抱いているウィーネの身体は温かく、意識は無いものの、アシュマの動きに反応して時々息が乱れる。その身体を後ろから抱いて、規則的なリズムで抽送を続けていた。ウィーネから得られるものは何も無いのに、悪魔の息は乱れ、興奮に血色の文様は脈動する。
しばらくすると、アシュマはリズムを崩した。抱いているウィーネの身体をかき回すように、腰をみっしりと引きつけて穿つ角度を変える。意識が無いはずの身体の奥がひくりと締まって、アシュマにそこがいい……と誘っているようだ。その締め付けに誘われて、ぎゅ……と抱きしめる腕が強くなり、アシュマの手で覆われているウィーネの柔らかな胸が、いやらしい手の動きに合わせて形を変える。時々先端を弾き、身体を傾けて顔を下ろして舌で転がして、唇で咥える。
ウィーネの奥がぬるりと熱くなる。アシュマの形をすっかりと覚えているその場所には、既に2人の体液が混じり合っていた。
「ウィーネ……」
何度もその名を呼び、幾度か精を吐いた。つながれている部分はもちろん、臍の辺りまで白くねっとりとした悪魔の白濁で濡らされているのがその証だ。精と共に与える魔力は確実にウィーネの身体に息づき、その力になっている。そして再び、果てのない悪魔の動きが早くなり、少女の身体にくつりと大きく猛りが捻じ込まれた。己の脈動を感じ、全てを奥に放つ。放ったそれを身体に馴染ませるように、ウィーネを抱き直しながらゆっくりとした抽動に変えると、アシュマのものに絡んで白い精は僅かに外に零れた。
ずるりと己を中から引き出すと、こぷ……と小さな音を立てて、行き場を失った精が幾らか出てくる。アシュマが指で入口を押さえて塞ぎ、愛撫するようにやさしく動かしていると、アシュマの胸元で黒髪が乱れるのを感じた。
「う……ん……」
アシュマが指を抜いて、ウィーネの肩に腕を回すと、身じろぎをしたウィーネの頬がアシュマの胸に触れた。
「……ウィーネ?」
「……あ……」
少し回復したのだろう。魔力の浮上を感じ取ったアシュマが腕の中のウィーネを見下ろすと、ゆっくりと瞼が開く。悪魔の瞳が何らかの表情を現して細まり、長く息を吐いた。自分の身体の色と同じ黒い瞳を覗き込み、闇の属性を現したかのような黒い髪に指を通す。回復したと言ってもまだ充分ではないが、その瞬く瞳は、ひとまずアシュマに余裕を与えた。
ちゅ……と唇に吸い付いて、低い声でそっと問う。
「ウィーネ、気がついたか」
「アシュマ……?」
「そうだ」
「ん……」
まだ完全に意識が戻っていないらしい。ころん……とアシュマの身体の上で寝返りを打ち、細い指で硬い漆黒の肌にすがろうとしている。指の這う感覚にアシュマの表情がぴくりと動き、首をかしげた。
「ウィーネ……? どうした」
ぎゅ……とむずがるような表情で、ううん……と軽く頭を振り、は……とため息を吐く。ウィーネの表情の動きは、何を求めているのかが分からない。しかし、ただ抱きしめているだけなのももどかしく、寒いのか……と羽毛の上掛でウィーネの身体を包んでやった。
はあ……と再びウィーネの吐息が聞こえる。
「ア、シュマ……」
「ああ」
「……い」
「ウィーネ?」
ウィーネがアシュマの首に弱々しく抱きついた。背を撫でているアシュマの手が止まる。
「こわい」
「怖い……?」
「……こわい、魔力……こわいよう……」
くすん……と鼻をすする音がしてウィーネの肩が揺れ、すがりつかれた箇所が濡れる。
怖いといって、ウィーネは泣いていた。
一時的にであれ、魔力が枯渇してしまったのがよほど怖かったのか。ウィーネがアシュマに抱きついて、声を殺してしくしくと泣いていた。アシュマは泣くウィーネの背を撫でながら、不可解な表情を浮かべる。少しだけ揺れ動く魔力が現すのは、悲しみではなく、恐怖でもなく……安堵、だった。アシュマの腕の中でウィーネは今、安心しているのだ。それなのに……なぜ、泣くのかが分からない。
それでも、自分に向けられるこの初めての感情に、アシュマの身体が期待を感じて愉悦を求め始める。飢えるとか欲情するとか、そういうアシュマがよく知る激しい感情ではなく、この悪魔の腕の中で安堵を覚え、それをもっと与えて欲しいというウィーネの願い。それが自分に向けられている。少し取り戻したウィーネの魔力に混じる、その糖蜜のような甘さに笑みが零れる。今すぐ貪りたくて堪らない。
