誘う悪魔と召喚主

001.してやったではないか

……あ。また今日も居る。

魔術学校の図書室第1書庫にて、アニウス・セヴェルは黒髪の女子生徒を見つけた。綺麗に梳かれた黒い髪は結わずにストンと背中に落としていて、ほつれも乱れもなく真っ直ぐで艶やかだ。すっきりと細い顎のラインを隠すように、横髪が一房だけ肩の上にこぼれ落ちていて、本を見ているその女子生徒は鬱陶しげにその一房を耳に掛けた。その拍子にちらりと見えたうなじは驚くほど白くて、思わず視線を持ち上げる。

本棚を真剣に見上げる横顔に、綺麗で長い睫毛が目立つ。意識しているわけではないだろうが、何かの本を探しているからだろう、少し唇を尖らせている。ふっくらとした唇は柔らかそうで、濡れたように滑らかだ。

アニウスがその女子生徒に見惚れていると、彼女は探していた本を見つけたようで、手を伸ばしてそれを取った。アニウスが座っているテーブルの方に身体を向けたので、慌てて視線を逸らす。

アニウスは開いていた本に視線を戻して、何か書き付けるふりをした。そうしていると、女子生徒が本を持ったまま歩き始めた。まさかと思ったがアニウスの座っている方にやってきて、本の装丁を確認しながらアニウスの脇を通り過ぎる。

ふんわりと花のようないい香りがした。そう思ったときに女子生徒がアニウスのそばで立ち止まり、身体を曲げて床に手を伸ばした。

「これ、貴方の?」

「あっ」

不意に女子生徒がアニウスに話しかけた。顔を上げるとノートの切れ端を差し出して、首を傾げている。傾いだ頭の片方から、サラ……と音立てて髪が流れ落ちたように見えた。思わずぽかんと女子生徒を見上げる。

反応の無いアニウスを、女子生徒が不思議なものを見るような表情で見つめた。アニウスがあたふたと差し出された紙を覗き込むと、そこには先ほどまで勉強していた韻文呪文の構築計算式が殴り書きされていた。思ったとおりの韻が踏めなくて、諦めていた呪文だった。

かあ……と顔を赤くして、「あ……、僕のです……」と受け取る。「ありがとうございました」と顔を上げると、しっとりと黒い女子生徒の瞳と眼が合った。

うわ、やっぱり睫長い……。

もともと眼は大きいほうなのだろうが、遠慮がちに淑やかに伏せられていて派手な印象ではない。いつ見ても真面目そうな雰囲気だ。

女子生徒はお礼を言われて「いいえ」と頭を振った。アニウスに渡した紙をちらりと見遣ると、「差し出がましいようだけど……」と付け加えて、書きなぐりの一文を指差した。

「ここ……『こずえに花の……』は『こぬれ』……うれ……で、『こぬれ』にするわ、私だったら」

「え……」

「滑音を続けるなら、その方が好き」

そう言って肩をすくめた。アニウスが書き付けた詩歌の部分をなぞっていると、女子生徒が指差した部分の単語に行き付く。すぐに女子生徒の言った言葉を書き付けて、ぶつぶつと口の中で唱えてみる。どうしても躓くようで気に食わなかった韻文が、すらすらと滑らかで美しいものに変貌したように思われた。

「ありがとうございます!」

思わず声を張って紙から顔を上げると、女子生徒は居なかった。振り向くと、1つ上の学年から許されている自習室の方へと歩みを進めていた。しばらくの間後姿を眺めて、アニウスは「ほう……」とため息を吐く。

「ウィーネ……ウィーネ・シエナ先輩」

アニウス・セヴェルが、うっとりと女子生徒の名前を口にした。

****

ウィーネ・シエナは、第1書庫と第2書庫の間にある自習室へとやってきた。自習室というのは文字通り生徒が自習することの出来る個室で、魔術学校では一定以上の成績優秀者と模範生徒に対して使用が許可されている。机と椅子を置けばそれだけで一杯になってしまう狭い部屋だが、暖房器具に柔らかな膝掛けが用意されていて暖かく心地がよい。机の側には大きな窓が取り付けられていて、実際の窮屈さをそれほど感じさせない造りになっていた。

