誘う悪魔と召喚主

006.相応の覚悟をしろ

アシュマール・アグリア……アシュマは、ウィーネを視界に捕らえたまま、急ぐわけでもなく悠然と人ごみを抜けてこちらに歩いてきている。黒い細身のスーツにダークグレーのシャツ、胸元に赤いチーフを覗かせているがタイはしておらず、襟元を気だるげに緩めていた。正装とは言えない格好だったが、アシュマに妙に似合っていて、闇色の雰囲気は他者を寄せ付けない。

ネルウァもアシュマに気付いたようで、そっぽを向いた。面倒事に巻き込まれたくは無いのだ。ただし、アシュマに睨まれるのは怖いが、揉め事を傍観するのは大好きである。これは面白そうなことが始まるに違いない……と、興味をなさそうなそぶりをして意識だけはそちらに向ける。

アシュマに真っ直ぐに見つめられているウィーネも、早々に視線を逸らした。どうしてだか、ウィーネの困惑や焦るような気持ちが見透かされたように思えて、それ以上に午後までずっと緩やかに抱かれていたことを思い出して、その場を逃げ去りたい気持ちに駆られる。きょろきょろと周囲を見渡して、つい別の方向へ足を向けた。

音楽が鳴り始めた。

「ウィーネ先輩!」

アシュマがウィーネの元に辿り着く前に、逃げようとしたウィーネの手をアニウスが掴んだ。

「音楽が鳴り始めましたよ。約束でしたね。踊りましょう」

「え、いや、私は」

「……僕、踊り得意なんです。踊りの苦手な女性をエスコートするのも得意なんです」

「や、嫌なんだってば、本当に」

「ウィーネ先輩。恥ずかしがらなくても、踊ってみると楽しいですから!」

ちいさくため息を吐いた。ウィーネはこうした誘い文句がとても苦手だった。本当に嫌いだと言っているのに、恥ずかしがっているだけとか、内気だから躊躇しているに違いないという理由を勝手に付けて、無理にこうした場に引っ張る人達は、なぜか社交場には必ず居る。ある程度の付き合いはしょうがないにしても、彼らはそれ以上の過度な行動を要求してくるのだ。

「苦手なんじゃなくて、踊りたくないの、嫌なの」

「先輩!」

アニウスは焦っていた。アシュマール・アグリアが真っ直ぐウィーネの元に来ているのが見えていたからだ。このまま目の前でウィーネを連れていってしまえば、こっちのものだ。しかし、ウィーネは強情で、どれほど引っ張ってもその場から動こうとしない。踊りが苦手で恥ずかしいからという理由で壁の花になる女子がいる事は知っている。だが、大概、苦手だというだけで、こうした踊りの場に本当は憧れているのだと、アニウスはそう信じ込んでいた。だから、決して動かないウィーネに苛立つ。

ウィーネの腕に感じるのは思いがけない男の子の力だった。目の前の男の子は、ウィーネと同じくらいの背の高さでとても華奢だ。女の子みたい、そう思っていたがやっぱり男なのだろう。力ではウィーネが敵うはずが無い。ぐ……と強く引っ張られた時に、履き慣れていないヒールが引っかかって身体がよろけた。

「おいおい、ウィーネ」

「……ウィーネ」

さすがの無理矢理な展開にネルウァが見かねて声を掛けたが、掻き消すようにアシュマの安定した中低音の声が重なった。アニウスに引っ張られてぽんと投げ出された身体を、強い腕が捕まえる。そのまま抱えられるように引き寄せられた。手を掴んでいたアニウスが離れる。

「ちょ、何をするんですかアグリア先輩」

「ウィーネが転びそうになっていた。気付かなかったのか?」

「……ちゃ、ちゃんと受け止められますよ!」

「君は?」

アシュマが静かで慇懃な声で、アニウスを見下ろした。噂通りだった。睨みつけられているわけでもなく、アシュマは無表情なのに、その迫力に声を一瞬失う。しかしウィーネの前で恥をさらすわけにはいかず、こくりと喉を鳴らしただけに留めてアシュマを見返す。

「……アニウス・セヴェルです。ウィーネ先輩を助けてくださってありがとうございました。でも、もうウィーネ先輩から手を離してくださいませんか?」

「なぜ?」

「な、なぜって……」

一切乱れのない「なぜ?」にアニウスが怯む。それでも続けた。

「ぼ、僕が先にウィーネ先輩を踊りに誘ったんです。アグリア先輩は、別にウィーネ先輩と約束をしていたわけではないでしょう!? 先約は僕ですよ!」

「……ウィーネは許可したのか?」

「……え」

「ウィーネ・シエナは、セヴェルと踊ることを嫌がっていたようだが」

「それは……それは、ウィーネ先輩が恥ずかしがってるだけで」

「そうなのか?」

抱き寄せられたまま所在無かったウィーネは、唐突に話を振られて顔を上げた。驚くほどアシュマの顔が近くて、思わず赤くなる。ぶんぶんと頭を振った。その様子に、アニウスが顔をしかめる。