……だが、今のウィーネにそれを求めてはならない。
だからアシュマは、ウィーネをただゆっくりと撫ぜた。
「泣くな」
「……アシュ……アシュマ……」
「泣くな、我に触れていろ」
「……う、ん……」
「我に触れていれば、何も怖くはない。ウィーネ」
アシュマは、向かい合わせに身体を重ねてきたウィーネの頬に触れた。寝台の上に身体を起こし、硬い鋼の胸に凭れさせる。ウィーネがアシュマの胸に頬を寄せ、求めるように首に手を伸ばしている。柔らかな胸がつぶされるほどに身体を密着させ、涙に濡れた黒い瞳で自分を見上げていた。
「ウィーネ。……お前の望みは何だ」
「……アシュマ……」
「お前は我に何を望む」
「そばにいて」
ただそれだけでいいから。
抱きつくウィーネの背に手を回し、悪魔と少女は吸い込まれるように唇を重ね合わせた。今度はウィーネがその動きに応えてくる。常のような受身ではなく、最初からアシュマを求めるように絡み合った。アシュマの舌に導かれるように入り込んできて、撫でるように動く。
「……ん、は……あ……アシュマ……」
「ウィーネ」
身体の反応に心がついてくるのはよくあることだったが、心の動きに身体がついてくるのは初めてのことだ。アシュマはウィーネから求められるままに、温かい身体を分け与えた。
唇は幾度も重なる角度を変えて、銀糸が零れてもなお離れない。舌は重なり合い、探り合い、ウィーネが悪魔の牙をそっとつつく。それを絡め取ると、今度はアシュマが少女の舌の裏側をなぞった。
濃密な口付けを交わしながら、アシュマの手がウィーネの身体を這った。脇腹から掴むように柔らかな胸に触れると、その度に息が乱れる。それでもウィーネは重なる唇が離れないように懸命に身体を伸ばし、ぶらさがるようにアシュマにしがみついてくる。その様子がいじらしかった。
やがてアシュマは、己の体躯に比べると小さくて細い少女の腰を掴んで浮かせて欲望の中心に導く。
「や、だ、アシュ離れるの、やだ」
掴まれたのが離されると勘違いしたのか、ウィーネがいやいやと頭を振った。アシュマの首から離れてしまったウィーネの手が、ぺたん……と腹に触れ、嫌がることも抗うこともなく身体を落とそうとする。「待て、ウィーネ」と、アシュマがウィーネを抱き抱える。アシュマの……悪魔の本性に、弱っているウィーネの身体はきつすぎる。健康なときならばまだしも、今激しくそれを行えば、ウィーネの身体が傷ついてしまうかもしれない。
そばにいて……と召喚主は願った。それならば。
「離れぬ。それがお前の望みなら」
アシュマは己の羽でウィーネの背を支え、少しずつ奥へと進ませた。
「ウィーネ、動かすな」
「ん……」
羽でウィーネを包み込んだまま、柔らかな抽送を始める。慎重にウィーネを支えて、自分に引き寄せるように腰を動かした。
いつもの食らい尽くすような激しい交わりではなく、奥のうねりと蜜の絡まりをじっくりと味わうような行為だ。いまだにウィーネの魔力をアシュマは受け取らなかった。こうして交わりあう愉悦に、互いの魔力が交換されないなど初めてのこと。ウィーネから甘いあの美味なる魔力を貪らないのも、初めてのことだ。それなのに、ウィーネとただこうしているのは心地よかった。
こうしていると、身体の奥から熱くウィーネの蜜液があふれてくるのをはっきりと感じる。
「ウィーネ……」
「……あ……は……」
「心地いいのか、ウィーネ……」
「ん……い、の……」
「ん?」
「きもちい、……あ……はう……」
「ああ、我もだ……ウィーネ」
時折、アシュマが堪えられぬように、ぐ……と奥を突くと、嬌声を上げてウィーネの身体が仰け反り中が締まる。その締まりをもっと味わおうと小刻みに動くと、やわらかく解けて吸い付くようにまた締め上げてくる。
アシュマがウィーネを責め立て愉悦を味わうのは、ウィーネの魔力を甘く極上のものにするため。ウィーネを貫いて、飽かずに何度も何度も精を吐くのは、互いの粘液に絡む悦楽の魔力を貪り合うため。それがアシュマの欲望で、悪魔は欲望を叶えるためならなんでもする……そういった存在のはず。……しかし、たった今、アシュマは自分をウィーネに与えているだけで、アシュマが欲しいものをウィーネは持っていない。
