ふかふかとした素朴な手触りの寝具の匂いは、いつもとは異なっていた。でも、どことなく自分に馴染んでいる。ああ、これは自分の……学校の寮ではなくて、自分が小さい頃から使っているシーツと、毛布と、羽毛がたっぷり入った上掛けだ。そこらにあるものを抱え込むのがクセで、枕元には柔らかいクッションをいくつも置いている。そのひとつに手を伸ばそうとしたらうまくいかず、なんだか硬くて、それなのにやわらかくて温かいものに包み込まれているのに気付いた。
んー……。
なんだろう。この硬くて、やわらかくて、温かいもの。
腕をまわしてみて、ぺたりと触ってみる。とても大きい。手触りは悪くない。触れる温かさも心地よくて、思わずすりすりと擦り寄る。すると、肩と腰と足に絡み付いていた硬いものが身体を締め付けた。締め付けた……といっても苦しくはない。包み込まれている感じがとても好い。くふ……と息を吐いて、さらにすりすりと頬を押し付けてみる。
ちゅ。
……小さい音がして髪の毛がじんわりと温かくなった。だれかの吐息がかかったのだと流石に分かったが、少しだけ湿度の高いその温度は思いがけず体内も温かくなるようで、またもや、むふー……とため息を付いた。だってとても気持ちがいい。それに応える様に肩を支えていた硬い何かが髪の毛を掻き分けた。どうやら手のようで、ゆっくりゆっくり、長い指が髪の毛を梳き始める。
誰だろ。髪の毛なでられるのって、こんなに気持ちよかったっけ。
うそ。
知ってる。こんな風に気持ちよく頭を撫でる大きな手の持ち主。
「ウィーネ……」
髪の毛を温めていた吐息が、うっとりと名前を呼んだ。
「ん……アシュマぁ……あしゅ……」
…
……
………
…………
……………
「ぬああああっ!?」
我に返ったウィーネは、思いっきり腕を突っぱねた……つもりだったが、残念ながら首が痛いほど背中が仰け反っただけだ。
自分を寝台の中でしっかりと抱き寄せ、あまつさえなでなでさわさわしていた正体……使い魔のアシュマ……今は人間の姿を取っている……が呆れたような顔でウィーネを覗き込んだ。
「何をやっている」
「な、なななんで、なんでアシュマ」
「ここがお前の寝台だからだろう」
「いや、あの、なんでここにいるのかっていう説明を」
「覚えていないのか。3日前にお前の父親に離れに宿泊しろと言われた」
「ここは離れじゃないわよ!」
「分かっている。どうでもいいが静かにしろ。声が聞こえるぞ」
「~~~!!!!!」
「冗談だ。お前の魔力を少々拝借して、防音の結界を張ってやった」
自慢げな顔で、ふん……と笑ったアシュマに、ウィーネは言葉を失った。アシュマは、理由はどうあれ大人しくなったウィーネを抱え直し、ぺろ……と瞼の横を舐め始めた。先ほど、心地よさそうにウィーネが擦り寄ってきた感覚を思い出しながら、下半身を押し付ける。
「ちょ、と、アシュマ、何か、あた」
「朝だからな」
「悪魔でしょうが!」
「身体は人間だ、今はな」
色を匂わせる動きでウィーネを翻弄しながら、暴れ始めたウィーネに悪戯を仕掛ける。実に楽しい一日の始まりだ。
****
「……おはよう」
「おはよう、ウィーネったら今日もゆっくりね。珈琲を出して」
「うん……」
あふ……と欠伸をしながら、1階のリビングにウィーネが姿を現した。朝食を並べ終えた母親のファティネが、くすくすと笑いながらウィーネを促す。大人しく全員分の珈琲をカップに注ぎながら並べていたウィーネは、見慣れない客用の珈琲カップに手を止めた。ため息を吐いて、それを使うべき人の前に置く。
「おはよう、ウィーネ」
「……おはよう、アグリア君」
にっこりと慇懃に笑った同級生のアシュマール・アグリア……アシュマに、ウィーネも負けないくらい馬鹿丁寧な笑顔を返す。朝の攻防の後、アシュマは一度離れに戻って、きちんと玄関から邸へとやって来た。どのように誤魔化しているのか、離れからウィーネの部屋、部屋から離れへと、一切魔力の気配を感じさせることなく移動している。それだけではない。アシュマはシエナ家に居る間は、常のような恐ろしい魔力を放出することなく過ごしているのだ。
アシュマとウィーネが、しばし、家族以外には分からない無言の睨み合いを続けていると、後ろから、ぼふっ……とウィーネの頭が掴まれた……否、なでられた。
黒い髪を短く刈った、背が高いガタイのいい男がウィーネを見下ろしている。そのガタイに似合わず目元はとても優しく穏やかだ。無口な大男は、マグネティ・シエナ……ウィーネの二番目の兄である。
