女性が好きな男性にショコラトルと呼ばれる黒い色の菓子を渡して、思いを告白する日『ヴァレンティヌスの日』
しかしながら、実はショコラトルを渡せば終わり……ではないのである。
その日からちょうど一ヶ月後。
今度はショコラトルをもらった男性が贈ってくれた女性へと、お返しをするという日がある。
アルバースの日……と呼ばれるその日は、実はヴァレンティヌスの日よりも、多くの者達を惑わせる日であった。
『アルバースの日には3倍返し』
一体何処の誰が考えたのか、この悪魔のようなフレーズは、国中の女性を未来への投資へと走らせ国中の男性にプレッシャーを課した。
そして、今年もその日が近付いてくる。
ヴァレンティヌスの日が終わった翌日から、巷で売られる美しい菓子はショコラトルからマーシュと呼ばれる、白いふわふわの飴菓子に取って代わり、雑貨屋は女性が好きそうな愛らしいもので溢れかえる。若い男性が読む本には、今年の女性の流行情報の分かりやすい解説が掲載され、予算別・関係別・年齢別に、オススメのプレゼント特集が組まれるのだ。
魔術学校の男子生徒も例外ではない。
特に魔術学校では、女子生徒から手作りショコラトルをもらう男子生徒が多い。手作りという想いが込められたショコラトル、そんな贈り物に対して何を返すか……思い悩む男子生徒らは、それぞれ周囲の生徒らと情報交換を交わすのである。
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魔術学校の在る都市の、丁度学校から程近い一画に、流行りと価格のバランスが取れた、若者でも買い物のしやすい街がある。そこには首都でも有名な高級店も支店を出しており、学校に通う生徒でも少し背伸びをすれば手の届く、ちょっと贅沢な買い物が出来る店も多くあった。
そんな通りにある王室御用達飴細工の店は、先日とある雑誌に「女子へのお土産に一番喜ばれるのはこのお店!トップ5」の1位に選ばれた。そのせいか、店内は魔術学校に通う男子生徒で溢れかえっている。
「……テオドーラの分、アナの分、エウラの分、ローリアの分、リヴィアの分……こんなもんかな」
誰に何をどの程度買えばいいのか悩む男子生徒も多い中、1人の男子生徒は迷うことなく、ちらりと商品を見てはそれを誰に買うかを即座に決定して籠の中に入れていた。色も形も様々で、美しい花の装飾が施されたものもあれば愛らしい動物の形のものもある。だが、その男子生徒に迷いなどは一切なく、手慣れた様子だ。男子生徒は魔術学校の制服をだらしなく着崩し、ネクタイもボタンも緩めていたが、どこかそれが様になっている風情でもあった。
男子生徒は鼻歌すら交えて楽しげに商品を選び終えると、勘定待ちの列の最後尾に並んだ。籠の中に入っている飴細工の数は、男子生徒のもらったショコラトルの数に比例する。この男子生徒はかなりの数の飴細工を籠に入れていて、アルバースの日にこれを全て配るのは、いかにも大変そうに見てとれた。
「これで全員分かな。はー、モテる男はつら」
「これだけ買うのか、ネルウァ・セルギア」
「ふおう!」
ネルウァと呼ばれたその男子生徒のすぐ後ろに、いつの間にか異様な存在感の気配が立っていた。ネルウァよりも少しだけ背の高い場所から見下ろしているのは、紅茶色の鋭い瞳だ。褐色の肌に赤い髪という出で立ちで、にこりともせずにネルウァとネルウァの持っている籠を交互に見た。
「3倍返しと言っていたな。随分とたくさんもらったのだな」
「お、おお、おう、まあな。なに、アグリアもアルバースの日の買い物?」
「ウィーネが欲しいと言っていたから来てみただけだ」
ふん……と面白くなさそうに眉をしかめて、店内を見渡しているのは、アグリア……アシュマール・アグリアというネルウァの同級生だ。その回答はネルウァの予想した通りのもので、その割に機嫌が悪そうだった。ここは逆らうようなことはいわない方がよさそうだ。なにせ、機嫌の悪い時のこの男は、悪魔の背筋も凍りそうな魔力を垂れ流して相手を威嚇するのである。