それなのに、渇望する。
魔力でなくてもかまわない。ウィーネの、自分を呼ぶ声が欲しい。自分を見つめる眼差しが欲しい。自分を求める感情が欲しい。それらの渇望が、身体につながる。
魔力の交換がなされていないのに、常とは変わらず……いや、常以上に心地よく闇に堕ちていくのは何故なのか。
傷ついたウィーネを見て不愉快になるのは何故なのか。
魔力を与えられなくとも、快楽を感じるのは何故なのか。
契約も糧も関係なく、ただ自分の魔力を与えているのは何故なのか。
『そばにいて』という召喚主の望み。……糧を得ていないのに、それに応じようとしているのは何故なのか。
だが、そんなことは実に瑣末な問題だ。
「ウィーネ……果てよ。……我と……我と共に……」
「……アシュ、アシュマ……やあん……」
アシュマの動きが最後を目指して早くなる。ウィーネの身体が悪魔の漆黒の体躯の上で跳ね、がくんと大きく揺れたかと思うと、その胸に飛び込むようにぎゅ……と抱きついてきた。自分に抱きついたウィーネを抱きとめた瞬間、大きく穿ってアシュマも果てる。これまでにないその心地よさに思わず頬を寄せ、達した感覚に震えながらすがりつくウィーネを身体全体で愛でてやった。
何故なのか……など、どうでもいいのだ。
欲しいものは手に入れ、不愉快は排除する。たったそれだけでかまわない。
アーシュムデウ・アクィナス・ラクシュリアスは、闇の界に生ける悪魔そのものなのだから。
****
魔術学校の食堂で、ちゅるるう……とアイスミルクティーを吸い上げながら、ウィーネ・シエナは実に不機嫌だった。隣ではアシュマール・アグリアがブラックのアイスコーヒーを嗜みながら、おとなしく魔生物生態学の本を読んでいる。
「ったく……顎痛い」
ため息を吐きながら、ウィーネは顎をさすった。
ウィーネ・シエナは3日ほど学校を休んだ。魔法薬物学のリウィス・ドルシスから連絡を受け、回復するまで休んでもかまわない、ほかの先生には言っておくから……と手を回したらしかった。それにはなぜかアシュマも付き添う。身体がだるくてあまり起き上がれなかった間は、甲斐甲斐しくアシュマが世話をしてくれた。
目を覚まして1日目は、動けない間は身体を拭いて、消化のよい食べ物を用意して食べさせる。普通は魔力が完全に乾くと5日は動けなくなるというが、一体ウィーネの身体に何をしたのか、1日もすれば回復して起き上がれるようになった。しかし、アシュマの過保護は全く収まらず、2日目になると、うとうとしていると抱き寄せられていて、起きていると膝の上に座らされていて、……3日目にもなると、元のアシュマに戻っていた。正確には、「褒美をくれ」……などと言い出して、初めて魔力以外のものを要求され、今までさせられたことのないようなことをさせられた。
夜は当然のように一緒に眠って、朝目が覚めると自分を抱きしめるように側にいる。
「ウィーネ。顔が赤いな。どうかしたのか?」
「なんでもない……っ」
「そうか?」
く……と決してやさしくはない笑みを浮かべ、アシュマが本を閉じた。手の甲でさらりとウィーネの横髪を払い、何かを確認するように頬を眺める。そっと指で頬をなぞるとウィーネがすすす……と身を引いて避ける。指は離れてしまったが、それを追いかけることなく満足げに手を下ろした。
「あら、ウィーネちゃん。アグリア君。ちょうどよかったわぁ☆」
「ドルシス先生」
リウィス・ドルシスが軽い調子で話しかけてきた。ウィーネの1件は校内では体調不良……ということで片付けられている。リウィスによれば、「特に説明は不要」ということだった。何が起こったのか……というのはすでに把握しているのだろう。むしろウィーネの方が何も把握していないが、聞いてもアシュマは何も答えないし、おそらくリウィスも同じのはずだ。フラウはよく分からない持病が悪化した関係で、2週間ほど魔術学校付属の病院に放り込まれているそうだ。その後は教員に復帰する……とのことだったが、詳しくは分からない。