ウィーネは生徒1人のみが入室を許可されているこの部屋の椅子に腰掛け、「ふー」と大きなため息を吐いて背もたれに背中を預けた。

冬期の試験が終わり図書室は閑散としている。居るのは追試を受ける生徒や、休憩ついでに本を読んでいる生徒くらいだ。ウィーネは既に出ている冬期休暇の課題を今の内にやってしまおうと、自習室に来ていたのだ。ネルウァ・セルギア辺りが聞いたら「何お前、夏休みの課題とか休み前に終わらせるタイプかよ!」などと言われそうだが、試験が終わり冬期休暇までの期間は、とあるイベントの準備を別としてのんびりしたものである。そのイベント準備にウィーネは興味が無いし、ほとんど何もしない予定なので時間が大いにあるのだ。

それに今は1人だ。いつも何かとつきまとう者がいて、ウィーネはゆっくり勉強も出来ない。今日はめずらしくネルウァ・セルギアと何かしら話しこんでいた。その隙に図書室に逃げてきたのだ。ウィーネはこの部屋に気付かれないように、魔力を外側に出力しない結界の魔法陣を置いた。丁度、魔力を閉じ込めるとか解放するとかいった術の解析をしていたところだから、その勉強を兼ねて作った魔法陣だ。

今日は、その魔法陣や魔力の構成についての小論文をまとめるつもりだった。……ウィーネは闇の魔力しか使うことが出来ないので、別の属性の魔力を盛り込む事は出来ないのだが、その代わりに強度の高い魔法陣を組むことが出来る。さらにそれを強固な1枚板の結界にするため、どのような計算式を組めばいいか……そうした内容を文章にまとめていると時間などあっという間だ。

ふと気が付いて、机に置いてある水晶時計を手に取ると、1時間ほどが経っている。

「あまいミルクティ飲みたい」

あふ……と欠伸をして、休憩のために飲み物でも買ってこようと立ち上がると、コンコンとノックの音がした。ウィーネは首を傾げる。自習室を使っていて誰かが訪ねてきたなど初めてだ。ウィーネを探している人物に1人だけ心当たりはあるが、その1人はわざわざノックして入ってくるなどという回りくどい真似はしない。

一瞬立ち回りが遅れると、焦れたようにもう一度ノックの音がして、ウィーネが返事をする前にガチャリと開いた。

そこにはすらりと背の高い男子生徒が立っている。ウィーネの動きがギクリと止まった。

男子生徒は魔法使いにしてはがっしりとした体躯だ。ウィーネよりも頭半分背が高い。浅黒い肌に赤い髪、紅が混じったような薄茶色の瞳。男子生徒はウィーネの姿を視界に納めると、すう……と瞳を細くして口元に笑みを浮かべた。端正な雰囲気が、一気に妖艶に色づく。

「ウィーネ・シエナ」

「……アシュマ、どして」

「……どうして?」

「どうして入ってくるの」

アシュマ……魔術学校の男子生徒でウィーネ・シエナの同級生、アシュマール・アグリアだ。その端麗な容姿と強力な魔力、優秀な成績、堪能な能力で、魔術学校に通うあらゆる女子生徒から憧れの眼差しを向けられている男子生徒だ。そして、言い寄ってくる女子生徒を軒並み袖にしていることで有名な生徒でもあった。

アシュマはウィーネの質問に、口元をゆがめたまま答える。どこか悪魔的な笑みだった。

「部屋に入る時は、ノックしろと言っていただろう。してやったではないか」

確かに言った。確かに言ったが、それはアシュマが毎度毎度、扉すら開けずに突然現れるからだ。単にノックしただけで、なんで力いっぱい胸を張ってるんだこの悪魔め……! ウィーネはそう思ったがかろうじて言葉には出さず、どことなく得意げにせせら笑っているアシュマを強気な眼で見上げる。

「返事をする前に入ったら意味ないでしょう!」

「全くだ」

「はあ?」

「意味の無いことをさせる意味が、我には分からぬ」

どうせウィーネの許可があろうが無かろうが部屋に押し入るのは決まっているのに、いちいちノックで了承を得る意味が分からない。そういう類の事を言いながらアシュマは強引に部屋に入り、手を使うことなく扉を閉ざした。やはり手を触れることなくガチャリと鍵の掛かる音がする。

