自室へと戻ってきたウィーネは、寝台に腰掛けてショコラトルの包み紙を持ち上げた。甘くてよい香りがする。ショコラトルはウィーネだって好きなお菓子だ。食べたいけれど……でも、まあいい。
「自分の分はこの間新しく出来たお店で買って……うひゃう!」
「ウィーネ、それはなんだ」
不意に耳元で中低音の声が響き、身体に手を回され後ろに引き寄せられた。背中に逞しい胸板がぶつかり、ウィーネの黒髪に熱い吐息が掛かる。
「ちょっと、急に出てこないでっていつも言ってるでしょう!」
「お前の側が我の居場所なのだ、仕方あるまい」
「な、に、言ってるのよ」
「お前が呼ばぬから出てきてやってるのだ、ウィーネ・シエナ」
まるで恋人が抱き合うように、やんわりと抱き寄せられ、緩く拘束される。人型のアシュマが寝台の上に現れ、ウィーネを後ろから抱きしめているのだ。常のような強引さは無く、だが抵抗を許さぬ腕の強さで囲われている。ウィーネの抗議などは聞かず、その身体の柔らかさを楽しむように腕が動き始めた。布ごしの胸を握りこみ、ゆっくりと揺らす。
「も、待ちな、さ、いよ、アシュマ」
「何もしていない」
「してる、へんなとこさわらな……い、でっ!」
「この程度」
アシュマはふん……とせせら笑いながら手の動きを止め、片方の腕でウィーネを抱き寄せたまま、もう片方の腕でショコラトルの包み紙を取り上げた。鼻を寄せ、香りを利く。
「これはなんだ、ウィーネ。お前の香りがする」
「それは、ショコラトルよ。新しい貴方の糧」
「糧?」
「ええ」
「ああ、テブローマの実か」
「そうよ、純度の高い魔力が……って、何やってるのよ!」
「この服が邪魔だ」
どさくさに紛れてウィーネのブラウスのボタンを外していたアシュマの手を止めさせて、ウィーネが立ち上がろうとした。それをアシュマが許すはずも無く、軽々と引き寄せて自分の膝の上に乗せる。
「それで?」
「……そ、それで、その……私からちょ、直接、魔力を取らなくても、これで糧の補充ができるのよ。しかも、高純度!」
「ヴァレンティヌスの日か」
「そうヴァレンティヌスの日……って違う! 違います! 別に、ヴァレンティヌスの日だからといって貴方にあげるわけじゃなくて、たまたま特別授業で作って……」
「セルギアから聞いた」
「な、にを」
アシュマがウィーネの耳元で低く笑う。
「好いた男に渡すものだと」
「違うってば。あのね、人の話聞きなさいよ」
「授業のことも聞いている。思いを込めてテブローマの実を混ぜるのだろう」
「そ、」
「ああ……ウィーネ」
そのままぐるん……と、ウィーネの身体が寝台にひっくり返される。上に乗っているのはアシュマだ。赤い髪がさらりと端正な顔を縁取り、赤みを帯びた瞳の光がウィーネを見下ろし、妖しく揺れる。
「我を思って混ぜたのか……?」
甘い声はまるで恋人に囁くようにウィーネの耳元に寄せられ、唇がそのまま首筋を……
「って話聞け!」
しかしウィーネも負けてはいなかった。身体をよじって唇を避け、アシュマの顔をがっしと掴んで引き離す。ぐ……と力を込めると、アシュマは顔を離して身体を起こした。ウィーネも起き上がると、手元をまさぐってショコラトルの包み紙に触れる。がさごそとそれを開いて、一粒のショコラトルを摘み上げた。
「そういうことしなくてもこれ! 折角作ったんだから、これで賄って……」
ウィーネが最後まで言い切る前に、アシュマがウィーネの指ごとショコラトルを口に入れた。手を引こうとしたが腕を掴んで許さず、ショコラトルを口に含むついでに指を嘗め回す。いや、指を嘗め回すついでにショコラトルを口に含む。
「もういちいち舐めなくてもいいからっ……」
「ん……」
アシュマが喉の奥から艶かしいくぐもった声を出す。ショコラトルを口の中で溶かし、喉に流し込んだ。ウィーネの指についたそれも舌で綺麗に絡めとり、口から外して、さらにぺろりぺろりと舐め始める。呆気にとられたウィーネをアシュマの赤い眼光が捕らえ、ニヤリと……嗤った。
とんでもなく嫌な予感がする。
少しずつ後ずさるウィーネの腕を捕らえたまま、アシュマがゆっくりと追い詰める。狭い寝台の上だ。逃げ場などは無く、寝台の端にすぐにぶつかった。
「えー、と。純度、高くない?」
「高い、な」
「もう1粒いります?」