何かを問いたげなウィーネに、リウィスはにっこりと優しく笑って、なでなで……と頭を撫でる。
「元気そ。よかった。うふっ」
「はあ」
「今日はね、2人にいいものを持ってきてあげました!」
「いいもの?」
もの問う言葉はけん制されて、リウィスのペースに飲み込まれる。リウィスはとっておきの何かを出すように「ジャーン!」と効果音を口にして、ぴらりと2枚の紙を取り出した。それをウィーネが受け取って内容を読む。隣のアシュマも頬を寄せて、静かに覗き込んだ。
そこには、ウィーネ・シエナとアシュマール・アグリアの2人について、魔生物生態学の単位を免除する特別試験を許可する……というものだった。要するに、試験に合格すれば授業を受けなくてもかまわない……という内容だ。うまくいけば、授業でフラウと相対することは無くなるだろう。そういう意図なのだと、すぐに分かる。やはり、何が起こったのか、学校側は全て把握しているのだ。そして分かっていながらフラウ・ウァレンスは教員を継続する……ということなのだろう。
「先生……」
「はあい?」
リウィスは、人差し指をウィーネの唇にあてて、その言葉の先を遮った。瞳を細めて、首をかしげる。首をかしげてもごつい男の様相はぜんぜんかわいくないが、もちろんそんなことはお構いなしだ。ウィーネの言葉が続かないのを見て取って人差し指を外すと、それを自分の顎にあてた。
「受ける? 受けたくない?」
「受け……ます、けど」
「ハアィ! おっけえ。じゃあ、受けるってことで。……アグリア君は、」
「ウィーネが受けるならば、受けよう」
「そ、了解っ☆ ……あ、試験はウァレンスセンセの精神鑑定……じゃなかった、持病の入院中にやる予定よ。すぐに始まっちゃうから心の準備しといてねん」
「ドルシス先生、でも……」
「ん?」
身を翻そうとしたリウィスを呼び止めて、なんと言おうか迷っているウィーネをアシュマが少し抱き寄せる。2人の様子を見て、リウィスがひらひら……と手を振った。
「大丈夫よお。……オイタをした子に何もない……ってことは、まず無いから」
唐突に低い声で言って、口元を歪めた。アシュマに視線を向けて、あはん……と肩をすくめる。
「……そうでしょう、ね? アグリア君」
ウィーネに甘い表情を見せていたアシュマが、リウィスの声に真顔になる。一瞬瞑目して、次に目を開いたときにはぞっとするような邪悪な嗤いを浮かべていた。
「……当然、だ」
召喚主を傷つけたものには相応の報いを。
生きている間は死におびえ、死んでからは永劫続く苦しみを。
学校に残留するならばせいぜい長い生を生きるがいい。
そんな悪魔の声が聞こえた気がした。
急に落ちた冷えた沈黙を破ったのはリウィスだ。「じゃあ、詳しい日程はあとでね」……それじゃ……と言って、リウィスはさっさと食堂を立ち去る。何か確信めいた雰囲気の2人に不思議そうにウィーネが視線を動かしていると、アシュマが空になったグラスを片方の手に持って立ち上がり、ウィーネを見下ろした。
「行くぞ。ウィーネ」
「う、うん……」
アシュマが立ち上がったウィーネを伴って、食器の返却口へ歩いて行く。歩きながら、アシュマがにやりと笑ってウィーネの耳元にささやいた。もうフラウのこともリウィスのことも頭から消えてしまったようだ。
「……今日は午後、休みだろう」
アシュマの唇から伝わる呼気の感触にぞわりと肩を竦ませながら、ウィーネが身を退く。だが、完全には離れずただ表情を歪めて見せただけだった。
「……だ、だから何よ」
「また、あれをして欲しい」
「……あれ?」
「そうだ、口で……」
アシュマが言い切る前に、ウィーネが真っ赤な顔で首を振った。
「嫌よ。もう、やだ」
「なぜ」
「だって……!」
食器を返したアシュマは、ふふん……と鼻で笑い、ウィーネの髪を一筋すくい取る。髪から香る花の香りを楽しみ、戯れるように指に巻きつけ、解ける様子を見る。
「……お前だって、我にすがりついていたではないか」
「え? 何それ」
「怖かった、側にいてくれ……と、泣いて我を求めていたぞ?」
「そんなこと言ってないわ」
「言った」
「言ってない」
「言った」
「覚えて無いわ」
いつもは余裕なアシュマが、むっとした表情を浮かべて立ち止まる。
