魔術学校の女子寮の一室。健やかに眠る少女の寝台となっているのは、黒い異形の魔の身体。
異形の身体は射干玉の黒。全身に赤い血色の文様が走り、少女を見下ろす瞳も赤い。それだけならば、まだ人の形を為している……といえるが、その頭には捩れた2本の角が、そして背中からは大きな蝙蝠羽が生えていて、それは、どこからどう見ても、人知を超えた存在であることが見て取れた。背中の大きな蝙蝠羽が、時折ゆらゆらと動いている。
この異形は今、自分の広い体躯の上に眠る少女を片腕で抱き寄せ、もう片方の手でその髪をゆっくりと梳いていた。
少女は何も身に着けていない。少女の身の内の魔力を我が物とするのに、衣服などは邪魔なものに過ぎない。
この異形の目的は少女の魔力。
闇に生ける異形ですら、今までに感じたことのないほどの上質の闇の魔力をこの少女は持っている。
己の身体をその魔力に深く満たせば底を知れぬほどの欲望を覚え、欲望に身を任せてそれを啜れば自らの魔力がより高められていく。その感覚がまた欲望を生み少女を求め、己の魔力によって彼女の味もまた変わり、さらに上質な闇を求めて深みに嵌っていく。
それが目的。
不意に異形の身体の上で、少女が身動ぎをした。……起きてはいないようだ。異形の顔が微かに笑みを浮かべたように歪む。
少女の身体を少し持ち上げて、唇で髪に触れた。深い眠りに落ちていた少女の濃密な魔力が、少し浮き上がってゆるゆると甘い柔らかな流れに変わる。異形は顔を傾け、長い舌を伸ばしてちろりと少女の耳を濡らす。
「んぅ……」
耳に触れた違和感に少女の眉が歪められ、異形の胸に擦り寄るように頭を動かした。少し開き気味の唇は柔らかく、指を添えればそれを咥えて舌が触れる。異形はしばらくの間その様子を見下ろしていたが、やがて名残惜しげに指を外し、広い手のひらで少女の瞼を覆った。途端に少女の息が整い、再び深い眠りに落ちていく。少女が起きる必要のある時間までは、まだ余裕があるはずだ。
異形は少女が己の魔力で深く眠ったのをいいことに、その細い首筋が自分の口元に届くまで引き寄せた。当然のように、首筋に舌を這わせる。唇と舌を動かし、音を立ててその柔らかな肌に吸い付くと、獣が水を飲むような音が響き始め、異形の腕の中で自然と少女の息が上がる。
人の子の魔力は感情によって揺れ動く。これは、感情という括りの薄い異形の存在にとって興味深い。常に同じ魔力が供給されるわけではなく、その時々によって……感情によって変化に富むのだ。
その中でも他に比べようの無い、極上の魔力がある。
それは、少女自身が異形から快楽を貪る瞬間だ。
少女の身体が異形の身体に繋がれ、互いの粘膜を混じり合わせる恍惚。
少女が己の身体で達するときの、羞恥と欲望で混乱する瞳。
思い出すだけで異形の身体をなぞる赤い文様が脈動し、少女を貫くための楔が猛る。
硬くなったそれを少女の足と足の間で少し動かすと、そこは先ほど耳と首筋を刺激していたからだろう、眠っているくせに微かに濡れ始めている。
「ああ……」
たった今それを味わいたくて堪らない。
少女の魔力を一滴残らず啜り上げて己の魔力で満たし、交じり合ったそれをまた啜る、永劫に続く甘美な輪の中に閉じ込めたい。
さらに少女の首筋を舌で濡らし、腰に手を這わせ、足と足の間に己を滑らせる。
人と同じ形だが遥かに大きく熱く猛々しいそれで少女の身体を貫けば、互いの魔力が熱く交じり合うだろう。それは蕩けるよう快楽に違いない。だが、今にも入りそうに動かしながら、それ以上の侵略はしなかった。
バサリと大きな黒い羽が音を立てた。羽が節にそって折れ、少女の背を抱き寄せるように包み込む。
意識の無いときに貫くのも悪くは無いが、今はこのまどろむ様な夢現の魔力を楽しむとしよう。いずれ少女が目覚めたとき、身の内に焦げ付くように残った疼きを持て余せばよい。そうして、
「ウィーネ・シエナ。我を求めよ」
「……ぅ……ん……」
異形の囁く言葉は掠れたような重低音で、少女の甘い吐息が逸れに応えるように零れた。
「ウィーネ。我が召喚主」
異形の呼び名はアシュマ。
魔としての名前はアーシュムデウ・アクィナス・ラクシュリアス。人間に認識できる魔の12階位の内、上位2位の悪魔だ。
そしてアシュマは魔術学校に通う女子生徒、ウィーネ・シエナの使い魔であった。
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「アシュマめ……また何かやりやがったわね……」
