荷馬が引くコトコトと揺れる馬車の中で、ジーノが結菜の髪に手を伸ばす。小さな三つ編みを両脇に編んでもらって後ろにまとめ、ハーフアップのお団子にしてくれたのは大家のマアムだ。ついでに少し華やか目にお化粧をしてもらい、前に来たとき作ってもらった服を着る。マアムは手を叩いて「ユイナちゃん、よく似合うよ!」と嬉しそうに言ってくれた。
向かっている場所は、リュチアーノの首都シキにいればどこからでも見える建物……王城だ。正確には、その王城の敷地にある魔法研究棟というジーノの職場で、そこに会食の場を設けているのだという。
リュチアーノの王城は非常に美しい建物で、入ってみたいと思わなくもなかったが、それは観光地的な興味関心だ。実際に入らなければならないような用向きは勘弁してほしい。しかしジーノの職場と言われると、興味がある。
「お師匠様に、紹介してくれるの?」
「はい。ユイナの後見人になってもらいたいと思っておりまして」
「後見人?」
聞けば、結菜もジーノの家に引きこもるだけではなく、こちらで買い物に行ったり人と接する事があるため、リュチアーノでの身分が保証されている方がよいのだという。確かに、例えば結菜の世界でいうところの救急車や警察などのお世話になるような緊急事態が発生したとき、後見人の存在はありがたい。
だが、その場合ジーノが後見人になる、という発想は無かったのだろうか。
「とてもありがたいけれど、ジーノではダメだったの?」
「……」
素朴な疑問を口にした結菜を見下ろして、ジーノは眼鏡を、く……と直す。
「それは」
理由を口にしようとしたところで、カタン、と静かに馬車が停まった。どうやら到着したようだ。ジーノの家は王宮に近い高級住宅街に位置しているから、さほど時間は掛からない。
「後見については後で詳しく説明しましょう。さあ、到着しましたよ、ユイナ」
「はい」
ジーノに手を取られて馬車を降りた。ジーノは結菜を降ろすと、少し離れて出迎えに来た何やら制服っぽいものを着ている人に何かを話しかけに行く。
見上げると魔法研究棟も随分と大きく綺麗な建物だったが、王城が白亜の壁であるのに比べると少し古ぼけた感じの赤みがかった壁だ。いくつか塔のように高くなっている部分が在り、少し視線をずらすと外郭が透明な場所や畑のようなところもある。結菜らが降ろされたところは正面玄関のようで、相変わらずコトコトと可愛らしい音を響かせて荷馬と馬車がどこかへ引かれていった。
「薬草棟や生物棟、書籍庫などの施設も隣接していますから少し複雑な構造です。ユイナ、私の側を離れないでくださいね」
用向きが終わったようだ。結菜の側にやってきたジーノは、手をつなぐ代わりに結菜に腕を取らせた。結菜は少し緊張気味に頷いてジーノの腕に手を掛け、あまりきょろきょろしないように気を引き締める。
建物に入り階段を二度登って連れて行かれたのは、ジーノの書斎によく似ているがそれより遥かに広い場所だった。どうやらジーノ個人に与えられている研究室のようで、書き物机を置いた広い場所の横には、本棚が図書室のように並べられている。
「ユイナ、師匠を連れてきますので少し待っていてくださいますか」
「あ、うん。ここで待っていればいいのね?」
「はい。外には出ないようにしてください」
「うん」
出たくても出られない。結菜は既に何回廊下を曲がったのか忘れてしまった。いい歳して初めて来る場所ではしゃぎすぎて外に飛び出して迷子になるなど、そんな馬鹿みたいなことはさすがにしようとは思わない。とりあえず本棚の無い方の壁際に置かれていた長椅子に座らせてもらうと、部屋を出て行くジーノを見送った。
とは言うものの、本棚の背表紙くらいは見てもいいだろうか。部屋の構造も面白くて、結菜は椅子から立ち上がる。部屋の片側の奥にはいろいろなものが雑然と置かれたジーノの机があり、もう片側には小型の書庫のように本棚が何列か置かれている。結菜は書棚の側に近付いて、整然と並んでいる背表紙を眺めた。リュチアーノの人が話す言葉は分っても書いた言葉は分からない結菜には、どれも美しいカリグラフィーにしか見えなかったが、古ぼけた革の背表紙は幻想的で少し胸が踊る。
もう一列並べてある書棚を見ようと裏に回ったところで、バタンと扉の開く音がした。ジーノが帰って来たのかと思い、書棚の向こうへと身体を向ける。
「ジーノ? おかえりなさ」
い
しかし、目の前に現れた長衣の色と仄かなシトラスの香りはジーノのものではなかった。