「そんな!」

「……そういうことだ」

「けど、あ、アグリア先輩にはお相手がいるでしょう。ウィーネ先輩、そんな男と踊ることないですよ! そんな、他の女子生徒と踊りの練習に行ったくせに、ウィーネ先輩を誘うなんておかしいですよ!」

そのやり取りに、へえ……とネルウァがニヤリと笑った。あのアシュマが、別の女と一緒にというのは奇跡に近い。一体どういう理由があったのか、極めて珍しいことだ。

「アグリア先輩! こんなところに居たんですか」

別の方向から、別の声が聞こえてきた。ハッとウィーネがそちらに視線を向けると、とても綺麗に着飾った華やかな女子生徒がそこにいた。ゆるゆる巻いた金色の髪はふんわりとアップにしていて、瞳と同じ色の青い髪飾りをいくつか散りばめている。ドレスの色は紺に近い深い青。透け感の強い薄い布をいくつも重ねて、踊りを踊ったらふわふわと裾が揺れて見栄えがしそうだ。アシュマに声を掛け、踊りの練習に出かけていた女子生徒だ。下級生とは思えないほど大人びていて、会場でもかなり注目を浴びている。

その姿に、ずきりと胸が痛んで、ウィーネは自分を抱えているアシュマの腕を振り払った。

「とにかく、私はどちらとも踊りません。踊りたい人同士が踊ればいいわ」

「ウィーネ、駆けると転ぶ」

「うるさい!」

これ以上アシュマの声を聞きたくない。そう思って、ウィーネはたたっ……! と駆け出した。

****

すぐに追いかけるかと思ったが、ネルウァの予想に反してアシュマは足を止めた。追いかける代わりに、自分を呼び止めた女子生徒に目を向ける。

「ル……? セヴェル……だったか。なんの用かな?」

アシュマがウィーネを追いかけなかったからだろう。頬を染めて、僅かな希望にすがるような表情で、ルフィリアはアシュマを見上げた。

「ルフィリア・セヴェルですわ! ……なんの用って……お、音楽が始まりましたわ。踊りませんの? せっかく練習したのだから一緒に踊りましょう?」

「断る」

ルフィリアの反応などどうでもいいとでも言うように、アシュマは冷たく言い放った。

「俺は踊りの練習はしていない。単に見に行っただけだ」

「……そ、それは……先輩が勝手に」

「勝手について来たのはそちらだろう?」

「だって……練習に行ったのに、踊りもしなかったのはアグリア先輩でしょう!?」

「踊る必要があると誰が決めた? 数曲見たら、男女どちらも動きは把握したから、練習など不要だと言っただけだ」

「全部把握って、……そ、それだけで実際に踊れるわけが……」

確かに、アシュマの言う通りだった。ルフィリアは最初、アシュマに「ユール・ログの篝火舞踏会に一緒に行ってくれないか」とストレートに誘いを掛けた。だが、当然のように断られたのだ。なぜかと聞いたら「君には関係ない」とすげなく拒絶される。だから弟……アニウスに教えられた一言を使ったのだ。

『踊りの練習をしたら、ウィーネ・シエナのように踊りが苦手な女子生徒とも一緒に踊れるかもしれないでしょう』と。

その一言に、アシュマはぞくぞくするほど怜悧な笑みで「なるほど」と言ったのだ。それで踊りの自主練習に連れて行く事はできた。たとえウィーネをネタにしようとも、アシュマの気を引く事は出来たと思った。あとは一緒に踊りを踊りながら親交を深めておき、当日は、アニウスがウィーネと楽しそうに踊っているのを見せればいい。折角ウィーネのために踊りを覚えたのにすでに他の男と踊っている……と、がっかりするアシュマに、もう一度ルフィリアが誘いに掛ける……そういう筋書きだった。

それなのに、実際には、アシュマは踊りの練習もせずに見るだけで納得して帰ってしまった。ルフィリアはそれでも当日は、懸命にアシュマの気を引こうと思っていた。手を取り合って踊りの練習は出来なかったが一緒に行ったのは事実なのだ。

それなのに、アニウスはウィーネと一緒に踊っていないではないか。ルフィリアはじろりとアニウスを睨む。だがアニウスもまた、じろりとルフィリアを睨んだ。ルフィリアがしっかりとアシュマを捉えておかないから、ウィーネに逃げられたのだ。

「……セヴェル……な、お前ら双子かあ」

2人の姓が同じことに興味をそそられたのだろう。その場にそぐわない呑気なネルウァの声が、少しの間落ちた沈黙を破った。

「んで、アシュマ、お前なんのために踊りなんて覚えたんだよ」

アシュマがネルウァに視線を向けたが、そこには脅すような身を竦めたくなる光は無かった。めずらしいことだ。

「ウィーネと踊れるだろう」

その言葉に、ひひっ…… とネルウァが笑った。やべえ、面白い。この悪魔みたいな男が、踊れない女のために、踊りを覚えようとしていたなんて。スクープじゃねえか。

「んでも、踊りたくないってウィーネ言ってたぜ」

「ならば踊らない。それだけだ」

「じゃ、行ってやれば」

「セルギアに言われなくても当たり前だ」

アシュマが目を据わらせて言ったが、どうしたことか、やはり今日はそれほど恐ろしくは無い。ユール・ログ効果だろうか。そう思っていたが、ウィーネが走って行った方向へ足を向けたアシュマを、追い越すようにアニウスが駆け出した。

