですぐに眠ると思いますけど…何かあったら呼んでくださいね?」
葉月は実に心配そうにしていて、最後までやっぱり自分は行かない…と言っていたが、大丈夫大丈夫…と言って魔王の元に追いやる。
「レヴィアタン、本当に大丈夫か?」
「大丈夫だって、ルーちゃん。ちゃんと何かあったら連絡するから。っていうか2時間とか3時間で戻るんでしょ? それくらいならすぐだよ。」
魔王もまた心配そうだが、忠実で信頼の置ける自分の部下にそのように言われて、分かった…と頷いた。
「ならば、レヴィアタン、沙奈を頼む。」
「まっかせといて。」
「じゃあ、沙奈、行ってくるな。」
「ぱーぱ。ぎゅー。」
自分を呼ぶ幼い声に思わず顔をほころばせた魔王は、葉月そっくりの真っ黒の濡れた瞳を覗き込んだ。ふにふに…と柔らかな頬をつつき、じ…とそれを見つめていたが、うぐう…と謎の唸り声を上げて、それをぎゅ…と抱きしめる。
「あー…もう、やっぱりダメだ。可愛い。連れて行く。沙奈に何かあったらと思うと…」
「だから、大丈夫だってば。」
「しかしだな…」
あきれ顔のレヴィアタンを尻目に、魔王は泣きそうな顔で再び葉月によく似た愛らしい顔を覗きこむ。長いこと葛藤していたが、ゆっくりとため息を吐いた。
「沙奈、いい子に出来るか?」
「あい。」
愛らしい返事に再び頬を緩めた魔王に、寄り添うように葉月が並ぶと、魔王がその腰に手を回して身体を引き寄せた。
「沙奈、いい子にしていてね。」
「まーま、ぱーぱ。さな、いいこ。」
夫そっくりな繊細な漆黒の髪を葉月が指で梳いていると、その葉月の耳元に魔王が口付けした。そこで、ようやく2人は離れる。いまだ後ろ髪を引かれている様子の2人を、さあ早く、遅れちゃうよ…! そう言って追い出して、
「…って言っても、なにすりゃいいんだか、分っかんないんだよね…。」
柔らかなじゅうたんの上に、座り込む小さな小さな生き物を、レヴィアタンは見下ろした。
八尾沙奈。
魔王ルチーフェロとその妃葉月との間に産まれた第1子。魔界の姫君サーナリオンは、やっと言葉らしきものが話せるようになったばかりである。
****
魔界に生ける上位の魔族というのは肉体を重要視する存在ではなく、性行為の末に子を為すことはあまりない。肉体の存在というよりも魔力そのものの存在…と言ったほうが近しいからだ。永劫を生きる身の上にとって肉体というのは、魔力を注ぎ、欲望を欲し、欲望をかなえるための道具に過ぎない。もちろん下位の魔族はその逆だ。肉体はより動物的な役割を持っていて、人間などの定命のものの使い方に近い。
だから上位魔族というものに親などは存在しない。魔力そのものの中から意思が発生し、肉体を纏って生まれ出る。もちろん、魔王もその限りではない。魔界の底にある初代魔王の身体から生まれる…などと言われているのだ。
そもそも上位魔族の精に女を孕ませる効力などは無いため、普通に性行為を行っただけでは子は生まれない。だが、生まれた例が無いわけではない。女の身体の中に1つの意識体が生まれてしまうほどの濃密な魔力を埋める。そうすれば、女の胎内で魔族が生まれるのと同等のことが起こるのだ。
ただ、魔王とその妃の間では少しばかり異なった。
愛情深く魔王が妃と交わりあったからか、それとも魔王の濃い執着ゆえか。妃に息づいた魔王の魔力は人の形を為し、自然妊娠と同じように育まれたのだ。