「あ、ごめんなさい。間違えてしまって」
「おやおや、貴女は」
慌てて謝って改めて相手を見上げると、ぐっと低い少し枯れた声の持ち主がこちらを見つめていた。くすんだ飴色の髪はジーノのように長く伸ばして一つにまとめていて、モスグリーンの長衣を着ている。顔を見ると、年齢と重ねた経験からくるのであろう深い皺がいくつかあって、ジーノや結菜よりも随分と年嵩の人物のようだ。凛々しい眉と絶妙のバランスの鼻筋、無精と見せかけてお洒落な残し具合の髭に、楽しげに笑みを称えた口許が親しみやすさを現している。
全体的に見て渋みのあるお洒落な中年紳士といったところだが、しかし淡緑色の瞳はまるで少年か何かのように好奇心丸出しで、キラキラと輝いていた。
「もしや、貴女がジーノの?」
目の前の紳士……まさに紳士としか言えない紳士が、お辞儀をするように少し身体を低くして結菜を覗き込んだ。
「はい。ジーノに連れて来てもらいました、ユイナ・マツザカ……と」
そこまで言うと、中年紳士が人差し指を唇にあてた。結菜が思わず口を閉ざすと、ふ……と笑って「失礼」と綺麗な所作で一礼する。
「女性に先に名前を言わせるなど、私としたことが。名乗りが遅れてしまい申し訳ございません。お嬢さん。……私はグルレイスシュレデルゲート・ウェーバー。リュチアーノ王国の主席魔法使いを拝命しております」
「グル? ……初めまして」
グル、なんだ……と思ったが、反芻して間違えるのも失礼な話なので、慇懃にならないように頷くだけにとどめておいた。ここの国の人は省略する名前があるくせに、本名が長過ぎていけない。
「グレイとお呼び下さい、ユイナ」
グレイと名乗った男が結菜の右手をすっと取った。あくまでも自然に、取られたのが分からないほどの流れるような仕草だ。
瞬間、グエ、と奇怪なうなり声を上げてグレイの顔が持ち上がった。どうやら襟を掴まれて引っ張り上げられたらしい。
「油断も隙もありませんね師匠」
グレイの襟を持ち上げているのはジーノだった。犬とか猫とかの首根っこを掴むように、ジーノがグレイの襟を後ろから掴んで動きを止めている。
「よ、よう、ジーノ」
「今日は来てくださりありがとうございました」
その台詞を襟を掴んだまま全く表情を変えずに言うところが逆に怖い。ジーノはグレイの首根っこを掴んでいない方の手で眼鏡を押さえ、無表情でグレイの、にへらっとした笑顔を見下ろしている。
「うむ、うむ。かわいい弟子の頼みだからな!」
「ええ、感謝しています」
「そうだろう! ではな、まず紹介をだな」
ジーノはグレイの首根っこを掴んだまま、結菜を手招きした。どうしたものかと思ってジーノとグレイを交互に見たが、この場はジーノに任せた方がよいだろう。結菜は招かれるまま、ジーノの側に寄せられた。そこでようやくジーノがグレイから手を離す。
「師匠。彼女がお話していたユイナ、ユイナ・マツザカ。ユイナ……彼は、グルレイスシュレデルゲート・ウェーバー主席魔法使い。私の師匠であり上司です」
ジーノから解放されたグレイは、すっと姿勢を正し長衣の襟元をきゅきゅっと整えた。ニッと笑って丁寧な紳士の一礼を施す。ジーノったらお師匠様に対してそんな態度を取っていいのかとハラハラしたが、一連のコントのような流れを、グレイは予定調和として楽しんでいるようだ。
主席魔法使いであるグレイは今日の日をとても楽しみにしていた。何しろ一番弟子の「恋人」との食事会だ。グレイはこの「恋人」の後見人を勤めて欲しいとジーノから頼まれていたのだが、後見人としての説明や面接は後日改めるとして、今日はその前の顔合わせということで食事会が開催されたのである。
あのジーノが恋人を連れてくるなど、晴れた空に突如として雷が落ちたようなものだ。何しろジーノは、無表情の変人で有名な男だった。グレイとはもう15年ほどの付き合いになるが、その間にジーノの表情が変わった事をほぼ見た事が無い。機嫌が悪い時や、予測のつかない事態だと認識した場合などは、眉間に皺が寄ったり微かに眉が動くような気がするが、喜んだ顔や悔しがる顔などは一切見ない。見事としかいえない無表情だ。そのジーノに恋人が出来るという事態が想像できない。無表情で恋人を作る事ができるのか? どうやって口説くのだ。甘い言葉を無表情でささやくのか? 薔薇のような微笑みを向けたりしないのか、いやむしろ恋人にだけするのか? あのジーノが?
