誘う悪魔と召喚主

014.足りぬと言ったろう

その日の夜は、思ったより和やかに過ぎていった。

マクセンの話題は世間話程度で、兄達がやきもきするほどウィーネは気に留めなかったし、もっぱらウィーネが学校でどのように過ごしているか……という話を、アルカディに聞かせていた。ウィウスも昔は魔術学校の生徒だったから、当時と今とでずいぶんイベントは様変わりしたなどと話題に加わり、時折、妻が楽しげに相槌を打つ。首都で騎士の仕事に就いているフィンティも、都会では何が流行っているか……などを、仕事の報告に織り交ぜて口にしていた。

「まあ寒いと思ったら雪が降っているわ」

お菓子を切り分けていた母のファティネが、窓の外を見ながら言った。視線につられて、ワインを配っていたウィーネも窓の外をちらりと見遣る。積もるほどではなさそうだが、白い雪がはらはらと落ちていた。

この国では年末年始だからと言って、特別なことをするわけではない。家族そろって同じものを食べて、同じものを飲み交わして過ごすというそれだけだ。シエナ家では、1ヶ月かけてファティネが作ったプラムプディングというお菓子を切り分け、それを温めたワインでいただく。ひさしぶりに過ごす年越しの時間に、ウィーネもほっと息を吐いた。

温かくしたプラムプディングを口に運びならが、ちらりと隣のアシュマを窺う。アシュマはマクセンへの態度も、その帰りにウィーネを貪った激しさも、まったく感じさせることがなく過ごしている。今も、普通にもぐもぐとプディングを食べていた。鋭い眼も冷たそうな外見も変わらないのに、ウィーネの家族に囲まれて、シエナ家伝来のプディングを食べながらモルドワインを飲んでいる悪魔の仮の姿。ずいぶんシュールな光景だと思った。

アシュマは時折、魔術学校がどんなところなのか、何を食べているのか……と言った質問を、アルカディから受けていて、あくまでも丁寧な物腰でそれに答えている。アルカディも、だいぶアシュマの存在に慣れたようだ。

その様子をしげしげと眺めていたら、アシュマがウィーネの視線に気付いて振り向いた。

「ウィーネ、どうかしたか?」

「別に……プディング美味しい?」

聞いた途端、悪魔に向かって馬鹿な質問をしてしまった……とウィーネは難しい顔をしたが、アシュマは素知らぬ風に「ああ」と頷いた。その様子に、ついウィーネは……相手が自分の使い魔だということを忘れた。親しい同級生が、自分の母の作った自慢のプディングを褒めてくれた……と、そんな錯覚を起こしたのである。

「そ、よかった」

そう言って、ウィーネはアシュマに向かってほわりと笑う。

悪魔は瞳を丸くした。

****

皆が寝静まったシエナ家の居間で、主人のウィウスと長男のフィンティが向かい合って座っていた。2人に挟まれたテーブルの上には、何枚かの書類が重ねられている。その書類には魔術学校の「ウィーネ・シエナ」と「アシュマール・アグリア」の成績と個人情報が記されていた。

その中の1枚を手にとって、ウィウス・シエナは顎をなでた。

「何もなかったか」

「なーんも無かったぜ。こちらから調べる情報にはなんにもな」

「ふむ……」

父親の言葉にフィンティが肩を竦めた。

ウィウスはフィンティが調べてきた情報に再び眼を通す。だが眼を通しているふりをして、別段内容を確認しているわけではなかった。

最初は「アシュマール・アグリア」という奇妙な魔力を持った生徒について、丁度の王城で仕事をしているフィンティに調査しろと命じたのだ。ウィウスは国でも名を知られた魔法武器、魔法工具、魔法装置に関する技術者であり研究者である。今でこそ妻のファティネに惚れこんでこうした田舎で農園を営んでいるが、本来ならば魔術学校の教員であったり国の魔法使いとしても望まれるほどの人物だった。自らが開発した装置の特許料だけで、家族を養うことが出来るほどの財もある。

