魔法馬車……というのは、その名前の通り魔力で動かす車の事だ。駆動には馬によく似た魔法生物を使う。車には魔法生物と相性のいい魔法を掛けており、高価なものになれば、荷を軽くさせる魔法や車輪の音を静かにさせる魔法も併せて掛けられる。魔法生物は飼葉と魔力で動いてくれる。どちらも魔力が必要なことから高価な代物だが、ウィーネの家には備え付けてあるのだ。馬に2,3人乗りの箱型の小さな車を取りつけ、街まで出掛ける事になった。
出かける時に、弟のアルカディがアシュマに向かって「お前に魔法馬車が動かせるのかよ」とか、「自分も行く!」などと言ってウィーネを困らせた。せっかく帰ってきた大好きな姉との時間を、アシュマに取られてしまいそうなのが悔しいのだろう。アシュマは困ったような笑顔でアルカディをあしらっていたが、次兄のマグネティに家の用事を言いつけられて渋々あきらめたようだ。
蹄の音を響かせながら、田舎道を魔法馬車が進んでいる。御者はアシュマで、非常に楽しそうだ。アシュマは出てくる時のアルカディの様子を思い出して、くっくと意地悪く笑っている。
どうやらあのアルカディというウィーネの弟は、姉と仲よくしているアシュマに対抗心を抱いているようだ。何かとアシュマの行動を真似したり、ウィーネの隣を陣取ろうとしたり、2人の周囲をうろちょろとしていた。学校でウィーネにちょっかいを出してくる男子生徒は鬱陶しいが、弟のアルカディがつっかかってくるのはなぜか気分がいい。
「アルカディとやらは、ずいぶん我に絡んでくるな、ウィーネ」
「人見知りしてるのでしょう」
「……人見知りか」
「ねえちゃんと前を見てよ」
「なぜ?」
「なぜって……手綱持ってるんだから当たり前でしょう?」
ふ……とアシュマが笑って、手綱から手を離した。それを見たウィーネが慌ててアシュマの方に身体を倒し、手綱を持つ。
「アシュマ、ちょっとバカ! なにやってんの、手綱持って!」
自分の膝の上に倒れ込んできたような形になったウィーネを抱き起こし、アシュマは平然としていた。後ろからウィーネの手に自分の手を重ねる。
「命じたから大丈夫だ。我を誰だと思っている」
「は? ちょっと意味が分からないんですけど?」
アシュマ曰く、まっすぐ街まで行けと命じてあるから大丈夫だ……という。闇の界上位2位ともなると、属性など関係無く魔物や魔法生物への影響力も多大だ。一言命じればすぐに従う。そうは言っても納得しないウィーネに説明をしながら、身体に腕を回した。
隣に座っていたウィーネは、がっしりとアシュマにホールドされ、膝の上に乗せられた。何が嬉しいのか悠然と笑みを浮かべて、ウィーネを膝の上に横抱きにしてくる。
「な、ちょっと、アシュマ……何やって……」
「見て分からないか?」
「離して、さわらないでよ」
「ひどいな」
「ひどっ……」
ひどいってどっちが! 声を大きくして言いたかったが、見上げたアシュマの楽しそうな顔に驚愕して次の言葉が出て来ない。それでもかなり抵抗したが、まず振り上げた腕を後ろから抱き締められて拘束される。もう片方の腕で腰を引き寄せられ、身体が密着した。挙句の果てに、ばたつかせた足がずり落ちてアシュマの股の間に挟み込まれた。抜けない。うぐぐぐぐ……と唸りながら何とか身体を離そうとするが、鎖でがんじがらめにされたのかと思うほど、ぴくりとも動けないのだ。
運動したわけでもないのに、へとへとに疲れる。ウィーネは肩で息をしながら、アシュマを睨みつけた。体力の無い自分が恨めしい。
ウィーネは気持ちを落ち付けて瞳を閉じ、深呼吸を1つした。怒ったり暴れたりするからアシュマも図に乗るのだ。気を取り直して、冷静にお願いをすることにしよう。ウィーネは、きゅ……とアシュマに擦り寄って、上目遣いに見上げてちょんと首を傾げてみた。