グレイとて、ジーノに恋愛の素晴らしさやご婦人方の愛らしさを布教しようと試みたことはある。女性の多い店に連れて行ってみたり、お見合いめいたことをさせてみたり、夜会に連れ出してみたり。しかし、結果は全て同じだった。大概の女が、ジーノの無表情さと何を考えているのか分からない具合に根負けする。おとなしそうな娘では全く進展せず、派手やかな女であればジーノの無表情が無関心に見えて苛立つのだろう。かといって奇妙な性癖を持っている訳でもなく、不能というわけでも無いらしい。女性全般に敬愛を抱いているグレイから見ると、希少な生命体である。
そんなジーノの恋人になったという「ユイナ」という女性は、ごく普通の女性に見えた。てっきりどこか特筆すべき何か(すごく胸が大きいとか、びっくりするくらい顔が美女とか)があるのかと思っていたが、それもない。異国の人間と聞いていたが、少し背が低くて顔はどちらかというと可愛い系。黒く美しい髪が特徴的ではあるが、プロポーションを含めた容姿に突出した部分は無い。おとなしく礼儀正しそうな女性だった。
無論、女性であればグレイの得意分野である。グレイは先ほどと同じく流れるように結菜の手を取り、今度こそ手の甲に、ちゅ、と口づけた。
「師匠……!」
再び、ぐえええ……とうなり声を上げる羽目になったが、すぐに解放された。目の前には、思わず、ぽ、と頬を染めた結菜がいる。
ここでグレイは信じられないものを見る。
「……」
頬を染めた結菜を見て、明らかにジーノがムッとしたのだ。
これまでに見た一番最深の眉間の皺に、ぐっと鋭くなった視線。眼鏡の奥の灰色の瞳が、冷たく光るのを見てジーノの視線に温度があったのかと初めて気が付く。それを見てグレイは一瞬……いや、かなりしばらくの間呆気に取られたが、途端にぶふーっと吹き出した。
「え?」
結菜は突然笑い出したグレイに驚いたが、冷静さを崩さないジーノに「行きましょう」と背中を押されて部屋を出た。廊下で少し待っているとニヤニヤ笑いを浮かべたままのグレイも出て来て、2人を先導して歩き始める。
一体何に笑われたのか結菜には分からなかったが、ジーノはともかく、グレイは何やら楽しそうだったのでまあいいかととりあえず気に留めない事にする。
それよりも、ジーノが結菜の手の甲をぐいぐいと赤くなるほど拭いている方が気になった。
****
客室のような場所に連れて行かれて待っていると、少し遅れて愛らしい男女がやってきた。グレイもジーノもすっと立ち上がり、結菜も真似して同時に立ち上がる。男……結菜から見ると男の子と言っても良いほどの年齢に見えるが、彼はグレイとジーノに目配せをして頷き、結菜にも笑顔を見せてから、連れて来ている女性を連れて先に食堂らしきところに入り席についた。
こればかりは結菜もリュチアーノでのマナーはよく分からないから、タイミングなどはジーノに任せる。食事の作法は心配ないと太鼓判を押されたから、こちらは出来るだけおとなしくしておくだけだ。特に先ほどのお茶目な中年紳士は結菜の後見人となる人らしく、失礼な姿を見せることは出来ない。
上座と言っても結菜にはリュチアーノの上座がどちらなのかは分からないが、一番最初に給仕されているところを見るとこの場の主賓はどうやら例の可愛らしいカップルのようだった。男性の方がマルス、女性の方がリュナと名乗った。
会話の主導権はグレイが握り、マルスとグレイが時折ユイナに当たり障りの無い話を振ってくる。これは大家のマアムと同様だが、結菜は文化圏の違う国から来た旅人ということになっているから、受け答えにはあまり困らない。ジーノからは嘘はつかなくてもいいと言われている。例えば食事の味や、結菜の住んでいる場所の気候など、リュチアーノと比較してどうかと問われれば、素直に答えればいい。
