チョコレートとやらはもったいなくて、一つを半分に切って二人で分けることにした。そのように結菜に提案すると、遠慮なく食べちゃえばいいのにと楽しそうに笑われる。
楽しげに笑う様子を見つめていると、結菜が切ったチョコレートの半分を持ち上げた。
「はい」
もちろん、結菜の指ごとぱくりと食べる。結菜が「あ」と驚いた声をあげて、指をさっと引っ込めた。チョコレートがついた指先を拭いてやりながら、いつまで経っても照れが残る結菜に、今度ばかりは自分の目元が緩んでしまったのが分かる。
さて、結菜の指先はともかく、口に入れたチョコレートは、表面はそれほど固くなく、中はトロリと柔らかい。甘くて酸味の感じるよい香りがしたが、ジーノの知っているもので似たようなものはなく、なんとも比喩しがたい。
滑らかに溶けて広がる独特の風味と、単に甘いというだけではない豊かな味わいは、なるほど、これは非常に美味なものだ。
「美味しい?」
「はい。……リュチアーノには同じようなものはありませんね。非常に繊細で、美味です」
「よかった! それ、実は私が作ったんだ」
「ユイナが?」
結菜は菓子職人だったのだろうか? そんな話は聞いたことがないが、結菜の世界ではこんなにも繊細で技巧を凝らしたものを、専門の職人でなくても作ることができるのだろうか。
だが何よりも結菜が作ったという事実が素晴らしく、ジーノは結菜をまじまじと見つめ、長く美しい髪をそっと撫でた。
これまで何度か、家主のマアムの手を借りて食事を作ったことはあったが、結菜の世界のものを結菜が作って持ってくるのは初めてだ。手作りに喜ぶなど我ながら単純だとは思うが、嬉しいものは嬉しいではないか。
「それにしても、初めて食べる味ですが、かなり美味しいのではないですか? もちろんユイナが作ったものはなんでも美味しいと感じますが……」
「ふふ、それ、プロのパティシエが開いてる教室で作ったから、材料もいいものだし、作り方もプロと同じだから、美味しいんだと思う」
「ふむ、ぱてぃシえ」
ぱてぃシえ、ぷろ、について説明を求めると、どうやらチョコレート作りを生業としている職人に教わったらしい。リュチアーノでは職人が習得している技巧を習うには弟子になるのが普通だが、結菜の世界では1日だけそれを習うことができるようだ。こちらでは考えられないが、なるほど、そういった手習いに需要がある社会も面白い。
ふむふむと感心しているジーノに、結菜が頬を染めて首を振った。
「だから、誰が作っても美味しいんだよ」
「そういう問題ではないのですよ」
濃い目に入れた炒豆茶を口に運ぶと、チョコレートの風味がさらに広がるようだ。結菜の話によると「こおひい」というかなり苦味の強い飲み物と一緒に食べると美味しいそうで、今度持ってくると張り切っていた。
結菜の世界とジーノの暮らしが交差するのは、魔法使いとしても興味深いが、結菜の嗜好を知るという意味でも非常に有意義だ。これまで甘味など、集中力を高めるために単に摂取すればいいと考えていたものが、結菜が喜ぶ繊細で美味なものをと探すようになった。何かにつけて自身の世界が広がっていることを感じ、その度に結菜の存在を感じ、そういう暮らしが悪くないと考える。
「それにしても、なぜ急にこれを?」
「あ、えっとね、私の世界では、明日がバレンタインデーなんだ」
「バレンタ?」
「バレンタインデー。女の人が、男の人にチョコレートをあげる日」
「ほう。それもまた、不可思議ですね」
結菜の世界では、約365日に1度そのような日が設けられており、このチョコレートという食べ物を買うなり作るなりして、女性から男性に渡すのだという。では、このチョコレートというのは何かしら特別な効能のある食べ物で、365日に1度しか作れないなどの制約があるのかという問えば、どうもそうではないようだ。この日に合わせて高級で美しいものが出揃うというが、とはいえ、チョコレートという食べ物はごく一般的に手に入るものであるらしい。
それを365日に一度というと、随分と特別な感じがするが、なぜそのような日があるのだろう。
「女性が男性に渡して、何か意味があるのですか?」
「意味っていうか、こくは」
「こくは?」
結菜が唐突に黙った。ジーノは首を傾げつつも特に先を促すことなく、ただ手持ち無沙汰に結菜の腰を抱き寄せて自分の身体に凭れさせる。
すると、抱き寄せているジーノの手を掴んで手遊びをしながら、何かしら照れたように声を落とした。
「その日は、あのー……女性が男性に告白する日なの」
「告白? 何を告白するのですか?」
「えっ」
告白というと、何か女性が男性に対して告げるべきことがあるということか。一体何を告白するのか、この場合、結菜がジーノに対して何かを告白するということになるが、何の話なのだろう。
ジーノは改まって眼鏡の位置を直し、結菜の言葉を待った。
「えー、あー……その、好き、って……」
「好き?」
「女の人が、好きな男の人に、好きっていう日、です」
「ユイナ」
「は、はい?」
眼鏡が結菜の鼻先に触れそうになる程近づく。硝子越しに結菜の瞳を覗き込みながら、ジーノは素朴な疑問を口にした。
「ユイナの国では、365なにがしに1度しか女性が男性に『好き』と言ってはいけないのですか?」
「あ、いやそういうわけじゃなくて」
「ふむ。そうですね。ユイナから幾度か聞いたことがありますし」
「うわああ!! もう、そういうことでもなくて!」
そばに置いてあるクッションを掴んで、ドスッとジーノの胸に押し付けられた。ジーノには意味のよく分からない行動だったが、主に照れている様子の結菜にはよくあることだ。つまり、ジーノは冷静にそれを受け止めて横に退けると、少し離れた結菜の背中に腕を回した。
「では、どういうことでしょう」
「なんかこう、改まって言われると説明しにくいけど、記念日、みたいな感じだよ。お遊びとか、きっかけ」
「きっかけ」
なるほど、それならばジーノにも分かる気がする。リュチアーノでも、神が溜息を吐いた日や、星が一周した日……などという、出典が随分古くてよく分からない日があり、特別な食べ物が売られたり妙な慣習があったりする。それと似たようなものだろうか。
……ということは、だ。
「では、ユイナはそのきっかけを使って、私に告白しようとチョコレーを持ってきたのですか?」
「えっ?」
「違うのですか?」
「そ、れは」
ジーノが改めて結菜を抱きしめ、頬に触れるか触れないか……というところまで唇を寄せた。
「それは……?」
結菜が少し顔の角度を変える。頬をかすめていたジーノの唇が、それを追いかけるとやんわりと重なり合った。抱きしめる腕を少し強めると、結菜の腕が背中に回る。
言葉の続きは、ここではなく、別の場所でゆっくりと聞くことにした。