ウィーネというのは2人の同級生の女子生徒で、アシュマール・アグリアがつきまとっている生徒だ。つきまとっている……というのはウィーネの言い分で、誰がどの角度から見ても2人は付き合っているように見える。だが、アシュマに聞いても「恋人などという関係ではない」というし、ウィーネからは「付き合ってなんかないわよあんなのと!」とぷりぷりした答えが返ってくるのだ。男が女の腰や肩にやさしく触れて手をつなぎあう、それが毎日ともなれば付き合ってもよいだろうに。
「んで、アグリア、お前の買う分は?」
「俺は、あのショーケースの中の飴を買う」
「ああそう、お高い奴で結構なことだな」
棚売りに出ているものに比べると、ショーケースの中にある飴菓子は店内に並んでいるどれよりも高価で、王室御用達の名に恥じぬ商品ばかりだ。それも細工物のように見目がいいものばかりではなく、高価な材料と手間暇を掛けたシンプルなものが並ぶ。とはいえ、単なるお菓子だから少数ならば魔術学校の生徒には買えない……というほどではない。いわゆる、本命……というやつである。
アシュマが女にアルバースの飴菓子を買うなら、ウィーネ一択も当然か。アシュマはウィーネ以外の女子生徒に目を向けた事は無いし、興味を見せた事がない。いつもウィーネ一筋で、ウィーネの後ばかりを追いかけている。……といえば、余裕があるのはウィーネの方に聞こえるが、アシュマの清々しいほどの上から目線は、自分が絶対であることを知っている強者の余裕だ。
しかし、その割にアシュマは女に疎い。……色事に疎い、と見える部分がある。
「セルギアは、棚売りのものだけか」
「ああん? これは義理返しのやつだけ。本命は別に買うぜ」
「本命?」
しまった。ネルウァは、うっかり口を滑らせた自分のうかつさを呪った。つまらなさそうにショーウィンドウを覗いていたアシュマが顔を上げ、興味を持ったようにネルウァを正面に見る。やべえ、捕捉された……と思った瞬間には、その視線からはもう逃れられなかった。
渋々言葉を続ける。ネルウァには最近付き合い始めた女子生徒がいるのだ。
「そりゃ……付き合ってる女には、特別なもんをやるだろ普通は」
「……特別か」
「あ、ああ」
アシュマは何か考え込んでいる様子だ。アシュマにとって「特別」はウィーネ以外ありえない。それなのに「付き合っていない」どころか、付き合うことを拒否しているようにも見えるアシュマのことが、ネルウァには不思議でたまらなかった。
「つか、お前ら、まじで付き合えばいいのに。男避けにもなるだろ」
「……男避け?」
「あー、いやなんでもねえ」
思索から顔を上げ、アシュマが首を傾げた。何の話だ、……と言わんばかりに眉間に皺を寄せる様子に、ネルウァが慌てて首を振る。
「……まあ……ヴァレンティヌスの日に、好い女からショコラトルだろうが別のなんかだろうが、『これは貴方のために』って言って、ものを貰うんだぜ? それの返礼だったら、その女のために何か選んでやるのが男ってもんだろ」
「どういうものを」
アシュマは不機嫌な様子を消してフラットな雰囲気になり、ネルウァを見据える。ネルウァは出来るだけアシュマの興味を自分から逸らそうと、しかし自分を味方だと思わせることだけは忘れぬように話題をつなげた。
「女は小さくて高価なものが好きだからな。……俺は、女とデートついでに一緒に買いに行く予定だぜ」
「小さくて高価なものか」
「ああ、分かるだろ? 女なら誰だって喜ぶさ」
そこまで話して、ネルウァの会計の順が来た。後ろのアシュマも話題から離れて、別の店員にショーケースの中身を聞かれている。一番高くて一番美味らしい、それこそ王族の口に入るような綿飴菓子を買っているアシュマをちらりと横目で見ながら、何事もなく話が終わった事に安堵の息を吐いた。
おまけに恋のアドバイスまでするのだから、俺ってすごくね?