「あの……アシュマ」
「ん?」
「下ろしてくれない?」
「なぜ?」
アシュマはウィーネの視線をこれまでになく楽しげに、にんまりと笑いながら受け止めて「なぜ?」を繰り返した。「なぜ?」って……こちらが聞きたい。何故アシュマはウィーネを下ろしてくれないのか。ウィーネは、元通りのぷりぷりした態度に戻って声を荒げる。
「もう! 誰かに見られたらおかしいと思われるでしょう! ちゃんと動くのは分かったから、手綱くらいは持っててよ!」
「誰に見られても我は構わない」
「だから、私がかまうんだってば!」
「……ウィーネ」
「な、なに……」
相変わらず手綱は持たないまま、ウィーネも膝の上に乗せたまま、アシュマは顔を下ろした。必死な自分に比べて冷静なアシュマの態度に少したじろいでいると、互いの唇がかすめる程の距離に顔が近付く。しかしアシュマは、唇ではなく頬や額をすり……と触れ合わせた。
「お前はわがままだな」
「は……」
はあああぁぁぁぁぁぁぁl!?
わがまま? わがままを言ってるのか自分はっ!? 言葉を失ったウィーネの、今度は唇にアシュマは触れた。舞踏会の日は赤みの強い色で化粧をしていたが、今日は控えめにうっすらと桃色のグロスが塗られ、ぷるぷると潤っている。確認するように指を押し付けると、グロスの艶がアシュマの指に移り、それをぺろりと舐め取った。
「ちょっと……せっかく塗ったのに、グロス取れちゃっ……」
「そうだな。……後で塗り直せ。嫌いではない」
「もう、もうもう! 離してってば!」
「人が来たら離してやるから、もうもうと言うな」
アシュマなりの最大限の譲歩を口にして、ウィーネの身体を抱え直した。本当に、ウィーネはわがままでいけない。何もしていない、ただ抱き寄せているだけなのに何が不満なのか。こうしているとじきに抵抗をやめるくせに、非常に往生際が悪い。ウィーネは強引に抱き締めると暴れるが、腕を緩めると身体も緩めるのだ。そのことに、アシュマはちゃんと気付いていた。
ようやく沈黙が落ちた。
ぽっくぽっくと一定のリズムで蹄の音が響いている。スピードはかなり速めに命じてあった。アシュマは落ちた沈黙を気にする事もなく、ただウィーネの体温と手触りを堪能している。どれほどか経つと、アシュマの腕の中でウィーネの身体が重くなったように感じた。
ことこととリズミカルに揺れる馬車の心地と、アシュマの手が撫でる心地と、その体温がちょうどよく重なったからだろうか。
覗き込んでみると、ウィーネはアシュマの腕の中で眠っていた。
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「ウィーネ、起きろ」
「ん……」
身体を揺さぶられてウィーネは目が覚めた。瞳を開けるとアシュマが覗き込んでいる。
「着いたぞ」
「ふえ?」
ぼんやりと子供のように目を瞬かせるウィーネを、アシュマがいつもの不敵な顔で見下ろしている。じっと見つめているとその顔がウィーネの頬を狙って降りてきたので、慌てて我に返って覚醒した。
「ま、まち!?」
「そうだ」
「どこっ」
アシュマの顔を避けながら起き上がって窓の外を眺めると、公営の駐馬車場だった。すでに魔法の馬は停められていて後ろを覗き込むと、見知らぬ荷物が載っていた。
「なにこれ」
「我の荷物だ」
荷物なんてあったのか……という疑問には、「荷物はあったことにしないと怪しまれるだろう」と真顔で答えた。街の宿にアシュマが部屋を取っているというのは方便で、別段部屋も取ってなければ荷物も持ってきてはいない。ただ、シエナ家に怪しまれるだろうという理由で、荷物らしきものを運んできただけである。残る用件はシエナ家と親しいらしい、お菓子屋に行くだけだ。