固有名詞などのよく分からない単語はジーノがフォローしてくれて、昼食は和やかに進んだ。リュナという女性もマルスと親しげに頷き合っていて、彼女らは夫婦のようだ。
そのリュナが結菜とジーノを見比べて、ニコリと愛らしく微笑んだ。
「ユイナさんは、ジーノとどのようにお知り合いになりましたの?」
そういえばきちんと確認していなかったが、結菜は単に後見人を紹介してもらうというだけではなく、ジーノの「恋人」として認識されているらしい。今更ながらにそのことに気がつき、何やら粗相は無かったかと、急に心配になってくる。
リュナの問い掛けは、世界や国は違えど、女の子の興味を惹く話題として普通のものだ。しかし質問への答えは、まさに例のあのお道具に関した事で、この出来事が結菜とジーノの馴れ初めであることは認識しているのだが、いい加減恥ずかしくて隠れたい。どのように答えたものかとジーノを見てみる。
するとジーノは相変わらずの素面で、表情の1つも浮かべずにリュナに顔を向けた。
つ……と眼鏡のブリッジを押さえる。
「私が呼びました」
「まあ、ジーノが?」
「ええ。仕事でどうしても解決できないことがありまして」
何故かここで、ごふぉ、とマルスが咽せたが、ジーノはそちらに視線すら向ける事無く淡々と続ける。
「協力者を探していたところ、ちょうど彼女を見つけました」
「ジーノが解決できないことなんて、あるのね」
「まだまだ至らぬ身でありますから」
至らぬ身だなんて、そんな。とリュナは笑って、「ところでお仕事は解決できましたの?」と全く悪気無く、可憐に首を傾げた。愛想笑いを浮かべていた結菜の頬が赤くなる。
「え、ええ、まあ」
結菜が曖昧に頷くと、ジーノは出されているお茶を卒なく一口飲み、一礼するように頷いた。
「ユイナのおかげで万事上手くいきました。先方にも大変満足な出来映えだったようです」
「ふふ。お仕事も、お2人も、上手くいってよかったわ」
「恐れ入ります」
ジーノの言う「仕事」とは、当然あの道具のことに決まっている。何を作ってどのように協力したか、ジーノは表情を動かさず内容を1つも出していないのだからバレているはずなどないのに、このような面前で「大変満足な出来映え」などと言われて、さすがの結菜も挙動不審だ。
しかし会場にはもう1名、挙動不審な人物が居た。
****
あらかじめ、ジーノにもグレイにもリュナにも「余の身分はユイナとやらには隠しておけ」と通達してあった。結菜は他国の人間であるから、こちらの顔は知らないだろうしそれはジーノにも確認している。王と知られて恐縮されるのは本意ではなく、言い換えれば、上手い事ジーノと仲良くしているところを見せてもらわなければ面白くないからだ。
だが、結菜もジーノも非常に隙がなかった。時折視線を交わしているがジーノのそれは常の通り無表情で、甘い雰囲気など微塵も感じられない。常軌を逸したイチャつきぶりを示せと言っているわけではなく、さりとて仲の良さをアピールするくらいしてもよかろうに、なんともつまらぬことだった。さてどうしたものかと考えていると、思わぬ伏兵が潜んでいた。リュナである。
リュナの質問はいかにも年頃の婦人らしい愛らしいもので、内容もまずは結菜から攻めるという的を得たものだった。リュナ本人にその気はなくても、リュナでなければ出来ぬ質問で、連れてきてよかったと心から思う。
マルスが感心していると、結菜は頬を染めてジーノを頼っていた。さてどうだとマルスはジーノの表情に注目したが、やはりここでも期待外れな反応だ。というより、マルスの方が過剰反応した。
ジーノが「仕事」の話を口にしたのだ。しかも悔しい事に、こんな話題をリュナ相手にすら一切表情に出す事が無い。
……よく考えると、リュナ相手に表情に出されても困るが。