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甘い砂糖の香りと揚げた生地のよい香りが、店の外まで漂っている。
ふわふわの生地を丸い形にして揚げたものに粉砂糖を振ったベーニエと呼ばれる菓子を売っている、街で一番人気の店だ。ちょうど小腹の空いた今の時間は魔術学校の生徒たちで行列ができていた。
その店の前にある広場のベンチで、黒い髪の少女と赤い髪に褐色の肌の青年が並んで座っている。黒い髪の少女は、フードの付いたロングーケープの裾から臙脂色のスカートをちらりと覗かせている。黒いタイツに合わせたブーツを機嫌よさそうに揺らしながら、揚げたての菓子を一口ほうばったところだ。
「熱っ」
「一口が大きいからだろう」
「だって」
隣に座っている青年はそんな少女を呆れたように見ながら、少女が持っているのとはまた別の、小さめの揚げ菓子を手にしている。投げ出した長い足は黒いスキニーにエンジニアブーツ。着ているジャケットも真っ黒だ。
「アシュマ、そっち食べないの?」
「欲しいのか」
「違うわよ、食べないから聞いてるの!」
言われてアシュマは、ふん……と鼻で笑い、小さめの揚げ菓子を串で刺して口に運んだ。じい……とそれを見ていた少女の表情に怪訝そうな顔をして、飲み込んだ後に口を開く。
「欲しいのか、ウィーネ」
「だから違うって! ……あの、そっち、おいしい?」
「やっぱり欲しいのだろう」
「ちーがーう!」
アシュマにからかわれたウィーネは、むっとして、手に持っていた輪っか型の菓子をもう一口かじる。熱々ほわほわの生地に粉砂糖のすっきりとした甘味、顔が自然と綻んでウィーネは「うふん」と笑んだ。
「おいし」
じ……とそれを見ていたアシュマは、不意にウィーネの唇を人差し指で撫でた。「んぐ」とくぐもった声を出して、ウィーネが身を引く。
「なに」
「砂糖が付いている」
「口で言ってよ、そういうことは」
「言ったではないか」
「先に手が出て……」
言い掛けたウィーネの顔が翳った。
唇を重ねようとでもするかのように近付いてくるアシュマの顔にぎょっとして、さ……と横に避ける。
「何故避ける」
不服そうに表情を歪めたアシュマの顔をさらにぐいぐいと押しやりながら、ウィーネは当たり前じゃない!……と声を荒げる。……ただ大きな声を出すと周囲に不審がられるので、あくまでも小さな声でひそひそと……だ。
「当たり前でしょう? 今何しようとしたのよ!」
「……口で、と言っただろう」
「口で、言って、って言ったの!」
アシュマは、く……と小さく笑うと、自分の持っている揚げ菓子の最後の1つをウィーネに差し出した。思わず、ぱくん……と一口で食べる。中にたくさんの空気を含んでいて、ウィーネの食べているものとはまた別の優しい甘さだ。こちらもまた美味しくて、ウィーネはもぐもぐと大人しくしてしまう。
「美味いか?」
「……うん」
満足気な顔でアシュマは頷くと、ウィーネの横髪を払い、ついでにこちょこちょと耳元をくすぐった。くすぐったさに身を竦めて逃げを打つウィーネを、特に追いかけもせずに手を離すと立ち上がる。
「待っていろ」
「どうしたの?」
「飲み物を取ってきてやる」
「待ってよ、私も」
「いいから座って食べていろ。お前は食べるのが遅いし、食べ物を持って歩くと転ぶ」
アシュマの言葉にウィーネは、むう……と眉根を寄せたが、立ち上がりかけた腰を大人しく下ろして、残っている自分の分のお菓子をほおばった。
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今日はアルバースの日だ。
丁度魔術学校は休みとあって、この休日をカップルで楽しんでいる生徒たちも多い。
ウィーネはアルバースの日など関係なく、街で一番大きな本屋に行って魔術雑誌の新刊を買う予定だった。魔術学校の購買でも買う事は出来るのだが、久々に街に出て、噂の揚げ菓子屋さんなどに行ってみようかなと思っていたのだ。