アシュマが促したが、ウィーネは気乗りしないような顔をしてもじもじと馬車に座ったままだ。先に降りていたアシュマが、ウィーネに手を伸ばす。
「行かぬのか。マクセンとやらに用事があるのだろう」
「あー……うん」
妙に歯切れの悪いウィーネだったが、やがて化粧を少し直してコートの襟元を正し、アシュマの手を借りずに車から降りた。その様子にアシュマは何か引っかかりを覚えたが、シエナ家からの届けものだというバスケットを持ち、もう片方の手でウィーネの手を取る。
手をつながれてあわてたのはウィーネだ。困ったように振り払おうとする。
「だから!」
「何だ、さっきから」
「何だじゃないわ。子供じゃないんだから、手ぇ離してよ」
「なぜ」
「もう!」
もちろん振り払っても手は離れず、手をつないだまま離して離してとじたばたしていると、街の人が「何やってんだこのバカップル」みたいな視線で生温く見てくる。その視線に、これ以上暴れるのは得策ではないとウィーネは大人しくなった。いつもいつも、こうして大人しくせざるを得ないのは悔しいし腑に落ちない。そもそもなんで、アシュマと手をつないで街を歩かないといけないのか。周りからはきっと変な風に見られてしまう。
そう思うとなぜか顔が熱くなった。
「ウィーネ?」
道すがら、急に顔が赤くなったウィーネをアシュマが覗き込んだ。ばばっ……! と顔を逸らして、ウィーネはアシュマの手を引いて早足に歩き始める。
「おい、ウィーネ、前を見ろ」
前を見ずにぐいぐいと歩くウィーネの手をアシュマが引いたのと、通りにあった店から人が出てきたのは同時だった。
「うわっ」
「きゃっ」
「……ほら、言っただろう、前を見なければ……」
ウィーネは突然出てきた人影に身体をぶつけ、鼻をこすりながら「ごめんなさい」と謝った。バランスを崩した身体をアシュマに支えてもらいながら、ぶつかった人を見上げる。
「あれ、ウィーネ?」
「……あ……」
ひょろりとした体格の背の高い男が、ウィーネを見下ろしていた。何度か瞬きをしたあと、ふんわりと瞳を線のように細くして笑う。男は飾り気のないエプロンを身に着けていて、小麦粉とバニラとショコラトルの匂いがした。
「マクセンっ……」
「ウィーネ、帰って来てたんだ? もしかしてうちの店にお使いかな」
ウィーネの頬がほんのりと染まり、アシュマの手をきゅ……と握ってきた。マクセン……と呼ばれた男は、にこにこと笑いながら視線を下に向ける。2人が手をつないでいる様子を見て、さらににっこりと笑って何かを言おうとすると、その視線に気付いたウィーネがいよいよ真っ赤になってアシュマの手を振り払った。
……が、当然のことながら手が外れるはずもない。
マクセンの目から見ると、ウィーネが照れているように見えた。その微笑ましい光景に、屈託無くあはは……と笑う。
「仲がいいね、ウィーネの彼氏かい?」
「ちっ、違う!!」
あわあわと首を振って、いよいよ身体を離そうとしているウィーネの手を、アシュマが自分の背中にまわすように引き寄せた。アシュマは獰猛な獣のように一瞬鋭い瞳を見せたが、それをすぐに消してわざとらしくなるギリギリの作り笑いを浮かべる。
「……アシュマール・アグリアと言います。ウィーネの同級生で、シエナ家に滞在を」
「へえ」
あの親父さんも公認かい? とよく分からない言葉を言って何度か頷くと、マクセンは「おいで」と手招きした。
「うちの店に注文の品物を取りにきたんだろう。夫人から聞いてる。用意しているから」
離してとか、彼氏じゃないもんとか、1人顔を赤くして騒いでいるウィーネの話は聞いてもらえないまま、3人は通りの方向へと足を向けた。