マルスは咽せた口許を拭きながら、ジーノの仕事=例の道具作成=協力者=恋人=結菜、という図式を思い浮かべ、その図式を分かる人には分かるよう平然と説明するジーノに正直感服した。この無表情を崩してやろうとか、ニヤついたところを見てやろうとか、そういうことを考える方が間違っているかもしれぬ。
それにしても……と、無粋を承知で考える。この男がこの無表情で、いかにも普通の女性に見える結菜とやらと閨で道具を試したのだろうか。マルスの経験からするに……といっても、マルスはリュナ相手にしかそうした経験はないが、閨で好いた女とするときは、優しく微笑んでやるとか、……あとは、男として切羽詰まるとか、そういう表情を浮かべるのではないだろうか。ジーノにもそんな顔があるのだろうか。想像できない。
「お仕事も、お2人も、上手くいってよかったわ」
「恐れ入ります」
「ね、マルス」
そんなことを考えていると、リュナから同意を求められて、思わずガチャンと茶器の音をたててしまう。リュナは気付いていないようだ。例の道具については、まさかわざわざジーノに頼んで作ってもらったなどと言えないから詳細は教えていないし、そもそもあれは王家の秘である。
「あ、ああ。さすがジーノだな。グレイも鼻が高いだろう」
「もちろん、善き弟子を持ったと思っておりますよ」
いつものやんちゃな声はなりを潜め、グレイもまた品行方正な紳士に徹している。極自然に無表情なジーノとは違って、グレイの笑みはどことなく胡散臭いが、いずれにしろこうした場で平静を装う……という技術に関しては、自分はまだまだのようだ。
そうしている内に時間がやってきた。
解散の雰囲気を滲ませ席を立つと、結菜もまたジーノに手を取られて立ち上がる。
「ユイナとやら」
「はい」
王であることは隠しているが、つい鷹揚な呼び方になってしまった。しかし結菜は驚く事も無くマルスの方に身体を向けて足を止める。先導していたジーノから少し離れ、逆にマルスが近付いた。
「ジーノはどんな男だ?」
「どんな? ……と言いますと?」
質問の意図がいまいち掴めない……と言う風に首を傾げている結菜に、側にいたグレイがこそりと耳打ちする。
「あの無表情の変人と、どのように付き合っているのか……と、無粋を承知で興味があるのですよ」
グレイの助け舟を聞いた結菜が、ぷっと吹き出した。そうして2人に対して、首を振る。
「……ジーノは、」
困ったように、ジーノと、グレイやマルスやリュナを見比べて、結菜は小さく笑った。
「私は、ジーノのそういう変なところと、真っ直ぐなところを慕っています」
「ユイナ」
それを聞いたグレイとマルスが、少し驚いたように目を丸くする。その隙に、ジーノが側にやってきて結菜の腰に手を添えて引き寄せた。
「私は貴女に変と言われるようなことをしましたか?」
「してないよ。でも、そうやって聞いてくれるところが、」
言いかけて、結菜は顔を赤くして慌てて頭を振った。気を取り直したように、ぴょこんとマルスらに頭を下げ、言おうとした言葉の続きを誤摩化す。
「きょ……今日はお招きありがとうございました」
挨拶を終えた結菜がジーノを見上げると、ジーノの眼鏡越しの視線と結菜の黒に近い焦げ茶の視線がちらりと重なった。長い指が結菜の横髪を払うようにに少しだけ触れ……、
ジーノが、ふ、と眼鏡の奥の瞳を柔らかく緩めて、優しく口角を持ち上げる。
「……!」
しかしその甘い「笑顔」は、グレイとマルスが瞬きをする間に消えてしまい、ジーノはきゅ、と眼鏡の片側の弦を直して結菜と同じように礼を取った。
「それでは、恐れ入りますが先に失礼させていただきます」
「あ、ああ、またな」
マルスが頷くと、「失礼します」と結菜も一礼してジーノに背中を押されるまま扉の向こうへと退室していく。
2人の背中が廊下へと消えていったあと、グレイとマルスは顔を見合わせた。
「おい……今の、見たかグレイ」
