誘う悪魔と召喚主

012.不愉快だな

マクセン・レリーウは、この街の菓子職人だ。作る菓子は都会に売られているような洗練されたものではなく、田舎の素朴な味わいのものが多かったが、手間を惜しまず丁寧に作った菓子は街の誰もが大好きだ。外の人間というと旅行で通過する者しかいないが、そうした人にも人気で、行きに買って味を忘れられずに帰りもまた買って行く……というリピーターも多かった。

マクセンの家族はもともとシエナ家の近くに住んでいて、シエナ家と同様に果樹園を営んでいた。マクセンが当然跡目を継ぐと思われていたが、彼が選んだのは菓子作りだった。家で作った果物を美味しいお菓子にして売る……という夢をかなえたのだ。今では果樹園はシエナ家に譲られ、ウィウスの監督の元、信頼の置ける人間が世話をしている。

そうしたマクセンとシエナ家の兄弟達はとても仲がよかった。ウィーネからしてみれば、狭い田舎で兄以外の優しい異性ということになる。家でいつも本を読んでいるウィーネのところに遊びに来ては、いつも美味しいお菓子を食べさせてくれた。やたらと構ってくるのが兄であれば鬱陶しいだけだが、優しい近所のお兄さんであればそれは憧れに変わる。兄2人はウィーネを外から出さなかったが、マクセンが居たら、ピクニックと称してお菓子を持って近所の丘や森の中に遊びに連れていってくれたのだ。ウィーネにとってマクセンは、兄と違って積極的に自分を外に連れていってくれる、素敵なお兄さんだった。

ウィーネが幼い恋心をマクセンに対して抱くのも、当たり前の流れだ。

しかし、当時ウィーネよりも9つも年上だったマクセンに好い人が居ないわけがなかった。ウィーネが14歳の時にマクセンは、気立てのよい街の娘さんと結婚したのである。娘さんはウィーネも知っている人で、これまた美味しいお茶を淹れてくれる髪の長い優しい女性だった。14歳ともなれば、何も知らない子供……というほどの年齢でもない。それまでの恋心を自覚できていなかったウィーネは、マクセンが誰かの夫になる……という事実を目の当たりにした時に、初めて失恋というものを知ったのだ。……もっともこんな年齢の初恋と失恋……など、心に傷を負うような手痛いものではない。……だが、忘れられない思い出ではある。

「それにしてもウィーネは帰って来るたびに綺麗になるね。すっかり美人さんだ」

「別に、変わってない……」

顔を赤くして俯くウィーネの様子を、マクセンは全く別に解釈したようだ。ウィーネの隣には端正な青年が寄り添っている。

ウィーネは生成りのニットワンピースにグレーのタイツ、ふかふかの裏地が付いた臙脂色のダッフルコートを着ている。アシュマは黒いデニム地のパンツに細身のコートを羽織っていた。どこから見ても、年の瀬に街を仲良くデートしている恋人同士……という風に見える。特にウィーネは、2年ほど前だったかに見た魔術学校の制服姿とはまた印象が違った。

青年の方は大人びて見えるがウィーネの同級生だから同い年か、近い年齢なのだろう。マクセンの目には妹のように可愛い幼馴染が、綺麗になってお洒落をして彼氏を連れてきたように見えていた。ウィーネはもともとちょっとつんとしていたところがあったし、シエナ家の人に言われて一緒にお使いに来てみたものの照れてしまうのだろう。

マクセンはウィーネとアシュマを店の奥に設えてある、客用のテーブルセットに案内した。座ったウィーネの頭をぽんぽんと軽く叩いて、くしゃりと一撫でした。途端にウィーネが恥らったように身体を固くしたが、マクセンには見えていないので気付かない。気付いたのはアシュマだった。

