『褒美が欲しい』
ここ最近のアシュマのお気に入りの言葉である。頼んでも無いのに何かと世話を焼いては、ウィーネに褒美とやらを要求するのだ。
「ウィーネ……」
アシュマは耳を噛んでいた歯を緩めると、付いてしまった歯形をぺろりと舐めた。甘い声で誘うように囁く。どさくさに紛れていたが、ウィーネは今アシュマの膝の上にいるのだった。むぐっ……と紅茶が喉に飛び込みそうになって、慌ててこくんと飲み込む。
「なによ、ちょっとアシュマ、離れて」
「この狭い部屋で、そうそう離れられぬ」
「狭いところに入ってきたのはアシュマでしょう!」
カップを置いて降りようとしているウィーネを当然アシュマが離すはずも無い。腕を一本腰に回されているだけで、それほど力が込められているわけではないのに全く動けないのが悔しい。アシュマがウィーネからマグカップを奪い、肩を引き寄せて自分の方を向かせた。
ちゅ、と音を立ててウィーネの唇に吸い付く。
「ひゃっ……ちょ、と」
「なんだ」
アシュマは答えながら、ちゅ、ちゅ、……と小さく、ウィーネの唇と頬をついばんでいく。アシュマは「褒美が欲しい」と戯れのように口にするだけで、実際はウィーネの許可無く好きに触れてくる。それを避けながら、ウィーネはアシュマの身体から自分を離した。
「ちょっともう、やめてよ。ねえ、どうしてここが分かったのよ」
「どうして?」
「……け、結界張ってたのに、……そんなに、その、ダメだった?」
自分の魔力を内向きに閉じ込める結界は、提出するレポートの題材にもしたウィーネの自信作だ。外に魔力は零れることなく、あらゆる探知魔法から自分の所在を気付き難くするものだ。きちんと行使できたと思っていたのに、ものの1時間でアシュマに見つかるなんて……と少し落ち込んでいると、アシュマがミルクティーのマグカップをウィーネに持たせた。
「駄目ではない。人間が作ったにしては上出来だ」
「うそ、でも1時間しか経ってない」
「お前が掛けた瞬間分かった」
「ええっ!?」
「ウィーネ。我を誰だと思っている」
そう言って、アシュマはウィーネの耳に再び唇を寄せる。今度は強く歯を立てずに、やわやわと甘噛みする。「んっ……」とウィーネが喉を鳴らし、震えるように身体が揺れてしまう。誘われるように、アシュマの舌がぐるりと耳の中を這った。マグカップを持たされて動けないウィーネはふるふると頭を振ってアシュマを避けるが、頭を固定されるように抱えられてそのまま優しい蹂躙が始まる。
誰だと思っている……とアシュマは言った。
真にその通り、アシュマの実際の姿は浅黒い肌の男子生徒などではない。
……アシュマの本当の名前は、アーシュムデウ・アクィナス・ラクシュリアスという。六界の内、闇の界に住まう悪魔が真の姿だ。人間に認識できる闇の魔の12位の階位、その中でも、上位2位の存在がアシュマである。すなわちその実力は闇の界における上位2位であり、人間の何もかもを超越しているのだ。いってみればアシュマ自身が闇の魔力そのものであり、同じ闇の魔力で……ただの人間が作った魔法を、アシュマに解けぬはずが無い。
つまり、挑戦する相手が悪い。
「そんな……」
やたら耳をかまうアシュマを無視して、ウィーネは一口ミルクティを飲み、ぷう……と頬を膨らませた。うらめしげに論文に視線を向けるウィーネの首筋へと、悪戯する箇所を移動しながらアシュマがむっとする。
「ウィーネ、そんな結界などどうでもいい、こちらを向け。我の方を向け」
「どうでもよくないわよ、完璧に出来たと思ったのに」
「上出来だと言っただろう、ただ我には分かっただけだ」
「だから、どうして」
「結界を張る力の源とてお前の魔力だ。一瞬たりともその力が行使されれば我には分かる」
そんな……だったら……と言い掛けるウィーネに、焦れたようにアシュマが被さった。唇に唇がかさなる。ウィーネは今度こそ、抗うことも避けることも出来なかった。唇を重ね合わせたまま、アシュマはウィーネの手からマグカップを取り上げた。ウィーネの柔らかな上唇と下唇を、交互に咥える。幾度もそれを繰り返しながらその度に重ねる角度を変え、時々、くちっ……と音を出して噛み付いたり吸い上げたりした。
「……んっ……、ちょ、あ、アシュマ、や」
「我は嫌ではない」
「わ、わたしが、うあ、」
「嫌なのか?」
そう問い掛けるが、答える前にふさがれる。
唇同士のふれあいは、まるで恋人同士のようだといつも思う。それがウィーネには嫌なのだ。
「……どうして」