「……おはようマグ兄」
「ん」
マグネティはこっくりと頷いて席に着いた。一緒に現れた恰幅のいい紳士……ウィーネの父親、ウィウス・シエナも後に続く。
「おはようウィーネ。遅いぞ、今起こしに行こうとしてたところだ」
「止めてよ、ちゃんと起きるわ」
「聞いたかいアシュマール君、娘はこの通り反抗的なんだ」
うっとうしげに言うウィーネの態度に肩を竦めたウィウスが、通りすがり、ひそひそとアシュマに耳打ちしている。アシュマがそれに小さく笑って応えた。その様子をちらりと横目で睨んでわざとらしくため息を吐くと、珈琲を出し終えてアシュマの隣に座った。途端に、反対側の隣で「あーーーー!!」とまだ幼い男の子の声が上がる。
「ねーちゃん、なんで俺の珈琲にミルク淹れンだよ! ブラックでいいっつったろ?」
「聞いてないわ。アルカディは、いつもカフェオレだったでしょう」
「昨日からブラック飲んでんだよ!」
ぶうぶうと文句を言っているのは末弟のアルカディだ。ウィーネがいつもの通りアルカディの珈琲にミルクをたっぷりと注いだのを見て、文句を言ったのだ。「昨日からって……知らないわよ」呆れたようにウィーネが言って、自分の珈琲と交換してやろうとすると、アシュマがウィーネ越しにアルカディを覗き込んだ。
「アルカディ君、よければ交換しようか?」
その提案に一番驚愕したのはウィーネだ。「はあぁぁぁぁ!?」……と声を出しそうなのを押さえて、ぎょっとした顔をアシュマに向ける。その視線をものともせずに、涼しい顔でアシュマはアルカディに首を傾げていた。その様子にアルカディが、「別にっ、あんたのなんか、いいし!」……とムッとした声で言って、つーんと顔を逸らした。アシュマは苦笑して「そうか」と大人しく引き下がる。
ウィーネはむくれたままのアルカディのカップと自分のカップを交換した。それを見て、再びアルカディがウィーネを睨む。
「別にいいって言っただろ!」
「私はいつもカフェオレで飲んでるのよ」
言いながら、さっさとウィーネはアルカディのカップからカフェオレを一口飲んだ。それを見て、アルカディが頬を膨らませて口を閉ざす。アルカディはなぜかアシュマを敵対視していて、何かと突っかかってくるのだ。昨晩も、ワインなど飲めないくせにモルドワインを飲んでしかめ面をしていたし、今もアシュマの真似をしてブラックの珈琲を飲もうとしている。一口に口に含んで、苦味にげふっとむせた。その様子に、アシュマがふ……と笑って自分も一口珈琲を……もちろんブラックで飲んだ。
「何がおかしーんだよ、アグリア!」
「こら、アルカディ」
アシュマが笑った様子をめざとく見つけてアルカディが睨み付けると、父親のウィウスが嗜めた。穏やかだが有無を言わせない声に、アルカディも黙り込む。その様子に「あらあら」とファティネが楽しげに笑って、夫であるウィウスの隣に座った。ウィウスとファティネ、アシュマとウィーネとアルカディが並び、その向かいにマグネティが座って朝食が始まる。
「アシュマール君、よく眠れたかね?」
「はい、おかげさまで」
主人であるウィウスに問われて、至極さわやかな笑顔でアシュマが答える。
「まあ、よかった。寒くはなかった?」
「いいえ、そんなことはありません。ずいぶんとすばらしい魔法設備が整っているのですね」
続けたファティネにアシュマも笑顔のままで受け答えし、あれは夫のウィウスが作った自慢の設備なのだとか、家の設備の魔法仕掛けのほとんどはウィウスが作ったのだとか、そういう会話が始まった。
それを隣で聞きながらウィーネは、真顔で目玉焼きを口に運ぶ。
ウィーネが実家に帰ってきたのはつい3日ほど前のことだ。転送装置で一気に街までやってきて、そこで魔法馬車を手配する。アシュマとのことがあってもやもやしたまま馬車に揺られて帰ってきたら、涼しい顔をしたアシュマが父と仲良くモルドワインを飲んでいたのだ。あれを見た時は腰が抜けるかと思った。いろんな意味で。
アシュマはしゃあしゃあと「ウィーネの同級生」として遊びに来ていた。あまつさえ、家族をどう言いくるめたのか家の離れに泊まり、年末年始を一緒に過ごすという段取りまでつけていたのである。
驚愕して言葉を失っているウィーネに、アシュマが学生のような顔をしてにこりと笑った。
『やあ、遅かったね。ウィーネ・シエナ君』
……
……
…………
やあ、遅かったね?