「ちょっと待ってて、今お茶を淹れてくるよ。本当はレリアに淹れてもらうと美味しいんだけど、今日は店には連れてきていないんだ」

レリアというのはマクセンの妻の名前だ。その言葉にウィーネがハッと顔を上げた。そして今度は、ひどく寂しげな表情で苦笑したのだ。

その一連の表情の移り変わりは、アシュマがこれまでウィーネに対して見た事も感じたこともないものだった。今でこそウィーネはアシュマに対して、顔を赤くすることがある。だがそれとは全く異なる、もっともっと繊細で緻密な感情だ。頬を染めた様子は初心な少女そのもので愛らしいのに……それを見たアシュマは、なぜか、これまでに無いほど不愉快だった。

その後に見せた寂しげな顔もまたアシュマをイライラさせた。そうした表情を見せるウィーネに対して、ではない。ウィーネをそのような表情にさせたらしい、マクセンに対してだ。ウィーネはアシュマに向かって、そうした表情を見せた事がない。

「あのマクセンという男、不愉快だな」

ぼそりとつぶやいたアシュマの声が、ウィーネに届いてぎょっとした。

「ちょっとアシュマ、何言ってるの」

「別に」

いつもウィーネが「別に」と言っている、それを真似するようにアシュマが不機嫌な声で吐き捨てる。途端に、今まで抑えられていた魔力の存在感が噴出した。気付いたウィーネが、闇の魔力の禍々しさに眉をひそめる。

「アシュマ、止めて。……変なことしないで」

「変な事? どういう意味だ」

「何考えてるのよ、そんな、魔力……ちょっと」

アシュマが冷たい目でじろりとウィーネを睨んだ。今までに無い不機嫌な表情に、ウィーネがびくりと身を竦める。

「……な、彼に変な事しないでよ」

「それは、……命令か」

「は?」

「命令か、契約か、と聞いている」

今まで見た事のないアシュマの魔力と表情だ。……噴出している魔力は強力なわけではない。ウィーネに注ぎ込んでいる時に感じる強さも無い。ただ怒っているように熱くて、それなのに冷たかった。初めてアシュマを呼び出した時だって、こんな風にウィーネを不安にさせたりはしなかった。アシュマが何に怒っているのかは分からないが、その「本気」の様子にウィーネは首を振る。

「お願い」

「……契約か」

どんどん不機嫌になってくる。こくりと何かを飲み込んで、ウィーネは言葉を搾り出した。

「……契約よ」

「よかろう」

糧は後で貰う。……そう続けて、アシュマは表情を凪いだものに戻した。少しだけ落ち着いた魔力にウィーネもほっとするが、別段アシュマの機嫌が治まったわけではない。……むしろ、不機嫌さは増した。ウィーネはいつも使役と糧の交換を嫌がっているくせに、マクセンという男1人のためにそれを簡単に飲んだのだ。今度はそれに苛立つ。……かつて、学校に属するものに手を出さない……という契約を得たことがあったが、それとは全く異なった。

だが、糧と使役の交換は為された。アシュマはマクセンにも、それに属するものにも手出しをする事はないだろう。

2人の間になぜか気まずい雰囲気が落ちたころ、マクセンがお茶とお菓子を持って戻ってきた。どことなく緊張した2人の様子に、不思議そうな面持ちだ。

「どうしたの、さっきの間に喧嘩でもしたかい?」

くすくすと笑いながら2人の向かいに座って、お茶を出す。アシュマがちらりとマクセンを見たが、マクセンはにこりと肩を竦めただけだった。

今、アシュマはシエナ家に滞在している時のように、魔力を抑えているわけではない。いってみれば上位2位の闇の魔力を噴出させている。普通の人間であれば、このようなアシュマを前にした場合本能的な怯えを感じるはずだ。だが、マクセンの様子は至って普通である。

人間の中には、稀にこうした鈍い者がいる。魔力を形作る六界という存在を感じる事のない人間だ。それは良い悪いというものではなく、ただ感じないというだけで、マクセンもそうした類の人間なのだろう。