こんな風に触れるのか。ウィーネは心地よいぬくもりから懸命に抜け出そうと、手でアシュマの唇を塞いだ。ぐぐー……と自分から引き離して顔を背ける。
そうしていると、ウィーネの指先に濡れた感触を覚えた。えっ……と思って視線を移すと、アシュマが楽しげに持って来られた指を口の中に入れたところだった。ぎょっとして引こうとした手首をつかまれ、アシュマは舌を出して、見せ付けるように指先をなぞった。
アシュマは黙って舐めていたウィーネの指先を握り込むと、再び唇を重ね合わせる。今度は優しい口付けではなかった。
ずるりとウィーネの口腔内にアシュマの長く厚い舌が入り込む。思わずこくんと喉が動き、珈琲味の香りの唾液が伝っていった。強い闇の魔力が喉を通り、ウィーネの身体に落とされていく。
「ん……んぅ」
身体を離そうともがいたが、今度はそう簡単には離してくれなかった。ウィーネの舌にアシュマの舌が巻きついて、何度も何度も擦られる。
アシュマは闇の界上位2位の悪魔。そして、ウィーネの使い魔だ。ウィーネの魔力に惹かれて召喚され、無理矢理ウィーネを奪って契約を交わした。それ以来、ずっとアシュマはウィーネの魔力を求めて、その身体を蹂躙している。
魔力を舐め取るために口付けを交わし、魔力を感じ取るためにウィーネの身体に深く交わる。その行為は決してウィーネを傷つけない。だが闇に落とさんとでもするかのように深い愉悦と、逃れられない快楽をウィーネの……いまだ少女の香りを残す肢体に刻み付けるのだ。
しかし、最近はなぜかアシュマはウィーネの魔力を奪わない。ただただ、ウィーネの身体を楽しむように触れてくる。
アシュマの手がウィーネの身体を這い登り始めた。
「ウィーネ、こちらに手を回せ」
「や、やだ……んっ」
「お前は動くから、転げ落ちるぞ」
「アシュマが変な、さ、さわりかた、す、るから」
アシュマはウイーネのブラウスに手を入れる。人間に化けているアシュマの皮膚が、ウィーネの滑らかな腹の上を這い、そのまま胸の膨らみに到達した。やめてと動くウィーネの唇をもう一度塞ぎ、ねっとりと舌を繋げると、途端にウィーネの抵抗が弱くなった。その隙に、下着の隙間を縫って指を滑らせて、引っかくように中を探る。
アシュマの指が引っかかりを捉えると、「あ」とウィーネが啼く。ぎゅう……と抱き寄せる腕を強くして、アシュマがそこを何度も引っかき始める。
「あ、あ、……や、アシュ、マ……」
「嫌ならそんな風な声で啼かぬことだウィーネ」
「ど、して、魔力……」
「魔力を味わうよりも、お前が啼くほうが楽しい」
「やっ、何それ……っ」
最初はウィーネの魔力が甘い、欲しい……と言っていたアシュマは、いつからかウィーネとの単なる交わりを望むようになった。それがウィーネを混乱させる。
最初にアシュマと交わってからずっと、ウィーネはアシュマを拒んでいる。だが、結局は快楽に打ち負けて、その心地よさを受け入れてしまうのだ。身体は心を引きずっていく。アシュマと過ごす毎日もウィーネにとっては日常になり、ウィーネの隣にアシュマがいるのは当たり前のようになってしまった。しかし、アシュマがウィーネを抱くのは単に魔力が欲しいからで、ウィーネ自身に魔力が無くなれば、アシュマは離れていくのだと理解していた。
そして、今、アシュマはウィーネの魔力を求めなくなった。夢うつつのウィーネにささやくのだ。「ずっとそばにいてやろう」……と。
それはまるで自分すら知らない自分の心を見透かされたようで、とても怖い。
アシュマがウィーネにやさしいのも、恋人の真似事をするのも、自分に恋をしろと囁くのも、自分を欲しろと命じるのも、全部全部、アシュマがウィーネの魔力が欲しいから。分かっているのに、やさしくされるたびに、どうしてだか胸が痛んだ。その理由をウィーネは知らないし、知りたくも無かった。知ってしまえば、負けてしまう。
そうやってがんばっていたのに、今度は魔力はいらないなどという。お前が欲しいと誘惑する。
これが普通の男子生徒と女子生徒の関係であれば、一体何と呼ぶのだろう。けれどそんな関係知りたくないから、ウィーネは見て見ないふりをする。
「お前が欲しい、ウィーネ」
「……しつこいっ、アシュマ、なんでよ、どうして……」
「どうして……?」
アシュマはウィーネの質問を確認するように復唱すると、ニヤリと笑った。
「……ウィーネ・シエナ、我はお前の使い魔だ。お前の側にいて、お前を欲するのは当たり前だろう」
ほら、やっぱり!