ウィーネ・シエナ君?
幻聴かと思って3回ほど聞き直したが、残念な事に幻聴ではなかった。父も母も乗り気で、帰宅早々離れの準備を命じられる。極めてうさんくさいことにアシュマは、家族の前では教師や親しくない生徒に見せるような丁寧な態度を貫き、……かといって嫌味な風は全くなくあくまでも優等生……といった様子だ。
ウィーネの実家はブドウ園である。もともと母親の実家だったこの畑を、幼馴染の母に惚れこんだ父が継いだ。父のウィウスはもともと魔法使いで、特に魔法工具の分野ではかなりの功績を残している。かつては魔法馬車や転送装置の改良にも尽力し、この国の外れの田舎に転送装置が設置されているのも、近くにシエナ家があるからだと言われているのだ。
ただ、昔はどうか分からないが、今のウィウスがやってることは、ブドウ園の仕事を便利にする……と主張する怪しげな農具や工具の発明ばかり。どれほどの功績があったとしても、ウィーネにとっては母親と仲の良い発明バカにしか見えなかった。
兄弟は3人。兄が2人、弟が1人。いずれも魔力を有している。
しっかり者で世話好きな明るい長兄フィンティは現役の騎士団員で、年に1度は必ず実家に戻っている。無口でやさしい次兄マグネティは魔術学校は出ていないものの、魔法設備の設計技師として父に弟子入りし、共に農園の経営を行っていた。年の離れた長兄は妹のウィーネをとても可愛がっていて、幼い頃から、怪我をしたらいけないから……と、走ったり木に登ったり川を泳いだり……と、そういった活発な遊びは一切させてくれなかった。次兄は無口でウィーネが何をしても怒らなかったが、やはり畑仕事を手伝おうものなら、家の中の仕事を手伝えと全力で止められた。
そのような兄2人の影響で、ウィーネは家で1人で本を読むのが好きな大人しい少女時代を過ごしたのだ。丁度遅くに生まれた弟アルカディの世話もあったので、ウィーネはすっかりインドアな少女になってしまった。もちろん、弟もウィーネにしっかり懐いていて、あと2年もすれば自分も魔法学校に行くのだと鼻息が荒い。
「ウィーネ」
もの思いに耽っていると、母のファティネが声を掛けた。何かと思ってそちらに視線を傾けると、ファティネはおっとりと笑っている。黒い髪に黒い瞳、ウィーネの姿形は母譲りだ。農園の娘だったファティネは、魔法を使う事は出来ない。料理や裁縫が得意で、怒るのではなくおっとりと笑って男4人を黙らせる技術に長けていた。
「ウィーネ、そろそろ街に行くのでしょう?」
「う……うん」
その母が、にこやかに2人の顔を見比べる。ウィーネはアシュマがもともと取っていた宿まで荷物を取りに行く、その付き添いをさせられる羽目になったのだ。
アシュマが「しばらくは置いてもらうように手配しました。帰りにでも取りに行きますから」などと言っていたので、ウィーネも放ったらかしにしていたのだが、気を使ったファティネとウィウスが「ついでに街を案内してあげなさい」と声を揃えた。案内するような場所など無いのに。
「ついでにマクセンのところに行って来て、キュッフェルを買ってきてちょうだいな」
「えっ」
「その時にうちで作ったブドウのジューレを持って行って。今年、マクセンのところに赤ちゃんが生まれたのよ。お祝いにって」
「赤ちゃん?……そうなんだ、赤ちゃん……」
ウィーネも知っている馴染みのお菓子屋の名前を出して、ファティネがさらりと笑った。ずっと黙っていた次兄のマグネティが不意に顔を上げて、ウィーネをちらりと見る。ウィーネの声はどことなく沈んでいるようだ。
その様子をまた、アシュマも見つめていた。
不機嫌な様子だったウィーネが、一変どことなく沈み込み、切なげな表情になったのをアシュマを見逃すはずが無かった。そのような様子、アシュマも見たことが無かったからだ。