本当は指を傷つけてその魔力を吸収する予定だったが、ウィーネが吐く下品な言葉に逆上して頬を傷つけてしまった。しかし、命に別状は無いだろう。傷は治せば済む。おかげで一気に魔力が魔方陣へと吸い込まれた。フラウにとって、さまざまな属性の人間が揃う魔術学校に勤務できたのは幸いだった。光の属性を持つ自分には、極にあたる闇の属性はもっとも縁遠い魔力だ。もちろん、その存在も。その闇の魔力がこんなにも早く手に入るとは思わなかった。
中央庭園で女子生徒を自分の研究室に勧誘しようとしていたとき、庭で大きな闇の魔力を感じて見に行った。そのときにいたのがウィーネ・シエナとアシュマール・アグリアという生徒達だった。どうやら庭で情交に耽っていたか、もしくはこれからだったのか……。二人のいずれかが、闇の属性を持っているのだと確信する。いや、あるいはどちらも……だろう。普通はほかの属性も感じるはずだがそれが無かった。魔法の痕跡も無い。気持ちが高揚してあの魔力ならば、2人とも純粋な闇の属性の持ち主かもしれない。
それならば、狙うのは女子生徒しかいない。そう思って、基本の魔女学の女性教員を使って魔女の羽のお使いを言付けた。そして、まんまとウィーネはやってきたのだ。女子生徒の扱いならばフラウにも自信があるし、うまくいけば自分の研究室にいれてしまえばいい。生徒情報によれば、魔力の量は少ないものの純粋な闇の魔力だ……という。人間が純粋な属性を持つのはきわめて珍しい。そうした闇の属性の女子生徒が手に入るなど、滅多に無いコレクションになる。
しばらくして、ウィーネから魔力が完全に消えた。
まだ意識があるらしいウィーネにやさしく声をかけ、フラウは魔方陣の外に出る。これで呪文を唱えれば、闇の界にウィーネの魔力が届いて魔が呼応するはずだ。
フラウが杖を構え、自ら構築した呪文を口に乗せた。
『うす暗き片すみにかがむ死の影は
夜の気の定まると共に
その衣のひだをまし
光をまし
毒気をまして
人間の心の臓をうかがいてせま……』
だが、呪文を最後まで唱えることは叶わなかった。吸収した魔力が召喚の魔方陣に移ったと思った瞬間に杖が弾け飛び、とんでもない圧力を身体に受けて直後に背中が壁際にあった棚に激突する。フラウの背中が棚に並べた硝子や水晶を崩して割り、そのまま地面に叩きつけられた。
「うぐうっ……!」
肺が軋み変な声が喉から出る。一体何が起こったのか、まったく理解出来なかった。
「我を呼び出したのは、貴様か。フラウ・ウァレンス」
響いた重低音の声に、フラウが驚愕の表情を浮かべる。頭を振って霞む前方に視線をやると、途端に喉元を押さえられてもう一度壁に背が激突した。強かに頭を打ちつけ、背がみしみしと痛む。
「な……、お前、が、よばれ、?」
お前が呼ばれた魔なのか……と問おうとしたが、声にならなかった。目の前の存在に息を呑むが、何が起こったのか喉がぴくりとも動かない。
それは黒い異形だった。
片方の腕にぐったりとしたウィーネを抱き、片方の手でフラウの首を掴んでいる。恐ろしい形相で自分を睨みつけているのは闇そのものの異形だった。
その体躯は鎧のように張り詰めたような筋肉で覆われ、むき出しの肌の色は射干玉の黒。全身に走る文様は滾る様に脈動していて、その色は血の色。フラウを睨む双眸も血の色で、それは怒りで静かに低く燃えていた。頭には捩れた2本の角が生えていて、かげる気配は背から生えたコウモリ羽。ぐるる……と猛獣のように喉を鳴らすその存在は……明らかに人ではない。闇だ。
その闇の顔が揺れ動いた。
赤い眼差しは呼吸すら許さぬほどフラウを見据えている。それはフラウがこれまで見たことの無い禍々しい気配だ。闇の魔力はあまりに大きく、果てが一体どれほどのものなのか想像もつかない。