魔術学校の生徒、ウィーネ・シエナは頭を押さえながらその日の授業の教室に座っていた。数人の生徒がウィーネに挨拶するのに答えながら、軽く頭を振る。自分の身に残っている魔力が、まるで自分のものではないような奇妙な感覚だ。原因は分かっている。ウィーネが寝ている間にアシュマがやってきて、魔力を食らっていったに違いない。
アシュマ……というのは、ウィーネが呼び出した闇の界に生きる悪魔だ。夏休みの課題に使い魔として小さな鳥の魔物を呼び出そうとしたら、何故かアシュマが召喚された。人間が認識できる魔の階層12階位の内、上位2位の悪魔。恐らく闇の界にも数匹しかいないであろう、人智を超えた存在だ。あんなものが世に放たれたら、指を弾いただけで街がひとつ滅びる。彼らは悪魔であり、闇の魔力そのもの。その存在自体が魔の炎なのだ。呪文やら魔法陣やらでやっと魔法を使うことができる人間には、全く理解できない存在だ。
そういう計り知れない存在に、何故かウィーネは目を付けられた。正確にはウィーネの身に宿っている闇の魔力。召喚魔法のためにウィーネが開けた人の界と闇の界との入り口に、ウィーネの魔力を感知した上位の魔物が群がった(らしい)のだ。
たった一匹の、ちいさな鶫の騎士を呼び出そうとしただけなのに大変な騒ぎになった(らしい)。その騒ぎを一瞬で掃討し、有無を言わさずウィーネを独り占めしたのが……アシュマだった(らしい)のだ。
召喚した使い魔とは、どちらかが滅びるまでその契約は続く。そして呼び出した以上は契約を交わさなければならない。
使い魔が主に使役されてでも人の界に留まりたがるのは、召喚主の魔力を糧とするため……といわれている。召喚主の側に居て、召喚主に使役され、その代わりに召喚主から魔力を与えられるのだ。召喚主から与えられた魔力を糧として、さらに己の存在を高めるのを究極の悦びとしているのが、使い魔として呼び出されたがる魔の特徴だ。アシュマも例外ではない(らしい)。
自分の主たる魔力が闇の属性なのは間違いないが、それほど量も多くないし質がいいと褒められたこともない。アシュマが自分の魔力の何を求めているかもさっぱり分からない。……それに、あの高圧で圧倒的な魔力のどこに高まる余地があるのかとウィーネは思うが、所詮ウィーネは人間だ。悪魔の行動は理解しがたい。
「よう、ウィーネ。何浮かない顔してんだよ。真面目な顔がクソ真面目な顔になってるぜ?」
「うるさいわね、ネルウァ。頭痛いから話しかけないでよ」
「へぇへぇ。相変わらずの二重人格なことで」
「だ・れ・が」
「お・ま・え・が」
「色魔にお前呼ばわりはされたくないわね」
「ああ? 俺は来るもの拒まずな性格ってだけだぜ? 別に追いかけてねーし」
「あー、はいはい。何か用かしら、セルギア君?」
ウィーネは礼儀正しい笑みを浮かべ、首を傾げて見せた。その笑顔を見て、ネルウァは「うぜぇ」と鼻を鳴らす。
ネルウァ・セルギアはウィーネが魔術学校に通い始めてから、2年間同じクラスで授業も同じという腐れ縁の男子生徒だ。品行方正の優等生で通っているウィーネに何かと突っかかってくる。制服をダラダラと着こなした軽薄な男子生徒で、常に女の香りを漂わせていた。成績はどの科目も最下位だが、ただひとつ魔法武器の設計構築だけは常にトップの成績を保っている。それなりに魔力も実力もある男だが、単に勉強が嫌いなだけなのだろう。
「あいつだよ、あいつ。あれ、何者だよ」
「あいつ?」
「アシュマールだよ。アシュマール・アグリア。いっつもお前と一緒にいるだろ?」
「別に一緒には居ないわよ」
「あ? そうか? でも、かーなーりーの噂になってるぜ?」
一番聞きたくない名前を聞いたウィーネは顔を顰める。アシュマール・アグリア。浅黒い肌に赤い髪という珍しい風貌で、背が高く体格もいい転校生。その姿はいまや魔術学校の女子生徒の賛美を一身に集めている。ただ、本人は全く周囲の女子生徒に興味を示さない。パンキッシュな姿かたちにも関わらず、持つ雰囲気は慇懃で、最低限の礼儀は崩さない男子生徒だ。その代わり、一欠けらの慈悲も無かった。
いつだったか、学校一の美女が暗がりでアシュマールを誘惑しようとしたが、一体そこで何が起こったのか、その美女は指一本触れられることなく泣きながら逃亡し、その後1週間学校を休んだのは既に伝説となっている。そのアシュマールが唯一己から話しかけ、視線を送り、あまつさえ、時折その唇に笑みを浮かべる女子生徒が居た。それが、
「ウィーネ・シエナ」
中低音のよく通る声で、ウィーネを呼ぶ声。振り向くとそこに居たのは、噂のアシュマール・アグリアだった。