「はあ……」
「見間違いではないよな」
「見間違いかもしれぬと思うほど一瞬ではありましたが……」
あのジーノが。
師匠のグレイにすら15年間笑顔を見せた事の無いジーノが。
「笑っていたな」
「……笑っていましたな」
そう。
笑っていた。
確かに笑っていた。しかもただの笑顔ではない。いかにも恋人にしか向けないだろう、糖度の高い胸焼けのするような表情だ。あんな顔も出来るのか、どころの話ではなかった。今まで正負いずれの表情もほぼ見た事無いジーノのそれは、思い切り正の度合いを振り切った。
しかも、あれほど見てみたいと思っていたのにも関わらず、いざ見せられると「どうでもいい勝手にしろ」と言いたくなったのはどういうわけか。珍しいものを見た気は確かにするのだが、面白いものを見た気には全くならない。なぜかカチンとくる。
「……嫉妬したジーノの方がまだ面白かったですな」
「何、嫉妬だと!? 余はまだ見ていないぞ!」
驚き悔しがるマルスを、グレイは顎を撫でながら自慢げに見下ろした。主と臣下という身分ではあるが、マルス自身はグレイの方がよほど経験豊富で実力者であることを知っているので、こうした会話も常のことだ。
「マルス」
そんな2人を、鈴の鳴るような声が遮る。マルスは気を取り直して愛する妻に頷いた。
「リュナ! 今日は余に付き合ってくれてありがとう」
「いいえ、わたくしも楽しかったですわ。あのお2人、素敵なお2人でしたわね」
「え、あ、ああ」
ジーノの表情が崩れるところを見たかったため、今回の食事会を用意した、などとリュナには言えずに曖昧に頷く。身分を隠した事については、リュナ自身はそういう趣旨……として楽しんでいたようだった。
「それにユイナさんも、ジーノも、ふふっ、同じ花の香りを纏わせていて、素敵でしたわね。あのお花の香り、ユイナさんのお国のものなのかしら。聞いてみたらよかった」
「えっ」
「えっ」
リュナが言い放った衝撃の事実に、グレイとマルスは先ほどジーノの笑顔を見たときよりも愕然とした。ジーノが女とお揃いの花の香りを纏わせていた、というのはどういうことだ。
聞けば、結菜と女同士話をしてみたいと側近くに寄って言葉を交わしていると、ジーノが側にやってきて話のフォローに入ったのだと言う。そのとき、ちょうど空気の流れがリュナへと向いていて、ジーノから結菜と同じ香りがしたのだそうだ。どちらもほんのわずかだったが、とても好い香りで印象に残った。
結菜に近付いたグレイは確かに知らぬ花の香りがしたと感じていたが、好き好んで男に近付いて男の匂いなど嗅がないのでジーノについては気が付かなかった。
「……男ものの香りならまだしも、恋人と同じ香り……だと」
それはもう、なんというか、同じ香りの何かを使っているとしか思えないではないか。男が女物の香りを纏わせるなど、さっきまで女を抱いて寝ていましたと宣言するようなものだ。風呂に入らなかったのか、それとも、風呂に入った後、ずーっと結菜にくっついていたのか。
いずれにしろ、今度ジーノが出仕してきたら絶対に聞いてやろう、聞いてあの無表情が困った顔になるところを見てやろう。グレイもマルスも再戦を決意したのだった。
****
馬車に乗り2人きりになると、ジーノは不意に結菜の手を取って、手の甲に唇を付けた。結菜が「どうしたの?」と問う前に、痛いほどにきつく吸い付く。少し離してそこに付いた痕を見ると、ふう……と息を吐いて何度か撫でた。
「ユイナに、リュチアーノ国籍を準備しています」
結菜の痕の付いた手を取ったまま、あまりにさらりと無表情で言ったから、結菜も「なにするの」と抗議する暇を与えられず、「へー」と返事をしてしまいそうになり、我に返る。
「え?」
「貴女が正式にリュチアーノに暮らす事が出来るように」
「私……が? もしかして、そのためのグレイさんだったの?」