そうして生まれた赤子は、ほんの少しだけ魔王の魔力に近い魔力を持っている。愛らしい瞳は妃にそっくりで、青みがかった豊かな黒髪は魔王譲りだ。魔王に子供が出来た…というのは、それはもう魔界にとっては一大イベントで、葉月も生まれた子供もとても大切にされている。もうあと1年もすれば魔界に連れて行けるようになるだろう。魔界はそれを心待ちにしているのだ。
しかし、レヴィアタンにはどうにもその可愛らしさが分からない。
確かに可愛いとは思うが、それよりも怖くて得体が知れない。
まず生まれてすぐに目が見えていないし、歯も生えていなかった。こちらの話している事を理解している様子なのに、言葉を発することをしない。したとしても、意味の為さない言葉ばかり口にする。こちらが何もしていないのに突然泣き出したり、何もしていないのに突然笑い出したり、感情を予測できない。触ってみるとぐんにゃりと心許ないし、排泄も食事も世話してやらないと何も出来ない奇妙な生き物。
この不可思議な幼生にまず戸惑うかと思われたのは父親である魔王だったが、人間界で世話になった産科が開催するパパさん教室とやらに熱心に参加し、人間の幼生に対する耐性を高めていたようだ。シャイターンなどは人生経験が豊富なのか手慣れたもので、ふむふむと笑いながら世話をする。ベルゼビュートは、すぐにコツを覚えてしまった。人間界では子供や動物や老人に慕われているだけある。
この生き物に慣れていないのはレヴィアタンだけで、蚊帳の外に置いておかれたまま1年ほどがあっという間に過ぎてしまう。
****
「ねえ、面白い?」
レヴィアタンは、沙奈の側に寝転んで頬杖をついた。ぬいぐるみの手足を掴んでむにゃむにゃと何かを口ずさんでいる沙奈を、不思議そうに見つめる。沙奈はぬいぐるみがお気に入りだ。今は一番のお気に入りである三つ首犬のぬいぐるみをがっしと掴んで、節を付けて「ワンワン」などと言いながら遊んでいる。
何が楽しいんだろう。
「さーな。」
全然こちらを見ないので、面白くなくて沙奈のほっぺたをつついてみる。
「あー。」
ワンワンと遊ぶのをやめて、沙奈がじ…とレヴィアタンを見つめた。
「ん?」
「ぱーぱ、まーま、ちがう?」
「うん。僕は、パパでもママでもないよ。レヴィアタン。」
「うー…。」
「ちょっと…。」
レヴィアタンがあわてて身体を起こした。沙奈はどうやら近くに、父親の魔王と母親の葉月がいないことに気づいたらしい。下唇をむう…と突き出し顎に皺を寄せると、みるみるうちに黒い瞳が潤んできた。
「ぱー、まー、ないぃ…。」
沙奈がショックを受けたように、ぽとん…とぬいぐるみを取り落とす。すんすん…と鼻を啜り、ふえ…と口が開く。
「ふえええええ…」
「ちょっと待ってよ、なんで泣くんだよ、さっきまで遊んでたじゃん、ほら!」
「えええええ…」
空気混じりの切ないうなり声は、大泣きの前兆だ。レヴィアタンがあわてて三つ首犬のぬいぐるみを沙奈の目の前で振ってみるが効果は無く、ぽろりと大粒の涙が黒い瞳から零れ落ちる。
まずい。
泣き出したら止める自信がレヴィアタンには全く無い。
魔王の侍従たる大海蛇レヴィアタン。魔界でも上から数えて早いほどの上位の魔族だ。そのレヴィアタンが、あわててきょろきょろと周囲を見渡した。見渡したもののめぼしいものがあるはずもなく、魔王も葉月も今は居ない。目の前には大泣き寸前の魔界の姫君だ。
レヴィアタンは思わず、がしっ…! と沙奈を掴んで、抱き上げた。
「さーな! サーナリオン!」
「ふえ。」
