フラウ・ウァレンスの魔生物生態学の授業を受けてから数日が経ったある日、魔術学校の食堂でアシュマを見つけたネルウァは、珍しくその隣にウィーネが居ない事に気づいて声を掛けた。
「何、アグリア、ウィーネと一緒じゃないの?」
「……今は基礎の魔女学の授業だ」
アシュマは手にしていた本をパタンと閉じて、相変わらずな無表情をネルウァに向けた。この男は、ウィーネがいないと表情を読み難い。ウィーネがいれば表情が僅かに動くが、いない時はまったく動かない。本当に同じ人間なのか……と思うほどだ。だが、それを指摘するほどネルウァは頭の悪い男ではなかった。アシュマの無表情は気にすることなく返ってきた答えに大げさに頷いて、その斜め向かいに座る。
「あーあー、女子必須の科目ね。……もう終わったんじゃね?」
「そうだな」
ネルウァがちらりと食堂の時計を確認すると、その時間の終了時刻は大きく回っていた。
魔術学校には女子生徒だけが受講すべき必修科目がある。当然、女子生徒であるウィーネも参加していた。女子必須で男子学生は受講できないため、いくら上位2位の悪魔であるアシュマといっても、アシュマール・アグリアの姿でそうした科目の授業に加わることは不可能だ。アシュマにとって腹立たしい制限である。いっそウィーネに指輪かアミュレットでも着けさせて、そこに存在をつなげてやろうか……などと思っていた。
あの手の傷のことがあってから、アシュマは自分でも気づいてないが、かなりウィーネの動向に過敏だ。魔生物生態学の授業でフラウがウィーネの手を針で突こうとしたときは、即、計測器を破壊した。ほんの針の一突きであろうとも……ウィーネの手から血が流れるなど許せない。
これまではあまり気にならなかったが、よくよくウィーネを見ていると、木の実を刻む時も杖の飾りを作る時も、全ての手元が危なっかしくてならない。階段で声を掛けられると余所見をしながら上り下りするし、そもそも運動神経など皆無の癖して地面を駆けるから、勢い余ってつんのめったりする。戦士や騎士のような人種ならば、多少の無茶をしても平気なのだろうが、ウィーネは人間の中でもまだ若い少女だ。少しのことで怪我をするくせに、なぜあんな行動をするのか理解しがたい。そもそも。
「……何故、何もないところでつまづくのだ」
「あ?」
「……ウィーネだ。歩いていると、何も無いところでよくつまづく」
ネルウァが手にした飲み物を宙で止めて、あんぐりと口を空けた。問うたアシュマはいつもの通り無表情で、ただ僅かに眉間に皺を寄せている。つまり不機嫌そうだった。
「……ウィーネは……ほら、あれだ。頭はいいけど、運動神経皆無だからな」
「それは知っている」
ウィーネはどの分野の授業も大概成績がよく、特に術式・韻文・魔法陣の構築はほぼ完璧だ。だが、……魔法剣術基礎学とか、基本の魔法武術などの授業……つまり、魔術学校の初等で受ける体育会系の必須科目は非常に苦手としていた。学問的な分野であれば白金や金剛石級の成績も、体育などになると一気に下がり木や、あまつさえ紙級だったりする。つまり典型的な、お勉強はできるが運動は苦手……なタイプの優等生なのだ。
「しかし、ならばこそ、気をつけるべきではないか」
「気を付けてどうにかなるなら、運動神経無いって言わねえよ。それに、ああいう奴って大概気を付けねえしな」
「何故」
「運動神経無いからだろ」
理解出来ない。
……アシュマはウィーネを思って瞑目した。
自分に馴染み、馴染めば馴染むほど飽きない、ウィーネの魔力を手繰り寄せる。この人間の界において、たとえウィーネがどこにいようともアシュマには感じられるはずだ。人間が戯れに花の香りを楽しむように、アシュマもこうして時折離れているウィーネの存在を確認する。だが。
アシュマが異変を感じ、椅子を蹴り倒さんばかりの勢いで立ち上がった。驚いたネルウァが、つられて腰を浮かす。
「おい、アグリア?」