部屋を出る時は1人だったが、魔術学校の玄関でアシュマに待ち伏せされていて驚愕した。
それで、仕方なく一緒に街を歩いていたのだ。
アシュマール・アグリアの正体は人間ではない。ウィーネの使い魔、闇の界上位2位の悪魔アーシュムデウ・アクィナス・ラクシュリアスがその本性だ。しかし、その悪魔が一体なぜ揚げ菓子屋の場所を知っているのか。
結局、揚げ菓子屋さんの場所が分からなかったため、アシュマに手を引いて案内してもらう羽目になった。魔術学校の生徒だけではない、普通の人たちも歩いている大通りだ。いつものように手を離してとか、くっつかないでとか、あまり騒ぎ過ぎると目立つ事この上ないのはウィーネも学習している。かといって大人しく手を引かれるのも腹が立つ。これではまるでデートのようではないか。
悶々としているといつの間にか揚げ菓子屋さんまで来ていて、一緒に並んで買ってもらって、揚げたてが食べたいと言ったらアシュマがベンチにエスコートしてくれて、今に至るというわけだ。
相変わらず、アシュマはやたらとウィーネを甘やかす。口を開けば上から目線の俺様発言ばかりのくせに、今のように世話を焼いてみたり、強引に迫る訳ではなくそっと手を引いてみたり。そうしておいて、糧をくれ、褒美が欲しいと激しく戯れるのだ。止めてといっても結果は同じで、むしろ「止めて止めて」とじたばたするウィーネを楽しんでいる風情もあり、どう扱うべきか困り果てていた。
「ねえ、君、魔術学校の生徒さん?」
「かわいいね、2年生? 3年生くらいかな」
主にアシュマのことを思い悩みながらはむはむと揚げ菓子を食べていると、目の前が暗くなった。魔術学校に居る男子生徒とは全く違う、大人っぽい男が2人、座っているウィーネの前に立っている。スーツを少しだけ緩めに着こなした男は、爽やかで優しげな笑顔で首を傾げてウィーネを見下ろした。
「もしよかったら、少しお話しない?」
「僕ら、君みたいな可愛い子を」
穏やかそうな笑顔だが、どことなく軽薄な口調の男らの言葉を途中でさえぎって、ウィーネはきっ……ときつめの表情で視線を上げる。
「何の用ですか。私、人を待ってるんで」
「まあ、待って、待ってるって女の子? もしよかったら一緒に」
「ですから」
ウィーネはうんざり……と首を振って、立ち上がろうとした。それを塞ぐように男がウィーネの両脇に回り込み、さりげなくその肩に手をまわした、時だった。
「その手を離せ」
恐ろしく低い声が響き、1人の男の肩を何者かが力強く引いた。軽く触れただけのように感じたのに、信じられない勢いで後ろに引っ張られ、バランスを崩した男が尻餅をつく。
「何すっ……」
離れた男の位置にアシュマは回り込むと、ウィーネの身体を片腕で包み込んだ。その仕草は優しいが男らを睨み付ける眼光はぎらぎらと鋭く、しかも闇の魔力が周囲を一気に威圧する。男2人を空気だけで黙らせた。
「俺達に、何か用か」
問うてはいるが、答えを求めている雰囲気ではなかった。男が後ずさっているのを追い詰めるように、アシュマが一歩踏み出す。素人でも分かりそうなほどの力関係と一触即発の空気、そして殺気に男2人が色を失っていた。
これは不味い……と、ただ1人冷静に思ったのはウィーネだ。ウィーネは、ちょんちょん……とアシュマの服を引っ張って、ぎゅう……とそれを掴んだ。見下ろすアシュマの燃えるように紅く染まった眼光を、臆することなく見上げている。
「アシュマ、もう行こ」
「ウィーネ」
我に返ったようにウィーネの黒を覗きこんだアシュマの紅が、ふう……と緩んで細くなった。アシュマはウィーネの肩を抱き寄せると、「分かった」……とだけ言って、男に興味を失ったように背を向けて歩き始める。
立ち去る2人の背中に、こんな言葉が聞こえてきた。とても小さな声だったから、恐らくウィーネには聞こえていないだろう。悪魔であるアシュマの耳にだけ、それは届く。
「なんだよ……くそ、彼氏持ちかよ」
……彼氏持ち?