しかし、す……とアシュマの手が伸びて、アニウスの肩が掴まれて引かれた。

「な、なにするんですか!」

「ウィーネのことなら心配無用だ。俺が行く」

「……な、僕が先に約束して……」

「関係ない」

「は……」

どういうことだとアシュマを見上げようとしたアニウスの顔が凍りつく。みし……と音がしそうな程、冷えた眼でアシュマがアニウスを見下ろしている。アニウスは悪魔に睨まれたような心地がして、思わず動きを止めてしまった。そうしたアニウスを、ふん……と鼻でせせら嗤う。

「君の先約など、俺には関係ない」

「そ、んな、普通は先に約束した方が」

「普通?」

アシュマは顔を下ろすと、アニウスにだけ聞こえるように言い放った。

「普通など俺には関係ない。先約があろうがなかろうが、あれは俺のものだ。だから」

邪魔をするなら相応の覚悟をしろ。

そう言って、あとはもう、アニウスのこともルフィリアのことも興味を失ったように去って行った。

****

後に残されたのは、セヴェル姉弟とネルウァ・セルギアだ。

アニウスは呆然とアシュマの後姿を見ていて、ルフィリアはなぜか、きっ……! とネルウァを睨み付けた。睨まれたネルウァは、おいおいと顔をしかめる。

「あなた! ……どういうことなの、なんなの、アグリア先輩の態度!」

「知るかよ。っていうか俺も一応先輩なんですけど?」

「あ、アグリア先輩は、いつもあんな態度なの!?」

「そうだな。まあ、いつもと変わらねーな」

「……そんな、入り込む要素など、無いじゃない……」

「むしろ、あると思うほうが俺はすごいと思うがな」

「どういう意味……?」

どういう意味って言われても、あれは実際に見てみないと分からないはずだ。アシュマがウィーネを追いかけるあの様子は、絶対に逃げられないのに抵抗する被捕食者と、相手が逃げられないと分かっていて楽しげに追い詰める捕食者の関係にしか見えない。餌を食べようとする猛獣の前に手を出せば、どうなるかは分かるだろう。そこに色めいたものはあるが、そうした感情すらアシュマは捕食の対象にしているように思えた。

だが、アシュマは恐らく女の心の動きなど知らない。今までそうしたことを知らなくても女を捕食出来ていたのか、それとも初めての相手がウィーネなのか……。そんなことをネルウァは知る由も無いが、だからこそ、恋とか、恋人同士の行為とか、そういうものをネルウァに聞いてくるのだろう。

説明が面倒でがしがしと頭を掻いていたネルウァに、アニウスが迫った。

「……セルギア先輩、ですよね」

「ああ? 俺の名前知ってんのか。なんだよ」

「セルギア先輩は、お2人のことに詳しいんですね」

「詳しいっつーか、腐れ縁?」

「……それなら、協力してもらえませんか?」

「断るね」

「なぜ!」

「対価が金なら断る。色気も不要」

「だから、なぜですか!」

「分かってねーな」

ネルウァは、ぐしゃぐしゃ……とアニウスの頭を撫でて、へらっ……と笑った。

「だが、教えてやんないね」

こういう狭い社会では、強い者を見極めて付いたほうが賢い。ネルウァはそれを知っている。なんといっても自分達はまだ学生なのだ。今から金や女のために命を捨てる必要など無い。

恐らくこの魔術学校の絶対強者はアシュマだ。教師や他の生徒がどれくらいそれに気付いているのかは知らないが、ネルウァは持って生まれた嗅覚でそれを感じ取っていた。そうした分別は、自分しかそれに気付いてない……というくらいの方が都合がいい。味方についておけばいざというとき、恩恵が多くなる。

もっとも、自分がやられてしまわないように上手く立ち回る必要がある。そういう意味でも、ウィーネと腐れ縁があったのは幸運としか言いようが無い。

「何なの、なんなのよ!」

何も分かっていないルフィリアが、悔しげに声を上げている。それにちらりと視線を向けて、おやまあ、美人がもったいないことだ……とネルウァは思った。ウィーネのような賢く清楚な女よりも、華やかでちょっと馬鹿な女の方がネルウァの好みなのだ。

……が、しかし。

「いっとくが、俺は踊ってやらねーぞ?」

「うるさいわね、誰も踊って欲しいなんて言ってないわよ!」

「そりゃ、すみませんね」

ルフィリアの態度に、意地悪くへらへら笑いながら、……さて、被捕食者のウィーネはどうなったかと、一抹の憐れさを覚えたのだった。