教室には甘い香りが漂っていて、何人もの女性達が真剣な顔で各々目の前のボウルに向き合っている。ボウルの中は柔らかなガナッシュクリームで、かき混ぜるほどに艶やかな照りが胸をそわそわとさせた。
「あー、やばい。すっごい楽しみ」
「何が?」
「何がって! 決まってるじゃない、このチョコレートが出来上がるのが!」
結菜は親友であり同僚である沙也加と共に、週中の休日を利用して1日お料理教室にやって来ていた。通うには敷居が高くて面倒な気がするお料理教室だが、1日体験ならば気が楽だ。広くてなんでも揃っているキッチンを借りられると考えれば、お手軽で楽しい。それで、沙也加と一緒に参加してみることにしたのである。
参加の理由はもう一つある。
イケメンパティシエが講師の料理教室は、テーマが「バレンタイン・ショコラ」なのだ。もうすぐバレンタインともあって、この1日教室は一番人気の枠だったのだが、沙也加と一緒にかなり前から予約していて滑り込むことができた。少しお値段は張るのだが、なかなか揃えられない高級な材料ばかりを使えるのも楽しい。
オレンジシロップを混ぜた香りのいいガナッシュクリームを、半分は小さめの型に流し込み、半分は四角く整えて冷蔵庫で冷やす。ガナッシュを少しだけつまみ食いしてみたところ、沙也加と思わず顔を見合わせるほど美味しい味だ。洋酒とシロップの味がしっかりと効いているが、まろやかできつくない。
「うん。これは確かに、すっごい楽しみ」
沙也加の真似をして結菜も言った。それを聞いた沙也加が「ねー」と笑う。美味しいチョコレートを作ることができる、というのももちろん楽しみの一つではあるけれど、「バレンタイン」という特別感もまた大きい。お店でなければ使うことのできないような材料で、手作りできる、というのが楽しいのだ。
そして、この手作りチョコはもちろん、例外なく、お目当の男性に渡される。オーソドックスではあるけれども、たまにはこんなありふれたお楽しみもいいではないか。
冷やしている待ち時間に、講師のパティシエ自ら作った高級ショコラを楽しむことが出来るのもこの料理教室の目玉の一つだ。エスプレッソに小さなボンボンショコラが二つ、艶やかでラグジュアリーなショコラは、一つつまんで口にすると幸せの味がする。
とろけるようなキャラメル味のショコラだ。コクのある甘味は、エスプレッソの豊かな香りと苦味によく合った。
「ね、結菜の彼氏さんは甘い物大丈夫な人だっけ?」
舌に幸せな味を一時楽しみながら、沙也加が結菜の顔を覗き込んだ。もはや彼氏の存在を隠していない結菜の頭に浮かぶのは、無表情の魔法使いだ。
「食べるよ。一緒にケーキも食べたし。糖分は仕事の集中力を高めるから食べるって」
「なにそれ。結菜の彼氏、理系?」
「理系……かなあ」
確かに思い返してみれば、眼鏡をかけて魔法使いの長衣を着ている様子はそう見えなくもない。研究の内容は魔法だが、ものの言い方や考え方は論理的で、結菜のイメージにある理系に近かった。
「チョコレートあげるんでしょう?」
「あげるよ! せっかく作ったし。沙也加も?」
「まあ、一応ね」
「一応って」
一応、などと言うが、沙也加のところは彼氏と長い。だからだろうか、「店で作ったみたいなチョコレートだ!」と驚かせるのだと息巻いていた。いつもは余裕のある沙也加が、時々見せるこういうところは本当に可愛い。
トリュフチョコレートは家でも何度か作ったことがあるが、きちんとテンパリングを行ってチョコレートを作るのは初めてだ。つやつやとした綺麗なショコラが出来上がるのを楽しみにしながら、結菜はもう一つのショコラを口に入れた。こんな高級な味にはならないかもしれないが、あの魔法使いは結菜の作ったチョコレートを喜んでくれるだろうか。
「そういえば、チョコレート好きなのかな」
「え?」
ポツリといった結菜の言葉に沙也加が首をかしげた。
「チョコレートくらい、普通一緒に食べたりしない?」
「あ、えー……っと」
そういえば、チョコレートを一緒に食べたことはなかった。向こうの世界のスイーツを食べたことはもちろんあるが、こちらのチョコレートと似たものは無かったはずだ。チョコレートの甘さと香りは、他ではちょっと表すことができない。
彼氏の魔法使いはチョコレートを食べたことがない、だなんてことは言えなかったが、だが甘いものが大丈夫ならチョコレートも好きかな……? と想像する。
「あげたことはないかな」
「なら、どんな反応するか楽しみじゃない?」
「それは楽しみかも」
冷やして固めたガナッシュを型から取り出し、注意深く温度調整したチョコレートにそれをつける。とろりとしたチョコレートがガナッシュの固まりを滑り落ち、なめらかな状態のままクッキングシートの上に乗せた。
つやつやの上にスミレの砂糖漬けや細かく切ったオレンジピールを乗せれば、ちょっと贅沢なチョコレートに見えるではないか。
涼しいところで固めている間にラッピングの準備までして、至れり尽くせりの料理教室は大満足に終わった。バレンタインに好きな人にチョコレートをあげる。ありふれていてもやっぱり心は浮つくものだ。
「結菜、楽しそう」
「沙也加も、なんだかニヤニヤしてる」
「だって、この時期綺麗なチョコレート見てるだけで楽しいのに、今年は自分で作っちゃったからね」
「そうだね」
この小さくて甘いお菓子を彼にあげたら、結菜の大好きな、あの無表情で喜んでくれるんだろうなって想像すると楽しくもある。小さな紙袋にリボンに包んだ小さなショコラを持っていると、自分の頬が緩むのが分かった。