「おはよう、ウィーネ・シエナ。ここに座っても?」
「おはよう、アグリア君。折角の授業だし、前のほうに座ってはいかが?」
「いつも親切にありがとう。でも、ここに座らせてもらおう」
他に席はいくつも空いている。……にもかかわらず、アシュマールはウィーネの隣に座ると瞳を細めて、どうやら笑ったようだった。ウィーネの前の席に座っているネルウァは完全に無視だ。ウィーネはため息をつく……が、何も言わない。
「なあ、お前らさあ……」
「君は?」
口を開きかけたネルウァに今気付いた……という風に、アシュマールがウィーネに向けていた視線を向けた。その視線を受けて、ネルウァは心臓が掴まれたような感じがする。ゾゾゾ……と背筋が凍り、息が詰まった。言葉を失ったネルウァに変わって、ウィーネが口を開いた。
「彼は同じクラスのネルウァ・セルギアよ、アグリア君」
「そうか。よろしくセルギア。……それで、俺達に何か用かな?」
「……『俺達』言うな」……とぼそ……とつぶやいたウィーネはスルーされ、アシュマールが冷たくも見える一瞥をネルウァに向けている。ネルウァは逃げるように視線を外し、「あー……別になんでも?」と誤魔化し、席を立った。
「ウィーネ、悪ぃ、代返しといて。俺サボるから。用件それだけ、じゃな」
自分の魔札をウィーネに渡すと、あたふたとネルウァは教室を出て行った。代返……というのは、出席用の魔力の札を本人に代わってこっそり教師に提出することで、サボる生徒が出席日数を稼ぐための手段として横行している。
別段札を提出する程度、苦ではない。ましてネルウァはよくこうしてウィーネに代返を頼んでいたから珍しいことではない。なんだったんだ……とその背中を見送っていると、アシュマールがウィーネの髪に触れた。その手を黙って避けさせると、至極不機嫌な顔でウィーネはアシュマールを睨みつけた。
2人は互いにだけ聞こえるひそやかな声で話す。
「アシュマ……今朝、また私の部屋に来たでしょう」
「ああ。それが何か?」
「何か?……って……。何しに……」
「お前が我に糧を与えぬから、我がわざわざ出向いてやっているだけだ」
「糧が必要な使役なんてしてないし」
「そうか……?」
ニヤリ……と笑って、アシュマールがウィーネの手を掴み、自分の口元に引き寄せた。ちゅ……と小さな音を立てて、そこに口付けする。
「ちょ……止めてよ、ここどこだと……っ」
「我がそんなことを気にするとでも?」
「私が気にするのよ」
「……止めて欲しいのか?」
……試すような、声色でアシュマールはウィーネに近付いた。
アシュマール・アグリア。
ウィーネの使い魔のアシュマが人型を取った姿だ。
彼は、ウィーネがいつまでたっても自分を使役しないことに痺れを切らし、生徒に混じってウィーネに付きまとっているのである。
「止めよと命じるか……? 使役するのならば糧が必要だぞ……」
「勝手に掴んでおいて何なのよ。押し売り商法か!」
「商売ではない」
「突っ込まれなくても知ってるわよ」
「そもそも方法は関係あるまい」
「関係あるわよ。上位2位の悪魔でしょうが」
「ほう、ならば上位2位の悪魔らしい方法でお前をいただいてもかまわんが?」
「じゃなくて、私の魔力なんて無くたって問題ないでしょうってば」
「問題はある」
「何がよ」
「お前の魔力を啜るのは我の趣味嗜好だ」
「また意味の分からんことを……」
「人の界ではそのように言うのだろう?」
「人の魔力を啜る趣味嗜好はどこの界にもありません」
「そのようなことは分かるまい」
「だから……っ」
「しつこいぞ、ウィーネ。どうせ結果は同じなのだから、使役したほうが得だろう。損得勘定もできぬのか?」
「アシュマの価格設定がおかしいのよ!」
……ふん……と鼻で笑う。唇はウィーネの手の甲に宛てたままだ。離そうとして思い切り手を引いても、さほど力を入れているようには見えないのにピクリとも動かない。ウィーネはこの手に余る使い魔の存在にほとほと困り果てていた。盛大に溜息をつくと、命じる。
「アシュマ……、離して」
「よかろう。後で貰う」
再び大きな音を立てて手の甲を吸うと、アシュマは唇を離した。
……で、大体休み時間にこうした攻防を教室の片隅で繰り広げるものだから、ウィーネはアシュマールの想い人達からは嫉妬や羨望の眼差しを、ひそかにウィーネを狙っていた男子生徒からは失望の視線を受けているのである。
成績優秀・品行方正、真面目でストイックな学生として穏やかな学園生活を送っていたはずのウィーネ・シエナの学園生活は、こうして一気に気の抜けない油断ならないものになった。