その異変はもう最後の局面を迎えていた。
ウィーネの魔力が急速に減っている。弱くなっているのではなく、減っているのだ。このまま減り続ければ、消えてしまうだろう。
人間の魔力は六界に住まう魔の生物とは根本的に異なる。無限ではなく、有限だ。一度無くなってしまうと、回復するまで長い時間を要する。しかも枯渇している状態は人間にとって裸同然に等しい。あらゆる魔力から身を守る術が無くなり、傷を負えば治癒が遅れる。
アシュマがウィーネの魔力をいくら取り込んでもそうならないのは、代わりに必ず自らの魔力を注いでいるからだ。そうしておけばウィーネの全てを守る魔力が枯渇することは無い。いずれアシュマの魔力と混ざり合い、さらなる魔力を生み出す。
その魔力が、減っている。
「おい、アグリアどうしたんだよ!」
アシュマの耳にネルウァの言葉はすでに届いていなかった。ウィーネの魔力の減り方は、魔法を使用した時のような規則的なものではない。ウィーネの意思に反した方法で、急速に誰かに奪われている。
「ウィーネ。ウィーネ・シエナ」
アシュマが召喚主の名前を口にする。しかし掴もうとしていた花のひとひらがするりと手から逃れるように、魔力の最後の欠片が消えた。自分以外の存在にウィーネの魔力が一滴残らず奪われた。誰が、どのような方法で。ウィーネを傷つけて?
「人間、如きが……」
恐ろしく低い悪魔の唸り声は、幸いなことに誰にも聞かれなかった。しかし膨れ上がった魔力に周囲の生徒がざわめき、ネルウァが絶句する。そういったざわめきを全て無視して、アシュマが食堂を立ち去った。その迫力に生徒達が慌てて道を開け、一つ角を曲がった瞬間アシュマの姿と魔力が人間の界から消えた。
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左頬に大理石のような感触を感じて、少女は瞳を開けた。
見知らぬ床の感触はほんの少し濡れていて、触れている頬は熱を持っている。その熱い部分から魔力が急速に吸い取られたようだ。頬は熱いのに、身体はひどく寒い。途切れそうになる意識を奮って集中してみると、体内の魔力はほとんど無いらしく、身体を動かすことが出来ないのはそのためだろう。指一本も動かせない。
どうにかしなければならないと、自分の使い魔の名前を発音しようとする。あの悪魔の真の名は、呪いの言葉と同じだ。声をあげて呼べばその魔力を感じ取って、必ず自分の元に来るだろう。だが。
「……」
掠れた息を吐いただけで、その言葉は声にならなかった。
枯渇した魔力は呪文を唱える力を奪い、朦朧とした意識は普通の言葉ですら口にすることが出来ない。杖があれば補助できるが、それを呼び寄せる力も無い。
苦しい。
魔術学校の教員たちからは、常々魔力を切らさないように……と注意されてきた。その話を聞いた時は、自分に魔力が無い状態がこんな風だなんて思いも寄らなかった。
そして怖い。
少し触れられただけで死んでしまいそうな、そんな剥き出しの感覚は恐怖しか感じない。
その感覚の中、ぞわりと耳元を男の手が触れた。これまでにない恐怖を感じ肌が粟立つが、声を上げることも震えることも出来ない。
「安心して。可愛い生徒を死なせはしないから」
甘ったるい、気分の悪くなる声だった。
「傷はあとで綺麗に治癒してあげる。魔力もちゃんと、戻してあげよう」
しゃべらないで、触らないで。
ネルウァの言うとおり、気持ちの悪い男だ。
「さあ、始めよう」
足音が遠ざかる音がして、あの気分の悪くなる声が韻を踏んだ呪文を唱え始めた。触れている地面が召喚の力を持つのが分かる。何が不愉快って、あんな気持ち悪い男に触れられて恐怖を覚える自分が、あまりにも弱くて情けない。
「……」
乱暴なくせにやさしい、圧倒的で強い魔力のあの悪魔に触れられるのは全然怖くないのに。
……怖くないのに。
ウィーネ・シエナの瞳から涙が零れた。