「はい」
一度ぎゅ、と抱き締められて、すぐに腕が緩められる。ジーノの灰色の瞳は結菜を覗き込み、長い指で頬に触れた。
「……もちろん今すぐに、というわけではありません、ユイナ。しかし、たとえ7日に2日間しかこちらに居られないとしても、国民であるのと無いのとでは全く異なります」
「……」
触れる仕草は恋人同士のそれであるのに、常と変わらない温度のジーノの声は、言われたことの重大さをあまり認識させない。しかし軽く言ったわけでは決して無い。ジーノはあくまでも真面目な顔で、そして恐らくいつもよりも真剣に結菜を見つめていた。
結菜の声が停まった様子に、ジーノの腕が再び腰に回った。ぐ……と強く引き寄せ、目尻に口許を寄せる。
「ジーノ?」
どこか焦燥を感じた結菜が見上げると、眼鏡の奥は冷静なのに僅かに眉を寄せた顔と瞳が合った。ほとんど動いていない表情だったが、なぜか怖がっているのだと結菜には分かる。結菜が手を伸ばして、束ねたジーノの灰色の髪を撫ぜると、甘えるようにますます体重を掛けてきた。
「ユイナ……」
「あの、ジーノ。大丈夫、ちょっとびっくりしただけで」
「ええ、分かっています」
そう、本当にびっくりしただけなのだ。国籍を得る、ということがどういうことなのか、その裏のジーノの考えについて。
ジーノは考えてくれていたのだ。異世界の結菜とジーノがこれからどのように進むべきなのか。結菜が悩んでいたことを、ジーノもまた、悩んでいてくれたのだ。相談もしないで……と怒るべきところだろうか。いや、そんなはずがなかった。今までの生活に甘んじていた結菜では決して気付かなかったことで、ジーノの協力なくしては得られないものだ。
「私、ずっとジーノとこのまま7日に2日しか会えないのかなって不安で」
「ユイナ?」
「不安なの。これからどうすればいいだろうって……話そうと思ってたの。相談しようって」
だが、相談する事によってジーノを困らせてしまうかなとか、今までの関係でなくなったらどうしようかなとか、そんな小さな事ばかりに囚われていた。
「ジーノも考えてくれてたんだね」
「当たり前でしょう」
「うん」
「しかし……」
ジーノの手が、結菜の髪を包み込んでゆっくりと撫でる。魔法の道具を作る繊細な指先だ。
「結菜も考えていてくれたのですね」
「……でも、どうすればいいのか分からなかった」
「当たり前です。結菜はまだまだこちらの世界のことを知らないのですから」
だが、ジーノだって結菜の世界のことを知らない。時を重ねていくために、どのように互いを摺り合わせていくべきなのか。ほんの些細な事も互いを知って、交換すべき時が来た。
「例えば、結菜の世界で女性を妻にするときはどうするのか、とか」
「えっ?」
「……この国で国籍を得るには、配偶者以外の後見人が必要なのだとか」
「……それって」
目を丸くした結菜の唇に、ゆっくりとジーノの唇が触れる。上唇を下唇を幾度か咥えては離して、吐息混じりに結菜を呼ぶ。
ジーノが結菜の後見人にならなかった理由、その発言の意味がじわりじわりと胸に溶けて、結菜の顔を熱くしていく。
「顔が熱い、ユイナ」
「ジーノのせいよ。……でも」
そんな風に言う結菜の熱い顔を自分の胸に抱き寄せて、しばらくの間馬車の揺れを楽しむ。コトコトと小さな振動と音は、沈黙した2人の間に気持ちよく響いた。その音を聞きながら、言いかけた言葉を結菜が続ける。
「嬉しい、ジーノ」
「ええ、共に考えましょう」
結菜にこの心臓の音は聞こえるだろうか。
いつも冷静なジーノの心音は、今、とても忙しなく響いているに違いない。結菜がジーノと同じ方向を向いているか、本当は常に気になっていた。それが今、まさに同じ風に悩み、同じ風に考えていたのだと気付いて安堵する。
こうして少しずつ、2人の世界を重ねていく。