そうした伝手は、望めば今でも使うことができる。その伝手をフィンティに使わせて、魔術学校から生徒情報を引き出したのだ。

怪しい男子生徒がウィーネを訪ねてきた時、もちろんウィウスは警戒した。アシュマール……娘のウィーネは「アシュマ」と呼んでいるようだが、そのアシュマは、家に設置してあるどの魔力計にも一切魔力を感知させなかった。魔術学校の入学の条件は、魔力を有する事である。だから生徒であるのに魔力を持たない……ということはありえない。魔術学校からここまで、魔力を有しないものがやってこようとすれば2,3日は軽くかかる。それなのに、アシュマはユール・ログが終了してからすぐにやってきたはずのウィーネよりも、先にここに到着した。どのような手を使ったとしても、魔法を使わずにそれは無理なはずだ。

だからアシュマが訪ねてきた時に、すぐにフィンティに連絡を取った。

――― 魔術学校にアシュマール・アグリアという生徒は存在するのか。どのような生徒なのか。

アシュマが魔法馬車を動かした時も魔力計は魔力を感知しなかった。何らかの方法で、周囲に感知させない力を使用しているのは明らかだった。

父の命令を受け取ったフィンティは二つのアプローチで情報を収集した。1つは一介の騎士が入手できる程度の公開された情報、もう1つはシエナ家の伝手を最大限に使い限界まで機密に近付いた情報。アシュマの魔力にウィウスの思うような秘密があれば、魔術学校は必ず掴んでいるはずだ。そして掴んだ内容は一般には公開される事が無く、機密事項として後者の情報に付随されるだろう。

だが、入手した2つの内容から得られる情報は、ほとんど変わりが無かった。

ウッド級程度の機密情報も付随していないとは、よほど隠したい事項らしい」

「機密情報の有無すら隠してる、ってわけか」

「そういうことだ」

ウィウスはため息を吐いた。情報の漏洩が恐ろしいならば、そもそも情報など持たなければいい。……魔術学校の校長はそう考えたのだろう。白金プラチナ級の機密情報は、校長と校長が信頼している人間しか有していないのではないか。ということは、記録は校長室の中にしか置いていないに違いない。どのような手で情報を探し出しても、無いものは見つからない。機密があるはずなのに「ある」ことすら隠されている……ということは、それほどの機密が確かに存在するということなのだ。

「今はこれ以上は無理か」

ふうむ……とウィウスは再び唸った。

「あいつ……アシュマール・アグリア……だったか、親父から見て……どうなんだよ」

「そうだな……」

ウィウスは手を組んでその上に顎を乗せた。

恐らく、魔法使いとしては相当腕が長けているのだろう。自分の魔力を巧妙に隠しながら魔力を操作する。呪文を唱えたり魔法陣を組み込んだりしている様子は無いから、無詠唱でそれを行っているということだ。そのような人間が存在するとは思えない。

「人間業とは思えないな」

しかし、あの生体は確かに人間だ。

「な、なんだよそれ!」

「そうした者がウィーネのそばにいる……ということだ」

「そんな、怪しいじゃねえか、思いっきり……」

「怪しいが……だが……」

一番問題なのは、そのことを娘のウィーネが警戒していない……ということだ。娘とて馬鹿ではない。ウィウスの眼から見ても聡い魔法使いで、立派な魔法陣や術式を組む。そのウィーネが、あれほどそばにいるアシュマの特殊性に気付かないはずが無い。それなのに、何の手も打たなければ親に相談もしない。

アシュマに脅されているとか、操られているとか、そういうことも一切感じられない。

何よりも、アシュマ自身からウィーネや家族に対する悪意や敵意が感じられないのだ。特にウィーネに対しては、思慕に近い感情を抱いているようにも見える。普通の男子生徒が、普通に女子生徒を想っているように見えるのだ。それをウィーネが少女らしい、つんとした態度であしらっているように見えた。

