やさしい悪魔と召喚主

006.研究室

基礎の魔女学の教員におつかいを頼まれたのはウィーネ・シエナだった。フラウ・ウァレンスの元に、「魔女の羽」というアイテムを届けて欲しいという。何故私が?……と疑問に思ったが、ウィーネは教員の言いつけに背くような不真面目な生徒ではないので大人しく従う。

ウィーネのフラウに対する第一印象は「気持ち悪い」だった。何が楽しくて笑っているのか、笑顔はうさんくさいし視線がうっとうしい。用事を済ませたらさっさと帰ろう、そう思いながらフラウの研究室をノックする。しばらくして、爽やかな笑顔を浮かべた白衣の男が嬉しそうにウィーネを出迎えた。

「やあ、誰かと思ったら。シエナ君。……君とは一度話をしたいと思っていたんだ。さあ、入って」

「いえ、ここで結構です。私はこれを持ってきただけですから」

「ああ、魔女の羽だね。すまないが、その机の上に置いておいてもらえるかな」

フラウはにこやかにウィーネを招き入れると、研究室中央のテーブルを指した。まだ転勤したてらしく、開けていない荷などもそこかしこに置いてある。ウィーネがテーブルの上に魔女の羽を置き、失礼します……と踵を返すと、フラウが慌てたようにウィーネの肩を掴んだ。

「まあ、待ちなさいシエナ君。お茶でも……」

肩を背後から掴まれた感触に、思わずその手を振り払う。

「結構です」

生徒が教員に向ける顔としては失礼にならない程度の表情で、ウィーネが一礼する。足止めされた一歩を再び踏み出そうとすると、フラウは有無を言わせない力でウィーネの両肩を掴んで自分に向かせた。その攻撃的な態度に、ウィーネが眉をひそめる。それを楽しげに見下ろして、フラウが笑った。

「そう言わずに。君はこの間の授業で魔力を測っていなかったろう? ちょうどもう一式計測する道具があってね、測ってみないかい」

「けっこうです!」

語気を強めて再び断り、掴まれた肩を離そうと腕を上げた。しかし、今度はその腕を掴まれる。……さすがにウィーネも、嫌な予感がした。

「……初めての子はみなそう言うんだよ。大丈夫」

「な、離し……」

掴まれた腕を背中に回され、それごと抱きしめられた。

「ちょっと……っ! 離して、はなしてよっ」

「随分威勢がいい。大人しい生徒だと思っていたのに……まあ、庭で男子生徒と何をやっていたのか分かったものではないしな?」

ウィーネの頭の上で笑みを含んだ声が響いた。じたばたとウィーネはもがいたが、成年の男の力に叶うはずもない。不味い……と思った瞬間、がちゃんと音がして冷やりとした感触が腕に触れた。両手首に拘束具をつけられたようだ。

「ちょっと何するんですか!? 生徒にこんなことして……ただで済むと……」

「大丈夫だよ。他の先生達には、気づかれない」

「私が言いますっ!」

「言わせない」

「何を……っ」

「おいで」

「ちょっと離して!」

手の自由が利かないまま、フラウはウィーネの身体を引っ張った。研究室の奥の扉を開くと、そこには闇の魔力を中心とした術式の魔方陣が描かれている。その中央にウィーネの身体を引きずり、押さえつけるように無理やり横たえさせる。

「いきなりでびっくりしたかな? 抵抗しなければこんなもの付けないんだけどね」

「ウァレンス先生」

「なんだい?」

「何の真似ですか、何の目的で……」

「うん、ちょっとごめんね」

フラウはウィーネの話を聞いていない。どこかうっとりとした表情を浮かべていて、いっそ優しいとも思える笑顔で拘束したウィーネの手を取った。ちくん……と痛みが走り、指先に針が刺されたことを知る。そのまま冷たい石のようなものを押さつけられ、……どうやら魔力の属性を計測されているようだった。一瞬の間が空いて「おお……」と感嘆の声が聞こえる。

「思ったとおりだ。……ウィーネ。君は純粋な闇の魔力持ちなんだね……ああ、これはよい獲物が……」

「え、獲物……?」

「召喚できそうだ」

「召喚?」

うつ伏せのまま振り返ったウィーネに、ぞっとするような気色の悪い笑顔でフラウが頷いた。

****

フラウ・ウァレンスは、人間の界に住まう魔生物だけではなく、六界に住まう純粋な属性を持っている存在を研究している。

基本的に人間の界に住まう魔法の生物は、過剰な魔力を浴びて異種化したものだ。このため純粋な属性の魔力を持つ生物は少ない。個々で属性の割合が異なることにより、様々な種や生態に分化するのが魔法生物の特徴だ。