「ウィーネ・シエナの魔力を使って、闇の界の境界に触れたか」
その言葉を聞いた瞬間、フラウの瞳が輝く。状況を忘れたように何度もうなずいた。その様子に、闇の魔に捕らわれたフラウの喉が少しだけ緩む。
「は、はははは! やったか、闇の界に穴を空けたのか、そうだな? そうだろう。そしてお前が呼び出されたのか。すごい、予想以上だ。あの女の魔力……がはっ……!」
がつん……と、フラウの身体が再び壁に叩きつけられる。だが手加減しているのか、痛みは感じるものの骨に影響するぎりぎりの力で抑えられているようだった。
「何用でこの魔を呼び出した」
「よ、用。用事、用件……あ、あ、」
いつもならば、現れるのは最下位の魔である。現れた瞬間捕獲用の魔法で捕らえるのはたやすく、存在を次の実験に使うなり、コレクションのために閉じ込めるなりしてきた。そこに一方的な使役はあるが、召喚の契約や使い魔の契約は無い。……しかし、この魔に対してはどうだ。捕獲、使役、契約……どれも現実的でない遠い話のような気がした。それでも、フラウは必死で声を絞り出す。
「ほ、ほか、捕獲を……」
「ほう。この我を……?」
「あ、契約を……。そうだ、使い魔の、使いま、のけいやくをっ……ぐううう……!」
再び魔の締め上げる手の力が強まる。
「お前と。この我が……?」
魔の赤い瞳が細くなった。口元を歪め、邪悪に……嗤う。
「お前のような卑小なものと、この我が……?」
「な……。よびだし、たの、は、自分、で、」
「己の分をわきまえておらぬようだな。愚かな人間め」
言葉を発するたびに濃密な闇の魔力がフラウの心を恐怖に陥れた。
「……我は、魔の階層12階位より上位2位の悪魔」
「……っに、」
視線を動かすだけでフラウの存在そのものが消し去られるだろう。それくらいの脅威だ。……いや、どれくらいの脅威なのかフラウには理解出来ない。魔術学校も、この魔術学校が存在する街も、国も、この魔の気紛れで消し飛ぶかもしれない。
「な、ぜ」
そのような存在が、自分の目の前に現れたのか。呪文もまだ、完全に構築していないのに。
悪魔が片方の腕に抱くウィーネに視線を落とし、ゆっくりとその身体を持ち上げた。その白い頬が側にくると顔を寄せ、愛しげに唇で触れる。……そうして視線をフラウへと移した。視線が動くたびに赤い眼光が軌跡を残して煌き、その視線の動きを受けて、改めてウィーネの存在に気が付く。そのぐったりとした身体、抱く悪魔の腕を見て……フラウの背が凍りついた。
「我はウィーネ・シエナの使い魔」
「ば、馬鹿な……! 魔力の量もそこそこの小娘が、なぜお前のような……うぐううう……っ!」
「お前? 小娘? ……口の聞き方を知らぬのか」
つむいだ言葉の続きは許可されなかった。人のものとはまったく異なる人外の魔の表情は、荒れ狂うような怒りから、今は静かで淡々とした……冷酷なものになっているのが分かる。フラウにこれから与えられるのは闇の安寧ではなく、漆黒の恐怖。向けられるのは慈悲も容赦も無い報復だ。
「お前は我の主を傷つけた」
あまりの恐怖で声も出ない。
「報いを受けよ」
「な、こ、ろさないでくれ! いや、ください! おねがい、殺さないで!」
再び悪魔が薄く嗤う。
「契約により、お前が学校の所属であるかぎり手出しはしない」
それは初めて召喚主自らが悪魔に命じた使役だった。狂おしいほどの魔力と快楽を代価に、召喚主が命じた契約だ。
「あ……は、はは。そ、そうか! 助かった、ウィーネ・シエナに悪いようには……ぐはっ……!」
「二度とその名を呼ぶな愚か者めが」