「喧嘩なんてしてないわ。……あの、マクセン」

「ん? なんだい」

「これ……母が、子供が生まれたお祝いにって」

アシュマが持っていた可愛い籠を取り上げて、ウィーネはそれを差し出した。受け取ったマクセンが、そっと布を取ってみる。中身を見て、実に嬉しそうに屈託無く笑った。

「やあ、これはウィーネのところで作ったブドウのジューレだね。夫人の作るブドウのシロップもジューレも美味しいから助かるよ。これ、お菓子の材料にしてもいいかな」

「うん。お母さんも喜ぶと思う」

「出来たら食べて欲しいな。あ、これ新作だからよかったら食べて。キュッフェルはちゃんと包んでおいたからね」

「ありがとう」

マクセンは一口大のケーキをウィーネに促した。粉砂糖を降り掛けた小さな焼菓子で、ドライフルーツが練り込んである。マクセンはアシュマにも同じケーキを差し出した。

「アシュマール君も、よかったら」

しかし、アシュマは表情を消した顔でそれを見下ろしただけで、是とも否とも返事をしない。先ほどとは全く異なり、冷たい様子のアシュマに対してマクセンは少しだけ困った顔をした。「甘いものは苦手だったかい?」と気まず気に頭を掻くと、なぜかウィーネが2人の顔を交互に見ながら慌てた。

「別に、アシュマは甘いもの嫌いじゃないわ、ちょっと何機嫌悪くなって……」

「ウィーネ」

ちょうどウィーネは、一口大のケーキをフォークに刺したところだ。アシュマはウィーネの手首を掴み、刺しているケーキを口に入れた。ふん……と鼻を鳴らしてもぐもぐと咀嚼し、こくりと飲み込む。その様子を、ウィーネとマクセンは瞳を丸くして見つめていた。

「……えっと、美味しいかな」

アシュマはマクセンの質問には答えず、自分のフォークで目の前の小さなケーキを刺し、真顔でウィーネに差し出した。

差し出されたウィーネは、一瞬、葛藤する。

アシュマの瞳は「糧をよこせ」と言っていた。

……思わずぱくりと口にする。表面はさくさく中はふんわりとしたスポンジケーキは温かみのある甘さで、マクセンの人柄を現しているようだ。懐かしいマクセンの作るお菓子の味にウィーネの胸がほんわりしたが、顔を上げるとどことなく生温かい空気を感じた。目の前で食べさせっこしたのだから、当然だろう。マクセンが苦笑した。

「あは。いやはや……仲が良いね、2人とも。味はどうだったかな?」

「悪くはない」

「あああああ、美味しかったわ! 粉砂糖が繊細で……中のフルーツも、細かくて……あ、でも、歯触りがあっても面白いかも。だけど、その、すごく、マクセンっぽい味がする!」

アシュマの「悪くない」という上から目線の批評にかぶせて、ウィーネが立ち上がって大きな声を張り上げた。その迫力に、マクセンが思わず仰け反る。座ったままウィーネを見上げていたが、顔をくしゃりとさせて笑った。

「ウィーネはいつも、ちゃんと味わってくれるね」

その笑顔を見て、ウィーネの顔が赤くなる。

「そ、そんなこと……」

「仲のいい彼氏も連れてきて、レリアもきっと会いたがるよ」

「あ……」

妻の名が出てきたとき、ウィーネは心がちくんと痛む。そんな自分に、ウィーネはほとほと嫌になった。別にマクセンのことをいまさらどうこう思っているわけではないのだ。……ただ、3年前失恋した近所のお兄さんというだけ。それでも初恋の人……というのは特別な存在らしく、その姿を見ると少しだけ胸がドキドキするし、赤ん坊がいる……というちょっと生々しい事実を見せられると胸が痛くなる。多分、叶わなかった初恋の人がいる女子ならば、誰もが皆持っている、どうにもならない感情のはずだ。

それは、初恋の人の妻への嫉妬などではなくて、かといって今でもまだ初恋の人が好きだからとか、そういう感情でもない。けれど何か、もやもやと切なくてちょっとだけ痛い。とても微妙で、ウィーネの年頃……17歳の少女には扱いが難しい気持ちだった。はっきりと言うと、今は放っておいて欲しいのだ。