狭い部屋の中、ぐいぐい……とアシュマが進んでくるので、ウィーネは一歩下がる。

「ちょ、っと……入って来ないでよ、ここ1人用なんだからせまい」

「ウィーネ、これを」

「聞いてる?」

アシュマは全くウィーネの話を聞いて無いらしく、手に持っていた何かしらを机の上にことんと置いて、よいしょとウィーネの背に手を回して引き寄せた。

「ちょっと……!」

「ん?」

「狭いんだから、離してよ! なんで入ってくるのよ」

「寮の寝台の方が狭い。それにウィーネがいる部屋に我が入って何が悪い?」

「な、なにがって……ここ自習室……っ」

「知っている」

要するに、このアシュマが、いつも何かとつきまとってはウィーネの勉強の邪魔をしてくる元凶なのだ。それだけではない。百歩譲ってつきまとうだけならばまだいい。だが、アシュマはウィーネの近くに寄るだけでは終わらない。

「ウィーネ」

早速アシュマの手が、ウィーネの身体をブラウス越しに這い始めた。

「……アシュ、アシュマ、や、めて、もううううう!」

ウィーネの柔らかな胸が、下着ごとアシュマの手の中で形を変える。抱きすくめられた身体が一瞬ぴくりと動くが、ウィーネは無理矢理アシュマの手を剥がした。

アシュマは時間・場所を問わず、いつもいつも隙あらばウィーネの身体に触れようとする。それこそ、図書室だろうが自習室だろうが……女子寮のウィーネの自室であろうが、お構いなしだ。他のどのような女子生徒にも指一本触れようとしないくせに、ウィーネだけは別らしい。

「分かった。ほら、大人しくしろウィーネ」

くっくと笑いながらアシュマはウィーネの細い足の間に自分の足を絡め、もつれ合いを楽しむように抱き寄せた。ばたばたと暴れるウィーネを軽々と反転させると、片手で椅子を引いてウィーネを膝に乗せて座る。

「アシュマが羽交い絞めにするからでしょう!」

「大人しくしておけば絞めない」

「そういう問題じゃ……」

絡み付く腕にもがいていると、ふ……と甘いよい香りがした。温かい湯気を感じて机の上を見ると、マグカップに入ったミルクティとブラックの珈琲が置いてあった。どうやらアシュマが持ってきたらしい。

「……なにこれ」

「お前がいつも飲んでいる」

「の、のんでるけど……」

「もう勉強は終わったのか? 飲めばいい」

言いながらアシュマはウィーネの身体で遊ぶのを止めて、胸の中に緩く囲うだけにした。突然抱きつかれたり無理矢理抱きしめられたりすると抗いやすいが、こうしてやんわりとやさしく抱き寄せられると、どうにもウィーネは大人しくなってしまうのだ。静かになったウィーネの髪に一瞬だけ唇を埋めてすぐに離すと、アシュマは少し身体をずらして珈琲を口にした。ミルクティの入っている方はウィーネの分……ということだろう。

ウィーネはマグカップを手に取って少しの間、手を温めた。冷ますためにふう……と息を吹きかけ、こくりと飲む。じんわり熱くて、甘いよい香りが流れ込んだ。その温もりに思わずほっと身体の力を緩めると、大きな手がマグカップを持つ手を包む。

「ミルクティでよかったか、ウィーネ」

「ん。よかった、けど」

「飲みたかったのだろう?」

「う……。うん」

優しい声なのに、アシュマの声はなぜか悪魔のようにウィーネを追い詰める。

アシュマは強引で意地悪で、ウィーネの意思などまるで無視して接してくる。場所だって所構わないし、触れ方も容赦がない。だが、その接し方は時々ウィーネを甘やかす恋人のようで、どうしてだかウィーネは抗えないのだ。

もう一口飲むミルクティの味は、やっぱり甘くてほんのり温かく喉を通っていく。ウィーネの手に重ねられたアシュマの手も、酷なほどに温かい。

「……そうか、飲みたかったか」

アシュマは満足気に笑った。そして囁く。

「ならば褒美をもらおうか、我のウィーネ」

はあ!?

……と抗議と驚愕の声を上げる前に、アシュマがウィーネの耳にぱくりと噛みついた。どんなにやさしくても、この男に騙されてはいけない。