それを聞いて、ウィーネは安堵と……そして、やはり、胸の痛みを覚えた。アシュマとウィーネは、使い魔と召喚主の関係だ。だから、きっと、アシュマは……。
使い魔だから、ウィーネのそばにいるのだ。魔力が要らなくても、使い魔には使い魔の、召喚主を求める契約上の理由があるに違いない。だってアシュマはウィーネの理解を超えた、悪魔という存在なのだから。
だから、
こんな悪魔に別に、
期待なんて、
してないし!
「は、な、れ、て! もう、勉強終わりっ、帰る!」
懸命に快楽から身を離すと、ウィーネはアシュマを押し退けた。アシュマはウィーネの抵抗に面白くなさそうな顔をしたが、すぐににやりと笑って顔を引き寄せる。
「そうか、部屋で続けたいのか」
「違う!」
「よかろう、すぐに部屋に戻して……」
「だめよ、鍵返さないといけないし!」
むぎゅうむぎゅうとアシュマの胸板を押して暴れていると、アシュマも大人しくなった。というよりも、むぎゅむぎゅと自分を押してくるウィーネの動きが楽しいらしい。身体は離れているのに離れ切れない距離に焦れて、ウィーネが身体を仰け反らせるところまで堪能してから、アシュマはウィーネの乱れたブラウスを直し、ひょいと持ち上げて膝の上から解放してやった。
唐突に解放されてウィーネは顔を赤くしたが、それを隠すように少しぬるくなったミルクティを一気飲みした。何か言いたげなアシュマを無視して机の上の勉強道具を片付け、部屋の片隅の魔法陣に手を伸ばす。
解呪しようとすると、その魔法陣にアシュマが手をかざした。すう……と闇の魔力が、アシュマに取り込まれる。
「な、なに……」
呪文も無しにいとも簡単に解かれた様子にウィーネが呆気に取られていると、取り込んだ手の指を擦り合わせながらアシュマが首をかしげた。
「加工されたとはいえウィーネの魔力だ。もったいない」
「その魔力でいいなら魔法陣をって……」
「ウィーネ」
物分りの悪い生徒に言い聞かせるような口調で、アシュマがウィーネを見下ろす。
「生のウィーネがあるのに、このような魔力など要らぬ。ほら、さっさと行くぞ」
ウィーネの口答えは許さず、急いたように扉へと促した。空になったマグカップ2つを手に持って視線を動かすと、カチャリと鍵が開く。
マグカップを見て、あ、とウィーネは思い出す。
「アシュマ」
「ん?」
「あ、の……ミルクティ」
「ああ」
「ありがとう」
顔を赤くしながら口をぱくぱくさせるウィーネを、アシュマはしばし真顔で見つめると、いつもの不敵で邪な笑みを浮かべた。素早く顔を下ろし、ぱくりとウィーネの唇を食む。
「……褒美がまだだな」
充分あげたじゃない!……きいぃと、悔しげに地団太を踏むウィーネを軽く流しながらアシュマが扉を開き、ウィーネをエスコートした。幸い廊下には誰も居ないようで、ウィーネはホッとする。さすがに1人用の自習室から男子生徒と2人で出てくれば、今後の自習室の利用に差し支えるだろう。変な噂が立てられるのもごめんだ。
一応、きょろきょろと周囲を確認して、ウィーネはアシュマと一緒に第2書庫のほうへと歩いていく。
それを、第1書庫のほうから偶然歩いてきた1人の男子生徒が見ていた。
「……ウィーネ先輩、と、……あれは……あれが、もしかしてアシュマール・アグリア?」
ウィーネ・シエナとは学年は1つ下。ふわふわとしたくせのある金色の髪の背の低い男子生徒、アニウス・セヴェルがそれを目撃したのだった。