「泣かないで。」
「ふえう。」
「パパもママも居ないけど、今は大海蛇レヴィアタンがいるでしょ。だから泣かないで。」
必死だった。
泣かれるのは怖い。この不気味で小さな愛らしい生き物が大声でギャン泣きする様子は、それが永遠に続いたらどうしようと思うほど怖い。なぜ怖いのかは分からない。強いて言えば、この小さな生き物の泣き声は、どうしようもなくレヴィアタンの心を揺らすのだ。魔界の大海蛇レヴィアタンの心を。
だから必死だった。
泣かないで。
泣かないで。
「ね。泣かな…」
「れうぃたん。」
「え?」
「れうぃたん。いる?」
ふと見ると、沙奈の涙は引っ込んでいた。潤んでいた黒い瞳は、不思議な生き物を見るようにレヴィアタンを覗きこんでいる。
「えっと…。」
「れうぃたん。」
「それ、僕のこと?」
先ほどの泣きそうな表情はどこかへいってしまった。んふー…と、口元を緩めて沙奈がレヴィアタンに向かって手を伸ばそうとしている。
「れうぃーたん。」
レヴィアタンは沙奈を掴んでいる腕を曲げて、自分に引き寄せてみた。沙奈がやっと届いたレヴィアタンのくせっ毛に触れて、くるくると遊び始めた。
「れうぃたーん。」
まるで歌うように呼んでいるのは、自分の名前? その稚(いとけな)い音節に加わる、魔界で一番幼くて繊細な魔力がレヴィアタンを確かに呼んだ時、その心地がレヴィアタンの胸にうずうずと疼く何かを生み出した。小さくて怖い生き物。だけど、なんて可愛い生き物だろう。レヴィアタンを怖がらせる、小さくて可愛い不思議な生き物。
ああ。
この魔力が、この声が、大人になって自分を呼んだら、一体どんな風だろう。
レヴィアタンは瞑目した。次の瞬間、人間の皮膚を脱ぎ捨てたようにレヴィアタンの身体が青く美しい鱗に覆われる。少し伸びた髪は身体の鱗よりもまだ濃い青。海のようなその姿で、再び沙奈を覗き込んでみる。
沙奈は姿の変わったレヴィアタンにも泣かなかった。
「沙奈? サーナリオン?」
「あい。」
「僕が分かる?」
「れうぃたん。さな。」
「そうだよ、レヴィアタン。」
「れうぃーたん。さーな。」
レヴィアタンが余裕を取り戻した。今までのおろおろした態度は一転し、青い瞳を不敵に細めて、くすくす…と小さく笑い始める。そうか。なるほど。…人間の柔軟な魂に、魔界の魔力の一部が入り込んでいる。なんて綺麗で、なんて純粋なのか。レヴィアタンはこの可愛らしい生き物の可能性に気付いてしまったのだ。知ってしまったら、知らなかった頃にはもう戻れない。
この子はきっと、とても素敵な女の子になるに違いない。レヴィアタンの青い瞳と青い鱗にふさわしい、人の子の黒い瞳と柔らかい白い肌、それに魔界で一番美しい魔力と声を身に付けて。
「サーナリオン。」
お返しに、レヴィアタンも魔力を込めて沙奈の魔族の名前を呼ぶ。
返事の代わりに、ああふ…と、沙奈があくびをした。
気付いたからには、大事に大事にしなければ。
彼女が大人になるまで待つのなんて、その後に得るものを考えれば、その時間すら楽しみになるだろう。永劫を生きる魔族にとって15年ほどの期間など瞬きの間だ。
大人になった沙奈に、きっと自分は恋をする。
けれど、彼女が大人になって、やがてレヴィアタンの隣に並ぶまで…変な虫が付かないようにしないといけないし、沙奈自身がレヴィアタンに恋するまでは、自分の気持ちは誰にも気づかれないようにしないといけない。特に魔王ルチーフェロと宰相シャイターン辺りに気が付かれたら、絶対にいい顔はしないだろう。魔界でもっとも上位の魔族と、魔界でもっとも狡猾な魔族を出し抜くのは大変そうだけれど、それを切り抜けて手に入れるだけの価値がある。