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「まったくお前は……少し目を離すとすぐこれだ」
「だって、私のせいじゃないじゃない」
アシュマが買ってきてくれたミルクティで残りの揚げ菓子を食べた後、ウィーネは再び手を引かれてアシュマと街を歩き始めた。手はきつくつながれているわけではない。指と指がゆるく絡まっていて、時折ウィーネのことを確認するようにきゅ……と力を込められる。
そんな些細な事に、ウィーネの心臓が甘く跳ねる。
この手を握り返したら、アシュマはウィーネの方を向くだろうか。そんな思い付きがウィーネに浮かんで、慌てて打ち消した。相手は自分の使い魔だし、使い魔だからといって気を許したら許したで、あんなことやこんなことをされるに決まっている。油断など出来やしない。
むずむずとそんなことを考えていると、相変わらず不機嫌な声が降ってくる。そもそも何故、アシュマが急に不機嫌になっているのかがウィーネには理解できない。口を開けば「ぼんやりしている」だの「警戒心が無い」だの「食べるのが遅い」だの、どうしてそんなことで怒られなければならないのだろうか。
「お前が、ぼんやりしているからだろう」
「何よそれ、大体、飲み物買うなら私も一緒に行くって言ったのに」
その言葉にアシュマが少し首を傾げて、薄く整った唇にニヤリと悪そうな笑みを刷いた。「なるほど、一緒に……来たかったのか」と口の中で言った言葉はウィーネに届かずに、むっとした顔で続けている。
「それに、別に私だってあんなナンパなんかについていかないわよ」
「そういう問題ではない、ウィーネ」
アシュマは、ロングケープの中に埋もれている細身の少女の顔を見下ろした。そこから覗く足はすんなりとしているが、筋肉はついていないからふわふわだ。そして悪魔は、ウィーネの姿形が……最近ではその雰囲気が、人間の男の目を惹き付けている事を知っていた。
実は、その一因にはアシュマの存在もある。アシュマが夜毎ウィーネを愛でれば、ウィーネすら知らぬうちに少女の中の女が芽を吹く。女というほど華やかな色気ではなく、かといって何も知らぬ純真無垢な少女というわけでもない。その危ういとろみのある雰囲気が、男の目を惹くのだ。
しかしそんなことをアシュマが知りようもなく、ウィーネに手を出そうとする男の視線がただ不愉快だった。まったく、ウィーネの言うように一緒にいればよかった。片時も目を離すべきではない。
そうした男らの視線からウィーネを逃すために、……そして何よりも、この不愉快な気分をどうしてやろうかと考えていると、つないでいる手の指が、すりすり……となでられた。その感触に心地よく呼ばれたような気がして、アシュマがウィーネに視線を向ける。
「どうした、ウィーネ」
「え?」
「呼んだだろう?」
「別に呼んでなんかない」
ウィーネが何故か赤くなって俯いていた。口の中でもごもごと何か言っていたが、急に思いついたように顔を上げる。
「ねえ、どこ行くの?」
「今日はアルバースの日だ」
「そうだけど……何?」
「ヴァレンティヌスの日の礼を返す日、だと聞いた」
「は……はあ?」
つまり、アシュマが……悪魔がウィーネに、何かを返そうとしているらしい。悪魔は一体何を言い出すのか分からない。勝手な使役に過剰な糧を要求してみたり、糧を「褒美」と言い換えてみたり。そうした今までのあれこれを考えると、どことなく嫌な予感がした。
「ここだ」
「え……」
「入るぞ」
1軒の高級な店の前で一瞬だけ足を止め、ウィーネが呆気に取られているとアシュマはぐいぐいと手を引いて店内に入っていった。
その店は、この国の女性ならば誰もが憧れる店だった。首都でもっとも流行の形、色、様々な種類を取り揃え、値段も魔術学校の女子生徒が軽々しく手にできるようなものではない、格式の高い店である。取り扱っている品物は、それこそ1年に1回、うんと背伸びをしてもやっと手が届くかどうか……というほどのものばかりだ。時々、若い女子たちの憧れの品として雑誌などでも紹介されているほどで、ウィーネも例外ではなく、何度かいいなあと眺めたことがあった。
まさかそんな店に連れてこられようとは思わず、ウィーネの腰が引ける。
「いらっしゃいませ」
こうした店には珍しい若いカップル……という2人が入ってきたにも関わらず、店員は決して嫌な顔ひとつせず、しかし高級な雰囲気も崩すことなく綺麗な礼でもって迎えた。顔を真っ赤にして周囲をうかがうウィーネと、そんなウィーネの腰を堂々と抱き寄せて、アシュマが悠然と店員の礼を受け取る。
男女2人連れの客には慣れているのだろう。
「そちらの女性に?」
「もちろん」
「では、早速サイズを計りましょう。こちらへ」
現実を把握できないまま、ウィーネはアシュマの手から女性店員の手に引き渡された。