黒の貴公子の華麗な婚約

004.一番気持ちがよかったのがルクレツィアの

「うひぃ!」

うとうとしている子供が急にびくんと身体を揺らしたかのように、大げさなほど仰け反ってジャンティーレは目を覚まし、同時に身体を起こした。自分の身体の下には毛足の長い絨毯、上にはショールと上掛けをかけられていて、頭にはいくつかのクッション、抱き締めていたのはルクレツィアではなくこれまた大きなクッションだ。

「え、ええ!?」

暖炉の火は全て燃え尽きていて、部屋の明るさは夜に灯す灯りではなく窓から差し込む陽の光だ。そして何よりも寒い、肌が寒い。

恐る恐る自分の下半身を見てみると、下穿きは思い切りくつろいでいたが、肝心の部分は全くくつろいではいなかった。今現在が朝の起き抜けという男の事情で、かなりギリギリだ。1人でよかった。こんなものルクレツィアには見せられない。

「……え?」

ひとり?

「ルクレツィア!?」

自分の隣にルクレツィアが居ない。一番大切なその事実に気が付いて、ジャンティーレはまさに飛び上がらんばかりに驚愕した。クッションをぽむぽむと叩いてみたが当然のことながらルクレツィアは出て来ず、きょろきょろと辺りを見渡してみたが、冷え冷えとした居間のテーブルの上は片付けられていた。……ということは、ジャンティーレが寝ている間に家人が部屋に入ってきたのだろうか。

手を見てみると、そこに一本のリボンタイが残っていた。ルクレツィアの胸元を飾っていた、紺色のリボンだ。そうだ、自分はこれを解いたのだ。匂いを嗅いでみると、僅かにルクレツィアの香りが残っているような気がした。

「……!」

ジャンティーレはあの時確かに酔っていた。酔っていたからこそ、出来た所行だった。だが、酔っていたからといって全て忘れたわけではないのである。むしろ覚えていた。鮮明に覚えていた。

夢のようだった。

ルクレツィアの身体は、どこもかしこも柔らかくて滑らかで、甘くてよい香りがした。口に含み舌を這わせ指で辿ると反応するルクレツィアの肌は、これまで己の妄想でしか無かった「ルクレツィア」の、どんな妄想よりも素晴らしかった。何よりもあの存在は妄想ではなく、あの行為も全て現実なのだ。この指で、この舌で、ルクレツィアのあの場所が濡れたのも、そこから溢れる蜜を舐め取ったのも、その度に聞こえたあの声も、全て、全て、現実なのだ。

そう、現実…… 何もかも鮮やかにはっきりと思い出せる。

一番気持ちがよかったのがルクレツィアの膣内なかで……

ん?

膣内なか

「お、俺……は」

入ったか?

いや、射精した覚えはある。はっきりとある。だが膣内なかに出したか? いやむしろ、挿れたか?

「お、……おお」

覚えていない。

まさか、その部分だけ思い出せないなどと。……いや、しかし今まで挿れたことがないのだから、どれほどの感覚なのか分からない。ただ、これまでに経験したことのないとんでもない気持ちよさだったことだけは覚えているのだ。その気持ちよさだけを思い出せば、もしかしたら挿れたかもしれない……と思うのだが、いや、だが。

恐る恐る、クッションを何個か退けて、ショールと上掛けをめくってみる。

そこにはがびがびになった絨毯があったが、血痕などは無かった。

しかしそれもルクレツィアが処女はじめてだったならば、と仮定しての話だ。

「何を考えているんだ俺は! 馬鹿か!」

馬鹿である。

ルクレツィアが処女なのかどうなのかを気にするなど、本当に馬鹿な男だ。いや気にしないといけないのだが、それは決してやましい気持ちで気にしているわけではないのだ。処女かどうかなんかどうでもいいんだ! いやどうでもよくないが。

それよりも膣内なかに出したか出していないか。挿れたか挿れてないか。どちらにしてもジャンティーレにルクレツィアを選ばないという選択肢は無いのだが、それはジャンティーレの都合である。女性にとっては重要であるはずだ。初めてだったのか、膣内なかで出してしまったのか。それを覚えていないなど、男としてはあるまじき行為だ。

失格だ。

「男として失格だ」

どすどすと頭をクッションに打ち付けて気持ちを落ち着け、ジャンティーレはもう一度絨毯に触れてみた。なんだかがびがびの割にしっとりしている。腹にも触ってみると、やはりかぴかぴで、我ながら気持ち悪かった。