下手に手を出して眠れる獅子を起こしてはウィーネのためにならないのではないか。
ウィーネから離れろと命じて、果たして大人しく納得する人物だろうか。

娘は純粋な闇の魔力の持ち主だ。そうした特別な力を好む輩も、魔法を生業とするものの中には少なからず居る。うまくいけば、ウィーネを……そうした者から守る騎士ナイトになり得るかもしれない。

問題があるとすれば、魔術学校の生徒情報に寄れば、アシュマは娘のウィーネと同じ純粋な闇の魔力の持ち主だということだ。

「娘の魔力に擬態している?」

ウィウスは服のポケットから小型の魔力計を取り出した。一瞬だけ揺れた魔力は闇の魔力。その控えめな輝きは、確かにウィーネのものだった。

****

全部欲しいのに手に入らないものがある。それが極上の響きを持つ感情であれば、そうした存在があるというだけで手に入らなかったことが忘れられない。結局それがどうでもよくなるほど交わり合うしか、自分を抑える手立てが無い。

ウィーネが風呂を使った気配を見計らって、アシュマは離れの寝室にウィーネを連れ去った。真の姿を現すと、コウモリ羽を生やした漆黒の体躯でウィーネを寝台に組み敷く。腕を掴んで、ちいさな少女の身体に圧し掛かる。

「やめてよ、アシュマ、重い! どいて、掴まないで」

「はつこいとはなんだウィーネ」

唐突に連れて来られたウィーネは、いつものようにじたばたと暴れた。そうした様子を見下ろしながら、淡々と素朴な質問を投げかけた。ウィーネは悪魔からの思いがけない可愛らしい問いに、組み敷かれているのを一瞬忘れて、危機感の薄いきょとんとした顔をする。

「え? は、はつこい?」

「マクセンがお前のはつこいだと、マグネティが言っていた」

「……マグ兄のバカ……!」

かあ……とウィーネが頬を染めて、アシュマから視線を逸らした。その顎をつかんでアシュマは自分のほうを向かせる。

「教えろ、ウィーネ」

「そ、そんなの……っ」

「初恋」とは何か……と悪魔から脅されるように問われて、浮かれて答えることの出来る人間が居るだろうか。今は真の姿をとっているアシュマの紅い双眸からは、全く表情は読み取れない。友好的とは思えない無表情で聞かれても、「初めて好きになった人」などと答えられるわけがなかった。そもそも、そんなはっきりとした明確な恋心を抱いていたかも、今となっては分からないのだ。

ウィーネはそっぽを向いて否定した。

「別に、初恋とかじゃないもん」

「だが、マクセンを見ているお前は、普段とちがう」

「え……?」

「お前はもうあの男のことは見るな」

「は?」

「あの男だけではない。他の男もだ」

「なにを言って……」

「お前は我のことだけを見ていればいいのだ」

グゥ……と獣じみた呼気が零れ、悪魔の喉が鳴った。ウィーネはこの使い魔のことだけを見ていればいい。アシュマは本気でそう思った。

かつてはウィーネの魔力だけでよかった。……だがそれだけでは不満になり、ウィーネの魔力に絡む感情を欲した。今ではそれでも足りなくなって、ウィーネの視線も声も身体も、アシュマのものにしなければ気がすまない。

しかし例え、それだけのものを手に入れたとしても、アシュマには分かっている。何かが足りないのだ。

マクセンを見る視線などウィーネから生み出されなければいい。夜、アシュマに笑いかけたように、この悪魔のことだけを見ていれば。

じり……とアシュマの身体がウィーネの上に圧し掛かり、寝台と背中の間に腕が差し入れられて身体が浮く。アシュマはウィーネが着ているワンピース型の夜着の裾に手を掛けて、そのまま捲り上げた。

「やっ……」

「糧だ」

「それならもうあげたでしょう」

「足りぬと言ったろう」

「どれだけあったら足りるのよ!」

どれだけあっても足りない。……そう言おうとして、アシュマは別のことを口走った。

「笑え、ウィーネ」

「はい?」

「もう一度笑え」

言いながら悪魔がウィーネにそっと口付ける。使い魔の求めているものが何なのか、与えるべき召喚主には分からなかった。