「いる」
ウィーネが空いている方の手でショコラトルの2粒目を取って、四つん這いでウィーネに迫ろうとしているアシュマの口に入れた。今度は指を入れられないように、ぱっと手を離す。まるで猛獣に餌を与えているような様相だが、あながち間違ってはいない。
それを味わって喉に流し込む。アシュマがうっとりと瞳を細めて笑んだ。
「我の名を呼びながら作ったな?」
「え……」
「違うか、ウィーネ」
「ち、ちがっ」
「違わぬ。我の本性の名がお前の魔力に絡んで……甘く、溶け込んでいるぞ……」
アシュマの喉の奥で、ウィーネの魔力が練りこまれたショコラトルが溶ける。ショコラトルに使われている砂糖の甘さなど、異形の魔であるアシュマには関係無い。ウィーネの深い闇の魔力が高純度で溶け込んだこの塊は、蕩けるように喉を落ちていく。それだけで十分に、甘いではないか。
純度だけではない。
人間の作ったヴァレンティヌスの日……そのような日を作らねば己の感情を伝えることが出来ぬなど、人の子とは面倒な生き物よ……と思ったが、ショコラトルに溶けているウィーネの乱れた感情を味わえるならば、それだけで価値がある。
「何それ、魔力以外は絡まないって……、んあっ」
アシュマのもう片方の腕もウィーネの身体を捉え、唇が重なる。そのまま押し倒されるように身体が寝台に沈められ、ウィーネの柔らかな唇を割るように異形の舌が入り込んだ。ショコラトルの甘い味のする唾液が、容赦なくウィーネに流れ込んでくる。
ウィーネの瞼の上にアシュマの掌が翳され、そのまま首筋を何かが這い回る。時折咥えるように甘噛みされ、押さえつけられた身体全体が熱い。
「あ、アシュ、待って、よ」
「何故」
「糧ならあげたでしょう。まだたくさん残ってるじゃない!」
瞳をふさがれたままウィーネが暴れる。アシュマの声が魔の発する重低音の声に変わり、暴れるウィーネの腕を手ではない何かが押さえつけた。
「それはまた後で貰う」
「っていうか、糧あげたのになんでこうなってるのよ!」
「ウィーネ」
翳された手が退けられた。ウィーネの視界に入るのは、既に魔術学校の男子生徒の姿ではない。張り詰めたように逞しい身体の肌の色は射干玉。その表面に走る文様は血の色。精悍な顔だが、その頭の両脇には捩れた角が生えていて、背から伸びる蝙蝠羽は今はウィーネの両手を押さえつけている。
ウィーネよりも二周りは大きいだろう漆黒の体躯が、少女の華奢な身体に被さった。
アシュマの本性。異形の魔の姿だ。
漆黒の体躯が、大きな手でウィーネの身体を優しくまさぐっている。服をたくし上げ、肌に直接手を触れた。
「や、まって……やだ」
「待つわけが無かろう。あのような魔力を我に与えておいて」
「何よ、どういう意味っ……うあ……ん……」
「人の子とて、前菜だけでは終わるまい」
「は? 前菜っ……て、……」
あのようなもの、前菜だ。純度は高く、味も極上。しかし量が少ない。飢えた器の前に極上の前菜だけを置かれて、我慢が出来るものか。
アシュマは視線の一振りで部屋に結界を敷き、ウィーネの部屋を閉ざす。
巧みな動きでウィーネの衣服は全て剥がされ、漆黒の腕がウィーネの身体を弄び始める。大きな体躯に深く覆いかぶさられると、ウィーネの白い肌はほとんど見えなくなった。アシュマの身体が、ウィーネの身体を抱え込んでいるからだ。
どれほど動いていたのか、ウィーネから甘やかな吐息が零れ始めた。下腹部に熱く滾る何かが押し付けられ、押し付けられた部分がいかほど濡れているかを見せ付けるように、ぬるりとそれが動く。
やがてアシュマの腰が妖艶な動きを始め、一際大きくウィーネの身体に叩きつけられた。繋がりあった衝撃に少女の愛らしい嬌声が上がる。低い感嘆の吐息を零して、一度動きを止めたアシュマはウィーネの身体を抱え直した。
「アシュ、アシュマ……、……そんな奥……も、無理っ……」
「駄目だ、我の魔力を感じるのだウィーネ……」
時折大きく角度を変えながら、少女の身体が悪魔の抽送で揺れ動く。
喉の奥に絡みつくショコラトルの甘い味。それはウィーネがこの悪魔の名を呼びながら、生み出したもの。
その魔力に込められたウィーネの……召喚主の、立腹や戸惑いや混乱や……そして、恋慕と情欲。どのような感情が向けられても、その全てがアシュマの悦びだ。