ならば純粋な属性を持つ生物は存在しないのか……と言われると、そういうわけではない。火・水・土・風・光・闇のそれぞれの界……六界に住まう生物は、それぞれの界に属する純粋な属性を持っている。精霊、悪魔、魔族、天女、天使……、人の世や人の界によって様々に呼び名が異なるが、それらは全て純粋な属性を持つ存在だ。

ただ、それらは界を異なって存在している。

そうした存在に出会うには、気まぐれに界を超越して来た者と見えたりする機会を待つほかに、界をまたいで呼び出す……という方法がある。それがいわゆる、「召喚」とか「使い魔」という魔法だ。召喚は通常、呼び出したい存在を記した魔法陣と、呼び出したい存在が好む呪文を調え、呼び出したい界の属性の魔力を注ぎ込むことによって成立する。魔力に心惹かれたものが召喚に応じ、召喚主と継続的な使い魔の契約を行ったり、一時的な力の行使を行ったりするのだ。

召喚や使い魔の魔法は、それほど特別なものではない。下位の火の精霊を仲間にして攻撃魔法の代わりにしたり、光の精霊をアミュレットに閉じ込めてその加護を得たりしている魔法使いは多い。だが、この召喚には大きな制約を伴う。それが属性だ。

それぞれの界に呼びかけるためには、その界に呼応した属性の魔力を使う必要がある。

フラウ・ウァレンスは、そうした純粋な属性の存在を収集している。純粋な存在……というのはそれだけで美しい。自分がもっとも得意とする光の存在はもちろんのこと、流れる水の清らかな存在は心が癒される。しかし、自分の持つ属性は光と水の2属性で、どうしても6つに足りない。光と水の存在は己の力でも呼び出すことができるが、残りの4つは呼び出すことができない。

そこで考え出したのが、他の生物の魔力を吸収し魔方陣に注ぎ込む方法だ。水……という属性が持つ魔法には、吸収・流れ・溶解……などの働きを持つものがいくつかある。それらを組み合わせて、さらに召喚の魔法陣を重ねる。人間以外の魔法生物で実験を重ね、本当に弱い存在であれば呼び出すことができるようになってきた。呼び出した存在はさらに実験に使い、より強い存在を呼び出すのに使用する。

しかし、どうしても召喚に応じない属性があった。

「闇の魔力はどうも我が強いようだ。こうしたごまかしは利かないらしい」

「私の魔力で召喚するつもり? 上手くいくはずが無いわ」

闇の魔力を持つ者は、光と同様に少ない。少ないうえにより緻密さを要求されるらしく、いくつかの闇の魔力を持つ生物を使ってみたがうまくいかなかった。その話しを聞いて、ウィーネの声が低くなる。自分の魔力を使って、召喚する……という話らしい。

かつて、下級の魔を召喚しようとして失敗……正確に言うとアシュマを呼び出すことに成功したのだが……したのを思い出し、背が冷える。自分の魔力がどのような性質なのかは分からないが、こんな歪んだ召喚魔法で正常な魔が召喚されるとは思わなかった。

そんな懸念を無視して、うつぶせにさせられたウィーネの身体から徐々に魔力が吸収され始める。

「大丈夫だよ、君のような純粋な魔力の持ち主。……よくても悪くてもいい結果が期待できる」

フラウはウィーネの問いを別の意味にとらえたようだ。とても満足げに頷いて、うつ伏せのウィーネの身体にそっと触れる。

「安心したまえ。魔力が戻るまで、僕が保護してあげるよ。そうだ! 僕の研究室に入ればいい。他にも何人か女子生徒が入ってくれているから」

フラウの研究室には、すでに彼を慕う女子生徒が何人か入っている。自分を崇拝する女子生徒達を集めるのもフラウの趣味だ。その中に、こうした気の強い女子生徒が入るのもいいだろう。この女子生徒が自分をやがて尊敬の眼差しで見るのかと思うとたまらない。それに。

「すでに仲のいい男子生徒がいるようだし」

フラウがウィーネの頬と唇をなぞり始めた。すとんとした綺麗な長い黒髪 に、従順そうに伏せられた黒い睫毛。そのくせ自分を見上げれば思いのほか強く黒く濡れた瞳。ふっくらとして生意気そうな唇。……そして、滑らかな白い肌。丁度、少女の未成熟さと女の成熟さの狭間にある、今しか無い危うい色っぽさ。何も知らない初心な少女ではないだろう。