フラウの背がまたも壁に叩きつけられた。反動で頭も打ち付けられる。反省も悪びれもしないのは、自分の研究が崇高だと思う研究者ゆえだろう。しかし反省しようが悪びれようが、召喚主を傷つけたフラウのことを悪魔が許すはずも無い。悪魔は再びウィーネの頬にそっと顔を下ろしたが、それとは全く真逆の表情でフラウを見た。
ゆっくりと、問う。
「闇の界の魔に会いたいのか?」
「……」
「ならば会わせてやろう」
「何を……」
「機会は2つ」
悪魔がフラウから手を離して地面に下ろすと、片方の羽の先端についた鍵爪を振った。フラウの左頬ぎりぎりでそれが止まる。僅かでも動けば頬が切り裂かれるだろう。……その様子を見ながら、悪魔がウィーネの手を拘束している拘束具に触れると、それがガシャンと音を立てて落ちた。
この悪魔以外の存在がウィーネを拘束するなど、ありえない。
「1つは、フラウ・ウァレンスがこの学校を辞めるとき。所属から外れたお前を狩りに行く」
狩りに行く。その意味を知って、フラウが恐怖に震える。
悪魔がもう片方の羽を振った。フラウの喉元ぎりぎりでそれが止まる。それとはまったく逆の優しい仕草で、悪魔が朱に染まったウィーネの頬に触れた。
この悪魔以外の存在がウィーネに傷を付けるなど、死してなお、許さない。
「もう1つは……フラウ・ウァレンスが死ぬとき」
ひ……と恐怖で喉が鳴り、フラウが目を見開く。
「……闇の界には、人の子の魂と希望と幻想が作り上げた”地獄”という魂の逃げ場所がある」
罪を犯した人の子が、その罪を赦されたい……あるいは罰せられたい、もしくは誰かを罰したい。……そのような人の魂の幻想が闇の界に作り上げた、永劫続く苦しみの場所だ。悪魔がフラウの瞳を見据えると、その脳裏に一瞬だけ、黒く燃え盛るさかさまの山と、人の形を為した何かがそこに落とされている様子が浮かんだ。悪魔のいう「地獄」という場所に違いなかった。
「死んだあと、お前の魂をそこに送ってやろう」
「な、な……あれ、あれ、は、あんなのは……」
「闇の界に直接出向くことが出来るのだ。闇の魔もお前のことを歓迎するだろう」
「やめてくれ!」
「安心しろ。最近では闇の魔に愛でられる人の子も多いと聞く。お前も気に入られるやもしれぬぞ……?」
「いやだ、嫌……いやだ、頼む……! あんなところにいきたくない!」
「それに生きながらえているうちに……そうだな、光の者どもに願えば、光の界の似たような場所に連れて行ってくれるやもしれぬな」
こうした場所は、別の界に住まう人間が、想像や幻想、希望で作り上げた魂の寄り合い場所だ。管理せねばならぬ場所が増えた……と、どの界のものも呆れ顔だった。人間の魂は放っておけば勝手に消滅して勝手に次の生へと移っていくが、最近はこの場所を利用して人間の魂の転生遊びをする者もいるという。闇の魔はそのような遊びはしないが、人間の悪徳の魂が悲痛な叫び声を上げるのを楽しむ下等な魔も多い。
光の界にもそのような場所があるという。行けるものなら逝けばいい。
だが、六界の存在を悪戯に召喚して研究に利用してきたフラウに、そのような情状酌量の余地が残されているのだろうか。
「長く生きれば生きるほど死の恐怖が増し、死の恐怖が増せば増すほどお前は長く生きるだろう。そして死してなお、地獄に堕ちて永遠に苦しむがいい。フラウ・ウァレンス」
闇の界に住まう上位2位の悪魔アーシュムデウ・アクィナス・ラクシュリアスは、フラウ・ウァレンスにそう言い渡して、ウィーネ・シエナと共にその場から消え去った。
※「うす暗き片すみにかがむ死の影は……」『片すみにかがむ死の影』(宮本百合子 著)より引用