だが、マクセンという気のいい優しい若者に、17歳の少女の気持ちなど分かろうはずが無い。

「そうだ、よければ子供、見てってくれるかい? 丁度、店も閉めるし家に戻れば……」

「あの、えっと」

マクセンに悪気などないはずだ。ただ幼馴染の少女に、愛する我が子を見てもらいたいと思っただけなのだ。ウィーネだって分かっている。そのことに、ものすごいショックを受けているわけではない。生まれた子はお祝いするべきだろうし、おめでたいとも思うが、でも、今は別に……見たいと思わない。どうしたものかとウィーネが困っていると、ガシャン! ……と硬質な音がした。

「あ、失礼」

マクセンの手元にあった珈琲カップが割れてしまった。ちょうどマクセンが手に取ろうとしたときに、パリンと割れたようだった。ウィーネがアシュマを見るが、アシュマは涼しい顔をしている。僅かに感じた魔力に、カップを割ったのはアシュマだとウィーネには分かった。しかし、マクセンは自分の手元が滑ってカップを落として欠けさせてしまったと思ったようだ。

「はあ、またカップを割って……って、レリアに怒られてしまうな。片付けるから、ちょっと待ってて」

そう言ってマクセンが立ち上がると、アシュマも立ち上がった。ウィーネの腰を抱き寄せて、鋭い視線で一瞬マクセンを見たあと、すぐにウィーネに視線を戻す。

「……ウィーネ、そろそろ帰らなければ。夕方までにやっておきたい課題があったのだろう」

「あ、もうそんな時間かい? ごめんよ、引きとめてしまって」

マクセンも立ち上がった。やっぱり魔術学校の生徒さんなんだね、勉強熱心なんだ……とか言いながら、用意していたお菓子を持ってきた籠に入れてくれる。

「そっか……。今日は残念だけど、帰りにまた寄ってくれる? レリアも来られると思うから」

マクセンの言葉に曖昧にうなずくと、ウィーネはお菓子のお礼を言って店を出た。帰る空気になって、ウィーネはなぜかホッとした。

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アシュマはウィーネの手を掴むと強引に引っ張って通りを歩き始めた。お互い無言で、いつもだったら別に沈黙が落ちたとて気にならないのに、ウィーネはどことなく不安だった。

「あの、アシュマ?」

「何だ」

「その、なんで、怒っているの」

「別に、怒ってはいない」

だがアシュマはウィーネの方を見ずに、ウィーネの手首を掴んだまま早歩きで進んでいく。どう見ても怒っているがそれ以上追求出来る雰囲気ではなく、ついて行くだけで精一杯だ。ほとんど走るようにウィーネが手を引かれて前のめりになっていると、案の定つまづいてしまった。

「きゃっ」

アシュマの手が伸びて、ウィーネの腰をさらう。転倒はせずにすっぽりとアシュマの腕の中に抱えられた。

「……世話の焼ける」

何それ。
そもそもアシュマが手を引っ張ってあんなに早く歩いたせいではないか。そう思って、カチンと来て、ついつい言い返してしまった。

「なにそれ。アシュマが早く歩くからでしょう?」

「……」

珍しくアシュマは言い返すことなく、ウィーネをじっと見下ろした。「あ、は、離してよ」と慌てて身じろぎをしたので、大人しく手を離してやる。

今度は手首を掴まずに指を絡めて、黙ってゆっくり歩き始めた。

アシュマは非常に不愉快だった。特に、ウィーネにあのような顔をさせるマクセンという男だ。ウィーネは明らかに困っていて、感情を持て余し気味の様子だった。それに気付きもせずに長居をさせようとするマクセンにイライラし、アシュマは適当な理由をつけてあの場からウィーネを連れ出したのだ。

シエナ家のアルカディがウィーネにつきまとっても、マグネティがウィーネの頭をなでても何とも思わなかったのに、マクセンがウィーネに触れた時は苦々しい思いが込み上げた。ウィーネがマクセンを見る視線が、さらに苛立ちを増幅させる。

その苛立ちの正体が分からず、それもまた不愉快だった。