「最低だ」

最低である。

「ルクレツィア!」

だが迷わなかった。

男として馬鹿でも、失格でも、最低でも……もう、迷ったり躊躇ったり出来ない。出来るものか。

ジャンティーレはすぐに立ち上がり服を脱ぎ捨てながら執事を呼ぶ。水でいいからと拭き布を用意させて身支度を整え、その間に馬を用意させた。

着替えながら、手伝わせている執事に問う。

「ロリス、……ルクレツィアはいつ出て行った?」

「夜半過ぎに、……お止めしたのですが、どうしても……と、その」

「分かっている。悪いのは俺だ」

ルクレツィアが1人居間から出てきて帰る旨を申し出た時、執事のロリスも、ジャンティーレを起こして来るからそれまでお待ちを……と止めたのだそうだ。しかし、もともとルクレツィアは泊まらずに帰る予定で馬車も待たせてあったし、ジャンティーレは疲れてよく眠っているので起こさないようにとお願いされたのだという。

それでもルクレツィアが慌ただしく出て行った後、ロリスはジャンティーレを起こしに行ったのだが、暖炉の前で寝ているジャンティーレはどうにも気持ちがよさそうで、上掛けを運ばせて風邪を引かぬようにそれを掛け、連日睡眠時間を削って仕事をしていた主の姿を知っていたために、敢えて起こさずに出て来たのだそうだ。家人を責められない。

それよりも、そんなことよりも、

ルクレツィアにちゃんと聞かなければならない。明日、首都を離れると言っていた。明日……ということはすなわち今日である。間に合うだろうか。……いや、間に合わなくても間に合わせてみせる。ちゃんと話を聞いて、酔っては居ない自分の瞳で、ちゃんと伝えなければ、後悔してしまう。

「ジャンティーレ様、馬の準備ができました」

「今行く」

騎士用の黒いコートを羽織り革の手袋を嵌める。ロリスが捧げ持っていた己の細身の長剣を掴んで取り上げると、帯剣用のベルトを腰に巻きながら大股に歩き始めた。黒いブーツの底は硬いが玄関の大理石を踏んでも音を立てることなく、颯爽と出て行く姿はまさに黒の貴公子である。

「……ルクレツィア……!」

馬番が牽いて来た青馬の鐙を履いて飛び乗ると、朝の厳しい空気の中、白い息を吐きながらマッツェリア邸を飛び出した。

****

マッツェリア邸もフェルミ邸も首都レムスの貴族街にあるため、馬で駆ければさほどの時間はかからずに到着する。急いで門を叩きルクレツィアに会いたいと伝言すると、出て来たのは友人のエヴァンジェリスタだった。

「なんだ、こんな朝早くから」

不機嫌な表情を隠すこと無く言いながら、エヴァンジェリスタは既に身支度を整えていた。いつも不適な笑みを浮かべているエヴァンジェリスタが、真面目で真っ当な視線をこちらに向けているのに圧倒されつつ、真っ直ぐにそれを見返す。

「エヴァン、ルクレツィア殿にお会いしたい」

「……」

しばらくの間、無言で睨み合った。ジャンティーレにやましいことがあるのは承知の上だった。恐らくエヴァンジェリスタもある程度は何があったのか把握しているのだろう。しかしそれならば、ルクレツィアの教員の話も知っていたはずだ。ここで退く訳にはいかず、拳を握りしめる。

「……エヴァン、頼む」

そうして、深く、一礼した。

侯爵家の嫡男が、伯爵家の嫡男に頭を下げたのだ。

侯爵家といえど相手は貴族令嬢に他ならず、礼を逸したのはジャンティーレの方だ。それにルクレツィアはジャンティーレの親友の姉でもある。そして、どのような礼を逸してしまったとしても、ジャンティーレはもう一度ルクレツィアに会って、もう一度話をしたかった。

短い沈黙のあと、下げたジャンティーレの頭にエヴァンジェリスタがぽつりと言う。

「姉上はもう出発した」

「……!」

弾かれるように身体を起こす。ジャンティーレより僅かに低い位置にあるエヴァンジェリスタは眉間に皺を寄せ、厳しい顔え腕を組んでいた。

「……帰って、こないのか?」

ジャンティーレの問いに、エヴァンジェリスタが僅かに首を傾げたが、その表情の意味を読むほどの余裕は無かった。暫く顎をさすって思案していたエヴァンジェリスタは首を振る。

「姉上に聞いたのだろう」

「……追い掛けて、連れ戻す」

「勝手にしろ」

答えを聞く前にジャンティーレはしなやかに身を翻した。黒豹と呼ばれるにふさわしい伸びやかな身体の動きで、停めてあった馬に飛び乗る。馬の腹を蹴ろうとするジャンティーレを呼び止めて、エヴァンジェリスタは声を張った。

「姉上は馬車だ。馬車に乗っていった」

「エヴァン……分かった!」

馬車で学園都市ロムルスに行くルートは1本しか無い。いつ出発したのかは分からないが、今からジャンティーレの馬で駆ければ、もしかしたら街道で追い付くかもしれない。友人からの僅かなヒントに力を得て、ジャンティーレは再び矢のように飛び出した。