何せ、初めて見つけた恋の卵なのだから。
沙奈の身体を自分の腕に乗せて抱きなおすと、ゆっくりと小さな額に自分の額をくっつけてみる。
初めて見つけた。
「僕の沙奈。」
すやすやと眠り始めた沙奈を、レヴィアタンはベビーベッドの中にそっと入れた。お気に入りの三つ首犬のぬいぐるみも隣に寝かせて、手触りのよい上掛けを掛けてやる。そうしてベビーベッドを覗き込むように座って、沙奈の寝顔をじっと見る。
「やっと見つけた。」
沙奈。早く大きくおなりよ。僕が君に恋をするから。
魔王ルチーフェロと妃の葉月が帰ってくると、レヴィアタンはベビーベッドにもたれたまま沙奈と一緒に心地よさげに眠っていた。
****
魔王の側近達の間でひそかに賭けが行われている。それはサーナリオンが、ルチーフェロ=パパ、葉月=ママ…と呼ぶその次に、どの魔族の名前を呼ばわるか…というものだ。もっとも有力だと思われている候補は宰相シャイターンである。
ある日、そのシャイターン老が人間界の魔王の住まうマンションに遊びにきた。穏やかな瞳を細めて、指しゃぶりをする沙奈を抱き上げている。
「これはこれは、沙奈様。今日も愛らしいですな。シャイターンじーじが来ましたぞ。」
葉月がシャイターンの様子にくすくすと笑いながらケーキを用意し、ベルゼビュートがワインのボトルとグラスを並べている。ベルゼビュートの部下アスティルトに私がやりますから…と追いやられてしまった葉月がソファに戻ると、隣のルチーフェロが素早くその身体を抱き寄せた。レヴィアタンは沙奈には興味のなさそうなそぶりで別のソファに座っている。
魔界を治める魔族が集っているとは思えないほどの、緩やかな午後のひととき。シャイターンがほくほくと沙奈をあやしていると、ぷい…とレヴィアタンを指差した。
「れうぃーたん。」
「ん? どうしたの、沙奈。」
沙奈の声にシャイターンがぎょっとしたが、なんでもないことのように、レヴィアタンがにっこりと沙奈の声に応えた。ベルゼビュートが片方の眉をぴくりと動かした。葉月の頬に口付けしようとしていたルチーフェロの動きが止まり、葉月がきょとんと首をかしげる。
「沙奈?」
どうしたの?と葉月が聞くと、沙奈があはー!と元気に笑った。
「まーま、ぱーぱ、れうぃーたん。さーな。」
あーあーと言いながら、順に、葉月と魔王ルチーフェロ、そしてレヴィアタンの方を指差して見せている。その沙奈の様子に、魔界でもっとも長命な宰相が情けない声を上げた。
「さ、さ、沙奈様。今のはまさかレヴィアタンのことではありますまいな!」
「れうぃたん?」
「沙奈様! サーナリオン様は、シャイターンめのことを呼んでくださらぬのですか!」
「やー、れうぃたーん。」
シャイターンの言葉に、調子付いた沙奈が、懸命にレヴィアタンのことを「れうぃたん」と言っている。賭けの意外な結末に、ルチーフェロと葉月が顔を見合わせた。お前一体何をした!…と、レヴィアタンと沙奈を見比べるシャイターン老の悔しげな声が響く。
ああほら、沙奈、気づかれちゃダメだよ。
だが、あの狡猾で腹黒いシャイターンを早速出し抜いた事に、レヴィアタンは心の中でほくそ笑むのだった。
このしばらくあと、沙奈から「じーじ」と呼ばれてシャイターン大喜び。