フラウは暴れるウィーネの足を撫ぜ、腰に手を這わせ、頬にかかった黒髪を耳に掛けた。フラウの手の感触に背がぞくりとする。もちろん、アシュマから与えられるようなものでは全く無く、感じるのは嫌悪感だけだ。暴れる動きが激しくなるが、うつ伏せで揺れる身体はフラウを煽る。そんなウィーネの様子に興が乗ったのか、フラウが実に楽しそうな笑顔を浮かべた。

「大人しそうに見える割に、アグリアと随分と楽しんでいるのでは?」

不意にアシュマの名前が出て、急速にウィーネの心が狭まった。楽しんでなんかいない。……やさしいけどいつも無理やりだし、丁寧だけど強引だし、傷つける行為はしないけど嫌がることはする。困惑しているウィーネを見て楽しんでいるのは、アシュマがウィーネの魔力を気に入っているからだ。抱き合えばアシュマの力強い魔力が流れ込んでくるように、ウィーネの魔力もアシュマに届く。アシュマにとってはその魔力がいいだけで、ウィーネに対してそれ以上の何かがあるわけではない。

初めて会ったときだって初めて抱かれたときだって、そこにウィーネの意思は無く、アシュマは魔力が欲しくてそうしただけだ。悪魔なんてそういうものだと分かっている。分かっていても何故か、その手を振りほどくことはできなかったし、側にいると安心したし、アシュマが自分に触れるたびに甘く心が痛んだ。その行動がやさしければやさしいほど、なおさらだ。

急に大人しくなったウィーネを押さえつけたまま、フラウがはたと気がついた風に首を傾げた。

「そうだ、この魔法陣は闇の魔力だけを吸い上げる。君の身体は闇の魔力しか無いから……全て吸収してしまうかもしれないね」

魔力が無くなる。アシュマがウィーネに必要とするもの、それが無くなる。そうなったら……あの悪魔は、魔力の無いウィーネを不要だと嗤うだろうか。

あの悪魔の執着が無くなるなんて、むしろ望むところだったはず。そう思うのに、なぜか不覚にも涙が出そうになった。

それでも、こんな男の前で泣くなどプライドが許さない。そう思って、ウィーネの心がささくれ立つ。

「さっ……わ、らないでよ、このっ……××××……!」

「何……?」

その言葉を聴いて、フラウの顔色が変わった。

「私の魔力を闇の魔が気に入るわけないじゃない、バッカじゃないの? 」

「ウィーネ・シエナ……」

低くなったフラウの声に、ウィーネが追い討ちを掛ける。

「それにあんたみたいなものの分からない××××野郎の呪文なんかに、誰も応じないわよ」

「もう一度……言ってみたまえ、ウィーネ・シエナ」

「な ん ど で も。いー年した大人の男が女子生徒の魔力ひとつ奪うのに手枷が必要なんて。……ひとりじゃ××××も出来ないんじゃないの?」

男として自信満々なフラウにとって、最低最悪の言葉だ。若干気にしていたから、苛立ちも倍増。フラウの端整な顔に、ぴしりと青筋が走る。そんなフラウを、ふん……と侮蔑するような声色でウィーネが続けた。

「他人の魔力で召喚するような魔法使いだもの」

「教師に向かって、そのような言葉遣いをしていいと思っているのか」

「……私の魔力で召喚なんかしたって、なんにも呼べやしないわ。バーーーーカ!」

「ウィーネ・シエナ……っ」

ウィーネの言葉に逆上したフラウが、細い首を押さえつけた。耳元で、き……と金属の音がして、刃の感覚が頬に当てられる。

「本当は指を傷つけるつもりだったが……気が変わった。一気に魔力を削ってあげよう……その下品な言葉もすぐにいえなくなる」

最後の脅しのつもりだったが、ウィーネは鼻でせせら笑っただけだった。

「……勝手にやればいいわよ、どうせ何も呼べないんだし。××××男が」

「黙れ!」

「いっ……つ」

フラウが刃を持った手を横に薙いだ。途端にウィーネの頬が熱を持ったように熱くなる。身体から奪われる魔力の量が爆発的に増え、視界がかすみ始めた。

……魔力が急速に無くなっていくのを感じる。

「あ、ア……シュ……」

ウィーネの使い魔。闇の界、魔の階層12階位の上位第2位の悪魔、アーシュムデウ・アクィナス・ラクシュリアス。

たすけて。こわい。

魔力が急に減っていく感覚が苦しくて、怖くて、……なぜか、悪魔の名前だけが浮かぶ。だが、その名を心に浮かべたとたんに、さらに吸収される魔力の負荷が大きくなった。

「呪文は唱えられないだろう? この魔方陣の中では、全ての呪文が魔力として吸収される」

呪文の気配を感じ取ったフラウが、勝ち誇ったように言い捨てた。