さて。
アシュマが求めるのは確かにウィーネの魔力。
だがそれ以上に魅了するのは、ウィーネの魔力に絡まる様々な感情がアシュマ自身に向けられたときの、あの味わい。
ウィーネという少女が自分に向けてくるあらゆる感情を、愛おしい、もっと欲しいと思うこの欲望は、人の世では何と呼ぶのが一番近いのか。
しかし、それとて、闇の界に生きる上位2位の悪魔……アーシュムデウ・アクィナス・ラクシュリアスにとってはどうでもよい。
アシュマはウィーネの身体を貫いて、猛々しい己でその柔らかな内奥を攻め立てた。奥の奥を抉る感覚は、悪魔と召喚主の魔力を直接掻き混ぜ、ウィーネとアシュマにしか感じることのできない快楽へと変わっていく。脈打つ蜜壺はアシュマの存在を受け入れ、溢れる蜜液はアシュマの魔力を受け止めて、ウィーネの魔力と溶け合いさらに絡まっていった。
魔の渇望がアシュマの最も好む魔力で満たされていくが、それが満ち足りることなど無いのだ。
「ウィーネ……我はお前が欲しいのだ……。もっと奥へ……もっと深く……」
「……ん、や……あ、アシュ、マ…………」
闇の魔力は溶け合えば溶け合うほど、深くなっていくのだから。
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「あらあ、アグリア君。今日もウィーネ・シエナと仲良しねえ」
「おはようございます、ドルシス先生」
口の端に笑みすら浮かべて、アシュマール・アグリアが魔法薬学の教師リウィス・ドルシスに挨拶をした。ウィーネ・シエナと仲良く並んで、魔法薬学の授業に出席だ。アシュマールは生徒や教師に対しては慇懃で丁寧な態度を崩さない……にも関わらず、その視線を向けられれば、生徒も教師も震え上がるのである。しかし、リウィスはどのようなコツを知っているのか、アシュマールと視線を交わしても平気な表情で、にんまり笑った。
「あら、ウィーネちゃん、お疲れ」
「疲れてませんよ、ドルシス先生。それに私、別にアグリア君とはなかよ……」
「ちょおおおおっと、セルギア君! なに授業さぼろうとしてんの!」
くねくねとしながらも、素早く入口に飛んでいったリウィスは、逃げようとしていたセルギアの首根っこを掴んだ。
「んふふ。せんせーの授業から逃げようったって、そうはいかないわよお!」
「だー。逃げてない、逃げてませんってば!」
自分の発言が完全に無視されたウィーネは溜息を付く。隣に並んだ人物など居ないかのように後ろの席に着くが、当たり前のようにその隣にアシュマールが座った。それを見て、いつもの台詞を言おうとした瞬間、ぶつぶつ言いながら自分の前にネルウァが座る。
「ち、めんどくせーな。お、アグリア。どうよ、いくつもらえた?」
「いくつ?」
それに反応したのはウィーネだ。隣に座るアシュマールの顔を怪訝そうにうかがう。その表情を見て、ニヤリと笑ったアシュマールはウィーネの髪を一筋掬い、声はネルウァに答える。
「もらってはいない。全て返却した」
「えっ!?」
ぎょっとしたのはネルウァだ。
「ウィーネからもらったものだけでかまわない」
「なっ……」
視線をそらそうとしたウィーネの頬が染まる。それを見て笑みを深めているアシュマールの様子に、ネルウァは「あ、そう。そうですかー。ごちそうさまでーす。ウィーネさんがんばってー」……と言って、ゆっくり前を向いた……と思ったが、
「あ、そうだ」
ネルウァが振り向く。
顔を背けるウィーネと、それを追いかけるアシュマール。横から見ればどうみても恋人同士……いや、捕食者と被食者の攻防にしか見えない2人に言い放った。
「1ヶ月後のアルバースの日には3倍返しだぜ、アグリア」
「……ほう。3倍?」
「ちょっと……!」
「ほらほらほらあー、先生の話聞くのー!」
ウィーネがネルウァに向かって、余計なことを言うな!……という前に、リウィスの授業が始まる。
アシュマールがウィーネを見て、邪悪な笑いを浮かべた。
3倍返しとは望むところ。……人の子とは、面白いことを考えるものだ……と。
文中の「ショコラトル」「ヴァレンティヌスの日」は実在のイベントやお菓子とは何ら関係ありませんので、作り方や謂れも全てフィクションです。フィクションったらフィクションです。