「覚えていないのか。ウィーネ」
「覚えてない」
立ち止まったアシュマを振り返り、ウィーネがふるふる……と首を振る。ウィーネを追いかけて、アシュマが肩を掴んだ。
「本当に、覚えていないのかウィーネ」
「覚えてないってば、もう」
「何故」
「何故って言われても」
いつになくしつこいアシュマに、今度はウィーネが怪訝そうな表情を浮かべた。魔術学校の廊下を歩きながら、「何故?」「知らない」……の攻防を繰り返しながら、ウィーネは首をかしげる。アシュマはこんなことで動じたり、こんなことを追求したりするような悪魔ではなかったはず。ウィーネの言動なんていつもおかまいなく、いつも余裕で、いつも強引だ。それなのに、どうして今日に限ってこんな風に食い下がってくるのだろう。それを不思議に思いながらも、ウィーネは1つだけアシュマに言っていないことがあった。
こわかった。そばにいて。
そんな風に言って泣いたこと、……確かにウィーネは覚えていない。だが、夢を見た。夢の中でとても怖くてウィーネが泣いていると、アシュマに抱きしめられて「我はお前から離れぬ」と言われたのだ。その腕が心地よくて、離れないと言ったアシュマにほっとしたのを覚えている。
でも、夢の中の話しだし。
ちょっと怖かっただけだし。
怖くて泣くなんて子供みたいだし。
ほっとした……なんて、恥ずかしくて言えるわけがない。
「きゃっ」
ぷるぷると頭を振るウィーネが、急に低くなった地面に躓いた。考え事をしていて、地面の段差に気づかなかったのだ。
「ウィーネ。余所見をするな」
あ、という前に、アシュマの腕がウィーネの身体を抱える。
「お前はすぐ躓く。転んだら怪我をするくせに余所見をするな」
「何なの、それ、ちょっと……! 失礼ね、別に余所見なんてしてな……」
「いいからおとなしくしておけ」
「もう、アシュマちょっと、離して一人で歩けるってば!」
アシュマはウィーネに無理やり自分を掴ませたまま、歩き始める。
ウィーネは運動神経が皆無の癖に、歩くときによく余所見をする。躓いたときはアシュマが支えなければ、最終的に転んで怪我をするのだ。自分が側にいなければ泣くし、抱いてやらなければ風邪を引く。世話の焼ける召喚主だった。
だが、悪くは無い。実にいい気分だ。
ふと、思い立ったようにアシュマが立ち止まる。
「アシュマ?」
立ち止まったアシュマをウィーネが見上げる。その瞳を真面目な顔でアシュマが覗き込んだ。
「……覚えていないと言ったな、ウィーネ」
「だ、って、ホントに覚えてな……」
「ならば思い出すか」
「は、……はいいいい? 思い出すってどうやってっ……!」
廊下を行くアシュマの歩みが速くなる。もちろん、ウィーネを腕から逃さないように強く捕まえたままだ。今日は午後から時間がたっぷりある。あの時と同じように甘くすごせば、ウィーネも思い出さざるを得ないだろう。それでも思い出さないなら、もう一度言わせようか。ああ、それもいい。
「本当に世話の焼ける」
悪魔がニヤリと笑った。
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※追記
―――― フラウ・ウァレンス
魔生物生態学の教員。29歳から120歳の老衰で亡くなるまで魔術学校に教員、研究員として在籍した。魔生物生態学の中でも特に光属性の生物とその召喚術に特化した研究で、魔術学校における光属性召喚分野に大きく貢献した人物として有名。だが、なぜかウァレンスの元に光属性の存在が召喚されることは無かった。このため「不喚の召喚師」とも呼ばれる。余談だが、フラウ・ウァレンスは、自身の研究結果、著作物の利益を、全て魔術学校の奨学金資金として寄与していた。
もともと情緒不安定であったが、晩年は妄想・幻聴が激しくなり、「悪魔が来る!」と叫びながら森を走るなどの奇行が見受けられた。その度に引退を勧められたが、本人は頑なに魔術学校の退職を拒否。驚異的な長命で老衰という大往生であったにも関わらず、今際の際には学校中がその死を認識するほどの断末魔の奇声を発したという。「光の道」「光と闇の共存」「天国は存在する」など、著書多数。(『ロムルス魔術学校の奇人変人100選』)